士師記6−8章 「主の剣、ギデオンの剣」


アウトライン

1A ギデオンの召命 6
   1B 主の前での悪 1−10
      1C 国の荒廃 1−6
      2C 不従順 7−10
   2B 主の使い 11−24
      1C ともにおられる主 11−18
      2C 「主は平安」 19−24
   3B 応答 25−40
      1C 父の祭壇の破壊 25−32
      2C 羊の毛 33−40
2A 三百人の勇士 7
   1B 最後まで残った者 1−8
      1C 恐れおののく者 1−3
      2C ひざをついて飲む者 4−8
   2B 大麦のパン 9−14
   3B 三隊のときの声 15−25
      1C つぼとたいまつ 15−23
      2C エフライムの出陣 24−25
3A 戦いの後 8
   1B 仲間からの非難 1−3
   2B 助けない者たち 4−21
      1C 裏切り 4−9
      2C 報い 10−17
      3C 勇気 18−21
   3B 最期の妥協 22−35
      1C 偶像礼拝 22−28
      2C 多くの妻 29−35

本文

 士師記6章を開いてください。今日は6章から8章までを学びます。メッセージ題は、「主の剣、ギデオンの剣」です。ヘブル人への手紙11章に、ギデオンが信仰の英雄の一人として連ねられています。「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。(32-34節)」ここの最後の部分、「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」というのは、まさにギデオンに当てはまる描写です。ギデオンがいかに強くされ、戦いの勇士であり、どのように敵陣を陥れたかを見ていきたいと思います。それから私たちの信仰が強められて、同じように戦いの勇士として生きるのはどうしたらよいかを学んでいきましょう。

1A ギデオンの召命 6
1B 主の前での悪 1−10
1C 国の荒廃 1−6
 イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。

 私たちは前回の学びで、デボラとバラクが、主にあってカナン人に打ち勝ったところを読みました。5章の最後には、「こうして、この国は40年の間、穏やかであった。」と書いてあります。そして再び、イスラエル人はまた、主の目の前で悪を行ないました。繰り返しです、悪を行なってそれで主が敵によって圧迫されるようにし、イスラエルが声を上げるので士師を送って敵から救い出し、それで平穏が取り戻されます。けれども再び、主の目の前で悪を行なうというパターンです。

 こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガサに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。

 ミデヤン人は、遊牧生活をしている人たちでした。ですから、自分たちがイスラエル人たちが住んでいるところにやって来て、荒らしてもそこに定住するわけではありません。イスラエル人が移動してそこで作物を育てても、再び彼らはやって来て、そこを荒らしてしまうのです。そのため彼らはこれらの盗賊、略奪隊が恐ろしくなって、洞窟やほら穴や要害に住まざるを得ませんでした。同じように、私たちが罪を犯すと、このようになります。自分がやりたいように、自由にやっているつもりですが、実はその欲望の奴隷になっています。また自分がいくら良いものを築き上げても、敵がやって来て無に帰するようなことをやります。

 彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすためにはいって来たのであった。

 ミデヤン人で剣を使う者だけで13万5千人いることが後で言及されていますが、「いなごの大群」というのは大げさな表現ではありません。何十万、あるいは百万単位の人数であったと考えられます。

 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。

 ようやく主に叫び求めました。そこで主は、ひとりの預言者をイスラエルに遣わされます。

2C 不従順 7−10
 イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。」

 主は過去に、今イスラエルが置かれているのと似たような状況から、彼らを救い出されたわざをすでに行なっておられました。エジプト人の圧迫からイスラエルを救い出されました。

 それでわたしはあなたがたに言った。「わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。

 彼らがミデヤン人との間で問題があったのですが、問題の本質はミデヤン人ではなくイスラエル自身にありました。私たちは状況が悪くなるとその状況のせいにしてしまいますが、しばしばそれは私たち自身と神さまとの関係が良くないために起こっている場合があります。イスラエルは主の御声に聞き従っていませんでした。

