ヨシュア記20−22章 「正しい判断」

アウトライン

1A 逃れの町 20
   1B 血の復讐からの救い 1−6
   2B 割り当て地に散らばる町 7−9
2A レビ人の町 21
   1B 町と放牧地 1−42
      1C ケハテ族 1−26
      2C ゲルション族とメラリ族 27−42
   2B 果たされた神の約束 43−45
3A 内戦の危機 22
   1B 二部族半の帰還 1−9
   2B 異なる祭壇 10−29
      1C イスラエルの死 10−20
      2C 主の分け前の証拠 21−29
   3B 祭司とかしらたちの帰還 30−34

本文

 ヨシュア記20章を開いてください、今日は22章まで学びます。前回私たちは、イスラエルのそれぞれの部族にヨシュアが、くじによる割り当てを行なったところを読みました。けれども、まだ残されている部族がいます。レビ人です。レビ人は、相続の割り当てがありません。けれども彼らの住む町とその放牧地は与えられます。今日は、その話の中に出てくるレビ人の働きから、主に「正しく裁く」ことについて学ぶことができます。

1A 逃れの町 20
1B 血の復讐からの救い 1−6
20:1 主はヨシュアに告げて仰せられた。20:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、20:3 あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。20:4 人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。20:5 たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。20:6 その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」

 モーセがイスラエルに命じていた土地についての掟に、「逃れの町」がありました。当時は非常に血なまぐさい慣習がありました。誰かが人を殺したとすると、家族や親族がその復讐を果たす、という掟です。イスラエルの神も、人を殺した者に対しては死をもって罰すことを命じておられますが、けれどももし事故によって人を誤って殺してしまったときはどうするのでしょうか?木こりが仲間と木を切っている時に、斧の頭が柄から外れてそれが仲間の頭にぶつかり死んでしまった、というような事故が起こるとします。当時の掟によれば、その者は一生の間、その仲間の家族や親族に命を狙われる身となります。

 しかし主は公正な神です。殺意のない殺人は死をもって裁かれるべきではありません。そこで復讐者が入ってくることのできない町をイスラエルの地に設けます。公正な裁判を受けるようにその町は彼を保護しなければいけません。4節を読むと、逃げてきた人が切羽詰っている様子が伝わってきます。「入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。」とあります。一刻も早く町の中に入らなければ、殺されてしまうかもしれないからです。ユダヤ教の言い伝えによると、逃れの町までの道は整備がしっかりと施されており、「こちらが逃れの町」という標識があった、ということです。

 逃れの町に避難してきた人は、裁判が終わるまで、あるいは「大祭司が死ぬまで」そこに住まわなければいけない、とあります。神のご性質から人々に公正な裁きを与えるための保護という実際的な目的の他に、大祭司による定めですから霊的な意義もある掟であります。聖書の中に、「逃れる」とか「避ける」という言葉はたくさん出て来ます。「避け所」という言葉で、詩篇に数多く出てきるのが、主ご自身に使われている言葉です。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(46:1」本当は殺されなければいけないところを、主が避け所となって救ってくださるという意味合いがあります。

 新約聖書の中で、おそらくは逃れの町のことを考えて書かれたのではないか、と言われている箇所があります。ヘブル人への手紙です。「それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。(6:18」神の救いを信じる私たちは、神のところに逃れてきた、と言っているのです。そしてヘブル書の著者は、イエスが偉大な大祭司であり、この方が私たちのために執り成しをしてくださっていると教えています。ですから、大祭司が死ぬときまでそこにいなければいけないというのは、私たちはイエス・キリストの執り成しの中にいつもいなければいけないことを表しています。

 私たちは、ここに逃れれば完全に安心だというところがあります。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1」イエス・キリストの中にいれば、ちょうど逃れの町の中にいる者が復讐者によって殺されることのないように、決して罪に定められることはありません。もし私たちが、自分が過去に犯した罪について、また現在も、肉の弱さによって犯してしまう罪についてその咎めを受けているのであれば、どうかイエス・キリストの中に逃げてください。この方の中に、具体的にはその肉体において、私たちの肉に対する神の処罰を身代わりに受けてくださった十字架において、私たちは逃れの町を見出すことができるのです。

2B 割り当て地に散らばる町 7−9
20:7 それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。20:8 エリコのあたりのヨルダン川の向こう側、東のほうでは、ルベン部族から、高地の荒野にあるベツェルを、ガドの部族から、ギルアデのラモテを、マナセ部族から、バシャンのゴランをこれに当てた。20:9 これらは、すべてのイスラエル人、および、彼らの間の在留異国人のために設けられた町々で、すべて、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むためである。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないためである。

