エレミヤ書50−51章 「バビロンの滅亡」

アウトライン

1A 捕らえられるバビロン 50
   1B ベルの辱め 1−10
   2B 相続地の略奪 11−20
   3B 主への争い 21−28
   4B 主への高ぶり 29−40
   5B 蒔いた物の刈り取り 41−46
2A 逃げるイスラエル 51
   1B 奮い立つ破壊の霊 1−10
   2B 主の復讐 11−26
   3B イスラエルの訴え 27−44
   4B 刻んだ像への罰 45−58
   5B 川に沈む巻物 59−64

本文

 エレミヤ書50章を開いてください、今日は50章と51章を読みたいと思います。とうとうエレミヤ書も最終になってきました。ここでのメッセージ題は、「バビロンの滅亡」です。

 私たちはこれまで、ユダとエルサレムに対する神の裁きの預言、そしてその周囲にある国々に対する預言を読んでいきました。その裁きの背景にあるのは、すべて「バビロン」であったことを思い出してください。バビロンの王ネブカデネザルは何度か「わたしのしもべ」と呼ばれるほど、神の裁きの器となっていました。それぞれの国が、特にユダとエルサレムが、神からの懲らしめとしてバビロンによる破壊を経験するのです。

 そして今度は、裁きの器であったバビロン自身が神によって裁かれる預言を読みます。エレミヤ書25章を開いてください。15節から読みます。
 

まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである。」そこで、私は主の御手からその杯を取り、主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。エルサレムとユダの町々とその王たち、つかさたちに。・・彼らを今日のように廃墟とし、恐怖とし、あざけりとし、のろいとするためであった。・・

  まず神はすべての国々に対して裁きの杯を飲ませると言われています。初めに来るのが、エルサレムのユダです。彼らは神の民であり、神からの啓示をもっとも多く受けている者たちであり、それだけ責任があるのです。ですから初めに、裁きの対象となります。
 

エジプトの王パロと、その家来たち、つかさたち、すべての民に、

 覚えていますね、バビロンに対抗する国々の中で最も大きな国がエジプトです。ユダや諸国の民を反抗するのを手助けしました。だから彼らが二番目に裁きの対象となります。
 

すべての混血の民、ウツの地のすべての王たち、ペリシテ人の地のすべての王たち・・アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者・・に、エドム、モアブ、アモン人に、ツロのすべての王たち、シドンのすべての王たち、海のかなたにある島の王たちに、デダン、テマ、ブズ、こめかみを刈り上げているすべての者に、アラビヤのすべての王たち、荒野に住む混血の民のすべての王たちに、ジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディヤのすべての王たちに、

 これらの国々を私たちは、先週読んでいきました。ユダとエルサレムだけでなく、彼らもバビロンによって滅ぼされたのです。
 

北国のすべての王たち、近い者も遠い者もひとりひとりに、地上のすべての王国に飲ませ、彼らのあとでバビロンの王が飲む。(以上15-26節)

 分かりますか、最後にバビロンが飲むのです。バビロンがこれらの国々を滅ぼして、神がそれを用いられたのですが、それは彼らが裁きから免れるということは意味しませんでした。むしろその逆で、彼らが行なっていたことは、他の国々が行なっていることよりももっと神に対して高慢で、もっと反抗的で、神にとっては許しがたいものだったのです。

 ここが神の主権、神のご計画、神の御旨における不思議な部分です。神は、人の悪をも用いてご自分の御心を行なわれます。けれども、その悪を行なっている者たちが神のために用いられているから彼らを正当化できないのです。彼らはその悪に対する報いを受けるのです。だから、それぞれが神に対して申し開きしなければならず、他の国々と自分を比較することはできません。

 パウロがローマ人への手紙11章でこう言いました。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。(33-35節)」私たちの理解をはるかに超えた所に、神の御心とご計画があります。

1A 捕らえられるバビロン 50
1B ベルの辱め 1−10
50:1 主が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。50:2 「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。『バビロンは捕えられた。ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた。』

 「ベル」はバビロンの主神です。ベルは「主(あるじ)」という意味ですがマルドゥクとも呼ばれます。これまで私たちは、周囲の国々が滅ぼされる時、その神々が無力であり、何の役にも立たない姿を見てきました。それは、当時は国と国が戦うのは、その国を代表する神と神の戦いだと考えられていたからです。今度は、バビロンの神ベル、そしてもう一つの神メロダクが砕かれたわけです。

50:3 なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。

 この「」はメディヤのことです。今のイラクの北部、今はクルド人が住んでいますが、そこがメディヤでした。メディヤとペルシヤが連合してバビロンを攻めたのが紀元前539年です。ペルシヤのクロスがバビロンの町を陥落させました。