2B 主の使い 11−24
1C ともにおられる主 11−18
 そして神は、主の使いによって新たな士師を起こされます。さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。

 酒ぶねとは、ぶどうの実を足などで押しつぶして、ぶどう汁を出す器具です。ギデオンはその中で、小麦の脱穀を行なっていました。ミデヤン人に見つかると、みな荒らされてしまうからです。彼もまた他のイスラエル人と同じく、ミデヤン人を恐れて、びくびくしていた一人でした。

 そんなギデオンに、主の使いが現れます。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

 主の使い、これはイエス・キリストご自身です。イエスさまが赤ちゃんとしてお生まれになる前にも、主の使いとして人のようなかたちをして現れた記述が、旧約聖書の中には何度も出てきます。

 主の使いは、「主があなたといっしょにおられる」と言っています。主がギデオンを選び、ミデヤン人に戦いを挑む器にされるわけですが、そのような召しに対する確証は、主が彼とともにおられるということです。イエスさまが弟子たちを世界中に福音を宣べ伝える命令を出されたとき、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と言われました。主が私たちを召されるとき、それは私たちが行なうのではなく、私たちが主の命令に従っている中で、主が事を行なってくださるというところに大切な点があります。私たちの働きではありません、主の御霊による、主のみわざなのです。

 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

 ギデオンは、だれでも疑問に思うような疑問を神に対して抱いています。過去にエジプトで主が行なってくださったことは聞いているが、なぜ私たちには行なってくださらないのか?主がともにおられない、ということではないか?主が見捨てられた、ということではないか、という疑問です。けれども真実は逆です。主がイスラエルを捨てたのではなく、イスラエルが主を見捨てたのです。だから、主は敵の手の中に彼らを引き渡さざるを得なかったのです。

 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 主の使いはギデオンの問いに答えることなく、「あなたが戦いに出るのだ」と命じています。「なぜ、ミデヤン人の手の中に陥ってしまったかを問うな。今、わたしがあなたを使って、ミデヤン人からイスラエルを救うのだ。」という指令を与えています。

 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

 似たような理由を、同じようにモーセが話しました。「私は口べたなのです。パロの前で私が話すことなど、なぜできましょう。」ということを言いました。エレミヤも、若いということで主の召しを拒もうとしました。自分には、そのようなことをできる能力はない、という言い訳です。

 主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

 主は、ギデオンの不信仰をたしなめることなく、少しずつ、少しずつ、彼を励ましておられます。これからの話の中にも、ギデオンの不信仰、というか恐れや弱さなどに対して、主が忍耐をもって彼に接してくださり、彼のうちに信仰を築き上げていかれる場面を呼んでいきます。

 すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、主は、「あなたが戻って来るまで待とう。」と仰せられた。

 ギデオンは語っている人物が、主の使いであることに気づきはじめたようです。そこで、神に礼拝をささげる意味で、今、ささげ物を持ってきたいと言っています。そして主は、「あなたが戻って来るまで待とう」と言われていますね、ギデオンが確かめたいという願いを聞いてくださっています。

2C 「主は平安」 19−24
 ギデオンはうちにはいり、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。

 肉は和解のいけにえ、種なしのパンは穀物のささげもの、そして吸い物は注ぎの供え物です。レビ記にいけにえやささげ物の種類が書かれています。

 すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。

 火で焼き尽くすのは、ちょうどエリヤがバアルの預言者と対峙したときに、祭壇のいけにえが火で焼き尽くされたのと同じであり、聖なる方がいけにえを受け入れたことを意味します。

 これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」

 主の使いを見たことで、死ぬかもしれないと恐れてしまいましたが、ここからも主の使いが他の御使いとは異なり、神であることがわかります。

 すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。

 ギデオンは、主を見たことを恐れました。また、自分が戦いに出て行かなければいけないことも知って恐れ始めたでしょう。けれども、主は、安心しなさい、と言われました。ギデオンが築いた祭壇は、アドナイ・シャロムあるいはヤハウェ・シェロム、「主は平安」と名づけられました。主は人それぞれの必要になってくださる方です。今ギデオンが平安が必要であったときに、平安になってくださいました。