 モーセはすでにヨルダン川の向こう側と、こちら側にそれぞれ三つの町を当てなければいけないと教えていました。そして距離を測って、すべての相続地でどこかに近い逃れの町があるように、地理的に均等に定めなければいけないと教えていました。そこでここにある町を見ると、ヨルダン川のこちら側には、北のナフタリ族にある町、真中のシェケム、南にはヘブロンを逃れの町にしています。ヨルダン川の向こう側も、北のマナセ半部族の町、バシャンの中にあるゴランを、そしてガド族のギルアデにある町、そして南のルベン族の町を当てています。

2A レビ人の町 21
1B 町と放牧地 1−42
1C ケハテ族 1−26
21:1 そのとき、レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアとイスラエル人諸部族の一族のかしらたちのところに来て、21:2 カナンの地のシロで、彼らに告げて言った。「主は、私たちに住むべき町々と、家畜のための放牧地とを与えるよう、モーセを通して命じられました。」21:3 それで、イスラエル人は、主の命令で、彼らの相続地から、次の町々とその放牧地とをレビ人に与えた。21:4 ケハテ諸氏族のために、くじが引かれたとき、ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族のうちから、くじによって、十三の町がレビ人の祭司アロンの子孫のものとなった。21:5 エフライム部族、ダン部族、マナセの半部族から、十の町がくじによって残りのケハテ族のものに、21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、十三の町がくじによってゲルション族のものに、21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ族の諸氏族のものになった。

 民数記25章において、モーセがレビ人の町々と放牧地についての寸法を教えていました。城壁の町で、その周りを囲むようにして正方形の放牧地があります。興味深いのは、イスラエルの地に逃れの町を当ててから、レビ族のかしらたちのほうからヨシュアに町々と放牧地を与えるよう願い出ています。なぜなら25章に、それら逃れの町は同時にレビ人の町になるからです。逃れの町とレビ人の町は一つの命令の中に与えられていたからです。8節以降に、具体的なレビ人の町々の名が記されていますが、「殺人者ののがれの町」という呼称が使われています。例えば13節にヘブロンについて「祭司アロンの子孫には、殺人者ののがれの町ヘブロン」、21節には「エフライムの山地にある殺人者ののがれの町シェケム」とあります。

 公正な裁きを受けるための保護を、レビ人が行なっていたということは興味深いです。レビ人にあるもので他のイスラエルの部族にないものは何でしょうか?神の律法を教えること、そして礼拝の奉仕です。レビ人に与えられている大きな務めが、正しい判断を民に与えるというものです。そして正しい判断は、神の律法そのものにあり、彼らは律法に聞き、それを教えるときに神からの知恵をいただく必要がありました。

 詩篇19篇に神の仰せについて、その正しさと知恵を教えています。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(7-8節)」すばらしいですね、私たちの魂を神の教えは生かし、また賢くします。また喜びをもたらし、私たちの目を明るくします。当時の慣習に従えば、復讐は当たり前であったのです。けれどもレビ人は、その流れに対抗して神の律法の中にある正義を遂行していたのでした。私たちキリスト者も同じです。世の中がどのような方向に流れていようとも、私たちの感情や知性に拠り頼むことなく専ら神の御言葉に頼るのです。

 レビ族には、レビの三人の息子にしたがって三つの氏族がありました。ケハテ族とゲルション族とメラリ族です。そして民数記において、それぞれの氏族にそれぞれの礼拝の奉仕と務めが割り当てられました。ケハテ族が、神の天幕の中にある祭具を運びます。契約の箱、供えのパンの机、燭台、祭壇です。そしてケハテ族の中にアロンの家系がありました。アロンの家系だけは、幕屋の中での礼拝の奉仕を行いました。そしてゲルション族は、主に幕を運ぶ奉仕にあずかっていました。そしてメラリ族が板や横棒などを運搬していました。けれども、荒野の旅は終わっているので、幕屋は選ばれたところ、定められたところに置かれていますから、彼らの奉仕の種類も大きく変わったことでしょう。けれどもアロンの家系は続けて、幕屋の中における奉仕を行います。レビ人の町も、他のケハテ族とは別にアロンの家系だけに十三の町があてがわれました。

