エレミヤ書1−2章 「悲しみの預言者」

アウトライン

1A エレミヤの召命 1
   1B 預言期間 1−3
   2B 神の任命 4−10
   3B 二つの幻 11−19
      1C 北からの災い 11−15
      2C ユダの裁き 16−19
2A ユダの背信 2−3:5
   1B 初めの愛 1−3
   2B 主からの離反 4−19
      1C 求めない心 4−9
      2C 神を代えた国民 10−13
      3C 奴隷になったイスラエル 14−19
   3B 偶像への恋い慕い 20−37
      1C 欲情にあえぐ女 20−25
      2C 救えない神々 26−28
      3C 役に立たなかった懲らしめ 29−33
      4C 貧しい人への虐げ 34−37
   4B 姦淫の女 3:1−5

本文

 エレミヤ書1章を開いてください、今日は1章から3章の5節までを学びます。今日のメッセージの題は、「悲しみの預言者」です。

1A エレミヤの召命 1
1B 預言期間 1−3
まず、さっそくエレミヤ書の背景となる文を読んでみましょう。1節から3節までです。

1:1 ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。1:2 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。1:3 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。

 エレミヤは、南ユダの国が滅んでいくのを預言した預言者です。しばしば「嘆きの預言者」「悲しみの預言者」と呼ばれます。

 まず、私たちはユダの国が辿っていった道を、その歴史をおさらいする必要があります。私たちが前回まで学んだイザヤ書では、その背景にアッシリヤがありました。アハズが王の時に、北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされ、それでユダは南の大国であるエジプトに支援を求めるなど、アッシリヤから守られるための対策を練りました。けれども、もちろん主はご自分に拠り頼むことを教え、アッシリヤにエルサレムが包囲された時に、主の使いが十八万五千人のアッシリヤ軍を一夜にして殺したのです。

 そして、アッシリヤの力が弱くなっていきました。そしてバビロンが台頭し始めました。その間、南ユダの国には比較的自由が与えられました。アッシリヤから以前のような圧迫を受けなかったのです。そのような時にヨシヤが王となりました。けれども彼は、エジプトの王ネコと戦って殺されます。エジプトは、バビロンと戦っている、弱まったアッシリヤを支援するために、カルケミシュまで北上しようとしていたのです。ヨシヤは、アッシリヤの力が再び強くなるのを恐れたのか、エジプトの力が強くなるのを恐れたのか、その動きを阻もうとしましたが倒れてしまいました。それで、ユダの国はエジプトの支配下に入りました。

 ところがバビロンが今度はエジプトと戦って、勝ちます。それでバビロンがユダを支配するようになりました。その時、ネブカデネザルが死んだ父に代わって王となりました。ユダの王族の一部の者たちをバビロンに捕え移し、エルサレムの宮にあったものも取っていきました。これが第一回目のバビロン捕囚です。紀元前605年のことです。この時に、あのダニエルも捕囚の民の中にいました。

エジプトによってヨシヤの次に立てられたエホヤキムという王は、三年間バビロンに仕えていましたが、バビロンが再びエジプトと戦った時、バビロンが負けたのを見て再びエジプトにつこうとしました。それに怒ったバビロンは、エホヤキムの死後、王として立てていたエホヤキンを含め、第二回目の捕囚を実行したのです。エホヤキンはすぐに降伏しました。この捕囚の民の中に、預言者エゼキエルも含まれていたであろうと考えられます。

そしてバビロンは、ゼデキヤを代わりに王として立てます。そして彼も愚かなことに、エジプトに新たなパロが立てられた時に、バビロンに反逆したのです。それでネブカデネザルはエルサレムを包囲し、紀元前586年にエルサレムを破壊し、最後のバビロン捕囚を行ないます。

 これが、エレミヤが預言活動を行なっていた時の国際的な環境でした。今度は、霊的な側面でユダの歴史を眺めてみたいと思います。

 イザヤ書において、私たちはヒゼキヤ王の宗教改革を見ました。宗教改革を行なったのに、アッシリヤの力は衰えることはありませんでした。信仰の試練です。私たちも、霊的刷新を経験しているのにも関わらず、困難な状況にむしろ陥るということがありますね。このような試練を受けましたが、ヒゼキヤは主の宮で心を裂いて祈り、主はその祈りを聞いてくださいました。

