士師記6−8章 「恐れながら戦う勇士」

アウトライン

1A 主の任務命令 6
   1B ミデヤンの襲撃 1−10
   2B ギデオンの捧げ物 11−24
   3B 父の偶像破壊 25−32
   4B 羊の毛による確認 33−40
2A 少人数の戦い 7
   1B 神による試し 1−8
   2B 角笛と松明のかく乱 9−23
   3B エフライムの援護 24−25
3A 他の仲間への対応 8
   1B 追撃 1−21
      1C 分派的誇り 1−3
      2C 不義への報酬 4−21
   2B 戦後の生活 22−35

本文

 士師記6章を開いてください。早速本文に入りたいと思います。

1A 主の任務命令 6
1B ミデヤンの襲撃 1−10
6:1 イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。

 デボラによるイスラエルの救いで、四十年間、イスラエルに安息が与えられていました。けれども彼女の死後再びイスラエルが罪に陥ります。七年間のミデヤン人による抑圧です。ミデヤン人は元々、サラの死後にアブラハムがめとったもう一人の妻ケトラによって与えられた息子の一人です。モーセの舅イテロもミデヤン人であり、今のサウジアラビアからヨルダンにかけての砂漠の遊牧民でありました。彼らは、ヤハウェなるイスラエルの神を信じてケニ人としてイスラエルと共に住みましたが、他は違います。モアブの王バラクが呪い師バラムによってイスラエルにつまずきの石を置いた時に、その復讐としてイスラエルが殺したのはミデヤン人でした(民数記31章)。モアブといっしょに共謀していたのです。

6:2 こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。6:3 イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。6:4 そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガサに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。6:5 彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすためにはいって来たのであった。

 ミデヤン人と同じようにアマレク人も砂漠の民です。シナイ半島の北部に多くいましたが、遊牧民はどこかの国民を征服し、支配することはありません。ただやってきて荒らすだけです。人が長い期間かけて育てた作物などを収奪することによって生きていました。そして「東の人々」というのは、その他のヨルダンやメソポタミヤ地方にいる民です。

 前回の学びで、デボラの勝利の歌の中に、デボラを主が立てる前のイスラエルの姿をこう歌っていました。「隊商は絶え、旅人はわき道を通った。農民は絶えた。イスラエルに絶えた。(4:6-7」イスラエルが他国から支配を受けるというのは、敗戦日本国が占領軍に支配を受けていたような博愛的なものではありません。悪く言えば、盗賊が支配しているようなものです。これまでの産業や農業、貿易などができないような危険な状態になります。ミデヤン人の場合はもっと酷く、聖書の著者は、作物を根こそぎ食べるいなごのようだと形容しているのです。

6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。6:7 イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、6:8 主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。6:9 わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。6:10 それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 イスラエル人が主に叫び求めたのは良かったのですが、主は他の預言者を遣わされました。叫び求めているのですが、エモリ人の神々を恐れている、つまり偶像を捨てようとしていない、ということを指摘しているのです。私たちは苦しみの中から叫び求めるのはたやすいです。「困ったときの神頼み」です。けれども、主が命じられていることに自分を従わせているでしょうか?その決意、決断をしているでしょうか?そうしているかしていないかは、状況に左右されない従順です。状況が良くなっても、なおのこと主に仕えている安定した態度です。

2B ギデオンの捧げ物 11−24
6:11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。

 「主の使い」が現れました。アブラハムの時にも他の二人の旅人と共に現れ、ヤコブはこの方と格闘をし「神を見た」と証言し、モーセの時にもモレブの山で燃え尽きない柴のところで現れ、ヨシュアにも「主の軍の将」として現れました。読み進めれば分かりますが、主の使いご自身が「主」と呼ばれ、ギデオンは「主の使いを見てしまった」と言って、自分が死んでしまうのではないかと恐れました。使いであり、一人の人間のようであり、けれども神ご自身であった、というのは、三位一体の神の第二格であられるキリスト、受肉前のキリストであると考えられます。そして、「オフラ」は、イズレエル平原の東、ヨルダン川側にあります。