 8節から26節までに、ケハテ族の町々があります。13節から19節までにアロンの子孫に与えられた町々が、そして20節から26節までに残りのケハテ族に十の町が与えられています。これらの町々の地理的位置を調べますと、興味深いことが浮き彫りにされていきます。

 一つは、「アロンの子孫が住んでいるところは、エルサレムのそばのベニヤミン族の中にある。」ということです。当時はエフライム領のシロに神の幕屋があったのです。けれどもモーセは死ぬ前に各部族を祝福したときにこう預言しました。「ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」(申命33:12」ご自分の住まいをベニヤミンのところに置くことを、予め定めておられたのです。ベニヤミンが祝福されているのは、北にある代表的な部族であるエフライムとマナセ、そして南の代表的な部族であるユダの間に挟まっているということです。その中心軸に、主は将来、そこをご自分の住まいにすると考えておられました。

 そのために、後にダビデにおいて契約の箱がエルサレムに安置されるようになったのです。私たちはヨシュア記の後の士師の時代を過ぎて、ダビデが王となったとき、彼は契約の箱をエルサレムに移したのです。エブス人の町を彼は奪還して、ダビデの町にしました。

 次に気づく点は、「アロンの子孫の他の町々はシメオン族という、ユダ族の中にあるところに町々が与えられている。」という点です。これも後世起こることを暗示してあるものです。今度はモーセではなく、ヤコブが死ぬ前に彼が祝福して預言した言葉には、ユダに対する王権がありました。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世49:10」事実、ダビデが王となり、彼の子孫からメシヤが出てきて、王国をとこしえに統べ治めるという約束が与えられました。ダビデの息子ソロモンが王となって、彼が死んでからイスラエルが南北に分裂しましたが、北イスラエルでは勝手に自分たちの祭壇を造り、金の子牛を造って、そして勝手に祭司を立てて、異なる礼拝を始めました。南のユダの国がかろうじてエルサレムにおける礼拝を固持していたのです。

2C ゲルション族とメラリ族 27−42
 そして27節から33節までがゲルション族の町々があり、34節から40節までにメラリ族の町々があります。そこから見えるもの、そして先ほどのケハテ族のアロン系ではない人々が住んでいる町々の地理的位置を考えてみたいと思います。地図で見ると一目で分かりますが、東西南北の周辺に満遍なく広がっています。残りのケハテ族には地中海に接するダン族の中に多く町があります。ゲルション族はゴシェンのマナセ半部族のところにあります。そしてナフタリ、アシュル、ゼブルン、イッサカルと、北方を外敵から守るかのように位置しています。そしてメラリ族はゼブルン族にもありますが、多くはルベン族に点在しています。

 ここから何が分かるでしょうか?今、私は「外敵から守るかのように」と言いましたが、実際そうなのではないか、と思うのです。それは偶像礼拝を含む外国勢力から霊的に守る務めを担っていたのではないか、と思われます。イスラエルにとって何が脅威になるのか?それは、彼らが主のみを神として、異邦人の仕える偶像に引き寄せられることなく生きることが死活問題です。このことさえしっかりと行なっていれば、主ご自身が彼らを守ってくださり、安住を約束しておられます。後に、ソロモンの王国が分裂したときに、北イスラエルでヤロブアムが決められたレビ人たちを罷免した結果、アハブの時代にシドン王の娘イゼベルがバアルをイスラエルに持ち込みました。そのために北イスラエルがその後弱体化し、ついにアッシリヤによって滅ぼされるのです。

 私たちは何に気をつけなければいけないのかが、ここからよく分かりますね。私たちの最前線であります。みなさんにとっては、それは職場でしょう。または個人の家の中かもしれません。家族のことを一番課題だと思っておられる人もいるでしょう。あるいは自分の心の中そのものかもしれません。いずれにしても、私たちがここ教会で神の御言葉を聞き、その通りだ、アーメンと同意することができても、本当にその御言葉を実践するのは、世の中という最前線なのです。実は、私たち一人一人が宣教師です。限られた一部の人だけが、他の文化圏に行き、全く異なる文化の中でキリストの光を照らすのではありません。教会とはまったく異なる文化と環境の中で、それでも主の御言葉がどのように当てはまるのか、模索し、祈り、知恵を神から求めるのです。その試みの中でそれでも御言葉により頼むときに、私たちは実質的な霊的成長、すなわちキリストに似た者とされていきます。

 それではまとめの文だけ読みたいと思います。41節に飛んでください。21:41 イスラエル人の所有のうちで、レビ人の町は、全部で四十八の町と、その放牧地とであった。21:42 これらの町には、それぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はみなそうなっていた。