3B 応答 25−40
1C 父の祭壇の破壊 25−32
 その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」

 イスラエル人たちは、ヤハウェとともにバアルを拝んでいました。あるときは主を礼拝し、そしてまたある時はバアルを拝んだのです。そしてこの祭壇はギデオンの父のものです。これを壊しなさいと命じられたのは、まず自分の家が主に立ち返ることを示しなさい、ということであろうと思われます。まず自分から、自分の周りから霊的覚醒と変革が起こらなければいけません。

 そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。

 ギデオンはやはり恐れや不安がありました。もしこれを人前でやったら殺されるかもしれない、と思ったのです。私は彼のこの気持ちがよくわかります。主に言われたことだからそれを行ないたいけれども、非常に大きな軋轢が人との間にできるなら、穏便に行ないたいと思ってしまいます。しかし、そのような弱い者をさえ主は用いてくださいます。

 
町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。そこで、彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ。」と言った。ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」

 やはり住民は、ギデオンを殺そうと提案しました。

 すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい。」という意味である。

 これは興味深い、ギデオンの父の応答です。バアルが神であるなら、彼がギデオンと争えばよいのだ。神であるのに、なぜ我々が守ってあげなければいけないのだ、という論理です。偶像の神々は、自分たちで守らなければ壊されてしまうような、はかないものです。けれども私たちは、しばしば生きておられる万物の創造主を自分で守ろうとする、誤ったことを行なってしまいます。パウロは、ユダヤ人についてすべての人が偽り者だとしても、神は真実な方であると言いました(ローマ3:4)。神は、人がどんなに否定しても、神として立っておられるのです。

2C 羊の毛 33−40
 ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな連合して、ヨルダン川を渡り、イズレエルの谷に陣を敷いた。

 イズレエルの谷というのは、ちょうどイスラエルの真ん中に位置する平野です。そこでデボラとバラクも戦いました。

 主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。

 ギデオンが角笛をならすと、自分の氏族であるアビエゼル人が集まってきました。そして自分の部族マナセも集まってきて、そしてイスラエル北部に割り当て地があるアシェル、ゼブルン、ナフタリの戦士たちがやって来ました。こんなになぜ大ぜいの人たちが集まることができたのでしょうか?この文の初めが「主の霊がギデオンをおおったので」となっているところが鍵です。自分たちの能力ではなく、主の御霊によって、すべてのことを行なうことができるのです。

 ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」

 ギデオンは、本当に本当に、この戦いが自分の思い過ごしではなく、ただ主によるものであることを確かめたかったようです。私たちも主にある働きを行なうとき、はたしてこれは自分の思いや願いによって行なうものなのか、それとも神の願いや意志によって起こったものなのか、分からなくなるときがあります。ギデオンは、それを羊の毛をぬらしていただくことによって知ろうとしました。

 すると、そのようになった。ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。」

 面白いですね、初めにお願いしたことを撤回して、もっとはっきりと主の御手のわざが分かるような申し出をしています。私たちは願うことに遠慮してしまいますが、イエスさまは、「求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)」と言われました。

 「どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。

 ギデオンは自然の法則によれば、羊の毛だけが濡れることはあるのかもしれないが、けれども羊の毛だけがかわいていて、周りの土全体が濡れることはありえないと思いました。けれども主がそのことをさえ、行なってくださいました。

2A 三百人の勇士 7
1B 最後まで残った者 1−8
1C 恐れおののく者 1−3
 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。

 ギデオンたちとミデヤン人は、モレの山をはさんでギデオンが北側、ミデヤン人が南側にいました。

 
そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

 今、ギデオンたちには3万2千人おり、そしてミデヤン人は13万5千人いるのですから、これだけでもギデオンたちは圧倒的に劣勢です。にもかかわらず、主は、「あなたといっしょにいる民は多すぎる」と言われています。なぜかといいますと、今の状態で戦いに勝てば、それを主が行なってくださったのではなく、自分たちの力で勝ったと思ってしまうから、だということです。ギデオンがずっと、これは本当に主のものなのかを確かめましたが、主ご自身も、これは完全にご自分が行なっておられることを明らかにされたかったのです。