6:12 主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

 興味深いですね、ギデオンはミデヤン人を恐れて、普通なら開かれた平らなところで、麦打ちをしますが、酒ぶねの中で行なっていました。その彼に対して「勇士よ」と主の使いは呼んだのです。彼は臆病な人です。大胆に信仰によってなかなか踏み出せない人です。それにも関わらず、「勇士よ」と呼びます。それは、恐る恐る主に従いながらも、結局最後は、主の命令にすべて聞き従い、確かに勇猛な戦いを貫徹するからです。

 主はこのように、私たちを初めから高い呼び名を与えてくださいます。まだまだ欠点だらけの自分のことを、「神の子供」と呼んでくださいます。神に倣う者としてはまだまだできていない自分に対して、ご自分が私に対して行ってくださる将来の姿を見ながら、そう呼んでくださるのです。その召しに私たちが応答するときに、私たちが少しずつ似姿に変えてくださいます。

 そして午前中学びましたが、「主があなたといっしょにおられる」という言葉を決して忘れないでください。この偉大な真理を自分の保証としている人、主が自分を受け入れ、主が味方してくださっていることに確信を持っている人が、数ある信仰の戦いを勇敢に戦うことができます。

6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

 主の使いは、「あなたといっしょにおられる」と言われたのに対して、ギデオンは「私たちといっしょにおられる」と応えています。まだ自分に語られていると思っていなかったのです。そして、先の預言者の言葉を思いながら、不満をぶつけています。「主が共におられるなら、どうしてこんな悪い状態になっているのですか?」と尋ねています。けれども、エモリ人の神々に仕えているという、イスラエル側の不従順については触れていませんね。自分のしていることは差し置いて神を非難するという過ちを、ギデオンは犯しています。けれども主は忍耐強く、彼への任務を伝えます。

6:14 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」6:16 主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

 これでギデオンは合点が行きました。一般的な救いの話をしているのではなく、自分自身がイスラエル救済の軍事指導者に召されたのだということを理解しました。いなごのように多いミデヤン人を、「ひとりを打ち殺すように打ち殺す」と約束してくださっています。

6:17 すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。6:18 どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、主は、「あなたが戻って来るまで待とう。」と仰せられた。6:19 ギデオンはうちにはいり、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。

 ギデオンは疑い深いです。よく言えば慎重です。自分が今話している相手が、はたして本物であるかどうかを確かめたいと思っていました。そこで贈り物の食事をギデオンは用意しています。それは、旅人に対して当時の人々が行なうもてなしであり、同時に、神に対する供え物でもあります。困窮していたにも関わらず、ギデオンの家は比較的裕福だったのでしょうか、かなりの量の粉でパンを作り、そしてやぎの子までを屠っています。

6:20 すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。6:21 すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。6:22 これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」

 火によって供え物を受け取るのは、まさに祭壇における火による捧げ物を受け取るのと同じです。それでこの方が神から来られることを知りました。

6:23 すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」6:24 そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。

 「安心しなさい」という言葉は、あの有名な「シャロム」であります。ユダヤ人の挨拶言葉にもなっているシャロムです。ギデオンに必要なのは平安でした。彼は不安との闘いがありました。けれども、主ご自身が忍耐をして、彼の不安に一つ一つ応えてくださり、彼が勇士になるまで優しく導いてくださいます。そして主は、「わたしはあなたとともにいる」と言われました。これこそが、シャロムの源泉なのです。それでそこは、「アドナイ・シャロム」あるいは、「ヤハウェ・シャロム」と呼ばれたのです。主なる神ご自身が平安になってくださいました。

