ヨシュア記23−24章 「安住後の敵」

アウトライン

1A 主の真実に対する応答 23
   1B 主への願い求め 1−8
   2B 主への愛 9−13
   3B 御言葉の傾聴 14−16
2A 試される民の真実 24
   1B 選択の促し 1−15
      1C 主が残された真実の証し 1−13
         1D 父祖たち 1−4
         2D 出エジプト 5−7
         3D エモリ人の王とバラム 8−10
         4D 労苦なしの主の御業 11−13
      2C 呼びかけ 14−15
   2B 民との契約 16−28
   3B 過ぎ去る今の世代 29−33

本文

 ヨシュア記23章を開いてください。今日でついにヨシュア記が終わります。さっそく中身に入っていきましょう。

1A 主の真実に対する応答 23
1B 主への願い求め 1−8
23:1 主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。

 ついにヨシュアが老人になりました。以前のヤコブのように、またモーセのように、残る世代に対して神のしもべであるヨシュアは最後の言葉を残します。死ぬことが分かっている人が残す言葉ほど、重みのある大事なものはありません。信仰によって生きた者たちの言葉は、多くのばあい預言になっています。

 ここで大事な言葉は、「イスラエルに安住を許されて後」であります。主が敵からイスラエルを守っておられます。けれどもまだ、カナン人たちを全て追い出していません。けれども主が守ってくださり、安住が許されていたので、彼らの中に悪い安心感が芽生えていました。「このままで良い」という安心感です。今だけを考えて、今が安全なら事を荒立てる必要はないでしょう、という思いです。これは霊的に危険なところにいます。私たちには霊的成長が必要です。変化が必要です。さらに、前進する必要があります。パウロは、信仰を競走に例えてこう言いました。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14

23:2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。23:3 あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。

 ヨシュアは、イスラエルの指導者たちを集めています。長老たち、かしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せています。24章には一般のイスラエル人すべてを呼び集めています。

 そしてヨシュアは、主がどれだけ良いことをしてくださったのか、主の真実の行ないを思い起こさせています。すべての国々に主が行なわれたことを見なさい、これらは主があなたがたのために戦ってくださったからなのだよ、と言っています。ヨシュアは続けて、9-10節でも、14節でも、主が彼らにいかに良くしてくださったか、真実を尽くしてくださったかを教えています。

 私たちはいつも、悪いことを覚えるのが得意です。こんなにすばらしいことが起こったのに、主がこれまで裏切ることなく真実を尽くし、祝福してくださるのに、いつこの祝福が途切れるのか心配になります。または、人間的な思惑に陥って、「こんなことを行なったから、今、こういう悪いことが起こっているのか?」と悩んでみたり、分析してみたり、また成功の秘訣を自分が行ったことで探ってみようとしたりします。そのような時は、自分中心に陥っているのですね。主は変わりなく私たちに良くしてくださっているのです。これを仰ぎ見て、そして主をほめたたえるのです。

23:4 見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。23:5 あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。

 ヨシュアはかつてモーセによって命じられたように、今、残る指導者たちに対して命じています。まだモーセに命じられたすべての仕事を終わらせたのではありません。これを、ここにいる指導者が貫徹しなければなりません。

23:6 あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。23:7 あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。

 主がヨシュア記1章で、モーセの死後にヨシュアに命じられたように、律法に記されていることを断固として行ないなさい、と命じています。私たちに命じられていることも同じです。主イエス・キリストから命じられていることを、一心に行なっていくことに専念します。途中で置き去りにしてしまったものがあるかもしれません。それに対して未練があるかもしれません。けれども、私たちは生活をシンプルにしなければいけません。主から命じられていることに集中するのです。

 イエスは弟子になろうとした人にこう言われました。「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:59-62

 そしてモーセの律法の中で彼らに関わる、差し迫った大きな問題があります。彼らのそばに住んでいるカナン人です。彼らとの交わりは決してしてはならないと命じています。交わりとは何でしょうか?ここに進展が書いてありますが、ここに「神々の名を口にしてはならない」とあります。口にすることから、妥協が始まります。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ5:3」そして、「誓ってはならない」とあります。これは具体的にその行動に移すことです。それから、「仕えてはならない」とあります。行動に移しただけでなく、それを継続的に行なっている状態です。そして最後に「拝んではならない」とあります。もうやめられず、それがなければ生きることさえままならない状態です。