 けれどもこれから読んでいく預言は、単にそのことだけを語っているのではないことに気づきます。バビロンがことごとく滅びる、永遠の廃墟となることが預言されていますが、クロスがバビロンを倒した時、その住民の半分はバビロンが倒れたことをさえ気づかない状態でした。それだけ速やかに、多くの血を流すことなく戦いが終わったのです。そしてペルシヤの王はその宮殿を使い続けました。ギリシヤの時代になった時、アレキサンダーが今度はここを使いました。そして、そうこうしているうちに、その宮殿は廃れ、ローマの時代には完全な廃墟となりました。

 だから、これから読む預言は、単に紀元前539年の出来事を描いているだけでなく、その後に起こることも含み、さらには終わりの日に起こることを予告しています。思い出せますか、黙示録17章と18章に王たちと淫行を働く淫婦、大バビロンが出てきますね。それが倒壊する姿を私たちはそこで読みますが、この出来事をも予め表しているのです。

50:4 その日、その時、・・主の御告げ。・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主を、尋ね求める。50:5 彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主に連なろう。』と言う。

 すばらしいですね、イスラエルの贖いです。回復です。エレミヤ書30章から33章にまで書いてあった、新しい契約によるイスラエルの霊的救いであります。

50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。

 イスラエルの民を導くべき王たちが自分勝手なことを行なったことによって、彼らは散らされてしまいました。

50:7 彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したためだ。』と言った。

 これはバビロンが発した言葉です。バビロンがエルサレムを破壊してのち、侍従長がエレミヤに、「あなたの神、主は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、主はこれを下し、語られたとおりに行なわれた。あなたがたが主に罪を犯して、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。(エレミヤ40:2-3」と言いました。エレミヤの預言が、かなりバビロンにも伝わっていたのです。

 けれども彼らは、私が始めに説明した、測り知りえない神のご計画について理解を持っていませんでした。「自分たちが裁きの器なのだから、神に用いられているのだから、私には罪はない。」と自分を正当化しているのです。

 実は、これが実際に歴史の中で起こりました。紀元70年、ローマがエルサレムを破壊し、ユダヤ人が世界離散の民になりその地で迫害を受けましたが、キリスト教徒を始めとする迫害者らは、「彼らはキリストを拒んだ呪いの民だ。」という理由で彼らを苦しめたのです。

 ダビデのことを思い出してください。彼が自分を殺そうとしているサウルが、自分たちが隠れている穴に入って、そこで寝ていた時、部下は、「今こそ、神があなたの敵をあなたの手に渡されたのです。」と言いました。けれどもダビデは、「手を下すなど、主の前に絶対できないことだ。主に油注がれた方だから。(1サムエル24:6」ダビデは、いとも簡単に殺すことのできるサウルに手を下しませんでした。それは主が行なわれることだ、という強い確信がありました。そして彼はサウルを「油注がれた方」だと言いました。主がサウルと特別な関係を持っておられるのだから、その間に私が手を伸ばしては決していけない、という強い戒めだったのです。

 このことを知らずに、平気でユダヤ人に敵愾心を抱かせるような言動をする人たちがいます。昔だけでなく今も、キリスト教会の中で「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもよい。(マタイ27:25」という言葉を持って、ユダヤ人が受けている圧迫を正当化する人たちがいます。彼らはたとい悪いことをしていても、神の選びの民なのです。主は、「あなたがた(ユダヤ人)に触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。(ゼカリヤ2:8」と言われました。赤の他人の子が悪さをしていて、自分の子に対するようにお尻を叩いたりするでしょうか?大変なことになりますね、ユダヤ人を苦しめるのも同じです。

50:8 バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。群れの先頭に立つやぎのようになれ。

 イスラエルに対する命令です。これからバビロンが攻められるからです。

50:9 見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる。彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取る。彼らの矢は、練達の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない。50:10 カルデヤは略奪され、これを略奪する者はみな満ち足りる。・・主の御告げ。・・

 メディヤとペルシヤのことです。

2B 相続地の略奪 11−20
50:11 わたしの相続地を略奪する者たち。あなたがたは楽しみ、こおどりして喜び、穀物を打つ雌の子牛のようにはしゃぎ、荒馬のようにいなないても、50:12 あなたがたの母はいたく恥を見、あなたがたを産んだ者ははずかしめを受けた。見よ。彼女は国々のうちの最後の者、荒野となり、砂漠と荒れた地となる。

 バビロンは神の民に手を出しただけではなく、神の土地にも手を出しました。実際はユダヤ人たちの土地ですが、これを神は「わたしの相続地」と呼ばれています。主はかつてモーセを通して、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。(レビ25:23」と言われました。主がユダヤ人に与えられたのであり、究極的には主ご自身の土地なのです。

 これを楽しみ、こおどりして踏み荒らしているうちに、肝心の自分たちの元々の地、自分たちの故郷が荒廃します。私たちは、自分ではないものを貪ると、自分のものまでが奪い取られる、失われるという原則をここで見ることができます。

50:13 主の怒りによって、そこに住む者はなく、ことごとく廃墟と化する。バビロンのあたりを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。50:14 すべて弓を張る者よ。バビロンの回りに陣ぞなえをし、これを射よ。矢を惜しむな。彼女は主に罪を犯したのだから。

 50章で、バビロンが主に対して行なったことが書かれています。後で「主に争いをしかけたからだ(50:24」という言葉が出てきます。そして「主に向かい、・・・高ぶったからだ(50:29」がでてきます。そしてここでは、「主に罪を犯した」と出ています。

 私たちは罪を犯すのは、主に対してであることを知っているでしょうか?人に対して行なったことについては非常に悪い思いになりますが、目に見えない神に対して行なったこととしてそれを悲しんでいるでしょうか。ダビデは、ベテ・シェバと姦淫の罪を犯し、夫ウリヤに対して殺人の罪を犯しました。しかし彼は、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。(詩篇51:4」主に対して罪を犯した、このことに敏感になりましょう。

50:15 その回りに、ときの声をあげよ。彼女は降伏した。その柱は倒れ、その城壁はこわれた。これこそ主の復讐だ。彼女に復讐せよ。彼女がしたとおりに、これにせよ。50:16 種を蒔く者や、刈り入れの時にかまを取る者を、バビロンから切り取れ。しいたげる者の剣を避けて、人はおのおの自分の民に帰り、自分の国へ逃げて行く。」

 イスラエルの地を彼らは荒らしたわけですが、今彼ら自身の地が荒らされています。主の復讐です。自分が行なったことを、そのまま自分の身に被っているのです。バビロンの地域は、ユーフラテス川など水が肥沃で農業が発達しましたが、その農耕者が切り取られます。バビロンが、イスラエルの土地で種まきや収穫をしている人々を切り取ったからです。

50:17 イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。50:18 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。

 今ここで、北イスラエルを含めて主はお語りになっています。紀元前722年にアッシリヤが北イスラエルを捕囚の民としました。アッシリヤは滅びましたが、今度はバビロンが滅びます。

50:19 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。

 カルメルとバシャンは北イスラエルの地域です。カルメルは、やや北部のイズレエルへ平原の西部に位置し、バシャンは今のゴラン高原です。そしてエフライムは北イスラエルの中心部であり、ギルアデはヨルダン川東岸の南北の地域です。かつてガド族が住んでいました。

 これらの土地が回復します。バビロンはかつてアッシリヤが支配していた地も支配していましたから、バビロンが滅んだあとに、ユダの民だけでなく北イスラエルの民も解放されました。だからこれはその時の話でもありますが、それ以上に、終わりの日にイスラエルの地が回復する時に与えられるものです。

50:20 その日、その時、・・主の御告げ。・・イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」

 すばらしいですね、「見つけようとしても、それはない」というぐらい、罪の赦しは完全なものです。聖書の中で主が罪を赦される時、それは「雪よりも白い」「東が西から遠く離れている(詩篇103:12」「海の深みに投げ入れる(ミカ7:19」このように、完璧なものです。私たちは、だから思い出して、まだ罪が赦されていないかのように歩んではいけません。心いっぱいに罪の赦しを受け入れて、その恵みに感謝し、涙し、喜び、賛美しましょう!

3B 主への争い 21−28
50:21 「メラタイムの地、ペコデの住民のところに攻め上れ。彼らを追って、殺し、彼らを聖絶せよ。・・主の御告げ。・・すべて、わたしがあなたに命じたとおりに、行なえ。」

 「メラタイム」というのはバビロン南部の町です。「ペコデ」はそこに住むアラム系の住民ですが、ここで大事なのはそのヘブル語の意味です。メラタイムは「二重の反逆」ペコデは「罰」です。つまり、バビロンの反逆に対し神が罰を下される、ということです。

50:22 「国中には戦いの声、大いなる破滅。50:23 万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。50:24 バビロンよ。わたしがおまえにわなをかけ、おまえは捕えられた。おまえはそれを知らなかった。おまえは見つけられてつかまえられた。おまえが主に争いをしかけたからだ。

 大事な問いかけです。あらゆる国を打った鉄槌のような国だったのに、どうして砕かれたのであろうか?神を信じない人々は、いろいろな説明を試みます。軍事的な作戦の誤り、政治的・経済的な状況など、周辺的なことはいろいろ解説し、分析するでしょう。けれども、理由は単純なのです。「主に対して争いをしかけた」からです。

 先ほどの「主に罪を犯した」と同じ問題であります。私たち人間は自分がまさか主に争いをしかけていると思いません。けれども自分が罪を犯しているというのは、神を敵としているのです。世とその欲を愛しているのは、神に反抗しているに他なりません。

 だから私たちが頼りにしていたものがなくなった時、バビロンのように自分が誇っていたものが取り除かれた時、「いったい、なんでこんなことをになってしまったのだろう。」と嘆くのではなく、自分を支配しておられる神を自分は果たして認めていたのだろうか?と反省する必要があります。