 復活されたイエス様は、ユダヤ人を恐れて戸を閉めている弟子たちの部屋の真中に現れてくださいました。そして、「平安があなたがたにあるように。(ヨハネ20:21」と言われました。そして続けて、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。ユダヤ人の中にイエス様は弟子たちを遣わされますが、その前に主ご自身が共におられることで平安を下さったのです。もしかして私たちが、恐れをなして取り組んでいない問題が自分のうちに、また自分の周りにあるかもしれません。けれども、イエス様が弟子たちを遣わされたように、また主がギデオンをミデヤン人に遣わされるように、ご自身がシャロムになってくださいます。

3B 父の偶像破壊 25−32
6:25 その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。6:26 そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」6:27 そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。

 ギデオンがしなければいけなかったことは、ミデヤン人と戦うことではなく、自分の家の偶像を切り崩すことでした。ヨシュアがかつて「私と私の家とは、主に仕える」と言われたように、またかつて主がアブラハムに、「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われたように、自分の父の偶像を壊すことは、自分のうちにある偶像を壊すことと等しかったのです。「七歳の雄牛」ですから、ちょうどミデヤン人にイスラエルの地を踏み荒らされたのも七年前からですが、これを主ご自身に捧げることは、ミデヤン人からの救いを意味する意義深いことでした。このように、私たちが何か戦わなければいけないときに、まずどこから始めるのか?「自分の生活」からです。自分自身が霊的に復興するからこそ、他の周囲の人々の霊的復興を期待することができます。

 そして、ギデオンは十人のしもべを引き連れています。やはり「しもべ」のいる比較的裕福な家だったようです。そして、家の者や町の人々を恐れたので夜に行なった、とあります。まだ不安な心を抱えながらも、それでも主に従いました。私たちが主に従うときも、こうしたちょっと格好の悪い従い方をしてしまうかもしれませんが、主はそれを敬ってくださいます。

6:28 町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。6:29 そこで、彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ。」と言った。6:30 ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」6:31 すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」6:32 こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい。」という意味である。

 父ヨアシュは、この破壊行為に自分が今まで行なっていた偶像礼拝に対して、少し罪意識を抱いたのかもしれません。そして極めて理にかなっていることを言っています。「バアルが生きているのであれば、自分の祭壇が壊されたのだから自分自身で争うことができるではないか。」ということです。もしそうでなければ能無しの神であり、仕えるに値しない神です。このようにして、主はギデオンを彼の父を通して守ってくださったのです。

4B 羊の毛による確認 33−40
6:33 ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな連合して、ヨルダン川を渡り、イズレエルの谷に陣を敷いた。6:34 主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。6:35 ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。

 主の霊がギデオンに臨まれました。そして、初めは自分自身の氏族であるアビエゼル族の人がやってきました。そしてその他の氏族も含めてマナセ族が集まりました。さらに、マナセ族の周囲にあるアシェル、ゼブルン、ナフタリも合流しました。主の御霊の働きは、このように自分のところから周囲へと広がります。イエス様が聖霊の約束をされたときも、エルサレムからユダヤ、サマリアの全域、そして地の果てまででありました。

6:36 ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、6:37 今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」6:38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。

 ギデオンは再び、用心深くなりました。相当自信がありませんね。彼の疑いは主がこれらの救いを与えられない、ということではなく、主がギデオンの手でこれらのことを行なわれるということについての確信です。それで、羊の毛の上だけに露を求めるという印を求めました。

6:39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」6:40 それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。

 今度はもっと難しいお願いでした。土全体に露が降りるのであれば、羊の毛のところだけ濡れないというのはありえません。それでも主はそれを行なってくださいました。

 このギデオンが行なったことを真似て、主の御心を試す人たちがいます。まるで占いのように、主の御心を求めます。けれども、忘れてはいけないのは、ここの奇蹟はギデオンの信仰的な弱さに対して、それでも主が忍耐して示してくださったものであります。本来ならば、不必要な印であります。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」という言葉だけで十分なのです。私たちが御心を知るには、御言葉の約束が大前提にあります。それを信じながら、それでも主が憐れみを示してくださって、目で見える形のしるしを与えてくださる時があります。けれども、しるしを求め、しるしに頼ってはいけません。

2A 少人数の戦い 7
1B 神による試し 1−8
7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。

