エレミヤ書18−20章 「主の轆轤(ろくろ)」

アウトライン

1A 陶器師の粘土 18
   1B 器の作り替え 1−17
      1C 悔い改めの機会 1−10
      2C 応答しない民 11−17
   2B 舌による迫害 18−23
2A 陶器の粉砕 19
   1B 虐殺の谷 1−9
   2B 回復不能の町 10−15
3A 迫害の手 20
   1B パフシュル 1−6
   2B エレミヤの打ち明け 7−18
      1C 願いと賛美 1−13
      2C 呪い 14−18

本文

 エレミヤ書18章を開いてください、今日は18章から20章までを学びます。ここでのメッセージ題は、「主のろくろ」です。

1A 陶器師の粘土 18
1B 器の作り替え 1−17
1C 悔い改めの機会 1−10
18:1 主からエレミヤにあったみことばは、こうである。18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」

 人に見せるように預言を実演で語る方法を、私たちはこれまで見てきましたが、ここでは陶器師の家の出来事です。ろくろに粘土を置いて、ろくろを回して陶器を作る方法は古代から行なわれていました。

18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。

 これもよくある光景ですね。自分の気に入らない形になっていったら、一度、その粘土をつぶして再びやり直します。この当たり前の光景を使って、主はイスラエルに対する思いを語られます。

18:5 それから、私に次のような主のことばがあった。18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。・・主の御告げ。・・見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。

 主は、ご自分を陶器師、イスラエルを陶器のための粘土、そしてろくろは周囲の環境としてお語りになっています。イスラエルは主の悦びのゆえに造られた民です。主が彼らを練って、形造り、ご自分の悦びにしたいと願われました。けれども不都合なところがたくさん出てきました。それで、イスラエルを一度つぶし、それから再び建て直す、ということをお語りになっています。

 聖書には、陶器を例えとして神との関係を教えています。私たちの生活に神が主権を持っておられる。神の御心のままに私たちは変えられ練られていく、ということです。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。(ローマ9:20」とパウロは言っています。

 その神の陶器作りの働きは、私たちをキリストの似姿に変えていくというものです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18

 私たちがキリストの似姿に変えられるにあたって、いろいろなところを神は通らせます。「すべてのことを働かせて、益としてくださる(ローマ8:28」とあるように、あらゆる事を通してキリストの形に変えられるようにされます。つまり、神が回されるろくろのようなものです。

 そこで私たちは、それを嫌がります。それは不快であり、自分の思いや考えにそぐいません。けれども、「主のみこころであれば」と主に委ねれば、そこで御霊が私たちに働きかけてくださり、私たちを練り清めてくださいます。けれどもそこで自分の意思を貫くと、そこで私たちは、主の願われているのとはかけ離れている形へと変形していくのです。

 すると、主はもう一度やり直しを与えられます。始めからやり直しです。私たちが主の御心に自分を委ねることができるまで、やり直しを与えてくださるのです。これは神の深い愛と憐れみによって許されていることであり、私たちがどれだけやり直しの機会を与えられているでしょうか!この神からのテスト、試みを受けるたびに私たちの粘土はやわらかくなり、主が願われている作品へと変えられていくのです。

18:7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

 エレミヤ書の冒頭、1章にて、主がユダやその他の国々に対して抱いておられる思いが、ここの「引き抜き、引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし(1:10」というものでした。けれども、その後に「あるいは建て、また植えさせる。(同10節)」と続いています。これが、今の陶器師と陶器の例えです。陶器師が壊すのはあくまでも作り直すためであり、壊すために壊すのではありません。回復を与えてくださいます。

 けれども、ここ7,8節の言葉は、この引き抜き、引き倒すと主が言われている前に、彼らが悔い改めを行なわれた場合です。旧約聖書の中に、主が「思い直す」という言葉が出てきます。主はご自分の御心を変えることがあるのか?という疑問を私たちは抱きますが、ここでヤコブ書にある言葉、「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(2:13」という言葉です。

