ヨブ記27−31章 「身の潔白」


アウトライン

1A 神への恐れ 27−28
   1B 悪者の結末 27
      1C 良心による誓い 1−7
      2C 聞かれない叫び 8−12
      3C 相続財産 13−23
   2B 知恵 28
      1C 隠された金銀 1−11
      2C 無比の価値 12−19
      3C 神の全知 20−28
2A 意気消沈 29−30
   1B 昔の日々 29
      1C 神の守り 1−6
      2C 威厳ある裁き 7−25
   2B 今 30
      1C 悪童どもの嘲り 1−15
      2C 焼ける骨 16−31
3A 無実の立証 31
   1B 若い女 1−4
   2B 偽り 5−8
   3B 姦淫 9−12
   4B 不公正 13−15
   5B 無慈悲 16−23
   6B 富への愛 24−25
   7B 偶像礼拝 26−28
   8B 復讐 29−30
   9B 慈善 31−32
   10B 罪の隠蔽 33
   11B 人への恐れ 34
   12B 着服 35−40

本文

 ヨブ記27章を開いてください。今日学ぶ箇所は27章から31章です。ここでのメッセージ題は「身の潔白」です。

 私たちはずっと、ヨブと友人たちの議論を読んできました。長い、長い議論でした。でも、今日で友人とヨブの議論は終わります。(その後で、議論を聞いていたエリフという若者が口を開きますが。)ヨブが、これまでの議論にけりをつけます。これから読む、ヨブの「格言」と呼ばれている話によって友人らは口を閉ざします。(ちなみに、ここの「格言」はソロモンの「箴言」と同じへブル語です。)その理由は、ヨブが神への誓いをもって語ったからです。友人らの、根拠のない告発に対して理屈をもって応答するのではなく、神の前で良心をもって絶対にそんなことはしていないと断言します。ヘブル書6章16節にて、「確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。」とありますが、ヨブは確証のための誓いによって友人らの反論をやめさせました。

 前回は、26章にて、ビルダデに対するヨブの反論のところまでを読みましたが、27章からは、友人三人に対して語り始めます。

1A 神への恐れ 27−28
1B 悪者の結末 27
1C 良心による誓い 1−7
27:1 ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。27:2 私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者をさして誓う。

 現代の言葉で言うなら、「基本的人権」と呼べるでしょう。人間が尊厳をもって生きることができる基本的要素を、ヨブは取り上げられました。

27:3 私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、27:4 私のくちびるは不正を言わず、私の舌は決して欺きを告げない。

 創世記を思い出してください、神がアダムを造られたとき、体を土のちりで形づくられ、それから鼻に息を吹きかけられました。それで人は生きるものとなりました。それでヨブは自分が呼吸していることを、「神の霊が私の鼻にあるかぎり」と言っています。

27:5 あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。

 「あなたがたを義と認めること」とは、友人たちがヨブについて断罪していることを正しいとみなす、という意味です。友人らはヨブが、深刻な罪を犯していると論じていましたが、それを認めることは絶対にできないということです。

27:6 私は自分の義を堅く保って、手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。27:7 私の敵は不正をする者のようになれ。私に立ち向かう者はよこしまな者のようになれ。

 ヨブは、神の前で、自分の良心が汚れていることは全くないと確認できました。それゆえに、友人らの告発に対してこのように強く臨むことができています。それでも自分を責める者がいれば、その者が神から責められるとまで言い切ることができるほどの力を、良心は持っています。ユダヤ人議会やローマの法廷の中で証言したパウロは大胆でしたが、それは良心がきよく保たれていたからです。また、中世期にルターがカトリック教会に対して告白した言葉も、良心に働く神のみことばに基づいていました。良心による誓いが、相手のあらゆる責めを停止させてしまうことができます。

 「良心」は、ローマ人への手紙の中で、山や川、天体などの被造物に現れている啓示の次に、神によって与えられた自然啓示として紹介されています。2章14節です。「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・(2:14-15」人間の基本的な部分で、神は良心を通して働いておられます。