 ところがこのヒゼキヤの後に、ユダの国で取り返しもつかないことが起こりました。彼の息子マナセが王となって、霊的状況は逆転しました。逆宗教改革と呼んでも良いのでしょうか、彼は父ヒゼキヤが取り壊した偶像礼拝の祭壇を再び築き直し、さらにそれを増やし、神殿の中でも偶像礼拝を行なわせました。彼の悪は、自分が偶像礼拝をしていたばかりでなく、民にそれを行なわせたところにあります。そして行なわない者を殺しました。その状況の酷さは、「主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。(2列王21:9」とある程です。

 この逆宗教改革によって、ユダの民は偶像礼拝から離れられなくなりました。私たちもよく分かるのではないでしょうか、人間は、一度罪を行なうと、その罪によって自分が滅ぼされてしまうまで行ない続けてしまいます。マナセの孫ヨシヤが、再び抜本的な宗教改革を行ないましたが、その時にはもう彼らの心と思いの中に罪が染み付いてしまいました。それで彼らが滅ぼされてしまうところまで、主が彼らを敵の手に渡すことを決められたのです。次の世代が出て再びエルサレムに帰還させる時まで、主は七十年という期間を置かれました。

 このような状況の時に、主はエレミヤを召し、預言を行なわせたのです。私たちがこれから、エレミヤ書を読んでいけば、エレミヤが涙を流しながら、嘆きながら、叫びながら預言している声をその言葉の中に聞くことができるでしょう。預言の順番もイザヤ書とは異なり時系列的になっておらず、ゼデキヤ王の時に行ったと思いきや、再びエホヤキムの時代も戻ることもあります。客観的な出来事よりも、心を痛めて叫んでおられる主ご自身の心が表れているからです。

 これはまさに、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の心と非常に似ています。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(マタイ23:37-38

 そして、エレミヤ書には、このような預言に対して反対する者たち、特に仲間の祭司や預言者たちとの確執も数多く読むことができます。彼らは、ユダはバビロンから解放されるという偽預言を行なったのです。「死んでいくものは、死なせなければいけない。」という考えは、必ず反対に遭います。国家的にも、誰も自分たちの国が滅んでいくことを望まないでしょう。教会でも、無くなったほうがいいとするのが神の御心だとしたら、怒る人が出てくるでしょう。けれども、人は死ななければ、自分たちの可能性に死ななければ、新たな歩みをすることはできないのです。

 それで、エレミヤの預言の働きはヨシヤの時代から、最後のバビロン捕囚の時にまで至ります。

 そしてエレミヤ自身のことですが、彼は祭司の子です。「ベニヤミンの地アナトテ」というのは、ヨシュアの時に、アロンの子孫の祭司の町として与えられたものです(ヨシュア21:18)。エルサレムの町の近郊にあります。父の名は「ヒルキヤ」です。ヨシュアが宗教改革を断行した時に共にいた大祭司の名もヒルキヤですが、同じ人かどうかは分かりません。

 けれども、エレミヤのおじにシャルムという人がいます(エレミヤ32:7)。その妻の名が「フルダ」と言い、ヨシヤが宗教改革を断行する時、彼女が女預言者として神の言葉を告げました(2列王22:14)。ですからエレミヤは、エルサレムの神殿と多少なりとも関わりのある環境の中にいました。

2B 神の任命 4−10
1:4 次のような主のことばが私にあった。1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

 エレミヤは「国々への預言者」という大きな働きの中に召されましたが、主は私たちをもエレミヤと同じようにして、召しておられます。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4」キリストのようになるため、聖く、傷のない者になるように私たちを、世界の基の置かれる前から選んでくださいました。私たちがキリストのようになる・・・ものすごく大きな働きです。

 今の自分を見て、どうでしょうか?イエス様に似ているでしょうか?「とうてい私はイエス様のようになれません。」と答えるのではないでしょうか?けれども、主はそのように私たちを召されたのです。そのことを知らせるために、主は世界の基の置かれる前からすでに私たちを知っており、そして選んでくださいました。

 主はエレミヤに対しても、同じように「胎内に形造る前から、あなたを知り、腹から出る前から、あなたを聖別し・・・」とお語りになっています。ここの「知る」という言葉は知性の上での知識ではなく、夫が妻を知るというような極めて親密な関係を持っている意味での「知る」です。このように主は、私たちを親密に知っておられます。「でも、私は失敗してしまうし・・・」と思っても、主の御手は私たちの失敗よりも、もっと大きいのです。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネ10:28-29