 ギデオンは自分の町オフラからそう遠くない、ギルボア山の北端に面するところにあるハロデの泉のところに陣を敷きました。この北にはモレ山があり、その先にミデヤン人が陣を敷いています。

7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

 「ギルアデ山」とありますが、おそらくギルボア山の間違いではないかと言われています。聖書はその原典においては誤りはありませんが、写本の時に間違いが起こることはあり得ます。ところで驚いたのはギデオンの方でしょう、恐れていたと言ってもごく一部だと期待していたかもしれませんが、二万二千人も帰ってしまいました。

7:4 すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」

 この時点で、ギデオンは水のところでどのようにすればいっしょに行く者で、またそうでないのかを示されていません。けれども、言われた通りをしています。

7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。7:7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。

 なんと三百人です。午前中に話しましたが、持ち物をたくさん持っている人が、捨てる術を持っているカリスマの方に自分の家を見てもらい、余計なものをすべて取られていって、わずかしか残っていなかったような気分でしょう。けれども確かなのは、この三百人は、恐れもなく、また周囲をきちんと見張っている勇士たちだ、ということです。そして、モレ山のところまでギデオンたちが来たら、向こう側の下の谷にミデヤン人の陣営がありました。

2B 角笛と松明のかく乱 9−23
7:9 その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。7:10 しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、7:11 彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。

 主の方から、「恐れているならば」と気遣っておられます!もう恐れるだろうことは主はよく知っておられました。そして、さらにもう一つの印を見せてくださいます。

7:12 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまではいり、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」

 大麦のパンのかたまりの夢です。大麦は貧しい人が食べるパンですが、イスラエルが貧弱でもこの膨大な人数のミデヤン人を倒すことができます。そこでギデオンは、いささかの疑いもなくなりました。こうやって彼はついに、正真正銘の「勇士」となります!

7:16 そして、彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼとを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせた。7:17 それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。7:18 私と、私といっしょにいる者がみな、角笛を吹いたなら、あなたがたもまた、全陣営の回りで角笛を吹き鳴らし、『主のためだ。ギデオンのためだ。』と言わなければならない。」

 ギデオンの戦略は、ミデヤン人と武器をもって戦うことではありません。攪乱させることです。角笛を吹き鳴らし、かつ松明を壺に入れて、その壺を一斉に割ります。そうすれば、三百人しかいないイスラエル軍が、数多くの軍として急襲していると見せることができるのです。

 そして、先ほどミデヤン人が見た夢の解き明かしは、ギデオンを恐れているものでした。すでに陣営にギデオンの名は広まっていました。けれども、ギデオンは自分の名を初めに持ってくるのではなく、「主のためだ」と言わせます。事実これは主の戦いだからです。

7:19 ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。

 番兵が交替したばかりの時は、その番兵は暗闇に目がまだ慣れていません。その時を見計らって攻撃しました。

7:20 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、7:21 それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。7:22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。7:23 イスラエル人はナフタリと、アシェルと、全マナセから呼び集められ、彼らはミデヤン人を追撃した。

 「同士打ち」は、聖書に出てくる戦いの中が、神が敵陣に対して行われる典型的な働きです。同士打ちは、恐れから起こります。先ほど話したとおりですが、戦いにおいての敵が味方の陣の恐れなのです。

 そして、初めに霊的な突破口を開いたので、先に帰っていってしまった人々も含まれることでしょう、ナフタリ、アシェル、全マナセが追撃を開始します。ミデヤン人は、ヨルダン川の方面に似ています。彼らは元々、ヨルダン川の向こう側から来たからです。真のリーダーは、突破口を開くことのできる人です。追撃は、他の人が先駆的に何かを行なって御霊の働きがあるところに自分に乗っていくのですが、初めに御霊に促されて、だれもやっていないところを突き抜けるのですから勇気が要ります。

