ヨブ記21−26章 「現実の直視」


アウトライン

1A 悪者の繁栄 21
   1B 聞くことによる慰め 1−6
   2B 平和な家庭 7−16
   3B 本人に下るべき裁き 17−26
   4B 世渡り上手 27−34
2A 中傷 22
   1B 非情な正しさ 1−5
   2B 作り話 6−11
   3B 言い返し 12−20
   4B 悔い改め後の繁栄 21−30
3A 見えない報い 23−24
   1B 神との決着 23
      1C 御座における討論 1−7
      2C 神の定め 8−17
   2B はびこる不条理 24
      1C 搾取 1−12
      2C 暗闇の業 13−17
      3C 究極的な滅び 18−25
4A 高みの見物 25−26
   1B 尽きた言葉 25
   2B 神の威光 26

本文

 ヨブ記21章を開いてください、今日は長くなります、26章まで学んでみたいと思います。ここでのテーマは「現実の直視」です。今日は、ツォファルが言ったことへのヨブの応答から読み始めます。前回学んだ、ツォファルの言葉を思い出してください。彼は、悪者はすぐに滅びることを述べました。彼の楽しみはつかの間であり、その繁栄が続くのは短いことを話しました。その災いは彼の子供たちにも被ります。ヨブは、このことを重点にして反論します。

1A 悪者の繁栄 21
1B 聞くことによる慰め 1−6
21:1 ヨブは答えて言った。21:2 あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。

 聞くことを慰めとしてくれ、と言っています。友人たちが語ることが、ヨブへの慰めだと考えていましたが、黙って聞くだけでそれが慰めなのだよ、とヨブは言っています。私たちが人々を慰めたり、励まそうとするときに必要なのはこれですね。自分の意見ではなく、相手がその悲しみや苦しみの感情を表現することができるように、聞くことです。これはカウンセリングにおける初歩です。

21:3 まず、私が語るのを許してくれ。私が語って後、あなたはあざけってもよい。

 ツォファルに対する皮肉です。語った後に、あざけるならあざけりなさい。ツォファルが慰めだと思っていたことは、ヨブにはあざけりにしか聞こえませんでした。

21:4 私の不平は人に向かってであろうか。なぜ、私がいらだってはならないのか。

 ヨブの不平は、神に対するものでした。神と討論したい、と彼はずっと言い続けています。彼の疑問は友人たちではなく、神に向けられていました。その言葉尻を取って議論をしかけてきたのは友人たちです。

21:5 私のほうを見て驚け。そして手を口に当てよ。21:6 私は思い出すとおびえ、おののきが私の肉につかみかかる。

 これはおそらく、彼の様相の話をしているのでしょう。友人らは、ヨブの、今の体の有様を直視することはできず、目をそむけながら話していたのかもしれません。けれども、今、現実の姿を見なさいと呼びかけているのです。そこでヨブは、世の中で実際に起こってる現実を述べ始めます。

2B 平和な家庭 7−16
21:7 なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか。21:8 彼らのすえは彼らとともに堅く立ち、その子孫は彼らの前に堅く立つ。

 ツォファルは、悪者はすぐに滅び、子孫もその災いを被ることを話しましたが、そのことに対する反論です。

21:9 彼らの家は平和で恐れがなく、神の杖は彼らの上に下されない。21:10 その牛は、はらませて、失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで、仕損じがない。21:11 彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。21:12 彼らはタンバリンと立琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。21:13 彼らはしあわせのうちに寿命を全うし、すぐによみに下る。

 幸せな家庭を築き、病気で苦しみもだえることもなく死んでいます。

21:14 しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。21:15 全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか。」と。

 繁栄している彼らは、あなたがたが言うように正義を行なっているどころか、神を無視し、神に対して高ぶった生活を送っているわけです。

 ヨブの時代だけでなく、私たちの周りを見たらそのようなことだらけですね。もちろん、悪が正しく裁かれる時もありますが、多くの場合は、悪は蔓延ったままであり、悪人は平穏な生活を送っています。日本では、霊的にはここに書かれてあるように、神に対して高ぶった態度を取り続けています。まことの生ける神、創造主とその御子キリストに対して無関心です。けれども、他の国に比べれば有数の経済大国であるし、社会制度的に非常に進んでいます。ヨブの語っている矛盾は、現実に起こっているのです。