 これでヨシュアが行なうべき、土地の相続についてモーセから命じられたすべてを守り行ないました。

2B 果たされた神の約束 43−45
21:43 こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。21:44 主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45 主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。

 すばらしいです。これが信仰の生活です。本人たちは、もっぱら主から命じられたことにひたすら従っていただけでした。けれども、振り返ってみれば、主がすべてのことをまとめて、完成させるに至らせたことが分かります。

 私たちはその渦中にいますと、全体像が見えないので果たして自分がどこにいるのか分からないですね。ちょうど山登りをして生い茂ったところにいて頂上どころか周囲さえも全く分からなくなるような時があります。ヨシュアも、相続の割り当てをしているときに、いつ行なうべきなのか、どのように行なえばよいのか、戒めを与えるべきなのか、祝福すべきなのか、叱責したほうがよいのかなど、思い巡らしたのだと思います。満員電車の車掌さんに例えれば、「押すべきなのか引くべきなのか」いろいろ考えあぐねたのだろうと思います。そして祈りによって、モーセの律法にかなうと思われることを実行していったのでしょう。けれども、蓋を開いてみれば、主が約束してくださったことがことごとくその通りになっていました。自分がこの事業を行ったのではなく、すべてが主の行なわれた真実の証しだったのです。

3A 内戦の危機 22
 そして次に、この安住の時期に突如として内戦勃発が起こる危機が噴出します。

1B 二部族半の帰還 1−9
22:1 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、22:2 彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。22:3 今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒め、命令を守ってきた。22:4 今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。22:5 ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」22:6 ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。

 ヨシュア記は実は、この二部族半に対してヨシュアが共に戦うことを命じ、そして彼らが積極的に応答している場面から始まりました。民数記からの続きになっており、この二部族半がモーセに対してヨルダン川の東に相続地を得たいと言い出したことから始まりました。モーセは、「これでは民の意気をくじく。」と強く戒め、叱りました。そして彼らは、「それでもここに相続を持つと決めたのです。」と言うので、モーセは共に主の戦いを戦わなければいけないと厳に命じました。彼らはそれに同意したのですが、ヨシュア記では、彼らは実によく戦ったことを描いているのです。

 彼らが「土地は平安になったのに、なぜ私たちは戻れないのですか。」と言わずに、ヨシュアの方から「あなたがたは帰りなさい。」と祝福していることがすばらしいです。それだけ彼らには服従の心がありました。けれども、訓戒も与えました。「モーセの律法をしっかり守りなさい。」と言い添えています。ヨルダン川を渡るという大きな奇蹟によって、彼らは事実、約束の民となったわけで、その向こう側にいるのですから、前の古い自分たちで動いてしまわないとも限りません。

22:7 ・・マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた。・・さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、22:8 次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」22:9 それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。

 彼らが戦い抜いた報酬としては、当然のものです。そして、戦った自分だけでなく、その戦いを後方で助けていた妻たちや子供たちにも、その分け前が与えられます。私たちは、誰か一人の人が行なっている奉仕の務めを、「その人がやっているのだ。」と他人事のように考えてはいけません。その人を祈りによって、その他の事柄によって助け支えることは、本人が受ける報いに自分もあずかるようになるのです。例えば宣教師に対して捧げている人は、天においては、宣教を行なった本人と同じように報いを受けているのです。

2B 異なる祭壇 10−29
1C イスラエルの死 10−20
22:10 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。22:11 イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」22:12 イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。

 ヨシュアが抱いていた、また誰もがそうなるかもしれないと思う一つの出来事が起こりました。ヨルダン川の向こう側に、一つの祭壇を二部族半が築いたのです。主は、祭壇は選ばれた所の一つとなると申命記で定められました。その他でいけにえを捧げれば、それはそのまま偶像礼拝につながります。「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。(申命12:13-14」それで彼らは、戦をする覚悟でシロに集まりました。すでにギルガルではなく、神の幕屋のあるシロを拠点としています。そしてここのシロにある幕屋以外に、他に祭壇を築いてはいけないのです。

22:13 それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、22:14 イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。

 ここで大事なのは、ピネハスが先頭にいるということです。彼は祭司であり、そしてバラムがそそのかして、モアブの娘たちをイスラエルの宿営に送り込み、そしてイスラエルの男たちが淫らなことをして、彼女たちの神々を拝んだという事件が起こりました。バアル・ペオルという事件です。その時に、公然と宿営に入って行ったイスラエル人の男とミデヤン人の女に対して、ピネハスは二人を槍でもって突き刺し、神罰をこれ以上起こさないようにしたという証しを持っています。

 彼らはどんな犠牲を払おうとも、聖なる神の真理を保つことを優先させたのです。金の子牛をシナイ山のふもとで造った時も、モーセは「誰でも主につく者は、私のところに。」と言ったら、レビ人たちがやってきました。彼らに剣を持たせ、乱れている者たちを殺させました。たとえ兄弟に逆らってでも、主に身を捧げることをレビ人は体現しました。私たちキリスト者も、神の真理をキリストの愛のゆえに保つ必要があります。聖書が神の言葉であり、それは真理なのですが、聖書に書かれていることを犠牲にて折り合いをつけても、それで愛は育まれないし、キリストの体は建て上げられません。「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:15

22:15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。22:16 「主の全会衆はこう言っている。『この反逆は何か。あなたがたはきょう、主に従うことをやめて、イスラエルの神に反逆し、自分のために祭壇を築いて、きょう、主に反逆している。22:17 ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が主の会衆の上に下ったのだ。22:18 あなたがたは、きょう、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、主に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。22:19 もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。22:20 ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。』」

 まさに、文字通り真剣勝負です。彼らは知っていました。バアル・ペオルの時も、ごく一部のイスラエル人が犯した罪でした。ところが宿営全体に広がったのです。そしてアカンが聖絶のものを自分の天幕に入れたために、主ご自身はイスラエル全体が犯した罪とみなし、それで三十六人がアイで殺されてしまったのです。ですから、このような罪を犯したのでは二部族半のみならず、他の九部族半も滅ぼされることを、その深刻な状況を伝えて、二部族半に迫っています。

 けれども彼らは、仲間を殺すなどあまりにもむごいことは絶対にしたくないと願っています。すばらしいです、聖なる神に対する情熱を持っていると同時に、兄弟に対する愛情を彼らは持っていました。「所有地を渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。」と言いました。これはとてつもなく大きな犠牲です。ただでさえ、ヨセフ族は土地が狭いと言ってヨシュアに不平を言っていたのです。けれども彼らと戦うのを避けることができるのであれば、むしろその犠牲を支払っても構わないと思ったのです。

2C 主の分け前の証拠 21−29
 今、私は、二部族半がいけにえを捧げるためにこの祭壇を築いた、という前提で話をしていきました。それが九部族半の見た判断でした。ヨルダン川の向こう側で、彼らが見える所に存在する祭壇は、いけにえのための祭壇だと思ったのです。ところが実は、早合点だったのです。

22:21 すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。22:22 「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。22:23 私たちが祭壇を築いたことが、主に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、主ご自身が私たちを責めてくださるように。

 もし彼らの言っているとおりのことを自分たちが行なっているのであれば、まったくその通り、私たちを神が裁いてください、と強調しています。

22:24 しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。『あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。22:25 主はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主の中に分け前を持っていない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。22:26 それで、私たちは言いました。『さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。22:27 ただ私たちとあなたがたとの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、主の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、「あなたがたは主の中に分け前を持っていない。」とは言わないであろう。』22:28 また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。『私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。』22:29 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」

 わかりますか、彼らが築いたのは祭壇ですが、目的が正反対です。そこでいけにえを捧げるのではなく、むしろヨルダン川の向こう側に定められた、主が選ばれた場所における祭壇のいけにえを、後世、できなくなってしまうのではないかという懸念からでした。川を挟んでいます。これが大きな障壁です。イスラエルに行けば分かりますが、ヨルダン渓谷があってその東にギルアデがありますが、そこは高山であり高原です。地形的にカナンの地と隔たりがあります。ですから、モーセの律法をしっかりみないで、見た目だけで判断する者たちが九部族半の中から出てくるのではないか、自分たちも祭壇のいけにえの分け前が与えられているのに、「あなたたちには、その分け前がない。ヨルダン川がその証拠ではないか。」と言い出すのではないか、と懸念したのです。この懸念がはたして正しいのかどうか分かりませんが、人間的には十分に考えられることです。

 そこで、この祭壇を造りました。それは、祭壇こそがヨルダン川のこちら側と向こう側にいるイスラエルの民を一つにするものであり、神への礼拝こそが彼らの力であり、それで我々も祭壇でのいけにえを捧げる分け前にあずかっているのだという証拠のための祭壇でした。

