ヨブ記16−20章 「キリストの苦しみ」


アウトライン

1A 友人の嘲り 16−17
   1B 引き裂かれる身体 16
      1C 煩わしい慰め手 1−5
      2C 神の敵意 6−18
      3C 執り成し手 19−22
   2B 墓場と陰府 17
      1C 保証者 1−4
      2C 物笑い 5−10
      3C 死の寝床 11−16
2A 神への申し開き 18−20
   1B お決まりの論法 18
      1C 激しい怒り 1−4
      2C 悪者の天幕 5−21
   2B 神の遺棄 19
      1C そしり 1−6
      2C 敵の包囲 7−12
      3C 友人らの放棄 13−20
      4C 贖い主の到来 21−29
   3B 焦り 20

本文

 ヨブ記16章を開いてください。今日は16章から20章まで学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「キリストの苦しみ」です。私たちは前回、ヨブと友人三人との論争が、第二ラウンドに入ったところを読みました。最年長であろうエリファズが再び語り始めました。彼の言葉は内容は前回のと変わりませんが、悔い改めの呼びかけのないヨブを断罪するだけの過酷なものでした。そこでヨブは、友人らのこのような激しい言葉に傷つき、自分の気持ちを吐露していきます。

1A 友人の嘲り 16−17
1B 引き裂かれる身体 16
1C 煩わしい慰め手 1−5
16:1 ヨブは答えて言った。16:2 そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。

 エリファズが語ったことには何ら新しい情報はなく、さらに言葉が激しくなっただけのものでした。そこでヨブは「何度も聞いた」と言い、そして、「煩わしい慰め手だ」と彼らを呼んでいます。英語ですと“miserable comforter”となっており、「惨めな慰め手」と書かれています。新共同訳では、「慰める振りをして苦しめる。」と書いてあります。

16:3 むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。

 ヨブの実情をわきまえていない、空を打つような拳闘、ボクシングになっています。ただ興奮しているだけです。

16:4 私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。16:5 私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。

 4節と5節の間には、「しかし」という接続詞を入れると文が流れます。ヨブは友人たちが知っている知識は当の昔にわきまえています。だから立場が逆転したら、簡単に議論をしかけることはできるのです。けれども、私はそのようなことに言葉を用いず、かえって慰めるための言葉をかけていたことだろう、と言っているのです。

2C 神の敵意 6−18
 このように話したあとで、彼はこのように議論することについての疲れを表現しています。16:6 たとい、私が語っても、私の痛みは押えられない。たとい、私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るだろう。

 自分が語っても、痛みは去るわけではありません。また、自分が痛みをこらえても、痛みが去るわけではありません。そしてヨブは、神に対して友人たちの言葉の攻撃について不満を述べます。

16:7 まことに神は今、私を疲れさせた。あなたは私の仲間の者をことごとく荒らされました。16:8 あなたは私を、つかみました。私のやせ衰えた姿が、証人となり、私に向かって立ち、面と向かって答えをします。

 やせ衰えている姿が、あなたが私を疲れさせた証拠になっていると言っています。ヨブはこのようにずっと、裁判の法廷における比喩を多く用いて議論を続けています。

16:9 神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。16:10 彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。16:11 神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。

 今のヨブの心境です。実際に起こったこととは限りません。しかし、徐々に不思議なことに気づきます。彼の苦しみの表現がちょうど、私たちの主イエス・キリストが十字架への受難の道を歩まれたときと非常に似てきていることです。敵が自分に向かって目をぎらつかせている、口を大きく開けて自分をののしり、また頬を打ち、相集まって攻める。そしてよこしまな者、悪者の手に投げ込まれる。ちょうど私たちが福音書の中で読む、主のお姿のようです。

16:12 私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き、私の首をつかまえて粉々にし、私を立ててご自分の的とされた。16:13 その射手たちは私を巡り囲み、神は私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した。16:14 神は私を打ち破って、破れに破れを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。

 どうでしょうか、ここも非常に似ています。ヨブは、自分が矢の的になっていて神が弓を引き、矢が自分を突き刺しておられるように形容しています。けれども、イエスさまも同じで十字架に釘付けにされました。そして死なれた後、ローマ兵士がそのわき腹を突き刺しました。

16:15 私は荒布をはだに縫いつけ、私の角をちりの中に突き刺した。16:16 私の顔は泣いて赤くなり、私のまぶたには死の陰がある。

 「荒布」は、悲しみや嘆きを表現するときに身につけるものです。「角」はこの場合、自分の力や尊厳のことです。

16:17 しかし、私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。16:18 地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。