 主に反抗するのは苦しいことです。降参すれば、明け渡せば平安が与えられます。主はすぐに私たちと和解してくださいます。すでにキリストにあって和解してくださったのですから(2コリント5:20)。

50:25 主はその倉を開いて、その憤りの武器を持ち出された。それは、カルデヤ人の国で、万軍の神、主の、される仕事があるからだ。50:26 四方からそこに攻め入れ。その穀物倉を開け。これを麦束のように積み上げ、これを聖絶して、何一つ残すな。50:27 その雄牛をみな滅ぼせ。ほふり場に下らせよ。ああ。哀れな彼ら。彼らの日、その刑罰の時が来たからだ。」

 紀元前539年にバビロンは倒れたのですが、クロスは非常に寛大な政策を、被支配民に対して行いました。バビロンに対しても同じです。けれども、王族の中から反抗する者が現れます。そこで当時の王ダリヨスがその反乱を鎮圧しますが、その時はバビロンの残党を容赦なく殺していきました。

50:28 聞け。バビロンの国からのがれて来た者が、シオンで、私たちの神、主の、復讐のこと、その宮の復讐のことを告げ知らせている。

 バビロンからエルサレムに帰還した人たちが、かつてこの神殿を破壊した人たちが、その破壊した業のゆえに、彼らが神に裁かれたことを告げます。

4B 主への高ぶり 29−40
50:29 射手を呼び集めてバビロンを攻め、弓を張る者はみな、これを囲んで陣を敷き、ひとりものがすな。そのしわざに応じてこれに報い、これがしたとおりに、これにせよ。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。

 「主に対して高ぶった」とあります。つまり、主に対して罪を犯し、次に主に争いをしかけ、そして高ぶっています。

50:30 「それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士もみな、断ち滅ぼされる。・・主の御告げ。・・50:31 高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める。・・万軍の神、主の御告げ。・・あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ。50:32 そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない。わたしは、その町に火をつける。火はそのまわりのものをすべて焼き尽くす。」

 ここでも「高ぶり」が繰り返されていますね。思い出してください、ネブカデネザルが見た夢についてダニエルが解き明かしをしました。大きな木があって、そこに鳥などが憩っていたけれども、天からの聖なる者がそれを切り倒し、根株だけが残った。これがネブカデネザル本人を表していました。

 それから一年後、彼はこう言いました。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。(ダニエル4:30」この「私が」「私の」というのが、高ぶりの表れです。主が行なってくださったことなのに、主に栄光を帰さない罪です。

 どうでしょうか、日本人の多くの人がこの罪を犯しています。「神は私には分からない。私は自分を信じて、自分で生きているから。」このような高慢が、バブルがはじける前まで日本人にはありました。そして経済不況の中に入り、その自信を失いましたが、いまだまことの神の存在と介在を認めません。

50:33 万軍の主はこう仰せられる。「イスラエルの民とユダの民は、共にしいたげられている。彼らをとりこにした者はみな、彼らを捕えて解放しようとはしない。」

 これも高ぶりの表れです。エジプトのパロが犯した過ちと同じですね。一連の災いを受けたにも関わらず、パロはイスラエルの民を行かせようとはしませんでした。「自分のもの、自分で得たものは絶対に手放さない」という執拗さです。私たちにも、元々は神のものなのにそれを自分のものとして手放さないものがないでしょうか?

50:34 彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。

 この「彼ら」は、バビロンに捕えられているユダヤ人たちのことです。

50:35 剣が、カルデヤ人にも、・・主の御告げ。・・バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。50:36 剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らはおののく。50:37 剣がその馬と車と、そこに住む混血の民にも下り、彼らは女のようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。

 バビロンが誇って、頼りにしていたものを主は取り上げていかれます。バビロンには賢者がおり、その知恵を誇っていましたが彼らが殺されます。そして剣や馬、また自分たちが征服した外国の民、財宝も彼らが頼っていたものです。

50:38 その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ。

 主は偶像に対して裁きを行なわれています。かつてエジプトに災いを下された時、その神々であったナイル川、かえる、牛、そして最後は王子を打たれました。

 そしてここの表現は、黙示録13章に出てくる獣の国と同じです。反キリストがエルサレムの神の宮の中に入り、自分こそが神であると宣言し、また自分の像を造りました。それを人々に拝ませ、拝まない者は殺されます。獣の刻印をひたいと右の手のひらに与えられていないものは、売ることも買うこともできないのです。偶像の神に狂っている状態です 

50:39 それゆえ、そこには荒野の獣が山犬とともに住み、だちょうがそこに住む。もう、いつまでも人は住まず、代々にわたって、住む人はない。50:40 神がソドムと、ゴモラと、その近隣を滅ぼされたように、・・主の御告げ。・・そこには人が住まず、そこには人の子が宿らない。

