ヨエル書1−3章 「主の日」

アウトライン

1A いなごの大群 1
   1B 畑の荒廃 1−14
   2B 主の日の前触れ 15−20
2A 恐るべき日からの救い 2
   1B 無数の軍隊 1−11
   2B 断食ときよめ 12−17
   3B 新しい穀物とぶどう酒 18−27
   4B 御霊の降り注ぎ 28−32
3A 諸国への裁き 3
   1B ヨシャパテの谷 1−8
   2B 諸国の戦い 9−17
   3B シオンの回復 18−21

本文

 ヨエル書を開いてください、今日は本書のすべてを学んでみたいと思います。3章分しかありません。今日のメッセージ題は「主の日」です。

1A いなごの大群 1
1B 畑の荒廃 1−14
1:1 ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。

 預言者ヨエルについての背景情報は、この一節にしかありません。他の預言者はどの王が治めていたかを書いているのですが、それが書いてありません。唯一ここに「ペトエル」という父の名がありますが、ペトエルが誰であるかが分かりません。

 けれども、ヨエル書の次のアモス書にヨエルの預言の引用が二箇所にあります(ヨエル3:16がアモス1:2に、ヨエル3:18がアモス9:13)。したがって、アモスよりは古い人であることが分かります。アモスは紀元前790年頃、預言活動を行いました。北イスラエルではホセアなどが、南ユダではイザヤなどと同時期です。それで、おそらくヨエルは、預言者の第一人者エリヤとその後継者エリシャの時代に預言したのではないか、と言われています。紀元前840年から30年頃ではないかと言われています。エリヤとエリシャは、預言書として書き残していないので、ヨエルが預言書の中では最も古いのではと考えられています。

 そしてヨエルは、おそらく南ユダの預言者だろうと言われています。なぜなら、シオンについてのこと、エルサレムについてのことを預言しているからです。

 彼はまず、最近この地を襲った前代未聞の、いなごによる災害のことを預言します。この大災害によってもたらされた穀物の損失と、人々の悲しみを見ながら、主から、終わりの日に襲う恐ろしい日、「主の日」の幻を見ます。ですからヨエル書は、実に将来に関わることであり、私たち現代に生きる者たちが経験するはずの差し迫った危機について語ります。これからの世界がどうなるのか、私たちはここで知ることができます。そしてその大変な時代を先に控えて、私たちが心を引き裂いて、神の前で悔い改めることを教えています。

1:2 長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。1:3 これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。

 聴衆に対する呼びかけです。長老に呼びかけ、また後世の子孫にも言い伝えよ、と命じています。なぜなら、「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の世々の時代にも再び起こらない。(2:2」という類のものだからです。一番長く生きている長老たちが、どんな昔の話の中にも、これだけの災害は見聞きしなかった。そしてこれから後世の人々も、ここまで酷い災害を経験することはない、という意味です。

1:4 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。

 これは、いなごの大群が押し寄せる時、徹底的な食い荒らしを行なうことを表現しているところです。四つの大群の波が描かれていますが、口語訳ではこうなっています。「かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。」かみ食らういなご、群がるいなご、とびいなご、そして滅ぼすいなごです。

 これはそれぞれの種類のいなごがいるということではなく、いなごが行なったことを語っています。このように四つの災害は例えばエゼキエル書1421節には、「わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰」とあるように、神の裁きの徹底さを強調するときに出てきます。

1:5 酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。

 まず、いなごによる災いによって被害を受けるのは、「酔っぱらい」です。いなごによって、ぶどう園が徹底的に荒らされ、お酒なしには生きていけない人が泣き悲しみます。私たちの経済でも、不景気になればまず被害を受けるのは第三次産業つまりサービス業ですね。居酒屋やレストランなど、生活に必ずしも必要ではないものから打撃を受けます。

1:6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。

 いなごの大群を、数え切れない国民に形容しています。箴言3027節に、「いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。」とあります。いなごの顎の部分がライオンの牙に似ているので、「その歯は雄獅子の歯、牙がある」と言っています。

 そして後に、これが単なる形容ではなく、恐ろしい軍隊が後に世界にやってくることを預言する前触れとなっています。

1:7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。

 主が、イスラエルの地に生えている木をご自分の木として強調されています。すべてのものは主のものです。ホセア書でこれを学びましたが、それを自分たちのものだと思って豊かさを偶像礼拝のために用いたのが北イスラエルの人たちです。そのため、主は裁きのためにご自分のものをこのようにして取り上げられます。