 そして、人数を少なくするときに、恐れを抱いている者は自分の家に帰るようにされました。すると2万2千人が自分の家に帰りました。ここから大切な原則を学ぶことができます。主は、ご自分のわざをなされるのに、多くの人数を必要とされていません。けれども、主に自分を明け渡した器を探しておられます。イエスさまは、世界を真っ逆さまにするために12人のだけで十分でしたが、けれども、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない。(ルカ9:58)」と言われたように、大きな犠牲を払ってでも主について行く弟子たちが必要だったのです。

2C ひざをついて飲む者 4−8
 すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。」まだ多すぎる、とおっしゃられています。「彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」

 この時点では、何をもって主が行くべき人と、ともに行くべきでない人であるのかギデオンに知らされていません。主の言われるとおりにしたときに、明らかにされます。

 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。

 残った三百人は、ひざをつかず、手で水をすくって飲みました。他の人たちは、顔を水につけて犬のようにして水を飲んだか、あるいはひざをついて手ですくって水を飲んだかのどちらかです。この違いは、「周囲に絶えず注意を払っている」かどうかであります。戦うときに、自分がどのようなことをしていても、油断なく警戒している必要があります。主は、ご自分が戻って来られることを教えるとき、「目をさまして、用意していなさい。」と何度も命じられましたが、同じことです。不意の出来事が起こっても、あわてふためくことなく、主にあって対処できるようにしておくことです。

 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。

 13万5千人の陣営に対して、なんとこちら側は三百人です。彼らはモレの山を越えて、今彼らが陣取っているイズレエルの谷を見下ろしています。

2B 大麦のパン 9−14
 その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。

 主は、ギデオンがまだ恐れていることをご存知のようでした。陣営に攻め上れ、と命じておきながら、恐れているなら若者といっしょに下っていって、彼らが何を話しているか聞きなさい、と言われています。

 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。

 これだけ見たら、恐れ退いてしまいます。けれども次の夢があります。

 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまではいり、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」

 この夢と解き明かしによって、ギデオンは再び確信を取り戻して攻め上ります。

3B 三隊のときの声 15−25
1C つぼとたいまつ 15−23
 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」そして、彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼとを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせた。それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。私と、私といっしょにいる者がみな、角笛を吹いたなら、あなたがたもまた、全陣営の回りで角笛を吹き鳴らし、『主のためだ。ギデオンのためだ。』と言わなければならない。」

 これは、少ない人数で大ぜいいるかのように見せる作戦です。三百人を三つに分けます。遠くにまばらに位置するようにさせます。それから、つぼを持たせて、その中にたいまつを入れます。これは、角笛を吹いたときに、このつぼを打ち砕いて、急に光がいろいろな方向から見えるようにさせるためです。ギデオンはこの案を、その場で考え出したのですが、聖霊が導かれてるとき、人はその瞬時に考えることも導かれていることを教えています。

 ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。

 番兵の交替はちょうど真夜中、十二時でした。

 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、

 主の剣、ギデオンの剣というのは、主がギデオンをとおして、今戦いに来られてるという意味です。

 それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。

 彼らはものすごい人数のイスラエル人がやって来ているものだと思い、混乱し、夜の中で剣を振り舞わしたら、味方をきりつけていました。

 それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。イスラエル人はナフタリと、アシェルと、全マナセから呼び集められ、彼らはミデヤン人を追撃した。

 残りの陣営が逃げていくので、追撃をナフタリ、アシェル、マナセが行ないました。

2C エフライムの出陣 24−25
 ついで、ギデオンはエフライムの山地全域に使者を送って言った。「降りて来て、ミデヤン人を攻めなさい。ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取りなさい。」そこでエフライム人はみな呼び集められ、彼らはベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。