1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」

 ここの「若い」の言葉は、主に乳児に用いられるヘブル語です。エレミヤは当時、おそらく二十歳そこそこでしたから、かなり極端な表現です。ところで、ヨシヤも同じぐらいの歳です。八歳で王になったので、今は第十三年ですから20歳、21歳だったでしょう。

 けれどもエレミヤは自分の感情を包み隠さず、主に言い開きました。「国々の預言者となる」つまりは、モーセと同じように、全世界に対する神の御言葉、真理となる預言を残していく人物になるのだ、ということです。「私は20歳の青二才ですから、あと10年、15年の修養期間が必要です。」というレベルの話ではありません。「とんでもない!どんなに頑張っても、どんなに訓練を積んでも、私には到底できない業です。」という絶対的な不足感を「若い」という言葉で言い表しました。

1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

 私たちが主の命令を行なうというのは、私たちの能力で行なうものではありません。そうではなくて、主が命じられた通り、呼び出された通りに行なっていくということです。主ご自身が、私たちを通してご自分の働きを行なわれるということです。

 ここには条件があります。一つは、「どんな所へでも行き」です。私たちは自分が行きたいところ、自分が通りたい経験を選びたいと願います。こういう体験だけはぜひ避けたい、と思いますが、主権はすべて神にあるのです。もう一つは、「すべての事を語れ」です。自分が気に入っていることだけを話し、自分に不都合なことは話したくない、と私たちは思います。けれども、すべてを聞かなければいけません。

 つまり、主が私たちに要求されているのは、「わたしにあなたの全てをゆだねよ。」です。通りたくない境遇も主にあって通り、聞きたくない言葉も主のものだと信じて聞き、すべてを明け渡すのです。そうすれば、主ご自身が責任を取ってくださいます。主が確実に、私たちを神の御心にかなう者に変えてくださいます。

1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。・・主の御告げ。・・」

 エレミヤは、これから数々の迫害に遭います。いつ殺されてもおかしくない状況の中に陥ります。人々の反応はみな恐ろしいものです。怒り、ねたみでいっぱいの言葉を彼に対して吐き出します。だから、「彼らの顔を恐れるな」と主は言われ、そして、「ともにいる」また「あなたを救い出す」という約束を与えてくださっています。

 この「ともにいる」「救い出す」という言葉は、すべての宣教師にとって大きな約束です。自分がどのような危害を受けるか分かりません。生きて祖国に帰って来られるのか分からないという状況の中にいます。けれども絶対に主が守ってくださるという信仰です。そして仮に主が自分の命を取られるとお考えであるならば、その時には死ぬ、主にあって死ぬということもあります。けれども、そうでない限り、主が必ず守ってくださいます。

1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

 同じように天使セラフィムが、祭壇の火の炭でもってイザヤの口に触れ、彼の口を清め、そして彼を主が遣わされましたね。自分が語るのではなく、主ご自身の言葉だという、口に対する聖別です。

1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

 ここに、エレミヤが語る神の言葉の要約があります。国を引き抜く預言です。引き倒す預言です。滅ぼし、壊す預言です。けれども、それはあくまで、建てて、また植えさせるための預言であります。バビロンに対しては永遠の滅びを主は宣言されますが、ユダに対しては滅びの後、再びお建てになる約束を与えてくださっています。「建てるために、滅ぼす」と言ってもよいでしょう。新しく建て直すために、一度古いものを滅ぼすのです。

3B 二つの幻 11−19
 そして主はこれから、エレミヤに対する召しを確かなものにするために、二つの幻をエレミヤにお見せになります。

1C 北からの災い 11−15
1:11 次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」1:12 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」

 ヘブル語では、「アーモンド」という言葉に「見張る」という意味があります。アーモンドは、イスラエルに生える木の中で一番早く花を咲かせる木です。一月終わりから二月初めにかけて咲きます。そして、他の木々が後に連なって花を咲かせるわけです。

 つまり、主はご自分が語られた御言葉を初めからずっと見守り、どのように実現するかを見張っているという意味になります。初めに主が御言葉を語られます。そしてその兆しが見えます。それから完成に向けて働き、最後に完了させます。