21:16 見よ。彼らの繁栄はその手の中にない。悪者のはかりごとは、私と何の関係もない。

 苦しんでいる私は、今、そのような繁栄している悪者らとは関係がない、と言っています。

3B 本人に下るべき裁き 17−26
21:17 幾たび、悪者のともしびが消え、わざわいが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを分け与えることか。21:18 彼らは、風の前のわらのようではないか。つむじ風に吹き去られるもみがらのようではないか。

 ここの文章は、ヨブ自身の問いかけというよりも、以前友人らが話したことの引用であるように思われます。悪者のともしびが消えることについて、ビルダデが、「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。(18:5)」と言っていました。どれだけのともし火が消えて、また、風の前のわらのようになっているのだろうか?と問いかけているわけです。

21:19 神はそのような者の子らのために、彼のわざわいをたくわえておられるのか。彼自身が報いを受けて思い知らなければならない。21:20 彼の目が自分の滅びを見、彼が全能者の憤りをのまなければならない。

 ツォファルが子供たちに災いが下る話をしましたが、ヨブは、それはおかしいと反論しています。悪者本人が裁きを受けなければいけないではないか、と言っています。エゼキエル書にも、「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。(18:20」とあります。神との関係はあくまでも個人に対するものであり、家族や友人を通しての間接的なものではありません。

21:21 彼の日の数が短く定められているのに、自分の後の家のことに何の望みがあろうか。

 悪者は、自分が死んでからその後どうなっても構わないのに、そんな裁き方を神は行なわない、ということです。悪者は基本的に自分のことしか考えていません。

21:22 彼は神に知識を教えようとするのか。高い所におられる方がさばきを下すのだ。21:23 ある者は元気盛りの時に、全く平穏のうちに死ぬだろう。21:24 彼のからだは脂肪で満ち、その骨の髄は潤っている。21:25 ある者は苦悩のうちに死に、何の幸いも味わうことがない。21:26 彼らは共にちりに伏し、うじが彼らをおおう。

 そうですね、これが現実ですね。人が苦しんで死ぬか、平穏のうちに死ぬのか、それは悪者か正しい者なのかに関係ありません。正しくても苦しむ人がいるし、平穏のままに死ぬこともあるし、悪者でも平穏のままに死ぬことが多いし、けれども苦しんで死ぬ人もいる。友人らの凝り固まった神学には当てはまらない現実が目の前にあるのです。

4B 世渡り上手 27−34
21:27 ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私をそこなおうとするたくらみを。21:28 あなたがたは言う。「権門の家はどこにあるか。悪者の住んだ天幕はどこにあるか。」と。

 ヨブは、いま自分が言った言葉について友人らがどう反応するかを予測して話しています。「ならば、権門の家はどこにあるのか、悪者の天幕はどこにあるのか。見当たらないとう現実があるだろう。」と言うに違いないと予測しています。以前ビルダデは、悪者の天幕は完全に消え去ることを話しました(18章参照)。現に、多くのかつて世の権力者が住んでいたところは、違う者が住んでいたり、更地にされたりしています。

21:29 あなたがたは道行く人に尋ねなかったか。彼らのあかしをよく調べないのか。21:30 「悪人はわざわいの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出される。」という。

 ヨブは、そこら辺で道を歩いている人、あるいは旅をしている人に聞いてみなさい、と言っています。彼らは、受けるべきさばきを受けずに世を渡り歩いているわけです。自分の住んでいるところは変わるかもしれないが、きちんと財産や権力は持ち去って動いている場合が多いのです。

21:31 だれが彼に面と向かって彼の道を告げえようか。だれが彼のなしたことを彼に報いえようか。

 そのような悪者は影響力や力を持っているので、何も対抗することができません。

21:32 彼は墓に運ばれ、その塚の上には見張りが立つ。21:33 谷の土くれは彼に快く、すべての人が彼のあとについて行く。彼より先に行った者も数えきれない。

 世渡り上手も、平穏の中で死んでいきます。

21:34 どうしてあなたがたは、私を慰めようとするのか。むだなことだ。あなたがたの答えることは、ただ不信実だ。

 彼らの言っていることは現実に即していないので、不信実です。

2A 中傷 22
 そしてエリファズが語りはじめます。第三ラウンドです。今、友人たちは、現実を付き付けられ反論が難しくなっています。しかし、人間は折れることは難しくなります。自分が間違っていることがわかっても、自分の立場を守ろうとします。そこで、エリファズはしてはならないことをし始めます。事実ではないことをでっち上げ非難すること、中傷を言い始めます。