3B エフライムの援護 24−25
7:24 ついで、ギデオンはエフライムの山地全域に使者を送って言った。「降りて来て、ミデヤン人を攻めなさい。ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取りなさい。」そこでエフライム人はみな呼び集められ、彼らはベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。7:25 また彼らはミデヤン人のふたりの首長オレブとゼエブを捕え、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、こうしてミデヤン人を追撃した。彼らはヨルダン川の向こう側にいたギデオンのところに、オレブとゼエブの首を持って行った。

 まだヨルダン川のこちら側にいるミデヤン人の追撃を、イスラエルの中の主要な部族エフライムに任せます。ふたりの首長オレブとゼエブを打ち倒したことは、詩篇8311節とイザヤ書1026節に決定的な打撃を敵に対して与えた出来事として記されています。

3A 他の仲間への対応 8
 次の8章は、非常に人間臭い、仲間内のごたごたが書いてあります。御霊によって始まったのに、人間の思惑によってそれが妨げられようとしていきます。

1B 追撃 1−21
1C 分派的誇り 1−3
8:1 そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。8:2 ギデオンは彼らに言った。「今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。8:3 神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。」ギデオンがこのことを話すと、そのとき彼らの怒りは和らいだ。

 ギデオンは追撃のため既にヨルダン川を渡っていました。ヨルダン川を渡る前にエフライムはオレブとゼエブの首を打ち、それをギデオンのところまで持ってきたのですが、主が与えておられる勝利を単純に喜ぶのではなく、分派的な争いをしているのです。「なぜ我々を呼ばなかったのか?」と激しく詰っています。エフライムは中心的な部族でありますが、主の御霊の働きが他のところで起こるのを見ると、それを妬み、あたかも自分たちがそれに関わるのが当然だとみなしていたのです。後にエフデという士師の時には、このことが原因でなんとエフデとエフライムが戦うことになり、エフライム人が殺されてしまうのです。

 「なぜ呼びかけなかったのか?」答えは単純です、主の呼びかけに気づいていなかったからです。霊的に眠っていたからです。後になってそうした働きがあるのを気づいているだけです。

 しかしギデオンは、柔らかく答えています。「アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。」アビエゼルとは自分の氏族のことです。自分たちのぶどうの収穫、つまり最善できることよりも、エフライムの取り残しの実、つまり余力でやっていることのほうが、後者がより多くを収穫できているではないか、と言うことです。言い換えれば、「私たちがやったことなど、たかが知れている。」と謙遜しているのです。これでエフライム人は怒りをおさめましたが、箴言に「柔らかな答えは憤りを静める。(15:1」とあります。

2C 不義への報酬 4−21
8:4 それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。8:5 彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来ている民にパンを下さい。彼らは疲れているが、私はミデヤン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」8:6 すると、スコテのつかさたちは言った。「ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは。」8:7 そこでギデオンは言った。「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる。」8:8 ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに言った。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々が答えたように彼に答えた。8:9 それでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる。」

 追撃を続けている時に、糧食が足りなくなりガド族の所有地にあるスコテまたペヌエルで、食べ物を分け与えてくれるように頼みました。ところが、どちらの町も拒みました。主の御霊の働き、神の救いの働きであることを全く認めることをせず、その苦境の中にいた彼らに助けを与えなかったのです。前回の学びにも出てきましたね、デボラの歌の中でタボル山からキション川のところまで下りていき戦った時に、ルベン族、ガド族、またアシェルやダンも関わるのに無関心でした。そのことをデボラは責めました。そしてメロズについては、主の使いご自身が手助けをしなかったことを呪われました。

 エフライムの分派主義も悪いですが、彼らの自分たちだけという分派主義はもっと悪いです。同じイスラエルの民に対して主が解放を与えようとされているのに、ヨルダンの向こう側で起こった出来事について自分たちは関係ないという態度を取りました。前回の学びで、「行なわないことの罪」について学びました。イスラエルが神にあって一つの共同体であることを忘れ、苦しみの中にいる人々を顧みないのは、呪いを受けるに値する罪なのです。