 何を語られ、完成させるかは、次の二つ目の幻の中にあります。

1:13 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」1:14 すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。1:15 今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。・・主の御告げ。・・彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。

 「北から」と言ったら、エレミヤ書ではバビロンのことです。アッシリヤがまだ強かったときも「北から」であり、エゼキエル書のゴグとマゴグに対する預言でも「北の果て(15節)」という言葉を使っています。

 私たちの地理的感覚では、バビロンはイスラエルの東にあります。けれども実際にバビロンのカルデヤ人がイスラエルに来るときは、西へ向かうのではなく、北西に、ユーフラテス川沿いに歩きます。イスラエルと今のイラクの間には、アラビヤの砂漠があるからです。そしてイスラエルの北から南に向かって歩くので、イスラエルにとっては、メソポタミア地方はみな「北」の国なのです。

 エレミヤがこの預言を行った時、ヨシヤ王の第十三年ですから紀元前640年のことです。そしてバビロン捕囚が完了するのが586年です。51年の期間があります。けれどもすでに紀元前640年の時に既に主はバビロンがユダを滅ぼすことをお語りになりました。

 そしてアーモンドの木のように、640年の時からその兆しはありました。バビロンは台頭していました。アッシリヤが再び強くなるのでもなく、エジプトが強くなるのでもなく、バビロンが世界帝国となるのです。それを見据えながら、エレミヤはユダの人々に対して預言を行なったのです。けれども、ユダの人々は目の前にある状況に左右されながら、遠くをまっすぐに見つめるエレミヤを煙たがり、迫害しました。そしてその兆しがはっきりとした後でも、初めから語られたその言葉を信じませんでした。そして、最後の王ゼデキヤは自分が気づいた時には、自分の目をネブカデネザルによってえぐり取られていたのです。

 イエス様が仰られましたね、「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。(マタイ16:2-3」当時のユダヤ人指導者が刈り取ったのは、ローマによるエルサレム破壊と世界離散でした。メシヤが来られるというしるしを見分けることができなかったからです。私たちはどうでしょうか?今の時のしるしを見分けているでしょうか?

2C ユダの裁き 16−19
1:16 しかし、わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ。

 彼らがバビロンによって滅ぼされる理由がここに書いてあります。ほかの神々にいけにえを捧げたから、ということです。ユダの人々の過ちは、偶像礼拝、弱者虐待、エジプトなど他の強国への依頼などいろいろありましたが、第一は偶像礼拝でした。これがエレミヤ書の主な内容になります。

1:17 さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。

 当時のイスラエルの男も、一枚の布で出来ている衣を着ていましたから、戦いに出る時や、その他体を動かす前に、そのすそを上げて腰の帯で締める行為を行ないました。それを今行なえとエレミヤに命じておられます。

 そして興味深いのは、もし彼らの顔を恐れて主の命じたことを語らなければ、今度はエレミヤが打ち砕かれます。スポルジョンの「牧会入門」にもありましたが、「召命」というのは何なのかが私たちは気になります。スポルジョンは、それは私たちが願っているものではないということを言いました。他の職業ができるのであれば、それをするがよいということです。

 召命とは、パウロが話した「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16)」という言葉です。もし福音を語らなければ、自分がおかしくなってしまうという切迫感、切実感、そして使命感です。これが、福音の働きがうまくいかない時にどれだけ必要であるか気がづきます。うまくいかなくてもそれでも続けるという唯一の理由が、「主がお語りになったから」ということだからです。

 エレミヤは後に、この葛藤にあえぎます。けれども、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私のうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(20:9」と告白します。話さなかったら災いにあうという切実感です。

1:18 見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。1:19 だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、・・主の御告げ。・・あなたを救い出すからだ。」

 再び、ともにいて救い出されることを約束してくださっています。今度は、エレミヤが「城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁」という表現を使って、彼に主の守りを確証しています。

2A ユダの背信 2−3:5
 そしてエレミヤは預言活動を開始します。これからの預言の内容をかいつまんで話しますと、2章から45章までが、ユダに対する預言です。延々とバビロン捕囚またそれ以後に至るまでの預言を行ないます。そして46章から51章までに周囲の諸国に対する裁きがあります。特にイスラエルを滅ぼしたバビロンに対する裁きが徹底的で、永遠で、完全なものです。