 主は義なる神様です。けれども正義と裁きの神である以上に、恵みと憐れみの神です。義にしたがえば裁かなければいけないことも、相手が思いを変えれば、すぐにその裁きの手を引いてくださる憐れみを持っておられます。

 その典型的な例がヨナ書です。ヨナは、大魚から出されて、主に命じられたように預言をしました。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。(3:4」ここには何ら、悔い改めの機会の内容がありません。四十日すれば、自動的にニネベが全滅すると受け止めておかしくない発言です。ところが、「ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。(ヨナ3:5」とあります。主は、それで滅ぼされなかったのです。

 主はならば、前言を翻されたのか?いいえ、違うのです。主の憐れみは裁きに勝利するのです。エゼキエル書に、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。(18:22」とあります。

 私たちは、神の御言葉を運命論的に捉える傾向があります。主がこう言われたのなら、人間の自由意識に関わらずそうなるのだ。これは神の定めであり、変えることはできない、と考えます。良いことにおいても、悪いことにおいても、です。だから、罪を犯したらあなたには罪のための赦しは与えられない、と主が語っておられると思って、もう悔い改めても、何をしても駄目なのだ、と考えるのです。

 あるいは、「主がこのように希望の約束を与えておられるのだから、私たちが何を行なっても、これは守られる。」と考えるのです。それで、罪を犯し続けても、最後には救われると考えます。これは次の9,10節で間違っていることを明らかにしています。

 けれども、主がお考えになっているのは、ある人を滅し、ある人を救う、と運命付けていることではなく、あくまでもご自分のかたちに人を変えられていく、ということなのです。人々が罪を捨てて、神に立ち返り、実を結ばせていくことなのです。

 だから、主の裁きのメッセージを聞いたとき、恐怖を抱かないでください。主の御心は、私たちが悔い改めることです。また主が祝福のメッセージを語られたとき、驕らないでください。主の御心は、私たちが主に栄光を帰すことです。

18:9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、18:10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。

 今お話しましたように、祝福のメッセージも運命論的に考えてはいけない、ということです。

2C 応答しない民 11−17
18:11 さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ。』18:12 しかし、彼らは言う。『だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから。』と。

 エレミヤ書において、主は、ユダを滅ぼすという強い意思を明らかにしておられます。エレミヤが彼らを執り成した時でさえ、「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。(15:1」と言われましたが、それは彼らが悔い改めてもそのようにする、ということではありませんでした。

 主は、予め彼らがかたくなに、主の御言葉を拒むことをご存知であったからこそ、必ず滅ぼすと決められていたのです。けれども、すばらしいのは、最後まで拒むと分かっている人々にさえ、悔い改めの機会を与えられるというのが、主です。ここでも、悔い改めの機会をユダに与えておられます。

 私が神だったら、もう駄目だと始めから分かっていたら、その時に見捨てていることでしょう。最後までその人に付き合う必要はありません!ずいぶん、ばかげたことだ、愚かだと思うのです。ところが、神はその愚かなことを行なわれるのです。神の憐れみのご性質がそうされるのです。

 エジプトのパロが、かたくなにイスラエルの民を出て行かせないことについて、主はすぐにでも彼を滅ぼすことはおできになりました。けれども、ローマ9章22節にこう書いてあります。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

18:13 それゆえ、主はこう仰せられる。『さあ、国々の中で尋ねてみよ。だれが、こんなことを聞いたことがあるか。おとめイスラエルは、実に恐るべきことを行なった。18:14 レバノンの雪は、野の岩から消え去るだろうか。ほかの国から流れて来る冷たい水が、引き抜かれるだろうか。

 これはヘルモン山からの雪解け水のことです。ガリラヤ湖の水源になっているところであり、ダン、また、かつてピリポ・カイザリヤと呼ばれたバニヤスという所には、絶えず流れている泉と川があります。これが消え去ることは想像さえできないのに、ユダの民が自分の土地から引き抜かれる、ということです。