 そして、良心に反したことを行なうとき、それは神の前で罪です。罪として責められるときに、私たち人間の立場は弱いです。負い目をもって生きなければいけません。しかし、神は、私たちの罪を取り除いて義と認めるために、キリストを身代わりにして罪とされました。それゆえ私たちキリスト者は、義と認められており、良心をきよくすることができています。ローマ8章にこう書いてあります。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34」自分を責め、訴える者は、私たちの前で力を失います。ですからヨブは、自分に敵対する者は、不正をする者、よこしまな者のようになれ、とまで宣言できているのです。

2C 聞かれない叫び 8−12
27:8 神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去るときは。27:9 苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。27:10 彼は全能者を彼の喜びとするだろうか。どんな時にも神を呼ぶだろうか。

 神を敬わない者は、死に際や苦しみの中での叫びが神に聞かれない、と言っています。しかしそれはもっともなことで、彼自身が神に呼び求めることをしないからです。呼び求めないことに応答することは、神にもできません。声をかけられないのに、返事をすることはできません。

27:11 私は神の御手についてあなたがたに教えよう。全能者のもとにあるものを私は隠すまい。27:12 ああ、あなたがたはみな、それを見たのに、なぜ、あなたがたは全くむなしいことを言うのか。

 友人らは、全能者のことについてヨブに語り続けていました。しかし友人たちは、ヨブについて完全に誤った見方をしていました。ヨブが罪を犯している、という判断を下していました。そのためヨブは、「全能者のもとにあるものをあなたがたは、みな、見たと言っているのに、むなしいことを語っているのか。」と言っているのです。

3C 相続財産 13−23
27:13 悪者の神からの分け前、横暴な者が全能者から受け取る相続財産は次のとおりだ。27:14 たとい、彼の子どもたちがふえても、剣にかかる。その子孫はパンに飽き足ることはない。27:15 その生き残った者も死んで葬られ、そのやもめらは泣きもしない。27:16 彼が銀をちりのように積み上げ、衣装を土のようにたくわえても、27:17 彼がたくわえたものは、正しい者がこれを着、銀は、罪のない者が分け取る。27:18 彼はしみが建てるような家を建てる。それは番人が作る仮小屋のようだ。27:19 富む者が寝ると、もうそれきりだ。彼が目を開くと、もうそれはない。27:20 恐怖が洪水のように彼を襲い、夜にはつむじ風が彼を運び去る。27:21 東風が彼を吹き上げると、彼は去り、彼をそのいる所から吹き払う。

 東風は、アラビアの砂漠を通って吹いてくるので、乾燥しており食物を枯らします。

27:22 神は容赦なくそれを彼に投げつけ、彼は御手からなんとかしてのがれようとする。27:23 人々は彼に向かって手をたたき、彼をあざけって、そのいる所から追い出す。

 これらの悪者に下る災いは、友人たちが何度もヨブに対して語ったことでした。しかしヨブは今、自分が潔白であること、良心を決して自分の身から離さないことを宣言した上で、悪者に対する神の災いを宣言しています。ただ人を裁くために、人を責めるために話すときの神の裁きと、自分が悪者の行なうことの一部でも分かち合っているなら、これらの災いが下っても一向に構わないという、良心に基づく神の裁きの宣言は、同じことを言っていても響きが全然違います。

 私たちが神の裁きについて話すとき、自分の心の中では次の三つのいずれかの思いが交差するでしょう。一つは、自分も神の裁きに値する同じ悪いことを行なっているではないか、という思いです。パウロが、ユダヤ人の教師に対してこう言いました。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。(ローマ2:21-22」このことに気づくと、神の裁きについて語れなくなります。自分自身が神の裁きに服するために、口をふさがざるを得ないからです。

 もう一つは、それでも神の裁きについて語ることです。これは、主が山上にて弟子たちに語られた言葉に当てはまります。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:12