1:8 若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。

 喪失した悲しみを、若い時に夫を失った、あるいはまだ結婚していなくてもその婚約相手を失った女のように悲しめ、と言われています。

1:9 穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服する。1:10 畑は荒らされ、地も喪に服する。これは穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油もかれてしまうからだ。1:11 農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。1:12 ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた。

 つまり、酔いしれている者たちだけではなく、農夫も祭司たちも、あらゆる人々がいなごの災害によって泣き悲しみます。

1:13 祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。1:14 断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。

 神は、損害を受けている人々のうち、これら祭司たちの嘆き悲しみに焦点を当てておられます。それは、これは単なる災害ではなく、神の意図をもった災害だからです。律法の中には、神の裁きの一つとしていなごの災害があります。覚えていますか、エジプトに対する十の災いのうちで、第八の災いはいなごでした。そしてモーセが祝福と呪いを宣言した時に、「畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。(申命28:3839」と言いました。

 ですから、単なる襲いかかった災いではなく、明らかに神の裁きという意図があっての災いなのです。だから、まず気づかなければいけないのは祭司たちであり、そして祭司たちが率先して断食と清めの集会を開かなければいけないと命じられておられるのです。

 私たちも同じです。私たちの周りに、私たちの生活の中で、いろいろなことが起こります。それらのことが神にあって起こっていることを私たちがいつになったら悟ることができるのかが、重要になります。単に嫌なことが降りかかった、面倒くさい、困ったことになった。」と不満を述べたり、あるいは「なんで私だけにこんなことが降りかかるのか。」とうらみつらみを話すなら、それは神の御心を見失っています。すべては私たちがへりくだるため、そして主に呼び求めて救いを求めるためなのです。

2B 主の日の前触れ 15−20
1:15 ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。1:16 私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。1:17 穀物の種は土くれの下に干からび、倉は荒れすたれ、穴倉はこわされた。穀物がしなびたからだ。

 ヨエルは、最近起こったいなごの災害のことを預言している中で、神の御霊によって「主の日」のことを想起しました。いなごの災害によって起こっていることが、全世界規模で、終わりの日に起こる出来事を指し示していたのです。「主の日」を私たちはしっかりと自分の信仰体系の中で把握しなければいけません。ここに「全能者の破壊」とありますが、主がこの地上に破壊をもたらすところの期間です。イエス様が「ひどい患難(マタイ24:21」または「大患難」と言われた日のことです。

 イザヤ書136節から読みます。「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」これはヨエルが預言したのとまったく同じですね、「それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。(610節)」これはヨエルが22節で預言しているのと同じです。天体が真っ暗になります。

 アモス書518節からです。「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家にはいって手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。(18-20節)」同じように、天体が真っ暗になる、と言っています。それから、ゼパニヤ書114節から読みます。「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。(14-16節)」これも同じことが書いてありますね。

 これは旧約聖書のことだけだ、と言われる方はどうぞテサロニケ第一5章2節からお読みください。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(2-3節)」そして黙示録110節には、使徒ヨハネが「主の日」に御霊に感じて、その後見たものは、6章から始まるとてつもない災害であります。

 私たちの周りで起こっている出来事は、神がお定めになったこの期間に向かっていく一過程なのだ、ということを知る必要があります。そして私たちは恐れをもって主をあがめ、そして慎ましく生きていくように主によって命じられています(1テサロニケ5:68)。

1:18 ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。1:19 主よ。私はあなたに呼び求めます。火が荒野の牧草地を焼き尽くし、炎が野のすべての木をなめ尽くしました。1:20 野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです。

 ヨエルは、いなごによって根こそぎ草が食い尽くされた姿を見て、終わりの日に火によって焼き尽くされる地上の幻を見ています。事実、家畜はいなごの被害によって牧草地がなく飢え苦しんでいるのですが、それは将来、火によって焼き尽くされ、荒廃した地を歩いている家畜の姿を投影していたのです。

2A 恐るべき日からの救い 2
1B 無数の軍隊 1−11
2:1 シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。