1B 非情な正しさ 1−5

22:1 テマン人エリファズが答えて言った。22:2 人は神の役に立つことができようか。賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。22:3 あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう。

 ヨブはずっと自分の潔白を主張しました。それに対するエリファズの返答です。神は人間をずっと超越されている方だから、人間の正しさを主張したところで神に役に立つようなことは何もない、と言っています。

 本当にいやらしい論法ですね。ヨブは自分の潔白を主張したのは、「なぜ人は苦しむのか」という根本的な問いを神に行なうためです。人は悪人が苦しむと考えるが、正しい者だって苦しんでいる現実がある、ということです。けれども、ヨブの潔白の主張の言葉を、自分の義によって神に印象づけようとしていると言っているのです。

22:4 あなたとともに、さばきの座に、はいって行かれ、あなたを責められるのは、あなたが神を恐れているためか。22:5 いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。

 ヨブが、さばきの座にて神と論じたいと話した言葉を取りあげて、ヨブは罪を犯していると主張しています。

2B 作り話 6−11
22:6 あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、22:7 疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。22:8 土地を持っている有力者のように、そこに住む有名人のように、22:9 あなたはやもめを素手で去らせ、みなしごの腕を折った。

 こんなこと、どうやって証明したことでしょうか?でっち上げです。でっち上げてまで、自分の主張を曲げたくなかったのです。これは「謗り」という罪ですが、自分が正しいことを固守しようとすると、いとも簡単に陥ってしまう過ちです。

 恐ろしいことが起こっています。彼らはヨブに、何らかの罪が隠されているに違いないと勘ぐっていました。そして、20章にてツォファルが、悪者の一例として「彼が寄るべのない者を踏みにじって見捨て、自分の建てなかった家をかすめたからだ。(19節)」と言いました。エリファズの頭の中では、この言葉などを聞いてこれはヨブが犯した具体的な罪であるという認識になってしまったのです。私たちの間でもないでしょうか?仮定として話していることが、相手への悪意が募ってくるために、事実であるかのように語られ、いつの間にか事実として認識されてしまうことが。今、そのような心理的な状態にエリファズは陥っているのです。

22:10 それでわながあなたを取り巻き、恐れが、にわかにあなたを脅かす。22:11 あるいは、やみがあって、あなたは見ることもできず、みなぎる水があなたをおおう。

 かつて人の悪のために洪水が起こりましたが、同じような裁きがくだると話しています。

3B 言い返し 12−20
22:12 神は天の高きにおられるではないか。見よ、星の頂を。それは何と高いことか。22:13 あなたは言う。「神に何がわかろうか。黒雲を通してさばくことができようか。22:14 濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と。

 エリファズが引用しているヨブの言葉は、見つかりません。これは彼が言った言葉ではないです。先に彼は、「高い所におられる方がさばきを下すのだ。(21:22」と言いましたが、ここからの引用なのでしょうか?いずれにしても、この言葉も歪曲です。イエス様や使徒たちも、同じような形で勝手な引用を基に迫害されました。

22:15 あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのか。22:16 彼らは時がまだ来ないうちに取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。22:17 彼らは神に向かって言った。「私たちから離れよ。全能者が私たちに何ができようか。」と。22:18 しかし、神は彼らの家を良い物で満たされた。だが、悪者のはかりごとは私と何の関係もない。

 17節と18節の言葉は、ヨブが言ったことのオウム返しです。悪者は洪水によって取り去られるが、「私たちから離れよ、全能者よ。」と叫ぶ。そして、そうした悪者のはかりごととは、エリファズ私は何の関係もない、と言っています。ほとんど言葉遊びであり、言い返しであり、ただヨブを痛めつけるためだけに発せられた言葉です。

22:19 正しい者は見て喜び、罪のない者は彼らをあざけって言う。22:20 「まことに、私たちに立ち向かった者は滅ぼされ、彼らの残した物は火が焼き尽くした。」

 こちらが真実だと主張するのです。ヨブはもちろん、これを否定しません。24章にて悪者に下る神のさばきがあることを述べています。しかし、正しい者が繁栄し、悪者が滅びるという単純な図式ではないことをヨブは主張しているのです。それをエリファズは受け入れられません。

4B 悔い改め後の繁栄 21−30
22:21 さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。22:22 神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。22:23 あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。あなたは自分の天幕から不正を遠ざけ、22:24 宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け。