 エフライムは、マナセの南に位置する割り当て地があります。彼らの土地を通ってミデヤン人が逃げていったので、エフライムに応援要請をしました。ヨルダン川の向こう側に行かれては困るので、そこで彼らを攻め取りなさい、とギデオンは言いました。

 また彼らはミデヤン人のふたりの首長オレブとゼエブを捕え、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、こうしてミデヤン人を追撃した。彼らはヨルダン川の向こう側にいたギデオンのところに、オレブとゼエブの首を持って行った。

 エフライムは、ミデヤン人のふたりの首長を捕らえることができました。ギデオンはすでにヨルダン川の向こう側にいって、ヨルダン川を越えて逃げていったミデヤン人を追撃しています。

3A 戦いの後 8
 戦いはギデオンたちの勝利に終わりましたが、その後の話が8章に書かれています。その中でギデオンはいろいろな試みに会います。

1B 仲間からの非難 1−3
 そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。

 これは何でしょうか?一言でいえば、「ねたみ」ですね。ギデオンは、主からの召しがあって、御霊によってこのことを行なったのに、自分が同じことをできなかったということでエフライム人は怒っているのです。仲間内で、このようなことはしばしば起こります。

 ギデオンは彼らに言った。「今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。」ギデオンがこのことを話すと、そのとき彼らの怒りは和らいだ。

 ギデオンは上手に答えました。けれども、これがいかにギデオンに精神的プレッシャーを与えたでしょうか?これから追撃を続けなければいけないようなときに、仲間から不必要な議論をふっかけられて、それに丁重に応対しなければならないとは。けれども、これも人間生活の現実です。信仰生活は、すばらしいことばかりではなく、このような汗臭いやり取りも含まれています。

2B 助けない者たち 4−21
1C 裏切り 4−9
 それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来ている民にパンを下さい。彼らは疲れているが、私はミデヤン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」すると、スコテのつかさたちは言った。「ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは。」そこでギデオンは言った。「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる。」

 ギデオンが次に出くわした試練は、裏切りです。戦っている人々が事欠いているときに、イエスさまが弟子について言われたように、一杯の水を与えることは大きな報いがともないます。けれども、逆にあえて食物を与えない必要を満たさないことは、同じように報いがともないます。イエスさまは霊の戦いについてお話になっていたとき、「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。(ルカ11:23)」と言われました。

 ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに言った。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々が答えたように彼に答えた。それでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる。」

 スコテだけでなくペルエルでも同等の扱いを受けました。

2C 報い 10−17
 ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千からなるその陣営の者も彼らといっしょにいた。これは東の人々の陣営全体のうち生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていたからである。

 13万5千人の戦士のうち、残されているのはたった1万5千人です。

 そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の天幕に住む人々の道に沿って上って行き、陣営を打った。陣営は油断していた。ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らを追って、ミデヤンのふたりの王ゼバフとツァルムナを捕え、その全陣営をろうばいさせた。それから、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。

 ついにミデヤン人の王を捕らえました。引き返しています。

 そのとき、彼はスコテの人々の中からひとりの若者を捕え、尋問した。すると、彼はギデオンのために、スコテのつかさたちと七十七人の長老たちの名を書いた。そこで、ギデオンはスコテの人々のところに行って、言った。「あなたがたが、『ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのか。私たちがあなたに従う疲れた人たちにパンを与えなければならないなどとは。』と言って、私をそしったそのゼバフとツァルムナが、ここにいる。」そしてギデオンは、その町の長老たちを捕え、また荒野のいばらや、とげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。また彼はペヌエルのやぐらをたたきこわして、町の人々を殺した。

 ギデオンは言ったとおりの処罰をスコテとペヌエルの人々に与えました。

3C 勇気 18−21
 それから、ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。「おまえたちがタボルで殺した人たちは、どこにいるのか。」すると彼らは答えた。「あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました。」ギデオンは言った。「彼らは私の兄弟、私の母の息子たちだ。主は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしないのだが。」