3B 祭司とかしらたちの帰還 30−34
22:30 祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。22:31 そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」

 実に合点が行きました。理にかなっていました。それで非常に喜んでいます。「あなたがたが、今、イスラエル人を主の手から救い出したのだ。」と言っています。

22:32 こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。22:33 そこで、イスラエル人は、これに満足した。それでイスラエル人は、神をほめたたえ、ルベン族とガド族の住んでいる地に攻め上って、これを滅ぼそうとは、もはや言わなかった。22:34 それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。」と呼んだ。

 カナンの地に住んでいるイスラエル人は、主をほめたたえました。新約聖書でも似たようなことが起こりましたが、ユダヤ人の間だけの教会しかなかったところで、神が異邦人へ救いの手を差し伸ばしておられました。そこで主がペテロに幻を見せて、ローマの百人隊長コルネリオの家に行かせました。ユダヤの兄弟たちはその話を聞いて、異邦人のところで食事を取ったと言って非難したのですが、ペテロが順序立てて説明すると、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。(使徒11:18」と言って、神をほめたたえたのです。一時的に誤解や対立が生じても、最後に喜びの中で主をほめたたえることができるのは、すばらしい御霊の働きです。

 カナンの地にいる九部族半のイスラエル人は、その聖なる動機は称賛に値するのですが、早合点したことにおいて過ちを犯しました。同じ祭壇でも、それをすぐに「いけにえのための祭壇」と断定しました。私たちがしばしば犯してしまう過ちですね。見た目で物事を判断してしまうのです。一部の情報しか与えられていない時点では、それが一体どういうことなのかを見極める思慮深さを必要とします。

 けれども、彼らは剣で刺殺したのではなく、ピネハスを先頭にして、彼らは率直な話し合いを始めました。そこには知恵がありました。バアル・ペオルの事件、アカンの事件をピネハスは取り上げました。聖なる神に対する熱意を中心にして話しました。そして最後の砦となる慎みを有していました。無条件に剣で殺すのではなく、「私たちの側で相続地を持ちなさい。」という妥協案を持ち出したことです。分かりますか、逃れの町においてもレビ人が公正な判断をするのに用いられることになります。早まった判断によって人を殺すことのないような知恵が与えられています。神は聖なる方であり、殺人者には死を、また異なる祭壇でいけにえを捧げる者も断たねばならないのですが、けれども急いで裁くことをしなかったのです。

 そして私たちは、多少の摩擦が生じても、率直な話し合いというのは、主の御心を知るために必要になるときがあります。イスラエルの民で起こり、初代教会で起こったのですから、私たちの教会が優っていることは決してありません。けれども、それは柔和さと優しさによってなされるべきです。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ6:1

 そして二部族半の対応からも学ぶことができます。彼らによってはとんでもない思い違いを九部族半はしていることになります。けれども、同じ真剣さをもって、けれども憤ることなく語りました。それで九部族半が主をほめたたえたのです。「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(箴言15:1

 それではそのまま聖餐式に入りたいと思います。九部族半は、自らが誤った判断をしていたことにすぐに気づきましたが、後世のユダヤ人指導者の中には、いつまでも自分の欲望を持っており、いつまで経っても見た目でしか判断をせず、ついに正しい方を死罪に定めた人々がいました。そうです、イエスを死刑に定めたユダヤ人指導者たちです。イエスは律法と預言者の成就であられ、聖なる神を体現されていた方ですが、自分たちの考えと合わないということで真っ向から対立しました。そこには、もしかしたら自分たちは間違っているかもしれないという余地がありませんでした。

マルコ
14:56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。14:58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造って見せる。』と言うのを聞きました。」14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。14:65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

 私たちが、聖なる神の基準の前に謙虚になることなく、自分の意志を貫くのであれば、キリストを十字架につける罪を犯していることになります。今、主の前に出て行きましょう。そして、悔い改めてこの方が祈られた祈りを思い出しましょう。

ルカ
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 私たちが罪を犯している時に、主はそれをすべて受けられて、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われました。それに気づいた、共に十字架につけられている罪人は、その真実に気づいたのです。この方をそのまま見なければいけない。私たちが描いている救い主は、自分の都合に合わせた救い主ではないのか。自分の今の苦境を救ってくれればそれが救い主だと思っているが、そうではなく自分の心にある罪を赦してくださるところの救い主ではないのか?そのようにへりくだることができたのです。そのことに気づいた罪人に対して、イエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。

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