 ヨブは潔白であることを知っていました。そして自分の良心からの祈りであることを知っていました。だから自分が死んだとき、血を地面に流したとき、決してそれが覆い隠されることのないように叫んでいます。創世記でカインがアベルを殺したとき、主がカインに、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。(4:10」と仰っています。

 このヨブの潔白の叫びは、ヨブ以上に主ご自身に当てはまるものですね。主は正しい方なのに、悪者たちの攻撃を受けられました。それは父なる神がそうなされたことであって、父なる神がイエスさまを敵の攻撃の的とされたのです。

 今、ヨブは苦しみの中で、その心境を語る中で、実は預言的な言葉を語っているのです。また、キリストの苦しみとその深いところを経験しているのです。ここがヨブ記、いや聖書全体のテーマです。主を愛する聖徒たちは、神のいのちや力を経験するだけでなく、キリストの苦しみの交わりにもあずかります。パウロが言いました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11」このように、キリストの苦しみにあずかるのは、神の召しに従っていった聖徒の多くが味わったものです。

 先に挙げたアベルを思い出してください。彼は正しい人だったのに、悪者に殺されました。アブラハムを思い出してください、またイサク自身もそうです。イサクを全焼のいけにえとしてささげることを命じられたアブラハムは、イサクに木をかつがせて、後に主が十字架につけられるモリヤの山へ行きました。この苦しみは、父なる神が独り子を死に渡されるその苦しみを投影しているものでした。ヨセフを思い出してください、彼はエジプトの第二の権力者になる人でしたが、兄たちによってエジプトに売られていきました。イエスさまは肉の兄弟であるユダヤ人に裏切られました。モーセを思い出してください、彼はイスラエル人を助けようと思ったらイスラエル人から拒まれました。40年後、二回目に現われたときはイスラエル人は認めました。イスラエルを救うために初めに来られたキリストは拒まれました。エレミヤを思い出してください、あれほど涙を流した預言者はいません。彼は愛国者でありユダヤ人を愛していましたが、その破壊を告げなければいけなかったのですが、それはイエスさまがエルサレムを見ながら嘆かれたあの涙と同じです。

 まだまだあります。神に召され、神を愛する人々には、キリストの復活の力と同時に、キリストの苦しみの交わりにあずかるのです。

3C 執り成し手 19−22
 そしてヨブの嘆きはさらに大胆になっていきます。16:19 今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。

 ヨブは保証人を求めています。以前、彼は神と自分との間の仲裁者を求めました。その時は、法廷の場で自分と神との訴訟においてそれを仲裁してくれる存在を求めたわけですが、今は、友人が原告席にいて、自分が被告席にいて、神が裁判官という想定になっています。友人らの告発に対して、それを弁護する人、保証人が天におられると宣言しているのです。

16:20 私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。

 すばらしいですね、友が自分をあざけるその時に、彼は神に対してその悲しみを表現しています。神は私たちの悲しみをすべて受け取ってくださる方です。

16:21 その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。16:22 数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。

 彼は自分が死ぬ間際に、自分のために執り成しをしてくださる方がいることを宣言しています。そしてその方を「人の子」とも呼んでいます。これはメシヤ、キリストの称号です。保証人といい、執り成し手といい、すべて主イエス・キリストの働きです。保証人については、ヨハネ第一2章にこう書かれています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。(1ヨハネ2:1」すばらしいですね、私たちには最高の弁護者、保証人がおられます。そして執り成し手については、こう書かれています。「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34

 ヨブは友人の言葉の攻撃の中で、保障してくださる方、とりなす方を求めました。旧約の聖徒たちは、このような形でこれから来られる方メシヤを待ち望んだのです。今やメシヤ、キリストは来られました。私たちはこの方を心にいただいているので、すぐにこの方に助けを求めれば良いのです。

2B 墓場と陰府 17
1C 保証者 1−4
17:1 私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。

 再びヨブは、自分が間もなく死ぬことを語っています。これまでのヨブの語りを読みますと、初めに友人らに対する受け答え、それから自分の今の苦しみと痛みの状態を言い表し、それから自分が死ぬことを語っています。

17:2 しかも、あざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。

 自分に敵意を抱いている者がいることを知りながら夜を過ごすのは辛いことです。眠れないでしょう。もっとも彼は、あまりにも肉体の痛みできちんと睡眠は取れていませんが。

17:3 どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。

 再び保証人に対する叫びを上げています。ローマ8章でもそうですね、だれが敵対できるのか、神が私たちを義としてくださるのであり、キリストが私たちのためにとりなしてくださる、と書いてあります。私たちは、どうでしょうか?ヨブのように、人から敵意を抱かれていることを感じることはないでしょうか?その時には神の右の座に着いていられる主がとりなししてくださいます。