 そして2章から45章までのユダに対する預言ですが、2章から25章まででエレミヤが説教をしています。合計13あります。そして26章から、これらの説教を聞いた人々の反応が書かれています。反応というよりも反発ですね。これらの葛藤を私たちは26章以降で読むことになります。

 私たちはこれから、2章から25章までにある13の説教のうちの最初の説教を読みます。2章から35節までです。

1B 初めの愛 1−3
2:1 ついで、私に次のような主のことばがあった。2:2 「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。2:3 イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。・・主の御告げ。・・」

 アナトテの町にいたエレミヤは今、エルサレムに向かいました。ここで数多くの預言者が預言を行ないましたが、大抵、神殿の敷地の周囲で行なっています。エレミヤもそうしたのでしょう。

 それは彼らの歴史の初めである、荒野での生活です。エジプトから贖い出され、主の雲の柱、火の柱が彼らを導き、幕屋が彼らの宿営の真ん中にあり、日々、彼らは朝にマナを集め、40年間、着ている衣も、足のサンダルも擦り切れることのなかった、あの時代のことです。

 主はこれを「若かったころの誠実」「婚約時代の愛」と呼ばれています。確かに荒野で彼らは何度となく不平を鳴らしました。そして主によって裁かれて死んだ人々もいます。けれども、その根底にはヤハウェがイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係があります。

 ですから、彼らを食らおうとするものは、かえって災いを被りました。モアブの王バラクはバラムを雇い、イスラエルを呪おうとしましたが、バラムはかえってイスラエルを祝福し、モアブはイスラエルの前に倒れました。神が味方であられたのです。

 このような新しい愛、初めの愛を彼らは忘れてしまった、というのが初めの説教の内容です。

2B 主からの離反 4−19
1C 求めない心 4−9
2:4 ヤコブの家と、イスラエルの家のすべてのやからよ。主のことばを聞け。2:5 主はこう仰せられる。「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。

 神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「わたしに何か悪いものがあって、あなたは離れてしまったのか。」恋人にしても、友人や知人にしても、自分から誰かが離れてしまった時に感じることですね。神ご自身が、むなしいもの、つまり偶像礼拝に従ってしまった彼らに、その寂しい思いをお語りになられています。

 思い出してください、今、エレミヤはおそらくは神殿の付近にいます。彼らは一応、神殿礼拝の形態は保っていましたが、敷地の中にもあらゆる、さまざまな偶像やその祭壇が備えていたのです。バアルの祭壇、アシェラ像、天の万象のための祭壇があり、神殿のすぐ近くのヒノムの谷では、生まれてきた赤ん坊を火の中に入れて、モレクにささげていました。

2:6 彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか。私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。』と。

 この言葉は、かつてイスラエルの民が、水がなくてモーセに欲したときに、主を試して言ったことでもあります。主がここにおられるのか、と言って試したのです。これは悪いことであります。それでも、この主を試すということ自体が、もはや初めの愛を表している、愛の言葉となってしまったのです。

 当時のエルサレムの人々は、自分たちがアッシリヤの脅威を受けようが、エジプトやバビロンの脅威を受けようが、主なる神を求めなかったのです。エジプトから出て、荒野の生活を守ってくださったあの方は、今はどこにいるのか?と尋ねることさえしなかったのです。

 何が最も霊的に問題なのか、主が語られました。「あなたがたが冷たいか、熱いかであってほしい。(黙示3:15」自分の今の生活に満足し、聖書に出てくる主のすばらしい働きが自分の内や周りで起こっていないにも関わらず、霊的な飢え渇きすら感じていない状態です。「主よ、今、なぜこのようになっているのですか。あなたはここにおられるのですか。」と尋ねもしない状態です。

2:7 しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れてはいり、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、はいって来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした。

 約束の地に入った後の状態です。偶像でこの地を汚しました。主が言われていますね、これは「わたしの国」であり、「わたしのゆずりの地」であると。私たちが、自分の肉体、自分の所有物、自分の時間について同じことを問うべきです。これらは主が贖われたものであり、私のものではないのです。

2:8 祭司たちは、『主はどこにおられるのか。』と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。

 霊的な事柄を管理している者たちにある問題を指摘しています。祭司は、民を主の臨在へと導く役目を担っています。その祭司が「主はどこにおられるのか。」という根本的な叫び声を挙げていません。そして律法学者は主の知識を知るための務めを担っていたのに、主を知りませんでした。云わば、神の知識を持たない聖書教師や牧師の姿です。