 新約聖書においては、イエス様は「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ10:42」と言われました。そして終わりの日、イエス様が再臨されて世界の国々を裁かれる時に、何をもって裁かれるかと言いますと、空腹の人、裸の人、牢に入れられている人、病気の人に具体的に助けた人々に対して、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ26:40」と言われました。彼らは御国に入ったのです。そのように困窮しているのに助けなかった者たちは、地獄に投げ込まれています。そして教会は、一つのキリストの体であると言われています。一部が苦しんで他が無関心であれば、それは体が完全に機能不全に陥っている状態です。

 また、スコテとペヌエルの者たちの悪はイスラエル人であるにも関わらず、神の力と救いを信ぜず、ミデヤン人の支配をかえって求めていたことでした。福音の力によって、信仰によって、そして御霊によって罪からの自由が与えられているにも関わらず、「自分はこのままで良いのだ。あなたがたは無理に私たちの生活を変えないでくれ。」と訴えているに等しいのです。福音の力の否定です。

8:10 ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千からなるその陣営の者も彼らといっしょにいた。これは東の人々の陣営全体のうち生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていたからである。

 つまり元々は十三万五千人いたということになります。かなりの数が減っていました。

8:11 そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の天幕に住む人々の道に沿って上って行き、陣営を打った。陣営は油断していた。8:12 ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らを追って、ミデヤンのふたりの王ゼバフとツァルムナを捕え、その全陣営をろうばいさせた。

 油断しているときに彼らを襲撃しました。

8:13 それから、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。8:14 そのとき、彼はスコテの人々の中からひとりの若者を捕え、尋問した。すると、彼はギデオンのために、スコテのつかさたちと七十七人の長老たちの名を書いた。8:15 そこで、ギデオンはスコテの人々のところに行って、言った。「あなたがたが、『ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのか。私たちがあなたに従う疲れた人たちにパンを与えなければならないなどとは。』と言って、私をそしったそのゼバフとツァルムナが、ここにいる。」8:16 そしてギデオンは、その町の長老たちを捕え、また荒野のいばらや、とげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。

 茨と棘のあるところを引きずるようなことをしました。恐らく死んだと思います。

8:17 また彼はペヌエルのやぐらをたたきこわして、町の人々を殺した。

 ペヌエルの住民に対しても虐殺を行ないました。確かに二つの町の住民は神の呪いを受けるに値しますが、それをこのような残虐な形で殺すのかどうかは疑問の余地が残ります。カナン人に対して神は命じていましたが、仲間に対するこのような仕打ちは律法で命じられていません。

8:18 それから、ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。「おまえたちがタボルで殺した人たちは、どこにいるのか。」すると彼らは答えた。「あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました。」8:19 ギデオンは言った。「彼らは私の兄弟、私の母の息子たちだ。主は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしないのだが。」

 ミデヤン人のイスラエルに対する襲撃において、ギデオンに近い親戚の者たちが殺されていました。二人は「王の子たちに似ていました。」と言っていますが、お世辞なのか、皮肉なのか分かりません。

8:20 そしてギデオンは自分の長男エテルに「立って、彼らを殺しなさい。」と言ったが、その若者は自分の剣を抜かなかった。彼はまだ若かったので、恐ろしかったからである。8:21 そこで、ゼバフとツァルムナは言った。「立って、あなたが私たちに撃ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのですから。」すると、ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取った。

 当時は殺されるときにおいても、誰から殺されるのかによって、その面子を保とうとしていました。女によって殺されるというのは非常に不名誉でした。したがって前回の学びで、ヤエルがカナン人の将軍シセラを殺したというのは、シセラに対する神の強い裁きの表れでありました。位の低い者に殺されるのを彼らは恐れるのです。ゆえに、二人はギデオン本人に殺してもらうほうを望みました。また、一撃で殺してもらわないと痛んで、苦しんで死んでしまうことになります。