18:15 それなのに、わたしの民はわたしを忘れ、むなしいものに香をたく。それらは、彼らをその道、いにしえの道でつまずかせ、小道に、まだ築かれていない道に行かせ、18:16 彼らの国を恐怖とし、永久にあざけりとする。そこを通り過ぎる者はみな色を失い、頭を振る。

 15節の「いにしえの道」は、モーセが教えた神の律法のことです。ここは「で」という助詞で訳されていますが「から」と訳したほうがよいでしょう。そこから逸れて、他の道を歩んでいったということです。

18:17 東風のように、わたしは彼らを敵の前で散らす。彼らの災難の日に、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。』」

 東風は、聖書では、木々を枯らす熱風のことを表しています。

2B 舌による迫害 18−23
18:18 彼らは言った。「さあ、私たちは計画を立ててエレミヤを倒そう。祭司から律法が、知恵ある者からはかりごとが、預言者からことばが滅びうせることはないはずだから。さあ、舌で彼を打ち、彼のことばにはどれにも耳を傾けまい。」

 数回前の学びから、エレミヤに対するこのような迫害のことが書かれています。彼が預言を重ねる度に、迫害の激しさも勢いを増しています。

 ここの彼らの言葉で興味深いのは、「滅びうせることはないはず」と彼らが思い込んでいることです。祭司が律法から離れるはずはない、知恵あるものから計画が、預言者から神の言葉が離れるはずはない、と。けれども実際は、ほとんどの者たちが勝手に自分の思いを語り、神の律法、神の計画、神の言葉から離れていたのです。

 私たちも同じような仮定を行なっていないでしょうか?教会の指導者、またクリスチャンでも自分が尊敬している人、これら自分にとって影響力のある人が言った言葉であれば、それは神からのものだと思い込むことはないでしょうか?そのために、真に神の御心を告げる人が現れるとき、それに耳に傾けるどころか、かえって迫害することはないでしょうか?

 「迫害なんて!」と思われる人もいるかもしれません。けれども、ここでエレミヤが受けていた迫害は主に「舌」によるものです。「そんな酷いことを言うあなたは、聖書教師なんかではない。神は愛なのですよ。」などなど、人を責める言葉を吐いている時、実はこの迫害を行なっているのです。

18:19 主よ。私に耳を傾け、私と争う者の声を聞いてください。18:20 善に悪を報いてよいでしょうか。まことに彼らは、私のいのちを取ろうとして穴を掘ったのです。私があなたの御前に立って、彼らに対するあなたの憤りをやめていただき、彼らについて良いことを語ったことを、覚えてください。

 そうです、エレミヤは主に対して、ユダのことばをかばいました。執り成しの祈りをささげ、それが主によって拒まれています。ところが、この善に対して悪をもって報いているのです。私たちは、人を愛してそれゆえ苦しい立場に置かれているのに、その本人からかえって憎まれることがあります。

18:21 それゆえ、彼らの子らをききんに渡し、彼らを剣で殺してください。妻たちは子を失い、また、やもめになり、夫たちは虐殺されて死に、若い男たちは戦いで剣に殺されますように。18:22 あなたが突然、略奪隊に彼らを襲わせるとき、彼らの家からの叫びが聞こえます。彼らは私を捕えようと穴を掘り、私の足もとに、わなを隠したからです。

 彼らの非難は、どんなに建設的なように聞こえて、実はその人を貶めることにしか過ぎません。

18:23 しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をみな、ご存じです。彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを、御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。

 かなり激しい復讐への祈りですが、その内容は、主が裁かれると言われたことと同じです。つまりエレミヤは、自尊心が傷つけられたため怒りを爆発させているよりも、神の怒りを自分の心の中に抱いている、と言ってよいでしょう。