 そして預言者は、今、人々に必要な神の声、今、どこに向かっているのかを知らせる道しるべとなる言葉を語る務めを担っています。その彼らが自分の勝手な思いによって預言していました。つまり誤った指針を、人々に示していたのです。

2:9 そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。・・主の御告げ。・・また、あなたがたの子孫と争う。

 この「争い」は、法廷における訴訟のことです。神がイスラエルに対して、訴訟を起こしておられます。

2C 神を代えた国民 10−13
2:10 キティムの島々に渡ってよく見よ。ケダルに人を遣わして調べてみよ。このようなことがあったかどうか、よく見よ。2:11 かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。

 「キティム」は地中海に浮かぶキプロス島です。「ケダル」はアラビヤ北部にすむ人々です。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っています。そしてその神を他のものに変えたりしません。そうですね、どの異邦の国もそう簡単に他の神々に信仰を変えたりしません。日本なら神道で、インドならヒンズー教とか。しかし、なぜユダの民は簡単に変えてしまうのか?という、とてつもない皮肉を主は語っておられます。

2:12 天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。・・主の御告げ。・・

 天を証人に持ち出しています。

2:13 わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

 非常に重要なことがここに書かれています。主は湧き水の泉であられます。あらゆる命の源泉であられます。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14

 他の宗教はすべて「水ため」です。確かに水はあるでしょう。けれどもいつか尽きてしまう水ためです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなっているのだよ、と言っています。自分の生きがいとしているものがまことの神でなかったら、宗教であれ、他の活動であれ、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのだ、ということです。

 イスラエルに行くと、当時の貯水槽の遺跡が至るところにあります。例えば死海のほとり、ユダの荒野にあるマサダには大きな貯水槽が、そして主の墓と言われている園の墓には、ぶどう園のための貯水槽が見つかっています。ほとんど雨が降らない乾季に備えて、雨が降った時の水を溜めるものです。

 けれども泉もあります。ヨルダン川の源になっているピリポ・カイザリヤにある泉もあります。ダンの町にも泉があります。乾いた気候の中で、これほど新鮮で、若返えらせ、力を与えるものはありません。

 貯水槽は、一枚岩になっているところを切削していくことにより造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな貯水槽も見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があれば、貯水槽の役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 この「泉」と「こわれた水溜め」の二つをここでは対比させているのです。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれません。クリスチャンなのに神道に戻った、仏教徒に戻った、ということは時々聞きます。けれども、あからさまに偶像を拝まなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることを忘れることがしばしばあります。

 「イエス・キリストがあなたのために血を流されました。そして三日目によみがえられました。」この単純な福音の言葉を、魂の喜びとし、楽しみとしているでしょうか。なのに他のもの、心理学的な話や哲学的な話、教会成長のための五つの目的、だれだれ伝道師が来たなど、とにかく神の真理の柱から外れたところで喜び、興奮し、熱心になるのです。

 ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りなのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか。」という心からの叫びだけなのです。その他のものは要りません。

3C 奴隷になったイスラエル 14−19
2:14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。2:15 若獅子は、これに向かってほえたけり、叫び声をあげて、その地を荒れ果てさせ、その町々は焼かれて住む者もいなくなる。

 イスラエルはエジプトの奴隷状態から救い出された自由人です。けれども今、自ら周りの国々の奴隷になっています。この若獅子はバビロンのことですが、バビロンから守られるためにある時はエジプトについたり、ある時はアッシリヤについていました。

2:16 ノフとタフパヌヘスの子らも、あなたの頭の頂をそりあげる。2:17 あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、あなたは主を捨てたので、このことがあなたに起こるのではないか。

 「ノフ」と「タフヌヘス」はエジプトの町です。ヨシヤが死んだ後、エジプトはエホヤキムを王として立てました。そして金銀をパロはエホヤキムに要求しました。そのためにエホヤキムは民に税を課さなければならなくなったと、列王記第二23章に書いてあります(35節)。

2:18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤの道に向かうとは、いったいどうしたことか。2:19 あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。・・万軍の神、主の御告げ。・・

 私たちは自分たちが何か悪いことをすると、それに対して神が私たちに罰を与えて懲らしめる、と考えがちです。けれども実際は、私たちが行なったことのその結果が、自分たちに重いかせとなってのしかかっているのです。ただ主に従い、それらから解放されればいいのですが、かえって奴隷の道を歩んでしまっているという現実があります。

3B 偶像への恋い慕い 20−37
 主は次から、ユダの痛々しい背信の姿をいろいろな比喩を使って言い表しておられます。

1C 欲情にあえぐ女 20−25

2:20 実に、あなたは昔から自分のくびきを砕き、自分のなわめを断ち切って、『私は逃げ出さない。』と言いながら、すべての高い丘の上や、すべての青々とした木の下で、寝そべって淫行を行なっている。

 「昔からの自分のくびき」また「自分のなわめ」とは、神との契約です。結婚関係でいう誓約です。そして、「高い丘の上」「青々とした木の下」というのは、そこに偶像の祭壇が安置されているところです。そこれ霊的な姦淫、また実際の不品行も行ないました。

 ここで興味深いのは、「私は逃げ出さない」と言いながらそれを行なっていることです。「私は大丈夫です、罪を犯しません。」と言いながら、罪に近づき、その罪に陥っているのも同じことです。

2:21 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。

 イザヤ書にもこの比喩が出てきました。イスラエルをぶどう園に例えておられました。主がイスラエルを選ばれた目的は良い実を結ばせるためですが、かえって悪い実が結ばれてしまった、ということです。クリスチャンになったのに、かえって悪い行ないをしている、ということです。

2:22 たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。・・神である主の御告げ。・・

 小手先の行為で、自分の罪を拭い去ろうとします。自分が同じ罪を犯し続けて、一言、「主よ、お赦しください。」と言えば罪は赦されると思って、それを唱えて罪を犯し、またそれを唱えては罪を犯します。ある人は献金をもっと多く出すでしょう。とにかく、それを取り去ろうと表面的なことはするのですが、神の前にある咎については、処理していないのです。

2:23 どうしてあなたは、『私は汚れていない。バアルたちには従わなかった。』と言えようか。谷の中でのあなたの道を省み、何をしたかを知れ。あなたは、道をあちこち走り回るすばやい雌のらくだ、2:24 また、荒野に慣れた野ろばだ。欲情に息はあえぐ。そのさかりのとき、だれがこれを静めえようか。これを捜す者は苦労しない。その発情期に、これを見つけることができる。2:25 はだしにならないよう、のどが渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。『あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです。』と。

 人間の欲望です。性的な衝動に限らず、あらゆる欲望、情欲について同じことが言えます。「私はこれをやめられないのです。」という言い訳をすることです。いや、やめることができるのです。私たちの内にはご聖霊が与えられています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。(ガラテヤ5:16」内なる戦いがあります。けれどもそれに勝つことができるのです。負けるしかない運命の中にいるのではありません。逃れの道を神は備えていてくださっているのです。

2C 救えない神々 26−28
2:26 盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、イスラエルの家もはずかしめられる。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちがそうである。

 私たちが他の人に、自分のしている悪いことが明らかにされたとき、顔を真っ赤にするか、真っ青になって恥ずかしくなります。同じように、ユダの指導者たちも辱められる、ということです。

2:27 彼らは木に向かっては、『あなたは私の父。』、石に向かっては、『あなたは私を生んだ。』と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください。』と言う。2:28 では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ。

 いつもは偶像に仕えているのに、肝心な時に偶像が救ってくれるのかという問いかけです。私も、いろいろな相談を受けますが、両親のこと、自分の仕事のこと、将来のことなど、そして最後に「どうか祈ってください。」と言われます。

 そのために祈るのは別に構わないのですが、神の約束は、「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」です。神様のことを第一にすることによって、初めて、自分が抱えている心配事にも光が投じられます。神を神とし第一とすることによって救いを経験します。

3C 役に立たなかった懲らしめ 29−33
2:29 なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしにそむいている。・・主の御告げ。・・

 先ほど、神が「わたしはあなたがたと争う」と言われました。神にはそれだけの権利がおありです。ところが、これらの言葉を聞いて、彼らは自分たちを変えたくないものだから神を非難しています。神と争っています。いろいろ言い訳をしています。けれども、神に背いているという事実は変わらないのです。

2:30 わたしはあなたがたの子らを打ったが、むだだった。その懲らしめは役に立たなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。