17:4 あなたが彼らの心を閉じて悟ることがないようにされたからです。それゆえ、あなたは彼らを高められないでしょう。

 興味深い文です。神が彼らの心を悟ることがないようにされた、とあるのに、神は彼らを高められません。すべての人間の悪意はその人の責任です。しかし、神はその自由意志を尊重することによって、人間の自由な世界を保障され支配されています。したがって、彼らが行なったことに応じて神は報いを与えられるのです。

2C 物笑い 5−10
17:5 分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる。17:6 神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられる者となった。17:7 私の目は悲しみのためにかすみ、私のからだは影のようだ。17:8 正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る。

 ヨブは友人のあざけりについて、このようなことを言っていますが、この箇所もイエス・キリストが通られた道であることにお気づきでしょうか?イスカリオテのユダは、銀貨30枚の分け前のために、友であるイエスさまの告げ口をしました。そしてイエスさまは、ユダヤの民の物笑いとされました。顔につばきをかけられました。そして、目はかすみ、からだが影のようだとヨブは言っていますが、主が十字架につけられているとき、太陽が暗くなったため昼間なのに夜のようになりました。さらに、主の十字架に死について、罪のない人が死なれたことを驚き、悲しむ人たちがいました。

 ヨブは次々と、主の十字架を預言しています。

17:9 義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。17:10 だが、あなたがたはみな、帰って来るがよい。私はあなたがたの中にひとりの知恵のある者も見いだすまい。

 友よ、あなたがたも義人の道に戻ってきなさい、と呼びかけています。友をあざける罪を捨てて、正しい道に帰りなさい、ということです。そして、知恵のある者はいないとヨブは言っていますが、これはヨブ記最後に出てくる、主のヨブの友人らへの評価と同じです。知恵がなく語っていました。

3C 死の寝床 11−16
17:11 私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも破れ去った。17:12 「夜は昼に変えられ、やみから光が近づく。」と言うが、

 これは以前にツォファルが、「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。(11:17」の引用です。

17:13 もし私が、よみを私の住みかとして望み、やみに私の寝床をのべ、17:14 その穴に向かって、「おまえは私の父だ。」と言い、うじに向かって、「私の母、私の姉妹。」と言うのなら、17:15 私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。17:16 よみの深みに下っても、あるいは、共にちりの上に降りて行っても。

 自分はただ死んでいく身である、ということです。ヨブによって死は、地の深いところにある陰府に下ることであり、また肉体がちりに帰ることであります。しかし後に、再び大胆な発言をします。

2A 神への申し開き 18−19
1B お決まりの論法 18
1C 激しい怒り 1−4
18:1 そこでシュアハ人ビルダデが答えて言った。

 第二ラウンドの二番手です。かつて神の正義、公義について語ったビルダデが再登場しました。

18:2 いつ、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。

 ヨブ、あなたはまだぐとぐと同じ話をしている。私たちに与えられた知恵をまず理解しなければ、どうしようもないではないか?と、まだヨブが無理解な者、愚かな者であることを指摘しています。

18:3 なぜ、私たちは獣のようにみなされるのか。なぜ、あなたがたの目には汚れて見えるのか。

 友人らを批判したことに対する反応です。

18:4 怒って自分自身を引き裂く者よ。あなたのために地が見捨てられようか。岩がその所から移されようか。

 ヨブが怒っていることに対する反応です。怒っても自分だけが損をする、そして怒っても回りは何も変わらない、ということです。

2C 悪者の天幕 5−21
 そしてビルダデは、ヨブを再び悪者に仕立て上げ、悪者の運命について並べ立てます。

18:5 悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。18:6 彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。

 悪者の光は暗くなります。霊的だけでなく物理的にも、住まいの天幕からともしびが消えます。

18:7 彼の力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが彼を投げ倒す。18:8 彼は自分の足で網にかかる。落とし穴の上を歩むからだ。18:9 わなは彼のかかとを捕え、しかけ網は彼をつかまえる。18:10 地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。

 悪者の悪巧みは、悪者自身がその罠にひっかかります。

18:11 恐怖が回りから彼を脅かし、彼の足を追い立てる。18:12 彼の精力は飢え、わざわいが彼をつまずかせようとしている。18:13 彼の皮膚を食らおうとしている。死の初子が彼のからだを食らおうとしている。18:14 彼はその拠り頼む天幕から引き抜かれ、恐怖の王のもとへ追いやられる。

 精神的な恐怖と、肉体の衰えを形容しています。

18:15 彼の天幕には、彼のものではない者が住み、硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる。18:16 下ではその根が枯れ、上ではその枝がしなびる。

 悪者の天幕、住まいが荒れ果てます。

18:17 彼についての記憶は地から消えうせ、彼の名はちまたから消える。18:18 彼は光からやみに追いやられ、世から追い出される。18:19 彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかにはひとりの生存者もなくなる。

 住まいだけでなく、親類もだれもいなくなるので、名前そのものが消えうせてしまいます。

18:20 西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖に取りつかれる。

 悪者の行く末を見て、周囲の者たちが驚きます。

18:21 不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。

 以上ですが、以前にも同じことを話していました。ただ、悔い改めの希望を話さないだけです。

2B 神の遺棄 19
1C そしり 1−6
19:1 そこでヨブは答えて言った。19:2 いつまで、あなたがたは私のたましいを悩まし、そんな論法で私を砕くのか。19:3 もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。

 同じことを何度も繰り返し、私を辱めている、と言っています。

19:4 もし、私がほんとうにあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。

 「もし」とありますから仮定での話ですが、罪を犯していたとしても、その罪はとっくの昔に悔い改めに捨ててあるはずであり、そのための災いではないことは分かるだろう、ということです。

 私たちも気をつけなければいけませんね。ある人が、「自分の罪をすべて告白しなければ、自分の祈りは聞かれない。」と言われて、その人はまだ子供だったのですが、必死になってありったけ、自分が思い出せるもの、また疑わしいものを告白して、それでも、心に「まだ告白していない罪はないか」と不安になった、ということを言っていました。しかしヨハネ第一1章9節には、私たちが罪を言い表したら、神は真実で正しい方から、私たちの罪を赦すだけでなく、すべての不義から私たちを清める、という約束があります。すべての不義です。

19:5 あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、19:6 いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。

 私の罪ではなく、神が私をこのような状態にしている、と述べています。そして次にヨブは、神が自分をどのように取り囲んでおられるのかを描写します。

2C 敵の包囲 7−12
19:7 見よ。私が、「これは暴虐だ。」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。19:8 神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。19:9 神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた。19:10 神が四方から私を打ち倒すので、私は去って行く。神は私の望みを木のように根こそぎにする。

 抵抗してもどうしようもなくなった状態を言い表していますが、ここもイエスさまの十字架への道が反映されています。イエスさまは、尊厳の冠が取られて、さらに茨の冠をかぶされました。

19:11 神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のようにみなされる。19:12 その軍勢は一つとなって進んで来、私に向かって彼らの道を築き上げ、私の天幕の回りに陣を敷く。

 敵に取り囲まれている状態です。そこで次に敵に取り囲まれているので、自分の知り合いや友人、家族までが自分を見捨てることをヨブは語ります。

3C 友人らの放棄 13−20
19:13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。19:14 私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。19:15 私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。19:16 私が自分のしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は私の口で彼に請わなければならない。19:17 私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。19:18 小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。19:19 私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。

 イエスさまはどうだったでしょうか?肉の家族はもちろんのこと、霊の家族である弟子たちもみな去ってしまいました。

19:20 私の骨は皮と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけでのがれた。

 これがヨブの状態です。何らかの皮膚病、天疱瘡と言われる病ではないかとも言われています。詩篇22篇にてダビデが、主の十字架を預言したとき、主が通られた肉体的状態をこう語っています。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。(詩篇22:14-15」もちろん痛みの内容は違いますが、ヨブは明らかにキリストにつく者としての苦しみをその身に負ったのです。

4C 贖い主の到来 21−29
 そしてヨブは叫びます。19:21 あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。19:22 なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。

 皮肉も込めた呼びかけです。最後の「私の肉で満足しないのか」というのは、獣が人の肉を食いちぎる様を言い表していますが。そしてヨブは大胆な信仰の言葉を口から出します。

19:23 ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。19:24 鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。

 永遠に書き記される、ということです。そしてこれは真実となりました。聖書がまず、これを書きとめ、それから次のヨブのことばがいろいろな墓や碑にも刻みつけられています。

19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

 贖う方、メシヤが生きておられること。そして終わりの日にちりの上に立たれること。主が再臨されて、地上に立たれることを高らかに宣言しています。その後の旧約聖書の中にメシヤが戻って来られて地に立つことの預言があります。もちろん、主はすでに地上に来られて地に立ちましたが、再臨のときにも地に立たれます。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ14:4

19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

 主が戻ってこられるときに、ヨブは、自分が復活して、復活した体から神を見ると宣言しています。ダニエル書12章2節にこう書いてあります。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。(ダニエル12:2

19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。

 今、ヨブは肉体に激しい痛みを覚えていますが、この肉体から救ってくださる方が来られることを思って、絶え入るばかりになっている、うめいていると言っています。これはパウロがローマ書8章で説明しているところです。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:22-23」ヨブは、肉体の苦しみの中で命を考え、復活を考えました。また友人の嘲りの中で保証人を考えました。すべて、今、私たちがキリストにあって享受しているものです。

19:28 もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、「彼をどのようにして追いつめようか。」と言うなら、19:29 あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。

 ヨブは終わりの時のことを話しましたが、あなたがたはその時、私を追い詰めたその言葉によってさばきを受けると宣言しています。イエスさまがパリサイ人に言われました。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。(マタイ12:36

3B 焦り 20
 このことを聞いたツォファルは、焦って言葉を並べ立てます。第二ラウンドの三番手の登場ですが、ここまで来ると彼は自分の言っていることさえはっきり分からず、言葉の繰り返しを行なっているにしか過ぎなくなります。彼は第三ラウンドには登場しませんので、次の言葉で終わります。ざっと読みます。

20:1 そこでナアマ人ツォファルは答えて言った。20:2 それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため、私は心あせる。20:3 私の侮辱となる訓戒を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。

 「悟りの霊」ですって。よく言えたものです。私たちもツォファルのように、きれいな霊的な用語を使って肉の行ないを言い表すことがありますが、気をつけなければいけません。

20:4 あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、20:5 悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。20:6 たとい彼の高ぶりが天まで上り、その頭が雲まで及んでも、20:7 彼は自分の糞のようにとこしえに滅びる。彼を見たことのある者たちは言う。彼はどこにいるのかと。20:8 彼は夢のように飛び去り、だれにも彼は見つけられない。彼は夜の幻のように追い払われ、20:9 彼を見慣れていた目は再び彼を見ず、彼のいた所はもはや彼を認めない。20:10 彼の子らは貧民たちにあわれみを請い、彼の手は自分の財産を取り戻さなければならない。20:11 彼の骨が若さに満ちても、それも彼とともにちりに横たわる。

 たちまち悪者は滅びる、ということです。じゃあ、栄えている者はすべて正しい者なのでしょうか?いいえ、現実を見たら違いますよね。それをすでにヨブは提示済みでした。けれども彼はその問いに答えられません。

20:12 たとい悪が彼の口に甘く、彼がそれを舌の裏に隠しても、20:13 あるいは、彼がこれを惜しんで、捨てず、その口の中にとどめていても、20:14 彼の食べた物は、彼の腹の中で変わり、彼の中でコブラの毒となる。20:15 彼は富をのみこんでも、またこれを吐き出す。神がこれを彼の腹から追い払われる。20:16 彼はコブラの毒を吸い、まむしの舌が彼を殺す。

 つまりヨブが隠し事を持っているということです。

20:17 彼は川を見ることがない。すなわち、蜜と凝乳の流れる川を見ることがない。20:18 彼は骨折って得たものを取り戻しても、それをのみこめない。商いで得た富によっても楽しめない。

 富を楽しむことができません。その理由を次に述べています。

20:19 彼が寄るべのない者を踏みにじって見捨て、自分で建てなかった家をかすめたからだ。20:20 彼の腹は足ることを知らないので、欲しがっている物は何一つ、彼はのがさない。20:21 彼のむさぼりからのがれる物は一つもない。だから、彼の繁栄は続かない。20:22 満ち足りているときに、彼は貧乏になって苦しみ、苦しむ者の手がことごとく彼に押し寄せる。

 これがヨブが行なったことだ、とほのめかしています。全くの中傷です。しかし、第三ラウンドでエリファズは、同じようにあからさまに同じことを述べていきます。

20:23 彼が腹を満たそうとすると、神はその燃える怒りを彼の上に送り、憤りを彼の上に降らす。20:24 彼は鉄の武器を免れても、青銅の弓が彼を射通す。20:25 彼がそれを引き抜くと、それは彼の背中から出る。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う。20:26 すべてのやみが彼の宝として隠され、人が吹きおこしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。20:27 天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。20:28 彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消えうせる。20:29 これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。

 悪者に対する、神のすみやかなさばきを言い表しています。次にヨブは、再び諭すように悪者が長く生きること、繁栄している事実を述べていきます。お祈りしましょう。


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