2A 陶器の粉砕 19
1B 虐殺の谷 1−9
19:1 主はこう仰せられる。「行って、土の焼き物のびんを買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人といっしょに、19:2 『瀬戸のかけらの門』の入口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを呼ばわって、19:3a 言え。

 18章は、ろくろの上にある粘土による例えでしたが、今度は完成された焼き物の瓶についての例えです。

 場所は、「瀬戸のかけらの門」の入口とあります。これがどこにあるか分かりません。けれども、そこが要らなくなった瀬戸物を割って、廃棄するところであったのでしょう。ベン・ヒノムの谷は、以前も出てきましたように(7:31)、これから見る偶像礼拝の場であったのと同時に、ごみ処理場のようにもなっていました。

19:3b 『ユダの王たちとエルサレムの住民よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする。19:4 彼らがわたしを捨ててこの所を見分けがつかないほどにし、この所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々にいけにえをささげ、この所を罪のない者の血で満たし、19:5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高き所を築いたからである。このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。

 エレミヤ時代のエルサレムを発掘すると、偶像がたくさん出てきます。バアルも出てきていますが、両手の手の平を上にしているものです。ここを参照

 この手はちょうど、赤ん坊を抱えるためのものです。彼らはこの偶像を火で熱します。そしてその上に赤ん坊を乗せることによって、ここで主が言われている「子どもたちを全焼のいえにえとして火で焼く」ことを行なったのです。

19:6 それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、この所はもはや、トフェテとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。19:7 また、わたしはこの所で、ユダとエルサレムのはかりごとをこぼち、彼らを敵の前で、剣で倒し、またいのちをねらう者の手によって倒し、そのしかばねを、空の鳥や地の獣にえじきとして与える。

 彼らはここに子どもの死体をいっぱいにしていましたが、今度は彼ら自身の死体がここに転がります。

19:8 また、わたしはこの町を恐怖とし、あざけりとする。そこを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。19:9 またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いにその友の肉を食べ合う。』

 恐ろしいことですが、これは、バビロンがエルサレムを包囲している時に彼らが行なったことです。哀歌4章10節にて、エレミヤは実際に自分がこのことを目にしたことを証言しています。「私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。

 そしてこのことは実は、はるか以前にモーセが預言していたことでした。申命記2853節以降に、まざまざと書いてあります。

2B 回復不能の町 10−15
19:10 そこであなたは、同行の人々の目の前で、そのびんを砕いて、19:11 彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町を砕く。人々はトフェテに葬る余地がないほどに葬る。

 焼いた陶器を砕いたのは、まだ粘土上の陶器とは異なり、もう立ち直りがきかないことを表すためです。70年後に人々はバビロンから帰還するのですが、エルサレムの町は廃墟のままでした。

19:12 わたしはこの所と、・・主の御告げ。・・その住民にこうしよう。わたしはこの町をトフェテのようにする。19:13 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、彼らが屋上で天の万象に香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェテの地のように汚される。』」

 「トフェテ」の元々の言葉には、「汚れ」とか「燃やす」という意味があります。エルサレム全体が燃やされ、廃墟となることを預言しています。

19:14 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェテから帰って来て、主の宮の庭に立ち、すべての民に言った。19:15 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」

 「瀬戸のかけらの門」に長老などを連れてきて預言を行なったエレミヤは、今度は神殿の敷地に戻りました。そしてそこで、今度はすべての民に語りました。

3A 迫害の手 20
 この言葉を聞いていた宮の監督官が反応します。

1B パフシュル 1−6
20:1 祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。20:2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。

 これまでは口による攻撃でしたが、ついに物理的にエレミヤに危害を与えました。申命記25章には、四十までの鞭打ちをしてよいことが定められているので、この刑をエレミヤに行なったのでしょう。そして彼をさらし者にするために、門のところで足かせにつなぎました。

20:3 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』と呼ばれる。

 「パシュフル」は「広がりが回りにある」という意味です。つまり、安全と平和が広がっているという意味が彼の名前にありますが、それをエレミヤは「恐れが回りにある」と変えました。