 そしてギデオンは略奪物として、三日月形の飾りを取っています。ミデヤン人たちが拝んでいた月の神をかたどったものです。これは、何か想起するものはありませんか?そうです、イスラム教の象徴は三日月です。アラブ人は、偶像礼拝者でした。その数ある神々の一つが月の神であり、ムハンマドは他の神々を排斥し、この一つの神だけをアッラーとしてあがめたというのが経緯です。ですから厳密にはイスラム教のアッラーは、天地創造のまことの神ではないのです。

2B 戦後の生活 22−35
8:22 そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」8:23 しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。」

 イスラエル人は、他の周りの国々のようにギデオンを王に奉ろうとしました。けれどもギデオンは断りました。そして正しいことを話しています。「主があなたがたを治められます。」これが、神の国の本来の姿です。一人一人が神をかしらとして、王として生きていくのが神の国です。教会では、一人一人がキリストをかしらとして生きるからこそ、秩序と平和を保つことができます。ところがギデオンは、王にならなかったのですが、堕落して、まるで王様のように生きていくようになります。

8:24 ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」・・殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである。・・

 ミデヤン人ですが「イシュマエル人」と呼ばれています。イシュマエルはもちろんアブラハムの息子ですが、あのシナイの荒野において活動していたので、その地域にいる遊牧民を総称的にイシュマエル人と呼ぶようになりました。

8:25 すると、彼らは「差し上げますとも。」と答えて、一枚の上着を広げ、ひとりひとりその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。8:26 ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で一千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、垂れ飾りや、ミデヤンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首の回りに掛けていた首飾りなどもあった。

 一千七百シェケルは約十九キロにもなります。これらの金やその他の貴金属にギデオンは目が眩んでしまったのです。

8:27 ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行なった。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。

 エポデとは、もちろん大祭司の身につける装束のことです。これを作ったのか、あるいはそれをかたどった偶像を作ったのか分かりませんが、いずれにしてもそれ自体が礼拝の対象となってしまいました。祭司の働きは、唯一、選ばれた場所で、当時はシロでしたが、主の天幕があるところで行ない、アロンの直系だけが行なうことのできるものだったのに、ギデオンは半分ギデオン教みたいなものを作ってしまったのです。

 神に用いられた人は、いつも危険がともないます。周りの人がそれを祭り上げるからです。そしてその栄光をいつの間にか本人も受け取ってしまうのです。そうすると、キリストではなくその人があがめられるようになっていきます。

8:28 こうしてミデヤン人はイスラエル人によって屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。この国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。

 ギデオンの後はミデヤン人がイスラエルに歯向かった記録は出てきません。

8:29 ヨアシュの子エルバアルは帰って自分の家に住んだ。8:30 ギデオンには彼から生まれた息子が七十人いた。彼には大ぜいの妻がいたからである。8:31 シェケムにいたそばめもまた、彼にひとりの男の子を産んだ。そこで彼はアビメレクという名をつけた。

 これもまるで王になったかのようです。当時は王は多くの妻を持つことによってその勢力を表していました。そして「アビメレク」という名前の意味は「私の父は王」というものです。ギデオンが、自分は王であると息子を通して自賛していたようなものです。

8:32 やがて、ヨアシュの子ギデオンは長寿を全うして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。8:33 ギデオンが死ぬとすぐ、イスラエル人は再びバアルを慕って淫行を行ない、バアル・ベリテを自分たちの神とした。8:34 イスラエル人は、周囲のすべての敵から自分たちを救い出した彼らの神、主を心に留めなかった。8:35 彼らは、エルバアルすなわちギデオンがイスラエルに尽くした善意のすべてにふさわしい真実を、彼の家族に尽くさなかった。

 この次に、先ほど出てきたアビメレクが不法にイスラエルの王を気取ることになります。

 こうして悲しい終わり方でギデオンの生涯を見ました。イスラエルが悪を行なっただけでなく、その悪が士師本人にも影響を与えてしまっています。この姿を私たちはさらに読んでいきます。主には大いに用いられても、世の誘惑に負けたまま生きていくという姿です。

 私たちは祈る必要があります。互いに信仰から外れることのないように励まし、祈る必要があります。ヘブル書を読みます。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。(ヘブル3:12-14

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