 主が警告の言葉を、預言者たちを通して与えられました。ところがこれらの預言者を迫害し、殺してしまったのです。

2:31 あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。どうしてわたしの民は、『私たちはさまよい出て、もうあなたのところには帰りません。』と言うのか。

 主との生活が、まるで荒野であったかのように、暗黒であったかのように彼らはみなしています。喜びのない、がんじがらめの生活だったのでしょうか、本当に。けれども実際にそのように考えて、信仰から離れてしまう人たちがいます。

2:32 おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。

 私の妻は、聖書のカバーに今でも結婚式の写真を挟んでいるのですが、私なんか恥ずかしいです。花嫁は自分の衣装を忘れることはないでしょう。けれどもイスラエルは、ヤハウェの妻であるにも関わらず、忘れてしまったと神は責めています。

2:33 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。それであなたは、悪い女にも、自分の方法を巧みに教えたのだ。

 自分が偶像礼拝をするだけでなく、他の人にもそれをするように仕向けました。

4C 貧しい人への虐げ 34−37
 そして次は偶像礼拝ではなく、貧しい人を虐げていることを主は責められます。

2:34 あなたのすそには、罪のない貧しい人たちの、いのちの血が見える。彼らの押し入るのを、あなたが見つけたわけでもないのに。しかも、これらのことがあるにもかかわらず、2:35 あなたは『私には罪がない。確かに、御怒りは私から去った。』と言っている。『私は罪を犯さなかった。』と言うから、今、わたしはあなたをさばく。

 彼らが刑法に触れる特定の罪を犯したのではないのに、あたかも犯したかのように貧しい人々を虐げているということです。

 虐げている人が、「私は虐げました」というのは難しいようです。政府にしても、組織の上に立つ人でも、個人でも、なかなか自分の非を認めることはしません。イエス様が言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(ヨハネ9:41

2:36 なんと、簡単に自分の道を変えることか。あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。2:37 そこからもあなたは、両手を頭にのせて出て来よう。主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。

 アッシリヤによって辱められたというのは、北イスラエルが捕え移されたこと、またその他アッシリヤによってユダの町々が破壊されたことなどを含みます。アハズがアッシリヤに助けを求めた結果、そのようになってしまったのです。そのアッシリヤは今、力を失いつつあります。そうしたら今度は彼らはエジプトを頼るようになったのです。けれども頼れば頼るほど、今度はバビロンから虐げられて、苦しみます。

4B 姦淫の女 3:1−5
 そしてエレミヤは最初の説教を、姦淫の女の例えを話して終えます。

3:1 もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。この国も大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、しかも、わたしのところに帰ると言っている。・・主の御告げ。・・

 もし彼女がほかの男から離れ、夫から赦しを得れば戻ることができます。けれども、他の多くの男と関係を持っているのに、関係を正しましょうと言っているということです。悔い改めがなくて、どうして神との関係を正せるのか、ということです。

3:2 目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。荒野のアラビヤ人がするように、道ばたで相手を待ってすわり込み、あなたの淫行と悪行によって、この地を汚した。3:3 それで夕立はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。

 主は、イスラエルがご自分に背いたとき、雨は降らせないと警告されました。申命記111617節にこうあります。「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。(申命記11:16-17」それで、例えばエリヤの時代、アハブが王であったとき、雨が三年半の間降りませんでした。

 ですから今、青々と茂った山の上も裸の丘になってしまっています。イスラエルには、緑の山と裸の山のどちらもがあるので、容易に想像できます。けれども、このような雨が降らないという徴を見ても、彼らはそのまま霊的姦淫を行なっていました。そして、荒野で遊女を行なっているアラビヤ人になぞらえて、そこまであなたがたは堕落してしまった、と言われています。

3:4 今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。3:5 いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか。』と。なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。」

 おそらく、この言葉を呪文のように唱えていたのではないでしょうか。神殿礼拝が非常に形式的なものになっているのです。実際は、ここで偶像礼拝のほうに力を入れていたのです。

 これがユダの背信です。自分をどんどん罪の中に入れています。けれどもとりあえず、神の名を使い、キリストの名を使います。それは口先だけのものとなっていて、実際はまったく別のことに関心があり、熱中しています。そして良心が麻痺していますから、自分たちが罪を犯していることさえも気づいていません。大変な状況です。

 最後に、ヘブル人への手紙3章12,13節を読んで終わりにします。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。(ヘブル3:12-13


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