 タボルでミデヤン人たちが以前、イスラエル人を殺しました。

 そしてギデオンは自分の長男エテルに「立って、彼らを殺しなさい。」と言ったが、その若者は自分の剣を抜かなかった。彼はまだ若かったので、恐ろしかったからである。そこで、ゼバフとツァルムナは言った。「立って、あなたが私たちに撃ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのですから。」すると、ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取った。

 息子には勇気がありませんでした。ギデオンはなお、精神的プレッシャーを受けています。

3B 最期の妥協 22−35
 このような試みの中で、最後まで信仰を保っていることができるかどうかが、私たちにとっての戦いです。ギデオンの生涯の最後を見ると、私たちは、いかに最後まで初めの確信を保っているのが難しいかを思わされます。

1C 偶像礼拝 22−28
 そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。」

 後にイスラエル人は預言者サムエルに、王を求めましたが、ここでも求めています。けれどもギデオンは断わりました。私が支配するのではなく、主が支配されるのだ、とのことです。支配欲からは離れていたようですが、けれども彼には弱さがありました。

 ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」・・殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである。・・すると、彼らは「差し上げますとも。」と答えて、一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどもあった。

 ギデオンは金を願いました。それだけではありません。

 ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行なった。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。

 エポデは祭司の装束のうちの一つになっていますが、宗教的な祭具としてギデオンは自分の町に造ったようです。そこでなんとイスラエルの民は、偶像礼拝と不品行を行ないました。以前、モーセに対して主は、石の祭壇で主の祭壇をつくらなければいけないことを命じられました(出エジプト20:25)。なぜなら、飾りや輝きによって人々が、主ではなく他のものに目を留めることがないようにするためです。

 こうしてミデヤン人はイスラエル人によって屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。この国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。

 デボラや先の士師と同じように、国に平穏が戻ってきました。

2C 多くの妻 29−35
 ヨアシュの子エルバアルは帰って自分の家に住んだ。ギデオンには彼から生まれた息子が七十人いた。彼には大ぜいの妻がいたからである。シェケムにいたそばめもまた、彼にひとりの男の子を産んだ。そこで彼はアビメレクという名をつけた。

 王は大ぜいの妻を持ってはならないと、モーセは以前話しましたが、ギデオンは王になることを拒んだものの、多くの妻については王のようにふるまってしまいました。一夫多妻制は、旧約時代は受け入れられていますが、その夫はみな大変な目にあっています。ヤコブしかり、ダビデ、ソロモンしかりです。事実、士師記9章から、ギデオンのそばめから生まれたアビメレクが悪を行なう場面を読んでいきます。

 やがて、ヨアシュの子ギデオンは長寿を全うして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。ギデオンが死ぬとすぐ、イスラエル人は再びバアルを慕って淫行を行ない、バアル・ベリテを自分たちの神とした。イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった。

 再びイスラエルの堕落です。私たちはここから何を学ばなければいけないのでしょうか?イエスさまは、熱心に悔い改めなさい、目があなたをつまずかせるなら、目をえぐりだしなさい、という大胆な解決法を提示されています。私たちが感情的なレベルで罪を悲しむのではなく、生活の変革で、思いの一新によって自分を変え、自分の罪は死んだものであり、キリストとともに十字架につけられたものとしてみなしていかねばいけません。痛みをともなうでしょう、けれどもその後に、永続する平和の実を結ぶことができます。

 彼らは、エルバアルすなわちギデオンがイスラエルに尽くした善意のすべてにふさわしい真実を、彼の家族に尽くさなかった。

 イスラエルは、ギデオンを王にしようとしましたが、敬うことはありませんでした。これは我々人間が犯してしまうあやまちです。人を祭り上げようとはしますが、敬うことはしません。

こうして、信仰によって戦うことについてならいました。それは神の召しに応答し、自分の力ではなく、神の能力が現れることであり、そして最後まで貫くものであることが分かりました。どうか私たちが、あの三百人の戦士たちのように、恐れず、たえず注意深く見張っている者でありますように。


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