 これが、ヨブの友人らが陥っていた過ちでしょう。本当に主を恐れている人なら、人をねじり伏せ、責め立てることはできません。ガラテヤ書6章には、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ6:1」とあります。またユダの手紙にも、「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(22-23」とあります。自分自身も同じ罪に陥るかもしれないという神への恐れがあるため、あわれみと柔和さが出てくるはずです。それがないとき、その人は自分を神の位置に置いていることになります。

 そして三つ目の思いは、パウロがコリント第一1131節で語った、「自分をさばくなら、さばかれることはありません。」という態度です。神の裁きの対象の中に、自分を含めてその裁きを語るときです。主への健全な恐れを抱きながら、神の裁きが下ることを宣言するときです。良心をきよく保ちながら神の前に生きるとき、ヨブのように、人の罪責感を操作したり弄んだりするのではなく、神への恐れを人々に与えるような言葉を語ることができます。

2B 知恵 28
 そして次にヨブは、「知恵」について語ります。友人たちのヨブに対する議論は、基本的に、「あなたは神を知っているのか。」というものでした。神についての知識や知恵がヨブには欠けている、という前提がありました。そこでヨブは、彼らの知恵についての論議をはるかにしのぐ、知恵の尊さについての議論を展開します。

1C 隠された金銀 1−11
28:1 まことに、銀には鉱山があり、金には精練する所がある。28:2 鉄は土から取られ、銅は石を溶かして取る。28:3 人はやみを目当てとし、その隅々にまで行って、暗やみと暗黒の石を捜し出す。28:4 彼は、人里離れた所に、縦坑を掘り込み、行きかう人に忘れられ、人から離れてそこにぶら下がり、揺れ動く。

 今ヨブが話しているのは、金や銀、またその他の宝石類の採掘についてです。縦坑を掘っていく人の話をしています。
28:5 地そのものは、そこから食物を出すが、その下は火のように沸き返っている。28:6 その石はサファイヤの出るもと、そのちりには金がある。28:7 その通り道は猛禽も知らず、はやぶさの目もこれをねらったことがない。28:8 誇り高い獣もこれを踏まず、たける獅子もここを通ったことがない。28:9 彼は堅い岩に手を加え、山々をその基からくつがえす。28:10 彼は岩に坑道を切り開き、その目はすべての宝を見る。28:11 彼は川をせきとめ、したたることもないようにし、隠されている物を明るみに持ち出す。

 紀元前2千年ごろの当時から、貴金属の採掘は現在と同じように行なわれていたようです。非常に貴いものとみなされて、それを採りだす努力は並々ならぬものがあります。ごく小さい石に、何十万円、何百万円、何千万円の価値が付けられてもおかしくない労働量があります。

2C 無比の価値 12−19
 しかしそれよりも、知恵のほうがさらに貴いとヨブは論じます。28:12 しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか。28:13 人はその評価ができない。それは生ける者の地では見つけられない。28:14 深い淵は言う。「私の中にはそれはない。」海は言う。「私のところにはない。」

 私たちが生きている世界で、すべてのことが知られているでしょうか?いいえ、あまりにも多くのことが未解明であり、分からないことだらけです。宝石の採掘以上の努力をもってしても、知恵や知識、理解は得ることができません。

 ヨブは、「海」や「淵」にも知恵がどこにあるか聞いていますが、死後の世界、陰府は地の中、海底の下にあると考えられていました。実際、主が、人の子が三日三晩、地の中にいると言われました(マタイ21:40)。つまり、生きている者の世界では全然見つからないので、死の世界に近いところに行って聞いてみるわけです。けれども、そこにも知恵はありませんでした。

28:15 それは純金をもってしても得られない。銀を量ってもその代価とすることができない。28:16 オフィルの金でもその値踏みをすることができず、高価なしまめのうや、サファイヤでもできない。28:17 金も玻璃もこれと並ぶことができず、純金の器とも、これは取り替えられない。28:18 さんごも水晶も言うに足りない。知恵を獲得するのは真珠にまさる。28:19 クシュのトパーズもこれと並ぶことができず、純金でもその値踏みをすることはできない。