20:4 まことに主がこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者への恐れとする。彼らは、あなたの目の見る所で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人全部をバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。20:5 また、わたしはこの町のすべての富と、すべての勤労の実と、すべての宝を渡し、またユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪し、バビロンへ運ぶ。20:6 パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、とりことなって、バビロンに行き、そこで死に、そこで葬られる。あなたも、あなたが偽りの預言をした相手の、あなたの愛するすべての人も。』」

 エレミヤ以外の預言者らは、「バビロンは来ない。エルサレムは守られる。」と預言していましたが、エレミヤは、「いいや、バビロンは来るし、あなたもあなたの家族も捕え移される。」と預言しました。

2B エレミヤの打ち明け 7−18
 ここまで預言を行ない、彼は再び精神的疲労とストレスのため、主に対して叫び声をあげます。

1C 願いと賛美 1−13
20:7 主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

 エレミヤの心の奥底から出てくる、苦しみの言葉です。主が命じられている通りに自分は預言した。けれども、あまりにも反対が多く、自分はもう倒れてしまいそうだ。あなたは、「わたしはあなたを守る」と約束されたのに、今、このように捕縛され物笑いとなった。だから「主が私を惑わした」と言っているのです。

 どうでしょうか?私たちにも、このような経験がないでしょうか?主が命じられているように語ります。行ないます。ところが、それに反対する人々が出てきます。状況はさらに悪化します。主が命じられていることを行なっているのに、状況はまるで反対のようなことが起こっている、という気持ちです。

20:8 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。

 彼から出てくる言葉が、ユダの民が行なっている暴虐と暴行、そしてこれから襲うバビロンによる暴虐、暴行です。だれがこんなことを預言したいでしょうか?けれども、彼は主のことを語ろうとすると、そのことばかりが出てくるのです。

20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

 ここに、とてもすばらしい証しが書かれています。預言者として主に召されたことの証明です。こんなにも反対されて、もう自分で辞めてしまおうと思っても、心の中に燃えさかる主のみことばを自分のうちで押さえることができないのです。そのためにエレミヤは、どんな犠牲を払っても、最後まで御言葉を語り続けたのです。

 このように主からの召しは自分の意思によるものではなく、主がその人の思いと志に働きかけられものです。同じことをパウロが述べました。「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16

 スポルジョンが若い人々に語った「牧会入門」の中で、次のように説明しています。「天よりの召しの最初のしるしは、そのわざに対する熱心な願い、そのためにはすべてを捨てて顧みないという欲求である。(「牧会入門」52ページ)また、ある牧師の言葉を借りてこうも言っています「もしならないでおられるなら、教役者にはなるな(同ページ)」他の職業で満足できるなら、それを行ないなさい。けれども、もしそれにはどうしても満足できない強く欲求があるなら、それが神からの召しである、ということです。

 もちろん、これは預言者や福音宣教者に限ったことではありません。すべての人が、福音を語ることを命じられています。けれどもある出来事が起こって、気落ちして、もう主のことは語るまい、と思っていらっしゃる方がおられるかもしれません。エレミヤのように無視されたり、馬鹿にされたり、脅されたりしたかもしれません。けれども、主は必ずご自分のみもとに引き寄せられます。エマオに行く途上の弟子二人が、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。(ルカ24:32」と言いました。純粋に御言葉を聞いて、そのまま信じて、心を燃やしたその主との出会いをもう一度経験してみましょう。

20:10 私が多くの人のささやきを聞いたからです。「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。「たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう。」と。

 先ほど、パシュフルに対して「恐れが回りにある」と預言しましたが、それを馬鹿にして言っている言葉です。「恐れが回りにある、と言っているが、何も無いじゃないか。じゃあ、エレミヤの周りに恐れがあるように、私たちが脅してやろう。」ということです。自分が語った主のことばを、このようにもてあそばれることは、非常に辛いことです。