 バビロンはずっと、廃墟の町でありました。今もバビロンに行けば、基本的に古代バビロンの遺跡はありますが、他にありません。ところが最近の動きが変わっています。まず、かつての大統領フセインが作ったイシュタル門があります。そして今、イラクが民主化され、復興し、バビロンを観光客を呼び寄せるために、バビロンの町も再建しようという動きがあります。

 そうすると黙示録17章と18章の預言になるのです。終わりの日にバビロンの都があります。この形に近づいてきたと言えるのです。

5B 蒔いた物の刈り取り 41−46
50:41 見よ。一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が地の果て果てから奮い立つ。50:42 彼らは弓と投げ槍を堅く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。バビロンの娘よ。彼らは馬に乗り、ひとりのように陣ぞなえをして、あなたを攻める。50:43 バビロンの王は、彼らのうわさを聞いて気力を失い、産婦のような苦しみと苦痛に捕えられる。

 ここの表現はまさに、かつてバビロンがユダを攻める時に使われたものです。エレミヤ書623節に、こう書いてあります。「彼らは弓と投げ槍を堅く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。シオンの娘よ。彼らは馬にまたがり、ひとりのように陣備えをして、あなたを攻める。」だから、バビロンは自分が行なったことと同じ仕打ちを今、受けているのです。そして次も見てください。

50:44 「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。なぜなら、だれかわたしのような者があろうか。だれかわたしを呼びつける者があろうか。だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか。」50:45 それゆえ、バビロンに対してめぐらされた主のはかりごとと、カルデヤ人の国に対して立てられたご計画を聞け。必ず、群れの小さい者まで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場はそのことでおびえる。50:46 バビロンの捕えられる音で地は震え、その叫びが国々の間でも聞こえた。

 これは、私たちが前回読んだ、エドムに対する神の裁きとほとんど同じ表現です(49:1921)。少し違うのは、エドムの叫びが紅海にまで聞こえたとあるのですが、こちらは国々の間でも聞こえた、とあります。バビロンが滅びるほうがはるかに大きなスケールで起こっており、影響を受ける国々は数多いからです。

 つまり、「自分が行なったことを、そのまま刈り取っている」のです。これは、聖書の中で何度も出てくる原則です。士師記1章にカナン人の王が捕えられて、自分の手足の指を切り取られましたが、「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。(7節)」と言いました。同じことを受けるのです。

2A 逃げるイスラエル 51
1B 奮い立つ破壊の霊 1−10
51:1 主はこう仰せられる。「見よ。わたしはバビロンとその住民に対し、破壊する者の霊を奮い立たせ、51:2 他国人たちをバビロンに送る。彼らはこれを吹き散らし、その国を滅ぼす。彼らは、わざわいの日に、四方からこれを攻める。」

 「破壊する霊」とありますが、ヘブル語では「風」と訳すこともできます。それで2節には「吹き散らす」とあります。

51:3 射手には弓を張らせ、よろいを着けてこれを襲わせよ。そこの若い男を惜しむことなく、その全軍を聖絶せよ。51:4 刺し殺された者たちが、カルデヤ人の国に倒れ、突き刺された者たちが、そのちまたに倒れる。51:5 しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが。

 ここがバビロンとイスラエルの大きな違いです。バビロンは神の裁きを受けます。イスラエルも受けました。けれども、バビロンは神の契約の民ではありません。イスラエルは契約の民です。同じ神の裁きでも、ご自分の民に対するそれとご自分に属していない民に対するそれでは性質が全然異なるのです。

 パウロがこのことを明確に区別して語っています。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32」主による懲らしめと、罪に定められることは大きく違います。懲らしめは、罪に定められることではなく、むしろ罪に定められないように私たちを神に近づける目的を持っています。

 これが分からずに、多くの人が「自分は罪を犯したから、このように神を近くに感じることができないのだ。神は私から離れてしまわれたのだ。」と絶望し、神から離れてしまうのです。いいえ、どんなに大きな罪を犯しても、神はご自分の民をお見捨てになりません。

51:6 バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。

 バビロンを滅ぼすのは神の御心ですが、今度はそのバビロンから離れるのはイスラエルの義務です。イスラエルを贖うためにバビロンを滅ぼしてくださるのに、イスラエル自身がバビロンにとどまってしまうのであれば、共に絶ち滅ぼされてしまいます。

 つまり世から離れる備えを私たちもしなければならない、ということです。主は、この世を裁かれます。もし私たちが世に執着しているのであれば、私たちを救おうとされているのに、私たちのほうで滅びを選んでしまうことになります。ちょうど、ソドムの町をロトの家族が離れたのに、ロトの妻が振り向いたので塩の柱になってしまったのと同じです。

51:7 バビロンは主の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。

 これは黙示録17,18章にも出てくる表現です。バビロンによって便益を得ている国々が、その酔いによってすっかり騙されていました。「なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(18:23」私たちは世が提供するものによって騙されます。テレビの広告、ニュース、これらのものによって現実から目を引き離されます。この魔術から目覚める必要があります。

51:8 たちまち、バビロンは倒れて砕かれた。このために泣きわめけ。その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない。51:9 私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった。私たちはこれを見捨てて、おのおの自分の国へ帰ろう。バビロンへの罰は、天に達し、大空まで上ったからだ。

 だれがこの癒しを与えようとしたのでしょうか?バビロンに捕え移されたユダヤ人であると考えられます。特にダニエルと三人の友人は、バビロンに直接、天の神の証しを立てました。バビロンが癒されるために、神に立ち返るためにいろいろな働きかけをしました。ネブカデネザルは最終的に認めたのですが、孫のベルシャツァルは駄目でした。そのためバビロンは滅んだのです。

51:10 主は、私たちの正義の主張を明らかにされた。来たれ。私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。

 エルサレムに帰還したユダヤ人たちが、自分たちのために報いをしてくださったことを喜んで、言い伝えています。

2B 主の復讐 11−26
51:11 矢をとぎ、丸い小盾を取れ。主はメディヤ人の王たちの霊を奮い立たせられた。主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは主の復讐、その宮のための復讐である。

 主は、ユダヤ人に対して行なったこと、イスラエルの土地に対して行なったことだけでなく、神殿に対して行なったことに対しても復讐されます。彼らは神殿の中にある器具を、ことごとく持ち去りました。青銅の柱頭など取り付けられているものまでも、切り離して持っていってしまいました。先ほど「骨まで食らった(50:17」とありましたが、骨までしゃぶるようなことをしたのです。

51:12 バビロンの城壁に向かって旗を揚げよ。見張りを強くし、番兵を立てよ。伏兵を備えよ。主ははかりごとを立て、バビロンの住民について語られたことを実行されたからだ。51:13 大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。

 ここの「大水」は、バビロンの町にユーフラテス川が流れていたり、またその他の多くの川がバビロン一体に流れていることを形容しているものです。黙示録17章では、これらはもろもろの国、民族、国語であるとあります(15節)。

51:14 万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」51:15 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。51:16 主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。

 神は今、ご自分と偶像とを比べられます。まずご自分のことを話すのに、天から雨が降ってくる時、その過程にすべてご自分が介在されていることを話しておられます。私は中学校の理科の授業で、どのように水が循環しているか勉強しましたが、皆さんも覚えておられるでしょうか。海から水が蒸発して空に行き、そこで雲が形成され、そして雨が出来、それが陸に降って、川になり、川の水は海の中に入る、という循環です。これを行なっておられるのは神ご自身です 

51:17 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。51:18 それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。51:19 ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。

 そうですね、すばらしいですね。イスラエルの財産、分け前は主ご自身です。私たちの財産、分け前も、この天と地を造られ、日々の天候を支配しておられる神ご自身です。

51:20 「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたを使って国々を砕き、あなたを使って諸王国を滅ぼす。51:21 あなたを使って馬も騎手も砕き、あなたを使って戦車も御者も砕き、51:22 あなたを使って男も女も砕き、あなたを使って年寄りも幼い者も砕き、あなたを使って若い男も若い女も砕き、51:23 あなたを使って牧者も群れも砕き、あなたを使って農夫もくびきを負う牛も砕き、あなたを使って総督や長官たちも砕く。51:24 わたしはバビロンとカルデヤの全住民に、彼らがシオンで行なったすべての悪のために、あなたがたの目の前で報復する。・・主の御告げ。・・

 ここの「あなた」が誰なのか注解書を調べますと「ペルシヤのクロス」と出てきます。クロスがバビロンを倒したのが、ここに示されているということです。けれども、私はそれ以上の意味があると思います。ゼカリヤ書12章6節に、ユダを主が燃えるたいまつのようにし、国々を焼き尽くすとあります。ミカ書4章には、シオンを脱穀機のようにして、国々を打ち、粉々に砕くと主は言われています(13節)。ここのあなたは、ユダヤ人本人ではないのか?と思います 

 むろん、ユダヤ人たちがこれらのことを行なっているのではなく、彼らと共におられる主がこれらのことを行なってくださいます。自分たちが戦おうとする時、主がついていてくださるので、自分が戦うというよりも、むしろ主が彼らのために戦ってくださるのです。

 この考えが、キリスト者に対しても存在します。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20」とあります。もちろん踏み砕いてくださるのはきっリストです。けれどもその勝利を、主は私たちに与えてくださるのです。

51:25 全地を破壊する、破壊の山よ。見よ。わたしはおまえを攻める。・・主の御告げ。・・わたしはおまえに手を伸べ、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼け山とする。51:26 だれもおまえから石を取って、隅の石とする者はなく、礎の石とする者もない。おまえは永遠に荒れ果てる。・・主の御告げ。・・

 この山はもちろんバビロンの国を言い表しています。

3B イスラエルの訴え 27−44
51:27 この地に旗を掲げ、国々の中に角笛を鳴らせ。国々を整えてこれを攻めよ。アララテ、ミニ、アシュケナズの王国を召集してこれを攻めよ。ひとりの長を立ててこれを攻めよ。群がるばったのように、馬を上らせよ。

 アララテとミニは、アルメニアのところにいる人々で、アシュケナズは黒海の辺りにいる人々です。ペルシヤのクロスは彼らを攻めて、その地域を梃にしてバビロンを攻めに行きました。

51:28 国々を整えてこれを攻めよ。メディヤ人の王たち、その総督やすべての長官たち、その支配する全土の民を整えて、これを攻めよ。51:29 地は震え、もだえる。主はご計画をバビロンに成し遂げ、バビロンの国を住む者もない荒れ果てた地とされる。51:30 バビロンの勇士たちは戦いをやめて、とりでの中にすわり込み、彼らの力も干からびて、女のようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。51:31 飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。「都はくまなく取られ、51:32 渡し場も取られ、葦の舟も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っている。」

 メディヤとペルシヤの連合軍が町の中に入ってきて、兵士たちは怖じ気つき、そして王のところに飛脚が飛んで、町が破られたことを告げました。それにも関わらず、ダニエル書5章によるとベルテシャツァルは宴会を催していました。

51:33 イスラエルの神、万軍の主が、こう仰せられたからだ。「バビロンの娘は、踏まれるときの打ち場のようだ。もうしばらくで、刈り入れの時が来る。51:34 『バビロンの王ネブカデレザルは、私を食い尽くし、私をかき乱して、からの器にした。竜のように私をのみこみ、私のおいしい物で腹を満たし、私を洗い流した。』51:35 シオンに住む者は、『私と私の肉親になされた暴虐は、バビロンにふりかかれ。』と言え。エルサレムは、『私の血はカルデヤの住民に注がれよ。』と言え。」

 これはユダヤ人がバビロンにおいて受けた仕打ちと、その仕打ちに対する訴えです。そして次に主は、この訴えに答えられます。

51:36 それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する。わたしはその海を干上がらせ、その泉をからす。51:37 バビロンは石くれの山となり、ジャッカルの住みかとなり、恐怖、あざけりとなる。51:38 彼らは共に、若獅子のようにほえ、雄獅子のように叫ぶ。51:39 彼らがいらだっているとき、わたしは彼らに宴会を開き、彼らを酔わせて踊らせ、永遠の眠りについて、目ざめないようにする。・・主の御告げ。・・

 ベルシャツァルは、宴会を開いたままの状態でペルシヤとメディヤに捕らえられて、そして殺されました。酔ったままで死んでいったのです。なんと哀れなことでしょうか!

51:40 わたしは彼らを、子羊のように、また雄羊か雄やぎのように、ほふり場に下らせる。51:41 ああ、バビロンは攻め取られ、全地の栄誉となっていた者は捕えられた。ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。

 バビロンに頼って生きてきた国々は、バビロンが滅んでしまって恐れています。黙示録18章でも、バビロンから多くの富を得ていた国々の王や商人たちが、その崩壊を見て嘆き悲しんでいる姿を読みます。

51:42 海がバビロンの上にのしかかり、その波のざわめきにそれはおおわれた。51:43 その町々は荒れ果て、地は砂漠と荒れた地となり、だれも住まず、人の子が通りもしない地となる。51:44 わたしはバビロンでベルを罰し、のみこんだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。ああ、バビロンの城壁は倒れてしまった。

 「のみこんだ物」とは捕囚の民です。捕囚の民がバビロンから出て行き、故郷に戻るのです。

4B 刻んだ像への罰 45−58
51:45 わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。51:46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。

 ペルシヤの初代王クロスは、ユダヤ人にエルサレム帰還の布告を発令しました。それで戻ったユダヤ人は五千人程度であり、多くがバビロンの地域にとどまったのです。なぜなら、彼らはその地に定着して、商売もうまくいき、安定した生活を送っていたからです。

 けれども、そこはユダヤ人にとって不安定な地となりました。エステル記を思い出してください。ユダヤ人を憎むハマンによって、ユダヤ人全員が虐殺される危機に陥ったのです。そして先に説明しましたように、バビロンの残党による反逆もありました。そしてペルシヤの後はギリシヤが来ます。ですから、そこに長くとどまってはいけないという戒めを主はここで与えておられます。

 私たちは、自分がどこにいるかを吟味しなければいけません。主から、「このことを行いなさい。どこそこへ行きなさい。」という命令を受けているのに、今の自分の生活が安定しているので出たくないと思います。けれども、主の呼びかけに応えなければ、その安定した生活もどんどんぐらつくのです。

51:47 それゆえ、見よ、その日が来る。その日、わたしは、バビロンの刻んだ像を罰する。この国全土は恥を見、その刺し殺された者はみな、そこに倒れる。51:48 天と地とその中のすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ。・・主の御告げ。・・

 地にいる人々だけでなく、天にいる人々もバビロンのことで喜び歌います。覚えていますか、黙示録18章と19章にて、天においてバビロンが倒れたことを大喜びする、天の住民の姿が描かれています。神の民を苦しめ、血を流させたバビロンが崩れたからです。

51:49 バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように。51:50 剣からのがれた者よ。行け。立ち止まるな。遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。51:51 『私たちは、そしりを聞いて、はずかしめを受けた。他国人が主の宮の聖所にはいったので、侮辱が私たちの顔をおおった。』」

 バビロンを離れた人々が、エルサレムを思い浮かべながら帰っていきます。そこは外国人によって荒らされました。その悲しみと嘆きをもって戻っていきます。

51:52 「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、その刻んだ像を罰する。刺された者がその全土でうめく。51:53 たといバビロンが天に上っても、たとい、そのとりでを高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちが、ここに来る。・・主の御告げ。・・」51:54 聞け。バビロンからの叫び、カルデヤ人の地からの大いなる破滅の響きを。51:55 主がバビロンを荒らして、そこから大いなる声を絶やされるからだ。その波は大水のように鳴りとどろき、その声は鳴りどよめく。51:56 荒らす者がバビロンを攻めに来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られる。主は報復の神で、必ず報復されるからだ。 

 何度も何度も、主はご自分が報復されることを仰っておられます。私たちも、主は報復される神であることを心に刻み込まなければいけません。テサロニケ人の手紙第二1章には、苦しみを与える者に苦しみで報いる神の姿が描かれています。そして主イエスが再臨される時、「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。(2テサロニケ1:8」だから、自分の怒り、自分の叫びはすべて主にお任せするのです。自分がキリストのゆえに受けたあらゆる苦しみは、主がすべて見ておられ、感じておられます。

51:57 「わたしは、その首長たちや、知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせる。彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。・・その名を万軍の主という王の御告げ。・・」51:58 万軍の主はこう仰せられる。「バビロンの広い城壁は、全くくつがえされ、その高い門も火で焼かれる。国々の民はむなしく労し、諸国の民は、ただ火に焼かれるために疲れ果てる。」

 バビロンは、その荘厳な町を造る時に、国々の民を奴隷として酷使し造りました。それが無駄になってしまうことをここでは話しています。

5B 川に沈む巻物 59−64
 これでエレミヤのバビロンに対する預言が終わりました。次にエレミヤは、この巻き物をある人に託します。

51:59 マフセヤの子ネリヤの子セラヤが、ユダの王ゼデキヤとともに、その治世の第四年に、バビロンへ行くとき、預言者エレミヤがセラヤに命じたことば。そのとき、セラヤは宿営の長であった。

 このバビロンへの預言は、まだゼデキヤが王になって4年経った後のことでした。まだエルサレムの町は破壊されていません。

 そして王ゼデキヤとその側近セラヤがバビロンに行くとありますが、属国の王として参上しなければいけなかったのでしょう。もしかしたら、ダニエル書3章にある、高い金の像に向かってひれ伏す儀式に参加した時のことかもしれません。

 そして興味深いことに、セラヤはネリヤの子であることです。バルクがネリヤの子なので、セラヤはバルクの兄弟になります。

51:60 エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。51:61 エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンにはいったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、51:62 『主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました。』と言い、51:63 この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、51:64 『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる。』と言いなさい。」ここまでが、エレミヤのことばである 

 これまでもエレミヤは、実演によっていろいろな預言を行ないました。例えば、木のかせを自分の首につけたりしました。これで、人々の心に預言の言葉が鮮明に焼きつくようにしたのです。

 バビロンはもう浮かんできません。自分を奴隷へと陥れるものはもはやなくなりました。二度と立ち上がることはできません。すばらしいですね、私たちも二度と罪の奴隷へと引き戻されることはないように神はしてくださいました(ローマ8:15)。

 そしてここで最後に、「彼らは疲れ果てる」とあります。この世での働きは人を疲れさせます。けれども、イエス様は私たちに休みを与えてくださいます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28

 私たちがこの世界を見る時、バビロンと同じように、多くの人々を奴隷状態にして苦しめているものを見ます。専制国家のようなものもありますし、そして人々を罪の奴隷に追いやっている商業主義もあります。人々を偶像礼拝の奴隷にしている異教のならわしもあります。けれども、主は必ず復讐されます。それらが行なったことに応じて必ず報いを与えられます。すべてものもが、神の前で申し開きしなければならないのです。だれも、神の監視から免れることはできないのです。そして神様は必ず、ご自分の国をこの地上に建ててくださるのです!