 ここから主の日の実際の預言です。「角笛」を吹き鳴らせ、とありますが、民数記10章に、ラッパを吹き鳴らすことについての命令があります。イスラエルの宿営を出発させる時など、人々を呼び集めたり、召集したりするときに吹きますが、「あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。(9節)」とあります。これから主が、ご自分の住まわれるシオンから世界に向けて、この侵略者が来ることを告げておられるのです。

2:2 やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。2:3 彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。

 先ほどは、いなごが一つの国民、数え切れない国民として形容されていましたが、終わりの日には実際に無数の軍隊がこのようにして世界を襲います。「山々に広がる暁の光」とありますが、山から朝日が昇るときに、一気に山全体に光が広がっていきますね。同じように、この軍隊は見る見るうちに広がって、そして一気にすべてを覆うのです。そして、彼らからは「」が出ています。それゆえ、草という草は全く焼き尽くされます。

2:4 その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。2:5 さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。2:6 その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。

 馬のようだ、軍馬のようだ、と言っていますが、馬だ、軍馬だとは言っていません。

2:7 それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。2:8 互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。2:9 それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓からはいり込む。

 このおぞましい姿を想像できるでしょうか?一糸乱れず、どんな妨害が入ってもびくともせず、前進し続けます。そして、大雑把に荒らしていくのではなく、家々の中にまで入ってきます。これはいったい、何なんでしょうか?

 私は幼いころホーラー映画を見て、眠れなくなり、怖い思いをしましたが、大人になって、世に起こっている事の中にはもっと恐ろしいことがあることを知りました。「現実は小説より奇なり」と言われますが、実にその通りです。全体主義国家の中で行なわれている口に出すこともできない残虐行為、日本国内でも行われている人身売買、また、「平和」「人権」という言葉を連呼している人々の中で、裏で行なわれている、とてつもない不法行為などなど。映画や小説は、人々を楽しませるエンターテイメントの目的で書いているので、いくら怖がらせるといっても限度があるのでしょう。けれども私たちは、現実はもっと恐ろしいのだということを知らなければいけません。

 黙示録9章に、ヨエルが預言したことをヨハネが見ている場面があります。この招待はまさに「悪霊」です。1節から読みます。
 

第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。(1-11節)

 お分かりですか、この軍隊の出所はアバドン、アポリュオン、つまり悪魔です。そしてその手下どもの悪霊が底知れぬ所から出てきて、世界の人々に苦痛を与えているのです。続けて読みましょう、13節からです。
 

第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。(13-19節)

 この軍隊は最新兵器を使った人間であると言う人たちもいますが、ユーフラテス川から解き放たれた堕落した天使らによって送られている騎兵なので、これらも悪霊である可能性はあります。こちらの軍馬の特徴は、火を噴くことです。これもヨエル書2章から来ています。

 つまり、まだ地上で生きているうちに、地獄の苦しみを味わうということです。これがヨエルが恐れおののいている「主の日」の幻でありました。

2:10 その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。2:11 主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。

 ここにこれらの悪霊どもの力がどこから来ているかがはっきりと書かれています。「主ご自身」です。これは主が悪を生み出した、ということではありません。悪は悪魔が高慢になってから始まったものです。そうではなく、神がすべてのことを掌握されていて、悪魔そして悪霊どもをさえ掌握されていて、今、地上に下す裁きのために彼らが地上を荒らすままに任している、ということです。

2B 断食ときよめ 12−17
2:12 「しかし、今、・・主の御告げ。・・心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」

 すばらしいですね、ここから主の慰めのメッセージが始まります。「しかし、今」という言葉から始めておられます。この言葉が聖書ではとても大事です。「国々はこのように恐ろしい裁きを受ける。しかし、今、あなたがたは立ち上がれ。」です。エペソ書2章にもあります、「私たちもみな、・・・ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし・・・(34節)

2:13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。

 着物ではなく「心」です。私たちはどうしても形式的になってしまいます。心にまで至る前に、ただ口だけで「主よ、お赦しください。悔い改めます。」と言います。口で言い表していることを、また外側の行ないで示していることを、どこまで心の中で実際に行なっているのかを吟味する必要があるでしょう(ヤコブ4:810参照)。そして、「立ち返れ」です。これは「悔い改めなさい」の別の言葉です。思いを変えることです。

 そして「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」というのは、主がご自分の名をモーセに知らせる時に宣言された内容です(出エジプト34:6)。詩篇にも繰り返し出てきます。私たちがこの言葉を暗記して、これが神の本質なのだということを心の奥にこびりつかせてください。なぜか不思議なことに、私たちはその逆のことを神に対して思うからです。すぐに怒り、一度災いを定められたら二度と変えることはない方であると決めつけるのです。これこそ、悪魔の罠であります。神はその反対のご性質を宿しておられます。

2:14 主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。

 先に穀物とぶどう酒がなくなると宣言されましたが、それを反対に残されると約束してくださっています。私たちは自分の罪によって、失敗によって失ったものを、もう取り返すことはできないと思ってしまいます。けれども、心からの悔い改めを行なっているならば、主の恵みはそれを埋め合わせ、埋め合わせるだけでなく満ち溢れるようにしてくださる力を持っておられるのです。

2:15 シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。

 再び、「角笛」を吹き鳴らす集会を呼びかけておられます。民数記10章には、戦いに召集する時にラッパを吹き鳴らすだけでなく、例祭の時にも吹き鳴らしなさいという命令があります。

2:16 民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。

 全員参加です。乳飲み子まで寄せ集めよ、と命じられます。そして新婚夫婦も呼び出せと命じられています。ネヘミヤ記に、これと似た出来事を読むことができます。バビロンから帰還した民が、エルサレムの城壁を再建し終えた後に、エズラに律法を朗読してもらいました。「男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前で、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女でりかいできる人たちの前で、これを朗読した。(8:23」とあります。ここではさすがに乳飲み子は連れてこられていませんが、いや、乳飲み子もいたことでしょう、母親は参加しているはずだからです。聞くことのできる人、というのは、言葉をもう知っている子たちも含めて、ということです。

2:17 主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか。』と言わせておいてよいのでしょうか。」

 悔い改めと憐れみを請う祈りをささげていますが、祈っている場所を見てください。「神殿の玄関の間と祭壇との間」です。祭壇とその奥にある聖所において奉仕するのが祭司です。しかし、祭司はそこに自分たちが参上する価値もない、ということを認識しているのです。似たような話が、イエス様の例えにありましたね。パリサイ人と取税人の祈りです。パリサイ人は宮の中で祈りましたが、罪人は遠くに離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて祈りました(ルカ18:13)。全く自分は神の前に立つ資格などない、という認識です。

 そして、「ゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。」と祈っています。これはモーセを通して、主がイスラエルの民をそうすると宣言された状態であります。「主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。(申命28:37」このように、ユダヤ人が世界に散らされた時に、先の主の恐ろしい日がやってきて、その時に彼らが主に対してこの悔い改めの祈りをささげます。

3B 新しい穀物とぶどう酒 18−27
2:18 主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。

 この「ねたむほど愛し」という言葉を覚えてください。神は、あなたをねたむほど愛しておられるのです。これが神の情熱のこもった愛です。神は、愛することにおいて冷めた方ではありません。強い感情がこもっています。したがって、私たちが罪の中に陥っている時に「いいんだよ、それでも大丈夫だよ。」と決して言うことがおできにならないのです。罪の中にいたら必ず死ぬのです。滅ぶのです。真の愛は、私たちを懲らしめて、そして何とかして私たちが主に立ち返ることができるようにする愛であります。

2:19 主は民に答えて仰せられた。「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない。2:20 わたしは北から来るものを、あなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやり、その前衛を東の海に、その後衛を西の海に追いやる。その悪臭が立ち上り、その腐ったにおいが立ち上る。主が大いなることをしたからだ。」

 主が彼らを約束の地に帰還させてくださいます。そしてその地を再び豊かにしてくださいます。そして、たとえ国々が彼らを襲ってこようとも彼らを打ち滅ぼしてくださいます。「北から来るもの」とありますが、エゼキエル書38章にあるのはマゴグの地のゴグです。そして、ダニエル書12章にあるのは、世界に荒廃をもたらすところの忌むべき者、つまり反キリストがいます。どちらなのかは分かりませんが、いずれにしても北からイスラエルの地を滅ぼそうとします。

 その時に主が超自然的にご介入されます。ちょっと、動画でも見ていることを想像してください。イスラエルの地図を思い出してください。北から軍隊が洪水のように押し寄せます。けれども、イスラエルに近づいた時にその軍を両脇に押しやられます。そうすれば、西の海である地中海に押しやられて、溺れ死ぬ人々が出てきます。そして東の海、つまり死海にも押しやられて死ぬ人々が出てきます。そしてかろうじて海の中に落ちなかった人々も、ユダとエルサレムには入ることはできず、南の砂漠地方ネゲブに来るだけです。そしてそこで倒れた死体はそこに積み上げられ、悪臭を放ちます。

2:21 地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。2:22 野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。2:23 シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。

 この、主の大いなることの後、自然界は神の理想の姿に回復します。アダムが罪を犯した為に呪われたこの地が、またイスラエルの罪のために敵に踏み荒らされたこの地が、元に戻ります。

 そしてシオン、つまりエルサレムの町にいる人々は、主から義を与えられ、喜び楽しんでいます。彼らが物理的に救われただけでなく、霊的に救われたのです。ここにもあるとおり、義とするのは主ご自身であり、彼らが行なった義によるのではありません。

 この自分の行ないによる義ではなく、神が与えられるところの義はローマ人への手紙で、パウロが詳細に論じています。これは私たちもよく間違えます。私たちが主に近づき、礼拝をささげるときに、いつも思い出さなければいけないのは、キリストが私たちのために行なってくださった義です。キリストが私たちの罪のために死んでくださったこと、これを思い出し、それを自分のものとして受け入れる時、主は私たちを義とみなしてくださるのです。

 そして主が再びお戻りになられるとき、私たちは義と認められるだけでなく、義とされます。けれども、その義も私たちの行ないではなく、神が罪あるこの体を、天からの新しい体に変えてくださるため、神から与えられる義なのです。

 そして主は、「初めの雨」と「後の雨」に言及しておられます。これがイスラエルの地に収穫をもたらすところの季節的な雨です。新共同訳では「秋の雨」と「春の雨」と訳されていますが、秋の収穫が終わった後に、土地に雨が降り、その水を含んだ土に種を蒔くことができます。これが「秋の雨」あるいは「初めの雨」です。そして作物が育ち、三月、四月ごろに再び大きな雨が降ります。この雨によって、作物は勢いずき、一気に花を咲かせ、実を結ばせます。これが「春の雨」あるいは「後の雨」です。そして五月からイスラエルは乾季に入ります。

2:24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。2:25 いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。

 先に話したとおり、主は、私たちが罪で失ったものを恵みによって十分に償うことのおできになる方です。

2:26 あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。2:27 あなたがたは、イスラエルの真中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。

 永遠に恥を見ることはない、と二度も繰り返しておられます。主がこれだけ確証しておられるのですから、永遠に恥を見ることはないのです。これが「永遠の救い」あるいは「永遠の保証」と呼ばれるものです。主が与えられるのは、途中であきらめてしまうような救いではありません。主がお救いになると決められているのなら、それは永遠に救うことを考えておられるからです。

4B 御霊の降り注ぎ 28−32
 そして、主はすばらしい霊的祝福の約束を与えておられます。

2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。2:29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

 ここで主が強調されているのは、「すべての人」です。旧約時代、主は、ご自分が選ばれた預言者、祭司、義人、また聖徒にのみ御霊を注がれました。イスラエルの民が荒野で、マナばかり食べて飽き飽きした、肉がほしいと文句を言ったとき、モーセは「なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。(民数11:11」と言われました。彼は疲れ果てていました。それで主は、長老七十人に、モーセに与えられているご自分の霊を置かれました。そうしたら長老たちが預言を行いました。

 このことに腹を立てたヨシュアに対して、モーセがこう言いました。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(同29節)」このモーセの願いの答えが、この約束です。

 教会が誕生したのは、まさにこのことが起こったからだと言ったのがあのペテロです。彼らが屋上の間で祈っている時に、五旬節の満ちた日に、ご聖霊が火の舌のような形で降りてこられて、彼らがご聖霊に満たされて、外国の言葉で神を賛美しはじめました。そして世界中から来ていたユダヤ人の巡礼者らが、自分の地方の言葉で彼らが神を賛美しているのを見て、驚き怪しみました。

 ある者が「ぶどう酒に酔っているのだ。」と言ったので、その言葉を使ってペテロは説教を始めたのです。「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒2:15-18」そして、彼はヨエル書の預言を続けて引用して、次から読む30節から32節までの言葉を読みます。それは大患難時代についての預言です。

 そしてキリストを宣べ伝えた後、心刺されたユダヤ人に対してペテロはこう言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。(38-39節)」ヨエル書に預言されている御霊の約束は、ユダヤ人とその子孫、また遠くにいる人々にまで、主がお召しになる人であれば与えられる、と言うのです。この遠くにいる人々というのが異邦人のことです。ローマの百人隊長コリネリオを始めとして、実にこの日本列島にまで、主はご自分の聖霊を注がれる人々を召してくださっています。

 つまり私たちには、聖霊の約束が与えられています。預言を行ない、夢を見、幻を見るという聖霊の賜物の約束が与えられています。大患難時代にまで続くところの約束が与えられています。「聖霊の著しい賜物の働きは、聖書の正典が完成した今、必要なくなった。」という人々がいますが、それは明らかに誤りです。教会はまさにご聖霊の賜物の働きによって、賜物を用いるところの奉仕によって成り立つ共同体です。聖霊の賜物なしに、どうやって教会を運営しようと言うのでしょうか?

2:30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。2:32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。

 現在においても、「主の名を呼ぶ者はみな救われる。」という約束は有効です。ローマ人への手紙10章に、パウロは、ただ心で信じ、口で告白するだけで救われることを言った後でこのヨエル書の預言を引用しました。

 けれども、特にシオンにいる人々、イスラエルの残りの人々に対しては、終わりの日に、大患難において御霊が注がれるという約束が与えられています。ゼカリヤも同じことを預言しています。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分が突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(12:10」そして「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。(13:1」とあります。パウロがローマ11章の最後のところで、「こうして、イスラエルはみな救われる(26節)」と言ったことが実現します。

3A 諸国への裁き 3
1B ヨシャパテの谷 1−8
3:1 見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、3:2 わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。3:3 彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。

 主がエルサレムに戻ってこられた後に行なわれるのは、この諸国への裁きです。「ヨシャパテの谷」というのは、オリーブ山と神殿の丘の間にあるケデロンの谷のことです。そこに諸国の民を集め、そしてイスラエル人とまたその地に対して行なったことに対して、裁きを行なわれます。

 この同じことを話されたのが、イエス様のオリーブ山の講話です。世の終わりのことを話し、それからいろいろな例えによって、目をさまして用意しなさいと説き、それから最後にこう言われました。「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。(マタイ25:31-33」ハルマゲドンの戦いの中でなおも生き残っているわずかな人々です。生き残っているからと言って、そのまま神の国に入れるのではありません。それでイエス様が裁きを行なわれます。

 この右にいる者たちに対して、主はこう言われます。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(40節)」ここでイエス様が言われた「わたしの兄弟たち」というのは、このヨエル書によると肉による兄弟であるユダヤ人たちです。イスラエルの地を荒らし、自分たちの思うままに分け合い、そしてユダヤ人の娘を商品のように売り買いしている異邦人に対して、主は地獄に行くことを宣言されます。そして命を賭けて、彼らをかくまい、助け、食事を与えた者たちに対しては御国の中に入れます。

3:4 ツロとシドンよ。おまえたちは、わたしに何をしようとするのか。ペリシテの全地域よ。おまえたちはわたしに報復しようとするのか。もしおまえたちがわたしに報復するなら、わたしはただちに、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返す。3:5 おまえたちはわたしの銀と金とを奪い、わたしのすばらしい宝としている物をおまえたちの宮へ運んで行き、3:6 しかも、ユダの人々とエルサレムの人々を、ギリシヤ人に売って、彼らの国から遠く離れさせたからだ。3:7 見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその所から、彼らを呼び戻して、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返し、3:8 おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう。彼らはこれを、遠くの民、シェバ人に売る、と主は仰せられる。

 イスラエルを我が物にした異邦人として、ツロとシドン、そしてペリシテが挙げられています。前者は今のレバノンで、後者はガザ地区です。興味深いことに、そのどちらの地域からも、イスラエルは自分たちの軍を撤退させ、ガザ地区からは入植者たちも引き抜きました。そしてそのどちらの地域にも、イスラエル全滅をもくろむイスラム過激派が入り込んでいます。レバノンにはシーア派過激派のヒズボラ、ガザ地区にはスンニ派過激派のハマスです。けれども、主は必ず報復を行なってくださいます。

2B 諸国の戦い 9−17
3:9 諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。3:10 あなたがたの鍬を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ。」と言わせよ。3:11 回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。・・主よ。あなたの勇士たちを下してください。・・3:12 諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。

 ここの箇所の聖句を使って、私たちが主の戦士となり、戦いなさいというプレイズを聞いたことがあります。けれども前後関係を読めば、それは決して歌ってはならないものです。なぜなら、主が「聖戦をふれよ」と呼ばれているのは、主によって裁きを受けるためだとあるからです。

 これは神がご自分の主権の中で、ご自分に反抗する諸国の軍隊がエルサレムに集まって来いと挑戦しておられるところなのです。先にも申し上げましたとおり、主は、反抗する者たちの反抗をさえ用いられて、ご自分の栄光を現されます。まさにハルマゲドンの戦いです。

 そしてその集まってきた軍隊に対して、ヨエルが「主よ。あなたの勇士たちを下してください。」と祈っています。これこそ主の御使いたちのことです。諸国の軍隊を主が滅ぼされる時に、主に仕える御使いたちがその裁きを執行するように彼らを遣わしてください、と祈っているのです。

3:13 かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。3:14 さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。3:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

 集められた軍隊どもが、主によってことごとく滅ぼされるのを、黙示録では「収穫」として例えています。黙示録1417節から読みます。 

また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。(17-20節)

 これです、この裁きはヨエル書にある、今読んだところから来ているのです。

3:16 主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。3:17 あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。 

 諸国の軍隊にとっては神の怒りの現われでしたが、主の民にとってはそれが救いでした。テサロニケ第二1章にも、主の報復の時が信者たちにとっての栄光の時、救いの時であることが書いてあります。キリストは同じキリストなのですが、各人にとって救い主であるか、あるいは裁き主であるかのどちらかなのです。

3B シオンの回復 18−21
3:18 その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。

 キリストが地上で神の国を統治される時の至福の状態です。カナン人の地がかつて「乳と蜜の流れる地」であると呼ばれましたが、その豊かさが取り戻されます。そして、ワジと呼ばれる涸れた川がユダの荒野にたくさんありますが、そこに絶えず水が流れるようになります。

 特に、主の宮から泉が湧き出て、シティムの渓谷を潤すというのは、エゼキエル書にも預言されている神殿から湧き出る水のことです。エゼキエルがその水かさ測っていると、始めは足のくるぶしほどであったのに、さらに下流を測るにつれて水かさが泳げるほどの水になりました。その水が二手に分かれて、西には地中海に、東には死海に流れます(47章参照)。このシティムの渓流は、この東の死海に流れる渓谷であると考えられます。

3:19 エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。

 エドムについては、イザヤ書、エレミヤ書、またエゼキエル書にも永遠の廃墟が定められていることが預言されています(例:エレミヤ49:13)。彼らがイスラエルの民、またその土地に行なったことによるためです。そしてエジプトはゼカリヤ書において、千年王国における仮庵の祭りに集わないために、そこに雨が降らないという預言があります。それでそのどちらも荒れ果てた地です。

 私たちがいかに、「裁いてはいけない、裁かれないためです。」という主の戒めを真剣に捉えなければいけないかを知ります。彼らのように、自分の憎しみや怨念によって、神のものを貪るように奪い取る時、それにふさわしい報いを受けるのです(エゼキエル36章参照)。

3:20 だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。3:21 わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。

 エジプトやエドムとは対照的に、主はユダの人々の只中に住んでくださいます。シオンに住んでくださいます。主が共に住んでくださること、これが救いの究極の姿です。

 私たちが、今どこにいるでしょうか?主がおられるところに自分もいるでしょうか?それとも、この世とその欲望の中に入ってしまっているでしょうか?どうか心を裂いてください。主に立ち返ってください。世は今、終わりの日の徴を見ています。その中にいて、私たちがユダの人々のように、へりくだって主の御名を呼び求めるならば、主は今にでも私たちの罪を赦し、癒してくださいます。