 このヨブの言葉を、後にソロモンが箴言の中でたくさん取り上げています。知恵は金銀にまさる、という話です。世の中にはノーベル賞というものがありますが、多額の賞金が受賞者に与えられます。しかし、それでも未知の世界だらけであり、等価の財産は存在しません。

3C 神の全知 20−28
28:20 では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。28:21 それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。28:22 滅びの淵も、死も言う。「私たちはそのうわさをこの耳で聞いたことがある。」

 今、話したように死んだ後の世界であれば、地上で解明されていない出来事もある程度分かるのではないか、という推測を私たちはできます。これまで起こったことで、もし死者がいま自分たちに語りかければ、私たちの知識の量は飛躍的に増すのではないかと考えられます。しかし、実際は無理です。日本のテレビ番組には、超能力者が警察に協力して、未解決の犯罪や事件を解決するようなものがありますが、はっきりと明確に分かるようなものは何一つありません。真実のうわさ程度にしかすぎません。

 だから、本当の知識や知恵はどこにあるのでしょうか?その問いにヨブは明確に答えます。

28:23 しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。

 そうです、神ご自身です。神のみがすべての知識と知恵を持っておられます。

28:24 神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。28:25 神は風を重くし、水のはかりで量られる。28:26 神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。28:27 そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを定めて、調べ上げられた。

 どんな科学者でさえ分からない未知の部分を神はすべて知っておられ、神がすべての法則を作り、支配されておられます。そこで、私たち人間がすべきことを結論としてヨブは次に述べます。

28:28 こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」

 神を恐れることです。人間は到底、すべての知識を得ることはできません。しかし、神は知っておられます。だから人間が行なうべきことは、神を恐れ敬って生きることです。ソロモンが箴言の中で、同じことを言っていますね。また伝道者の書においても、神を恐れることが人間にとってのすべてであると言っています。ソロモンはヨブから、この教訓を得ました。

 すべてのものを、知恵をもって造られた神が存在することを認めることは、そのまま清く生きることと密接に結びつきます。ローマ人への手紙1章、エペソ4章にて、創造主を認めない人々の姿をパウロは次のように説明しています。ローマ書1章のほうを読みます。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(1:20-24

 多くの人が、自分の知識をふりかざして、時にはあからさまに創造主を信じる信仰を馬鹿にしています。「バカの壁」なんていう本も出版されていますね。ですから、知者であると言いながら愚かになり、とパウロは言っています。創造主を無視して、人間が人間として生きるべき道を知ることは無理なのです。どうりで、神を認めないところに人間の腐敗がはびこっています。

2A 意気消沈 29−30
 ですからヨブは、あまりにも人間は無知であり、一方で神が全知であることを語りました。それゆえ、人間として生きる道は神を恐れ敬うことであることを知っていました。そこで彼は、自分が神をおそれかしこみつつ生きていたことを具体的に証言しはじめます。

1B 昔の日々 29
1C 神の守り 1−6
29:1 ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。29:2 ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。29:3 あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。

 覚えていますか、友人たちがヨブを見舞いに来てから初めて彼が口を開いたとき、彼は自分の生まれた日をのろいました。自分が存在しなかったほうがいいと彼は思っていました。しかし、今は、自分は生きて、よかったときに戻れたらと言っています。

29:4 私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。

 ここの「壮年」のへブル語は、文字通りには「収穫」です。自分が盛んなとき、つまり青年期であるとも考えられます。そのときに、家の中にいたヨブに神は語りかけてくださっていました。彼は若いときから、自分の家における神との交わりを絶やすことはありませんでした。

29:5 全能者がまだ私とともにおられたとき、私の子どもたちは、私の回りにいた。

 ヨブ記1章に書かれている、息子や娘たちが自分の周りにいたときのことです。

29:6 あのとき、私の足跡は乳で洗われ、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたのに。

 自分の歩み、自分の生活から神からの油注ぎがあったと言っています。その具体的なことを彼は次に述べます。

2C 威厳ある裁き 7−25
29:7 私は町の門に出て行き、私のすわる所を広場に設けた。

 町の門はすべての人が見ているところです。すべての人が行き来している公共の場です。聖書時代には、ここで司法的な手続きが行なわれていました。例えば、ロトはソドムの町の門にいたときに、天使たちが彼のところにやって来ました。彼がその町のかしら的な存在でした。そして、ルツ記にてボアズが、ナオミの夫エリメレクの畑を買い取り、ルツも自分の妻にすることを、町の門で、長老たちの前で行ないました。ヨブは、司法的な手続きを行なっていた人でした。

29:8 若者たちは私を見て身をひき、年老いた者も起き上がって立った。29:9 つかさたちは黙ってしまい、手を口に当てていた。29:10 首長たちの声もひそまり、その舌は上あごについた。29:11 私について聞いた耳は、私を賞賛し、私を見た目は、それをあかしした。

 彼には、ものすごい威厳と、神から来る権威で満ちていました。単なる力で、人々が彼を恐れていたのではありません。霊的な権威と言ってよいでしょう、ヨブが権力をふるまわなくても、自然に人々を従わせる力です。その力が与えられた秘訣をヨブは次に述べます。

29:12 それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。29:13 死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。

 これは先に話した、「神を恐れ、悪から離れる」の教訓を実践例です。神を恐れていたとこから出てきた、弱い者を助ける働きであり、そこから本当の権威が生み出されていました。

 そしてヨブが、寄る辺のない者を助けた例を挙げているのは、先に友人らが嘘の告発をヨブに対して行なったからです。弱い者をヨブは虐げていたとエリファズは言いました。それでヨブは、それが完全な嘘であることを述べています。

29:14 私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。

 義を着物を身につけることとしてたとえています。新約聖書にも、パウロがしばしば、キリスト・イエスを見に着けなさいとか、義を身に着けることを私たちに勧めています。

29:15 私は盲人の目となり、足なえの足となった。29:16 私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。29:17 私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。

 巨悪な犯罪、巧妙な隠蔽に対しても、ヨブはことごとくその悪を抉り出していきました。

29:18 そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう。29:19 私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。29:20 私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。

 自分の命はもちろんいつか途絶えるが、その人生は不死鳥のように、また水をたくさん含んだ土で育てられた植物のようになる、と言っています。

29:21 人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。29:22 私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。29:23 彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。

 知恵の言葉を語ったということです。

29:24 私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。

 本当に威厳のある人は、おだやかです。けれども、おだやかな顔を見せられても、その威厳に圧倒されてしまいます。

29:25 私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。

 ヨブは首長でもあり王でもあるような存在でした。それに加え、慰めることができる人でした。

2B 今 30
 このようにヨブは、正義と神への恐れの中で生きてきました。けれども、あまりにも対照的な今の姿があります。その落差を彼は、悪童どものあざけりを受けていることによって説明します。

1C 悪童どもの嘲り 1−15
30:1 しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。

 かなり身分の低い者たちについて話しています。身分が低いというよりも、半分、野生化したような、人間の理性を少し失っているような者たちについて、ヨブは話しています。

30:2 彼らの手の力も私に何の役に立とうか。彼らから気力が消え失せた。30:3 彼らは欠乏とききんでやつれ、荒れ果てた廃墟の暗やみで砂漠をかじる。30:4 彼らはやぶの中のおかひじきを摘み、えにしだの根を彼らの食物とする。

 食べ物をまともに食べていないので、知能指数もかなり落ちて、動物のようになっています。

30:5 彼らは世間から追い出され、人々は盗人を追うように、彼らに大声で叫ぶ。30:6 彼らは谷の斜面や、土や岩の穴に住み、30:7 やぶの中でつぶやき、いらくさの下に群がる。

 まるで野生の動物のような動きですね。

30:8 彼らはしれ者の子たち、つまらぬ者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ。30:9 それなのに、今や、私は彼らのあざけりの歌となり、その笑いぐさとなっている。30:10 彼らは私を忌みきらって、私から遠ざかり、私の顔に情け容赦もなくつばきを吐きかける。

 つばきをかけることは、当時の文化、いや、今でも多くのところで、人を嘲るためのもっともひどい手段として数えられています。モーセの律法の中にも、子を残す義務を話さない男に対して、女がつばきをかける定めが書かれています(申命25:9)。

30:11 神が私の綱を解いて、私を悩まされたので、彼らも手綱を私の前に投げ捨てた。30:12 この悪童どもは、私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に向かって滅びの道を築いた。30:13 彼らは私の通り道をこわし、私の滅びを推し進める。だれも彼らを押し止める者はいない。30:14 彼らは、広い破れ口からはいって来るように、あらしの中を押し寄せて来る。30:15 恐怖が私にふりかかり、私の威厳を、あの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った。

 悪童どもがヨブをいじめている姿を、ヨブは表現しています。

2C 焼ける骨 16−31
 そして次に彼は、今の肉体の苦しみを表現します。

30:16 今、私は心を自分に注ぐ。悩みの日に私は捕えられた。30:17 夜は私の骨を私からえぐりとり、私をむしばむものは、休まない。30:18 それは大きな力で、私の着物に姿を変え、まるで長服のように私に巻きついている。

 骨がとてつもなく痛くなる病気にヨブはかかっていました。

30:19 神は私を泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。

 かゆみを取るためなのか、あるいはもだえ苦しんで不意になのか、泥の中に自分の身を投げ入れてしまいました。彼の皮膚は真っ黒になっています。

30:20 私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。

 これは、試練のときの彼の嘆きです。ヨブだけでなく、試練の中にいる人ならだれでも経験していることです。祈りが聞かれていないかのように感じるときがあります。自分が何度も聞いているのに、何の答えもありません。天井に向かって祈っているようなときです。これは試練です。

30:21 あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、御手の力で、私を攻めたてられます。30:22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私をきりもみにされます。30:23 私は知っています、あなたは私を死に帰らせ、すべての生き物の集まる家に帰らせることを。

 神は私をこのように苦しめて、最後は死なせるのだ、という気持ちになっていました。

30:24 それでも、廃墟の中で人は手を差し伸べないだろうか。その衰えているとき、助けを叫ばないだろうか。

 彼は神に祈るのを止めていません。

30:25 私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか。30:26 私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。

 自分が善を行なった結果、このような悪が訪れたと嘆いています。

30:27 私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。

 内臓が熱く燃えるような痛みを覚えていました。

30:28 私は、日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。

 彼の惨めな姿が描かれています。外には出ず、暗いところにいました。そして、みなが集まっているところにも言って、叫んでいました。

30:29 私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。

 どちらも野生の動物です。

30:30 私の皮膚は黒ずんではげ落ち、骨は熱で焼けている。

 ここの描写から、象皮病と呼ばれる皮膚病にヨブがかかっていたのではないかという人たちがいます。

30:31 私の立琴は喪のためとなり、私の笛は泣き悲しむ声となった。

 立琴や笛は楽しむときのもの、パーティーの時に奏でるものですが、それが喪に服するものに変わってしまったと言っています。

 彼は悩んでいます。義を身にまとっているのに悪がふりかかった、という悩みです。前にも指摘しましたが、彼のこの姿はキリスト・イエスの姿であります。この方こそ罪を一度も犯されなかった、正しい方だったのに、むち打ちや十字架刑による肉体の苦痛を味われ、かつ人々の嘲りを受けられました。

3A 無実の立証 31
 そしてヨブは立て続けに、自分の潔白性を主張していきます。

1B 若い女 1−4
31:1 私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。31:2 神が上から分けてくださる分け前は何か。全能者が高い所から下さる相続財産は何か。31:3 不正をする者にはわざわいが、不法を行なう者には災難が来るのではないか。31:4 神は私の道を見られないのだろうか。私の歩みをことごとく数えられないのだろうか。

 ヨブは31章にて、具体的に自分が潔癖であったことを証言していきます。自分がもし、これこれの罪を犯していたのなら、それにふさわしい災いが私にふりかかるようにと願っています。無実の主張です。

 一番目は、情欲です。「どうしておとめに目を留めよう」とあります。自分の目と契約を結んだ、ともヨブは言っていますが、情欲をもって女を見ることから彼は離れていました。主は、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28」と言われました。この箇所を読んだら、99パーセントの男性は自分の罪に気づくでしょう。けれども、この地上にヨブほど潔白な者はいないと主が言われましたが、ヨブはこの罪を犯していなかったのです。

2B 偽り 5−8
31:5 もし私がうそとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、31:6 正しいはかりで私を量るがよい。そうすれば神に私の潔白がわかるだろう。31:7 もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手によごれがついていたなら、31:8 私が種を蒔いて他の人が食べるがよい。私の作物は根こぎにされるがよい。

 二番目は、偽りです。嘘をついたことがない人はいるでしょうか?ヨブはこの罪についても、自分を引き離していました。

3B 姦淫 9−12
31:9 もしも、私の心が女に惑わされ、隣人の門で待ち伏せしたことがあったなら、31:10 私の妻が他人のために粉をひいてもよい。また、他人が彼女と寝てもよい。

 3番目は、姦淫です。この罪を犯していたら、妻が粉引きをしてもよい、と言っていますが、粉引きは本当に卑しい仕事でした。

31:11 これは恥ずべき行ない、裁判にかけて罰せられる罪だ。31:12 実に、それは滅びの淵まで焼き尽くす火だ。私の収穫をことごとく根こぎにする。

 姦淫の罪の忌まわしさ、また裁きの厳しさについて話しています。パウロも新約聖書の中で、異邦人のクリスチャンたちに、性的不品行にともなう神のさばきについて、何度も警告しました。

4B 不公正 13−15
31:13 私のしもべや、はしためが、私と争ったとき、もし、私が彼らの言い分をないがしろにしたことがあるなら、31:14 神が立たれるとき、私はどうすればよいか。また、神がお調べになるとき、何と答えたらよいか。31:15 私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか。私たちを母の胎内に形造られた方は、ただひとりではないか。

 自分の下で働いている人をないがしろにすることはできない、とヨブは言っています。これが4番目で、公正であることです。コロサイ書にて、主人の上にも、天にて主がおられることをパウロは話しましたが、ヨブも同じように主への恐れを抱いていました。自分の下にいる者たちであっても、神によって造られたというところでは、まったく平等である、ということです。

5B 無慈悲 16−23
31:16 もし、私が寄るべのない者の望みを退け、やもめの目を衰え果てさせ、31:17 私ひとりだけで食物を食べて、みなしごにそれを食べさせなかったのなら、31:18 ・・私の若いときから、彼は私を父のようにして育ち、私は、母の胎にいたときから、彼女を導いた。・・

 ヨブが5番目に取り上げているのは、慈悲です。困窮している者の叫びに具体的に答えることです。彼らをないがしろにすることは、主をあなどることであることをヨブは知っていました。それで彼は、ホームレスに近い人々を親のように世話しました。

31:19 もし、私が、着る物がなくて死にかかっている者や、身をおおう物を持っていない貧しい者を見たとき、31:20 彼の腰が私にあいさつをせず、私の子羊の毛でそれが暖められなかったのなら、31:21 あるいは、私を助ける者が門のところにいるのを見ながら、みなしごに向かって私の手を振り上げたことがあるなら、31:22 私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。31:23 神からのわざわいは私をおびえさせ、その威厳のゆえに、私は何もすることができないからだ。

 ヨブは、確信をもって自分のわざわいがくだってもよい、と言っています。そこまで強く言えるということは、裏を返せば、それだけやましいことがない、良心がきよく保たれているということです。