 悔い改めへの呼びかけです。すべてが取られたヨブに対して、隠してある財宝を今明らかにしなさいと言っています。

22:25 そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとなる。

 非常に単純な図式です。あなたが悔い改めればあなたは繁栄する。あなたは再び財宝で満たされる、と言っています。どうでしょうか、この話どこかで聞いたことがありませんでしたか?「繁栄の教え」とか呼ばれているものですね。あなたが苦しんでいるのは、あなたのうちに罪があるからです。その罪を悔い改めなさい、そうすればあなたは繁栄し、祝福されます、という教えです。さらに、「あなたの千円札を今、ここに出しなさい。そうすれば、神はそれを一万円にも、十万円にもしてくださいます。」というような教えです。

 この教えは真新しいものではありません、かつてルターがヴィッテンベルクにて95か条を教会に扉に貼り付けましたが、その時は「この免罪符を買えば、あなたは天国への切符をもらえます。」という教えが蔓延っていたからです。そして実に、聖書で最初に書かれたヨブ記にて、この教えが記録されているのです。

22:26 そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。22:27 あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。22:28 あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。22:29 あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ。22:30 神は罪ある者さえ救う。その人はあなたの手のきよいことによって救われる。

 残念ですが、これが現実を無視したところの人間の教えです。私たちには分からないことがたくさんあるのに、人間の側でそれを理解できるようにまとめてしまうとき、理解しやすいですが、実は現実離れした教えを受け入れ、現実離れした信仰に至ってしまいます。

 ある人から聞きましたが、松葉杖か何かを使って歩いている人が教会にいました。ある人が「大変ですね。」と言ったら、「何言っているんですか、大変なんかじゃありません。私はもう直っているのです。」と答えたそうです。怪我した足はもうすでに回復したと言い張ります。しかし、だれが見ても直っていません。彼は、告白したことがその通りになるという教え、告白の力の教えを受け入れていました。「怪我をしている」と口で発するから、怪我が直らない。「直った」と信じ、告白するから直るのだ、という教えです。これを未信者の人が見聞きしたらどうなるでしょうか?私たちの神様に対するイメージが、変てこなものになってしまうでしょう。現実を直視せずに、人間に理解できやすいように歪曲すると、こうなってしまうのです。

3A 見えない報い 23−24
 ヨブは、エリファズの言っていることに耳を傾けていないかのように、神に対する希望を述べ始めます。

1B 神との決着 23
1C 御座における討論 1−7
23:1 ヨブは答えて言った。23:2 きょうもまた、私はそむく心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い。

 ここの「そむく心」とは、苦しい心を言い換えたほうが良いでしょう。

23:3 ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。23:4 私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。23:5 私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。23:6 神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。23:7 そこでは正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。

 自分は潔白であることを知っていたヨブは、神と論じ合う中で、神が自分を守ってくださるだろうと言っています。

2C 神の定め 8−17
23:8 ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。23:9 左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。23:10 しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。

 神を肉眼で見ることはできません。しかし、神は自分の歩みを知っておられます。自分が神を知っている以上に、自分が神から知られていることを知ることは重要です。「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(1コリント8:3」とパウロは言いました。

23:11 私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。23:12 私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。

 神に知られていることを意識していたヨブは、そのテスト中でなお自分の潔白が証明されることを知っていました。そして、その道はいつも、神のくちびるの命令を聞き、御口のことばをたくわえることでした。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(詩篇119:9」とあるとおりです。

23:13 しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行なわれる。23:14 神は、私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある。23:15 だから、私は神の前でおびえ、これを思って、神を恐れているのだ。

 彼は自分が正しいとわかっていながら、なおかつこのような苦しみにあっているということは、神は何かをお考えになっているに違いない、みこころがあるのだ、と言っています。今、自分が置かれている境遇を、それがどんなに逆境の中でも神の中に置いています。これが、本当の信仰ですがヨブは、今の自分の状態を見て、神の中にこの状況を置くのはあまりにも過酷であると訴えています。

23:16 神は私の心を弱くし、全能者は私をおびえさせた。23:17 私はやみによって消されず、彼が、暗黒を私の前からなくされたからだ。

 過酷な状況を、言い表わしました。

2B はびこる不条理 24
 そしてヨブは、さらにこの世で起こっている不条理について話していきます。

1C 搾取 1−12
24:1 なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。

 神によって時間が与えています。けれども、神を知っている人たち、神を愛している人たちは、その信仰の報いの日を、この地上で必ずしも見ることはありません。

24:2 ある者は地境を動かし、群れを奪い取ってこれを飼い、24:3 みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り、24:4 貧しい者を道から押しのける。その地の哀れな人々は、共に身を隠す。

 人を搾取する姿です。

24:5 見よ。荒野の野ろばを。彼らは、出て行き、荒れた地で獲物を求めて捜し回り、自分の子らのためにえさを求める。24:6 飼葉を畑で刈り取り、悪者のぶどう畑をかすめる。

 荒野の野ろばのように、他人の所有物をかすめ奪います。

24:7 彼らは着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない。24:8 山のあらしでずぶぬれになり、避け所もなく、岩を抱く。

 ここでの「彼ら」は被害を受けているほうですね。彼らの苦境を言い表わしています。

24:9 彼らはみなしごを乳房からもぎ取り、貧しい者の持ち物を質に取る。

 取り立てをする悪者の姿です。

24:10 彼らは着る物もなく、裸で歩き、飢えながら麦束をになう。24:11 その植え込みの間で油をしぼり、酒ぶねを踏みながら、なお渇く。24:12 人の住む町からうめき声が起こり、傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない。

 叫んでも、神が沈黙しているかのように、何の変化もありません。

2C 暗闇の業 13−17
24:13 これらの者は光に反逆する者で、光の道を認めず、また、その通り道にとどまらない。24:14 人殺しは、夜明けに起き上がり、哀れな者や貧しい者を殺し、夜には盗人のようになる。24:15 姦通する者の目は夕暮れを待ちもうけ、「私に気づく目はない。」と言い、その顔におおう物を当てる。24:16 彼は暗くなってから、家々に侵入する。昼間は閉じこもって光を知らない。24:17 すべて彼にとっては暗黒が朝である。彼は暗黒の恐怖と親しいからだ。

 暗闇の業をヨブは表現しました。殺人やレイプのような犯罪を、隠れたところで行なっています。

3C 究極的な滅び 18−25
24:18 彼は水の面をすばやく過ぎ去り、彼の割り当ての地は国の中でのろわれる。彼はぶどう畑の道のほうに向かわない。24:19 ひでりと暑さは雪の水を奪い、よみは罪を犯した者を奪う。24:20 母の胎は彼を忘れ、うじは彼を好んで食べ、彼はもう思い出されない。不正な者は木のように折られてしまう。

 悪者に対する神のさばきです。ヨブは、このことを信じていたし、友人たち以上に信じ、知っていたことでしょう。けれども、今現在、この時点で悪者がすべてさばかれているわけではなく、神の許しで一時的に生き延びているのです。

24:21 彼は子を産まない不妊の女を食いものにし、やもめによくしてやらない。24:22 しかし、神は力をもって暴虐な者たちを生きのびるようにされる。彼はいのちがあるとは信じられないときにも立ち上がる。24:23 神が彼に安全を与える。それで、彼は休むことができる。神の目は彼らの道の上に注がれる。24:24 彼らはしばらくの間、高められるが、消えうせる。彼らは低くされ、ほかのすべての者と同じように刈り集められる。麦の穂先のように枯れてしまう。24:25 今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えよう。だれが私のことばをたわごとにしようとするのか。

 ヨブの言うとおりです。さばきは必ず惰りなくされます。けれども、今さばきが行なわれていないからといって、まやかしでも、たわごとでもないだろう、と訴えています。

4A 高みの見物 25−26
1B 尽きた言葉 25
 ここまで来たら、もう返す言葉がありません。次にビルダデが登場します。彼は、これまで話したことの繰り返しを話すだけで、しかも言葉をかなり失っています。

25:1 シュアハ人ビルダデが答えて言った。25:2 主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。25:3 その軍勢の数ほどのものがほかにあろうか。その光に照らされないものがだれかいようか。

 神は主権を持っておられ、威光に輝いておられると言っています。

25:4 人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。25:5 ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。25:6 ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。

 あらゆるものを超越されている神であるから、人はみな汚れている。ヨブよ、お前も虫けらのような存在なのだ。だから、周囲で起こっていることについて、人々が苦しんでいることについて深く考えるのはよせ、といっているわけです。

 どうでしょうか、この論法は?実は結構多くのクリスチャンが、この過ちに陥っているのではないかと思います。人が苦しんでいるのを見たとき、「神が御座におられます。大丈夫です。」とだけ言って、その苦しみを共にしない傾向です。確かに、神はすべてのことを支配されています。しかし、すべてのことを知っておられる神に、今、この苦しい場に介入してくださいと共に祈ってあげるのが、兄弟姉妹であり、キリストのからだです。しかし、神は遠くにいて、人間の細かい事項にあたかも関わっていないがごとく、神への信仰という名の下で現実逃避をします。

 この考えを極端にすると、グノーシス主義と同じになります。人間やその他の肉体や物質の世界は基本的に悪であり、汚れている。神は光であるからそのような世界に介入しようとはしない。それゆえ光であられるイエスも肉体を宿しておられたわけではなく、仮に現われただけだ、という考えです。この異端の教えに対抗して、例えば使徒ヨハネは、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」という言葉をもって第一の手紙を書き始めています。

 いや神は、私たちの髪の毛の数も知っておられるほど、私たちに近い存在です。だから、主が赤ちゃんとしてお生まれになったとき、「インマヌエル」と呼ばれたのです。人間と同じ、いや人間以下の環境の中、飼い葉桶におられたのです。だから、ビルダデのような神の超越性だけを信じて、苦しみの現実を逃避するならば、私たちの主イエス・キリストを否定することと同じなのです。

2B 神の威光 26
26:1 ヨブは答えて言った。26:2 あなたは無力な者をどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。26:3 知恵のない者をどのようにしていさめ、豊かなすぐれた知性を示したのか。26:4 あなたはだれに対してことばを告げているのか。だれの息があなたから出たのか。

 あなたは、何の話をしているのか?自分は慰めるために来たのではないか?とヨブは問いかけています。逆に心配してあげているというか、ヨブにとって神の超越性はあなりにも明らかなことです。そこで彼は自然界に支配しておられる神のわざについて話します。

26:5 死者の霊は、水とそこに住むものとの下にあって震える。26:6 よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない。

 死後の世界を主が支配されています。

26:7 神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。

 空を神が支配されています。この書は紀元前二千年ぐらいに書かれたであろうと思われますが、なんと空が何もない上に掛けられている、という表現を使っています。古代のどの文献を見ても、どこかに空は掛けられていると信じられていました。例えばインドでは、空の四つ端は象によってつかまれている、と信じていました。地が空を支えているのではなく、逆に宇宙の中に地球があるのだという考えは聖書の中にあるのです。

26:8 神は水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。

 雲を神が支配されています。

26:9 神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、26:10 水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。

 ここも驚くべき発言です。水平線を見て、それは平行線ではなく円を描いていることを述べています。地球は丸い、と言ったのはガリレオ・ガリレイですが、実は聖書の中にそのことが言及されているのです。

26:11 神がしかると、天の柱は震い、恐れる。

 山々の比喩的表現です。地震が起こります。

26:12 神は御力によって海をかき立て、神の英知をもってラハブを打ち砕く。

 海の巨獣を支配されています。

26:13 その息によって天は晴れ渡り、御手は逃げる蛇を刺し通す。

 嵐の後の晴天を神は支配されています。

26:14 見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。

 今の科学技術によっても、ものすごく深い、計り知れない世界が自然界には広がっています。しかし、それは神の道の外側にしか過ぎなく、神のささやきでしかない、とヨブは言います。神の知恵はもっともっと深く、人間には聞き分けることはできないのだよ、ビルダデ君、とヨブは言っているわけです。

 さあ、ここまで読みましたが、お分かりになったでしょうか?苦しみという現実があり、それは必ずしも罪への罰ではない、ということです。そして苦しみに対する慰めは、私たち人間の理解を超えたところにある、ということです。その人間の不条理をまもとに受けてくださったのが、私たちの主イエス・キリストです。神でありながら人の姿を取られた、ということ自体、あまりにも不条理です。そして被造物である人間によって、十字架刑というむごたらしい刑罰を受けられるのは、とてつもない不条理です。けれども、神は私たちと一つになるため、交わりをもたれるため、この地上にいる私たちのすべてになってくださるために、キリストを遣わしてくださいました。

 そこに慰めがあります。そして私たちは、あわれみと慰めの奉仕に召されていることに気づくべきです。神学や信仰に関わる意見を述べるために信仰の友人を持っているのではありません。慰め、励まし、苦しみをともにしてこその友です。


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