 さらに、そして彼の近くにいる人々までが、「彼は間違っている。間違っているとはっきり証明されたら、仕返ししてやるからな。」と言い合っています。近しい人が離れ、かえって反対することも辛いことです。

20:11 しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。

 自分の心で燃えさかる主の御言葉があることに気づいたエレミヤは、勇気を出し始めました。信仰を取り戻し始めました。主の約束、「ともにいる」という言葉を思い出しました。

20:12 正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。

 この前の学び1710節にもありました、主は、「調べて、思いと心を見ておられる」方です。私たちがたとえ、外面で判断されても、主は私たちの心と思いを知っておられます。主は私たちの外面で報われる方ではなく、心にあるものによって裁かれます。パウロがこう言いました。「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4:5

20:13 主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。

 主に祈りが聞かれたことを、このように賛美しています。自分のことを「貧しい者」と呼んでいますが、これが必ずしも経済的なことを意味しているのではありません。イエス様が、「心の貧しい者は幸いである。」と言われましたね、その貧しさです。

 主がなければ自分は生きていくことができない、そのような貧しさが私たちには必要です。けれども、そのような貧しさを持っていると、そしられます。侮られます。この世において賢くなっているほうが、迫害を受けずに済みます。けれども、主はそのような心の貧しい人たちを救ってくださるのです。

2C 呪い 14−18
 ところが、次からのエレミヤの言葉は私たちを驚かせます。

20:14 私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。

 神への賛美から、彼は一気に、自分の生まれた日を呪うところまで落ち込んでいます。

20:15 私の父に、「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。

 出産を助けた医師のことでしょう。父親に初めに出産を伝える人です。

20:16 その人は、主がくつがえして悔いない町々のようになれ。朝には彼に叫びを聞かせ、真昼にはときの声を聞かせよ。20:17 彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、私の母を私の墓とせず、彼女の胎を、永久にみごもったままにしておかなかったのだから。20:18 なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。

 なぜこの世に誕生させるようにしたのか、と呪っています。

 私が以前、ここのエレミヤの言葉を読んだとき、なんと彼は感情の起伏が激しい人なのか、もしかして彼は精神的に不安定になっているのかもしれない、とまで思いました。けれども、それはまだ主にある迫害や労苦を経験していなかったからであることを、実際に経験して分かりました。

 主にあってもたらされるあらゆる苦しみ、迫害を受けている人は、その繊細な感情の部分でこのような起伏を味わいます。その葛藤が大きければ大きいほど味わいます。自分の日を呪った人は聖書でもう一人いますね、ヨブです。彼の葛藤もとてつもなく激しいものでした。

 これは信仰の戦いなのです。主にあって賛美しても、もし主から少し目を離したら、一気に急降下するほど、一瞬、一瞬、主が必要だ、という状態です。主に叫ばなければ、今すぐにでも自分がだめになってしまう、自分がいなくなってしまう、という切迫感です。

 皆さんが、何かと戦っている時、このことを経験されると思います。エレミヤのように人からのそしりを受けた時はそうでしょう。また、相手がかたくなに主の御言葉を拒んでいるとき、また主の道に聞き従わないのを知ったとき、気が狂うような苦しみを経験します。また、自分の個人の中にしまっている罪の問題もあるかもしれません。

 クリスチャン生活は、順風満帆ではないのです。このような繊細な感情の起伏があっておかしくないのです。いや、このような繊細な感情までを主に知っていただくことが必要なのです。当たって砕けるというような、主に体当たりする姿勢が必要なのです。パウロも、ダビデも、同じ葛藤と感情の起伏を経験しました。だから彼らは、主に触れられた偉大な神の人々になりました。世の基準からは、あまりにも不足しているでしょう。かたぶつ、気違い、バランスが崩れていると思われるかもしれません。けれども、どちらによく思われたいですか?主ですか、それとも人からですか?


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME