ヨブ記12−15章 「罵倒の開始」


アウトライン

1A 神への語りかけ 12−14
   1B 神にある知恵 12
      1C 現実の世界 1−12
      2C 知者の儚さ 13−25
   2B 神との議論 13
      1C 偽りの論者 1−19
      2C 神からのおびえ 20−28
   3B 人の死 14
      1C 人の命のはかなさ 1−12
      2C 隠蔽への祈り 13−22
2A 経験への依存 15
   1B 憤慨 1−16
   2B 痛罵 17−35

本文

 ヨブ記12章を開いてください、今日は15章まで学んでみたいと思います。ここでのメッセージ題は「罵倒の開始」です。私たちは、特にインターネットの掲示板などで、議論の応酬の場面を見たりしますが、その問題はいにしえの昔からあった問題でした。それでは本文を読みましょう。

1A 神への語りかけ 12−14
1B 神にある知恵 12
1C 現実の世界 1−12
12:1 そこでヨブが答えて言った。12:2 確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。12:3 私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。

 ものすごく辛辣な言葉をヨブは、ツォファルに浴びせています。前回の学びを思い出してください、ツォファルはヨブが知恵を持っていないことを責めました。「無知な人間」と呼んでいます。それに対するヨブの言葉は、「あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ」です。あなたは自分が賢いと思って知恵をひけらしたが、そんな知識は人間だれでも持っている常識だ、ということです。

12:4 私は、神を呼び、神が答えてくださった者であるのに、私は自分の友の物笑いとなっている。潔白で正しい者が物笑いとなっている。

 そしてヨブは、友人三人の、特に最後のツォファルの責め文句に耐え切れなくなって、彼らへの失望を言い表わしています。

12:5 安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。

 友人たちが自分を責めていることをこう言い表しています。安らかにしている者は、衰えている者、足のよろめく者に同情することなく、むしろさげすんだり、押し倒したりする過ちを犯します。

12:6 荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自分の手でそうさせる者は。

 友人らの、悪者は必ず不幸な目に遭っているという図式は現実の世界では当てはまりません。荒らす者の家が栄えていることがよくあります。神を怒らせている者が安らかであることがよくあります。

 詩篇の73篇を思い出してください。神殿で賛美をリードするアサフは、悪者が栄えるのを見てがっかりしています。悪者が安らかで富を増しているのを見ましたが、彼が聖所に入ったとき、賛美をもって神の臨在に入ったときに、悪者たちの最後を悟ったと言いました。彼らがまたたくまに滅ぼされることを知りました。

 ですからヨブが言っているように、現実は悪者が栄えているのです。終わりの時には公平なさばきをみな受けますが、それまでは単純に義人が栄え、悪者が廃れるという単純が公式ではない、ということをヨブは話しています。

12:7 しかし、獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。12:8 あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。12:9 これらすべてのもののうち、主の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。

 ツォファルは神についてすべての知識があるかのように自負していましたが、ヨブは自然界を見なさいと問い質しています。悪者が滅び、義人が栄えるという図式は自然界の中ですら成り立ちません。弱肉強食の世界です。もちろんイエス様が再び戻って来られて立てられる神の国では、狼と子羊がともに住みます。ライオンも草を食べます。けれども、強い者勝ちの世界は動物界でも人間の間でもそうだ、とヨブは言っているのです。

12:10 すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。

 さきほどからヨブは、悪者が栄えることも、そして弱肉強食の自然界も、神の主権の中で起こっていると言っています。そしてここでは、動物と人間の息はその御手の中にあると言っています。覚えていますが、バビロンの最後の王ベルシャツァルがイスラエルからネブカデネザルが持ってきた神殿の器をつかった、偶像の神々を賛美しましたが、ダニエルは彼に、「あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。(ダニエル5:23」と言いました。

12:11 口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。

 友人たちが聞く耳を持っているのか?という問いかけです。

12:12 老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。

 これは、ヨブと友人たち、とくにエリファズとの間で起こっている議論です。エリファズは、自分たちが観察したことに基づいて言うが、と断って、人が蒔いたものを刈り取る話をしました。自分たちはあなたより年上で経験が豊富だから、私たちの言っていることを聞きなさいという態度を持っていました。そこで、老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか、と問い質しているのです。このことに対する反論を次にヨブは行ないます。

2C 知者の儚さ 13−25
12:13 知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。

 そうです知恵と力、思慮と英知はすべて神のものです。このことは前に話しましたね、コロサイ書2章にてパウロは、人間の哲学にだまされることなく、キリストのうちに根ざし、成長し、建て上げられなさいと勧めました。なぜなら、キリストのうちにすべての知識と知恵の宝が隠されているからだ、と言いました。経験も大切です。しかし、経験はいつも正しいとは限りません。むしろ人を誤りに導くことも多いのです。だから、私たちは経験以上に、神は、みことばによってどうおっしゃっておられるのかを聞かなければいけないのです。

12:14 見よ。神が打ちこわすと、それは二度と建て直せない。人を閉じ込めると、それはあけられない。12:15 見よ。神が水を引き止めると、それはかれ、水を送ると、地をくつがえす。12:16 力とすぐれた知性とは神とともにあり、あやまって罪を犯す者も、迷わす者も、神のものだ。

 自然の災害が人を襲うように、神は人間に対して、知性の面においても主権を持っておられる、ということです。

12:17 神は議官たちをはだしで連れて行き、さばきつかさたちを愚かにし、12:18 王たちの帯を解き、その腰に腰布を巻きつけ、12:19 祭司たちをはだしで連れて行き、勢力ある者を滅ぼす。12:20 神は信頼されている者の弁舌を取り除き、長老たちの分別を取り去り、12:21 君主たちをさげすみ、力ある者たちの腰帯を解き、12:22 やみの中から秘密をあらわし、暗黒を光に引き出す。

 いろいろな面において知恵や知性を持っていると言われている人たちの知恵を神はなきものにされます。覚えていますか、パウロは知恵と知識を誇っていたコリント人たちに対して、こう言いました。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1:27-28

12:23 神は国々を富ませ、また、これを滅ぼし、国々を広げ、また、これを連れ去り、12:24 この国の民のかしらたちの悟りを取り除き、彼らを道のない荒地にさまよわせる。12:25 彼らは光のない所、やみに手さぐりする。神は彼らを酔いどれのように、よろけさせる。

 これは、これまでの歴史の中で起こってきたことです。国のエリートらのアドバイスを受けて、最高のインテリジェンスを持っていながら、どうすることもできなくなることはたくさんありました。だから、友人らが持っている知恵というものも、このようなものだとヨブは訴えているのです。

2B 神との議論 13
1C 偽りの論者 1−19
13:1 見よ。私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。13:2 あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。13:3 だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。

 ヨブは、自分の目を友人たちから神へと向けようとしています。これまでもそうでしたね、友人に対する応答をした後に、彼は神に向きました。自分の身に起こっている悲惨について、そして人間の根源について、命について神に話してみたいと願っているのです。

 このように、私たちは神との時間を増やすべきでしょう。とても複雑な問題が出てきたとき、長いこと抱えている問題があるとき、私たちは人に助言を求めにいくのではなく、その苦悶を神への祈りに変えて言い表す必要があります。イスラエルがアッシリヤの脅威を受けているとき、エジプトへその同盟を求めに行ったとき、神はイザヤを通してこう言われました。「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。(イザヤ30:1」ここの「はかりごと」は英語ではcounselとなっており、カウンセリングと同じ意味になっています。けれども、人のカウンセリングではなく本質的には神に向かわないと解決できません。

 そしてヨブは、友人らの助言がいかに真実をともなっていないかを責め立てます。

13:4 しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。13:5 ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。

 何もしゃべらないほうが良いことがたくさんあります。けれども、しゃべることによって物事をさらに複雑にしてしまうことがあります。

13:6 さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。13:7 あなたがたは神の代わりに、なんと、不正を言うのか。神の代わりに、欺きを語るのか。13:8 神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。13:9 神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。13:10 もし、あなたがたが隠れて自分の顔を立てようとするなら、神は必ずあなたがたを責める。13:11 神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか。13:12 あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は粘土の盾だ。

 こうして彼らの言葉に真実がないことを責めて、次に彼は真剣勝負で神との議論に望みたい願いを言い表します。

13:13 黙れ。私にかかわり合うな。この私が話そう。何が私にふりかかってもかまわない。13:14 それゆえ、私は自分の肉を自分の歯にのせ、私のいのちを私の手に置こう。13:15 見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。13:16 神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。

 今、自分の身に起こっていることについて神と議論することによって、私の命が取られても構わない。それだけ切羽詰っているし、それだけ自分の命に対する疑問はたまっているのだ、ということです。

 ヨブの大胆な信仰のステップをここで見ることができます。神が殺しても、私は神を待ち望むと。主は取られ、与えられる、主の御名はほむべきかな、と言ったのと同じ、神の主権に対する彼の信頼です。

13:17 あなたがたは私の言い分をよく聞け。私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。13:18 今、私は訴えを並べたてる。私が義とされることを私は知っている。13:19 私と論争する者はいったいだれだ。もしあれば、そのとき、私は黙って息絶えよう。

 「私が義とされる」というのは、法廷における用語で、英語ではvindicateになっています。自分は無罪であるという真実が、あらゆる審理を経て明らかにされるという意味合いを含んでいます。彼が潔白で正しいことが、明らかにされるはずだと言っています。

2C 神からのおびえ 20−28
 このように友人には強く出たヨブですが、実は彼が神に申し立てたいことは、本当に弱々しい、神のあわれみを求めるような類のものでした。

13:20 ただ二つの事を私にしないでください。そうすれば、私は御顔を避けて隠れません。13:21 あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで私をおびえさせないでください。

 今、彼の肉体と心理の状態を言い表しています。肉体の状態は「あなたの手」として、心理状態は「あなたの恐ろしさ」です。この肉体の痛みと恐怖を私から取り除いてください、とお願いします。

13:22 呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。13:23 私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。

 次にヨブは、自分のうちに不義と罪があるのかを聞いています。友人たちはあれだけ責め立てました。その言葉が彼の心に、ぐさっと刺さっているのかもしれません。でも、何かあるなら知らせてくださいとお願いします。

13:24 なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。

 どうしてですか?と尋ねても答えがないので、こう言っています。

13:25 あなたは吹き散らされた木の葉をおどし、かわいたわらを追われるのですか。

 十分に痛みつけられているのに、さらにあなたは私を追い詰めるのですか、と言っています。

13:26 実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます。

 ここです、私たちが苦しむとき、試練に遭うとき、必ずこの思いがやって来ます。イスラエルとその周囲の地域に雨が降らなかったとき、エリヤは神によってツロに行きなさいと命じられました。そして、やもめとその息子に出会いました。もう何もなく空腹で死にそうになっていましたが、かめの粉はつきず、つぼの油はなくならない奇跡をその母親と息子は経験しました。ところが、息子が病気に死んでしまいました。そのとき彼女はエリヤにこう言いました。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。(1列王17:18」何か悪いことが起こると、私たちは「これは、私が過去に行なったなにか悪いことへの神のさばきだ」と思ってしまうのです。けれども、そうではありません、気をつけなければいけません。

13:27 あなたは私の足にかせをはめ、私の歩く小道をことごとく見張り、私の足跡にしるしをつけられます。

 歩くことさえ困難になっており、歩いたら吹き出物から出た液体が地面についているのでしょう。

13:28 そのような者は、腐った物のように朽ち、しみが食い尽くす着物のようになります。

 これが今のヨブの状態です。肉体的にも精神的にも、腐った着物ようになってしまっています。

3B 人の死 14
 そのような精神状態の中で彼は命について、再び考えさせられています。

1C 人の命のはかなさ 1−12
14:1 女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。14:2 花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。14:3 あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。14:4 だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。

 人間の命は心痛でいっぱいであり、その寿命は短いことを話しています。そのようなはかない存在なのに、神は私のことを調べられるのですか、と聞いています。

14:5 もし、彼の日数が限られ、その月の数もあなたが決めておられ、越えることのできない限界を、あなたが定めておられるなら、14:6 彼から目をそらして、かまわないでください。そうすれば、彼は日雇人のように自分の日を楽しむでしょう。

 そうですね、人間の命には期限が定められています。先に、人の息は神の御手の中にあるとヨブは言いましたが、その息は神が定められた時に取り去られます。私たちはみな、神の定められた、神のご目的にしたがった期間の中で生きているのです。神がまだ満ちていないと思われたら、たとえ病気でもずっと生きながらえます。神がもうこれで良いと思われたら、健常な体でも息を引き取ることがあります。

 ヨブは、その定められた期間ぐらい、楽しませてくださいと神にお願いします。

14:7 木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。14:8 たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、14:9 水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。14:10 しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。

 ヨブは今、人が回生しないことについて話しています。これは自然の法則だけ見たらその通りです。木は再び息を吹き返します。しかし人間は死んでその体から生命が出てくることはありません。

14:11 水は海から消え去り、川は干上がり、かれる。14:12 人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。

 川が干上がるように、人間は一度死んだらそのまま起きてこない、と言っています。

2C 隠蔽への祈り 13−22
 しかしそうなのでしょうか?私たちは、前回、ヨブが神に対して根本的な問題を突きつけたところを読みました。たとえ自分の身をきよめても、無限大の神と有限の人間との間には大きな隔たりがあるという問いでした。だから仲裁者が必要がいないものかと願いました。ヨブは、この苦しみの中で人間が必ず問わなければいけない問いを、神に対して行なっているのです。

 ここでも同じです。苦しみの中にいてヨブは、人間が死んだらそのままではないか、という現実を見ています。しかし、もしこんな解決があったら・・・という可能性について話します。もし植物のように、死んでもまた命を吹き返すようなことはないのか?と思うのです。次を読んでみましょう。

14:13 ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。14:14 人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。

 自分が死んだら陰府に下るけれども、そうして生き返ることはないですか?もし生き返るのであれば、私はその自分の体が変えられた代わりの者が来るまで、苦役を耐え忍ぶことができます、と言っています。これこそ、復活の希望です。

 ヨブ記を読むと、ヨブの叫びの中に、ヨブの人の命についての根本的な問いの中にキリストへの叫びを読みます。神と人との仲介者を叫んだとき、それはキリストによって解決されます。そしてここでも復活の願いを言い表しているとき、キリストを求めているのです。

 コリント人への手紙第一15章を開いてください。死者の復活などないと言っている者たちがコリントの教会に入り込んで来たことに対して、パウロはキリストは事実よみがえられたことを論じました。そして20節でこう言っています。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15:20」キリストがよみがえられたのだから、キリストのうちにある者もキリストがよみがえられたようによみがえる、ということです。

 そしてヨブは木が再び息吹くことを話しましたが、パウロはこの章において、種を蒔いたら芽が出てくることを引用してこう言っています。「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。(38節)」そしてパウロははっきりと、私たちが復活する様子を51節から述べています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(51-53節)

 こうしてヨブは苦しみの中にいて、死ぬだけでしかない自分にもし希望が与えられるとしたらということで、復活の望みを言い表しました。私たちを支える希望も復活です。この世に生きているときには、そのありがたさが分からなくなることが多いかもしれません。けれども、ヨブのようにこの世にあるものをすべて剥ぎ取られたとき、私たちも同じ問いをするのです。

14:15 あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。14:16 今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、14:17 私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。

 ヨブの思いは、信仰による発言から落ち込んでしまっている発言、また友人たちからの言葉によって心が傷ついてしまっているところから出てくる発言の間で揺れ動いています。ここでは、自分の罪を調べておられるのでしたら、それを覆ってくださいとお願いします。

14:18 しかし、山は倒れてくずれ去り、岩もその所から移される。14:19 水は石をうがち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。14:20 あなたは、いつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去って行きます。あなたは彼の顔を変えて、彼を追いやられます。

 先ほど発した復活の望みは、たちまち消えうせると嘆いています。アップ・アンド・ダウンです。けれども、これは現実です。私たちが苦しむときの祈りの現実です。このようなアップ・アンド・ダウンを繰り返しながら、長いこと神との時間を持つのです。詩篇を読んでみてください、ダビデも同じことを行なっていました。ある時は非常に力強い信仰の表明をしたかと思うと、次はどん底にいることを言い表したりしています。エレミヤの祈りの中でも同じでした。私たちも人間なのですから、祈りの中で神に拠り頼みます。

14:21 自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず、彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。14:22 ただ、彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです。

 親であれば、自分の子供たちがどうなっているかいつも気になりますが、それさえも見分けがつかないぐらい肉体の痛みは激しい、魂の嘆きは激しいと訴えています。

2A 経験への依存 15
 これで第一ラウンドは終わりました。次から第二ラウンドです。再びエリファズが登場します。読むと分かりますが、彼らの口調はさらに激しく、ヨブを責め立てるものとなっています。第一ラウンドでは、三人とも最後にヨブに悔い改めの招きをしました。しかし今は、悔い改めの余地のないかのようにヨブが滅びることを宣言しています。それでは読んでみましょう。

1B 憤慨 1−16
15:1 テマン人エリファズが答えて言った。15:2 知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。15:3 彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。

 ヨブの激しい言葉を、「東風」とたとえています。ヨナがアッシリヤのニネベにいたとき、とうごまの木が東風によって枯れてしまったのを覚えていますか?あの中東地域における東風は、穀物や食物を枯らしていくだけで、なんら良いものをもたらさない熱い風でしかありません。そこでヨブの言葉は東風のようである、と言っています。激しいだけで無益だと言っています。

15:4 ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。15:5 それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。15:6 あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。

 ヨブがずっと神に祈っていた言葉は、エリファズは祈りだと受け止めませんでした。むしろ神を捨てた、捨て台詞のようにしか受け止めませんでした。

15:7 あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。15:8 あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。

 ヨブが、「お前たちはだまっていろ。私が神と論じ合うのだ。」といったことに対する反発です。

15:9 あなたが知っていることを、私たちは知らないのだろうか。あなたが悟るものは、私たちのうちに、ないのだろうか。15:10 私たちの中には白髪の者も、老いた者もいる。あなたの父よりもはるかに年上なのだ。

 エリファズが根拠としているものが、こうやってどんどん明らかにされていきますね。自分たちは年長である。だからあなたのその高飛車な言葉はけしからん、という意見です。年長者だからこそ物事が分かっているのだ、ということです。このエリファズは、神秘的な体験を話しました。ずっと経験にしたがって意見を述べています。

 これが私たちにも起こる問題なのです。聖書ではこう言っている、と言うと、「あなたは青二才だ」「まだ若い」「もっといろいろ経験しないといけない」など、いろいろです。けれども、年を経ているけれどまだ霊的には幼子の人たちはたくさんいます。逆に、まだ若いけれども霊的に深い知識を持って、思慮深く生きている人たちもたくさんいます。年を経ることと、霊的に成熟することは正比例ではないのです。

15:11 神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。

 これはエリファズが最初に語ったことのことです。あれが神の慰めで、優しく話しかけられた言葉だったそうです。

15:12 なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。15:13 あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。

 むろんヨブの今の姿を見れば、彼が神に対して祈っている、その嘆きの声を聞けば、理性を失っていると受け取ってもおかしくないでしょう。しかし、これは苦しんでいる者を高みから見下ろしている姿です。安らかだと思っている者が衰えている者をさげすむとヨブが言った言葉どおりです。

15:14 人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。15:15 見よ。神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。天も神の目にはきよくない。15:16 まして忌みきらうべき汚れた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。

 これは正しいことです。友人らは必ずしもすべて間違ったことを言っているのではありません。髪は天使さえも信頼しない、また天も悪魔が入りこむことができるように、きよめられていない。だから正しいのです。けれども、ヨブに対して単純にこの真理を押し付けるところに、大きな過ちがありました。神学的にはきれいにパッケージされているのですが、現実の人間には届いていません。

2B 痛罵 17−35
 そしてエリファズはヨブに、痛烈に罵倒の言葉を浴びせます。

15:17 私はあなたに告げよう。私に聞け。私の見たところを述べよう。

 「私に見たところを述べよう」と自分の経験に拠り頼んでいます。

15:18 それは知恵のある者たちが告げたもの、彼らの先祖が隠さなかったものだ。15:19 彼らにだけ、この地は与えられ、他国人はその中を通り過ぎなかった。15:20 悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。横暴な者にも、ある年数がたくわえられている。15:21 その耳には恐ろしい音が聞こえ、平和なときにも荒らす者が彼を襲う。15:22 彼はやみから帰って来ることを信ぜず、彼は剣につけねらわれている。15:23 彼は食物を求めて、「どこだ。」と言いながら、さまよい、やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。

 ヨブのことを意味しています。

15:24 苦難と苦悩とが彼をおびえさせ、戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。

 これもヨブのことです。そしてその理由を次のように述べています。

15:25 それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、15:26 厚い盾の取っ手を取っておこがましくも神に向かって馳せかかるからだ。

 全能者に対して高慢にふるまっているからだ、と言っています。

15:27 また、彼は顔をあぶらでおおい、腰の回りは脂肪でふくれさせ、15:28 荒らされた町、人の住まない家に、石くれの山となる所に、住んだからだ。

 ヨブはもしかしたら、太っていたのかもしれません。太っているのを、神に対する高慢の脂に掛けているのです。

15:29 彼は富むこともなく、その財産も長くもたず、その影を地上に投げかけない。15:30 彼はやみからのがれることができず、炎がその若枝を枯らし、神の御口の息によって彼は追い払われる。15:31 迷わされて、むなしいことに信頼するな。その報いはむなしい。15:32 彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、その葉は茂らない。15:33 彼は、ぶどうの木のように、その未熟の実は振り落とされ、オリーブの木のように、その花は落とされる。

 これがヨブの最期であると言っています。

15:34 実に、神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使う者の天幕は火で焼き尽くされる。15:35 彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、その腹は欺きの備えをしている。

 ヨブに対する中傷です。ヨブがわいろを行なっていた、と言っています。これで終わりです。悔い改めへの招きはいっさいありません。かなり酷いです。

 けれども、この言葉の応酬がもっと激しくなってきます。でも、これが現実です。とてつもない試練に遭ったとき、これはいったい何の意味があるのか分からないとき、人はこのようにいろいろな議論を延々と行なっていきます。そして口を閉ざせばよいのに、言葉の応酬をしてしまう弱さを持っています。

 けれども、弱くなっているヨブがさらに神に対する叫びを上げます。それが次々と、私たちの主キリストが与えてくださるものばかりです。これまで仲介者としてのキリスト、そして復活の初穂としてのキリストを見ました。これからも出てきます。


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