6B 富への愛 24−25
31:24 もし、私が金をおのれの頼みとし、黄金に向かって、私の拠り頼むもの、と言ったことがあるなら、31:25 あるいは、私の富が多いので喜び、私の手が多くの物を得たので、喜んだことがあるなら、

 6番目、金銭を愛することです。

7B 偶像礼拝 26−28
31:26 あるいは、輝く日の光を見、照りながら動く月を見て、31:27 私の心がひそかに惑わされ、手をもって口づけを投げかけたことがあるなら、31:28 これもまた裁判にかけて罰せられる罪だ。私が上なる神を否んだためだ。

 7番目、偶像礼拝です。姦淫と同様、偶像礼拝も罰せられる罪であり、神を否むことであると強く言っています。

8B 復讐 29−30
31:29 あるいは、私を憎む者の衰えているのを私が見て喜び、彼にわざわいが下ったとき、喜び勇んだことがあろうか。31:30 私は自分の口に罪を犯させなかった。のろって彼のいのちを求めようともしなかった。

 8番目は、復讐心です。愛は悪を喜ばない、とコリント第一13章に書いてありますが、自分にいやなことをしたことが落ちぶれたら、私たちの肉は喜びます。「ざまあみろ」と思うわけです。けれどもヨブはそれをしませんでした。

9B 慈善 31−32
31:31 いったい、私の天幕の人々で、「だれか、彼の肉に飽き足りなかった者はいないか。」と言わなかったことがあろうか。31:32 異国人は外で夜を過ごさず、私は戸口を通りに向けてあけている。

 9番目は慈善です。しかも異国人である人に対して、彼は戸口を閉めることはありませんでした。

10B 罪の隠蔽 33
31:33 あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。

 10番目は、罪の隠蔽です。興味深いですね、ヨブの時代にすでにアダムのことは、よく知られていました。アダムが罪を覆い隠そうとしたのは、みなさんよく知っていますね。これをヨブはしなかったと言っています。

11B 人への恐れ 34
31:34 私が群集の騒ぎにおびえ、一族のさげすみを恐れて黙り、門を出なかったことがあろうか。

 11番目は、人への恐れです。これが正しい判断を歪めてしまうことは、聖書のときにも証明されました。ユダの最後の王ゼデキヤは、エレミヤの言葉をよく聞きながら、ユダヤ人のことを恐れてバビロンに服することをしませんでした。主への十字架刑の宣告を出したピラトも、群集を恐れました。その罪をヨブは犯しませんでした。

12B 着服 35−40
31:35 だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、31:36 私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ、31:37 私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにして近づきたい。

 ヨブが叫んでいます。もし罪咎があるなら、そのとおりに裁かれたい、と。彼の良心は本当にきれいだったのです。こんなにきれいでいたら、私たちは何と幸せなことでしょうか。ダビデも、罪を主がお認めにならない人はなんと幸いなことか、とうたいました。

31:38 もし、私の土地が私に向かって叫び、そのうねが共に泣くことがあるなら、31:39 あるいは、私が金を払わないでその産物を食べ、その持ち主のいのちを失わせたことがあるなら、31:40 小麦の代わりにいばらが生え、大麦の代わりに雑草がはびこるように。

 最後の12番目は、着服の罪です。自分のものにしてしまうようなことは、彼はしませんでした。

 ヨブのことばは終わった。

 これで、友人たちの口は閉ざされました。本当に、これだけ潔白であったら、だれが口出しすることができるでしょうか?主が、「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と言われた理由がよく分かります。私が、今のリストを一つ一つチェックしていったら、潔白とは程遠いところにいます。ここに自分の力が失われています。パウロは、「自分をさばけば、主からさばかれない」と第一コリントで言いましたが、自分の良心をきよく保っていくことによって、神の力ある証しを立てることができるのです。

 しかし、このように自分の義を主張したことによって、再びヨブを戒めようとする者が次に現れます。エリフという人物です。彼はこれまでの友人らの主張とは、若干違う面からヨブを責めます。


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