23:8 ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。

 「主にすがらなければならない」という命令です。11節には、「主を愛しなさい」という命令があります。主にすがる、というのは、自分自身には何もできないという前提があります。主ご自身が私たちに要求していることは、私たちの能力をはるかに超えます。先週、皆さんが私に対して、「牧師には現実として父親像を求める。」ということを指摘してくださいました。そしてそれが、私の潜在能力を超えていることもご存知ですね。では何をするのでしょうか?主にすがるのです。また、自分には判断ができないことが起こります。これは正しいことなのかどうなのか?神の御心が分かりません。その時にもすがります。「主よ、これで良いでしょうか?」と祈るのです。

2B 主への愛 9−13
23:9 主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。23:10 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。

 主がこれまで大きな強い国々を追い払ったのであるから、これからも同じことをしてくださるよと念を押しています。千人を一人だけで追うことができる、と励ましています。今までの神の真実を思い出し、そして将来における神の働きを信じるのです。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10

23:11 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。

 「愛する」という言葉は、何も良いものだけに使われているのではありません。ソロモンの人生の後年において、ソロモンが異邦人の女たちを千人もめとって、「彼女たちを愛して、離れなかった。(1列王11:2」とあります。そしてヨハネ319節には、「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」とあります。興味深いことに、ここの「愛した」の言葉は「アガペー」と同じ語源を持っているものです。アガペーと聞くと、神のみに属している愛と思われていますが、実はこのようなところにも使われています。

 「愛する」というのは、「自分がどんな犠牲を払っても、自分をその対象のために与え尽くす」という意味があります。ですからヨシュアはここで、「十分に気をつけて」と言っています。主を愛していくという作業は、自分をすべて捨てて、この方のみに捧げていくということです。主を愛しているかどうかは、他のものを主ご自身のために捨てられるかどうか、であります。その他のものは必ずしも罪ではないかもしれません。良いものであることもあります。そしてそれを無条件に捨てる必要もありません。けれども、捨てなければいけない時には捨てられるのか?ということです。復活後のイエスは、漁に行ったペテロに大漁を与えてくださいました。そして、「これらのものより、わたしを愛しますか?」と尋ねられました。漁よりもわたしを愛しているか?ということであります。

23:12 しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、23:13 あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。

 「親しく交わり、互いに縁を結ぶ」というのは、結婚のことです。結婚によって、イスラエル人がカナン人の中に入り、カナン人がイスラエル人の中に入ります。そして現代以上に入るかに家の位置が高い当時では、家族や親族、そして氏族全体が一組の結婚によって交流が始まります。結婚はそれだけ親しい交わりになるのです。そこで次の有名な聖書箇所は、十分結婚関係にも当てはまります。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:14-15」すでに結婚している人がクリスチャンになったら、その結婚を解消してはいけませんが、これから結婚する人が、クリスチャンでない人と結婚するというのは、最大限、極力避けるべきです。それ自体が罪ではないにしても、その後の生活はまさに「釣り合わぬ頸木」となり、痛みを伴うことでしょう。

 ここで、イスラエルがカナン人と縁を結ぶときの痛みを、本当に痛いことをこう表現しています、「わな」となり、「落とし穴」となり、それから、「わき腹にむちとなり」、ついに「目にとげ」となります。とげが自分の目に飛んできて、突き刺さった状態です。それでついに滅びます。

3B 御言葉の傾聴 14−16
23:14 見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。

 ヨシュアは、「心を尽くし、精神を尽くし、主を愛せよ」という命令の、「心を尽くし、精神を尽くし」の部分を使って「知らなければならない」と言っています。私たちは先週、主が確かにご自分の約束された良い言葉を一つも違わず実現してくださったことを学びましたね。けれども私たちは、不思議にそのことを忘れてしまいます。神の良い言葉を思い起こすには、心を尽くして、精神を尽くすという作業が必要なのです。先ほどの13節には、「良い地」とありました。自分たちが今いるところも良い所であり、けれどもそれも簡単に忘れてしまうのです。

 そしてヨシュアは、「世のすべての人の行く道を行こうとしている」と言いました。ヨシュアのような指導者はずっと生きているわけではないのです。だれも必ず死にます。この地上からいなくなります。したがって、私たち一人一人は独り立ちする備えをしていなければなりません。自分で主に従い、また自分を通して人々が主に従うようになるという、霊的自立を考えていないといけないのです。そのためには指導者に依存するのではなく、むしろ、指導者によく従わないといけません。ヨシュアは今、指導者たちに「モーセに律法にしがみつきなさい。そしてカナン人を追い出しなさい。」と教えていましたが、彼らはヨシュア自身がそれを行なっていたので、倣ってそれを行うことのができました。同じようにキリスト者も、何をもってキリストに従っていくのかを、指導者から学び取っていくのです。それで自分自身が将来、神に遣わされて福音の働きをしていくのです。

23:15 あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。23:16 主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」

 ここも大事な真理です。良いことばが何ひとつ違うことなく実現したように、悪いことばも神からのものであれば何ひとつ違うことなく実現するのです。ここで多くの人が思い違いをしています。人間は不思議にも「自分だけは大丈夫だ」という心理を自分のうちに作り出します。どんなに災害や事故があっても、どうしても「自分だけは大丈夫だ」と思ってしまうのです。それが霊的にも当てはまり、「罪の中で生きていても、他の人の救いは保証されていないかもしれないが、私については、神は憐れんで、天国に連れて行ってくれるだろう。」と思ってしまうのです。パウロは言いました。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7-8

2A 試される民の真実 24
1B 選択の促し 1−15
1C 主が残された真実の証し 1−13
1D 父祖たち 1−4
24:1aヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、そのかしらたち、さばきつかさたち、つかさたちを呼び寄せた。

 ここから、イスラエルの全部族を集めたヨシュアの言葉になります。23章では場所は分かりませんでした。おそらくシロではないかと思います。ここでは「シェケム」に集まっています。改めて場所を移して、そしてイスラエル全部族を呼び寄せて、モーセによる神との契約を新たに更新するのです。

 これからヨシュアは、アブラハムがカナンの地に来たときの頃からイスラエルの歴史を語り始めます。シェケムは、実に神がアブラハムに現れて「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。(創世12:7」と言われて、初めて祭壇を築いたところです。さらにアブラハムの子、イサクの子、ヤコブがその家族とともに一時期滞在したところであります。そしてヨシュアは、イサクとヤコブについてもこれから話しますが、そこで彼らはいつの間にか異教の飾り物を自分たちに身につけていました。また、族長の息子シェケムがヤコブの娘ディナを陵辱し、それでシェケムがディナを娶り、ヤコブの家族とそこの住民が互いに結婚しようとも誘ってきたのです。ですから、これからヨシュアがイスラエルの民に語る内容に直接関わりのある出来事が起こりました。

 そしてもちろんここシェケムでは、ヨシュアたちがエリコとアイを攻略した後で、祭壇を造り、モーセの律法を読み上げ、エバル山では呪いを宣言し、ゲリジム山では祝福を宣言したところであります。その時に立てた律法を書いた石の板はまだそこにあったことでしょう。

24:1b彼らが神の前に立ったとき、24:2 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。24:3 わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。24:4 ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。

 1節に「神の前に立ったとき」とありますが、一時的にここに聖所を持ってきています。そこでヨシュアは神から語りかけを受けました。ちょうどかつてモーセが預言の言葉を宣言したように、ヨシュアが、主に語られていることを宣言しています。

 ここで重要なのは、アブラハムが父テラによって偶像礼拝者であったということです。月の神を拝んでいました。これは忘れてしまうことですが、彼はユーフラテス川を越えることにより、その地域で拝まれている偶像も捨ててカナンの地にやってきたのです。実にヘブル人の元になっている「エブル」は「渡って」という意味があります。偶像礼拝の地域からユーフラテス川を渡って、天地を創造されたまことの神に従ったのです。

2D 出エジプト 5−7
24:5 それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真中で行なったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。24:6 わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトから連れ出し、あなたがたが海に来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵とをもってあなたがたの先祖たちのあとを追い、葦の海まで来た。24:7 あなたがたが主に叫び求めたので、主はあなたがたとエジプト人との間に暗やみを置き、海に彼らを襲いかからせ、彼らをおおわれた。あなたがたは、わたしがエジプトで行なったことをその目で見てから、長い間、荒野に住んだ。

 出エジプトの出来事です。ここから神は「あなたがたは」と語りかけています。聞いている人々の中に幼い時にこれを目撃した人々も一部にいました。そして主は、「わたしは、何々した」と言って、神がすべてを成してくださったことを強調されています。

 エゼキエル書によれば、エジプトの神々をイスラエル人は慕っていたことが知られています。「わたしは彼らに言った。『おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。』と。それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。(20:7-9」したがって午前礼拝で話したように、イスラエルは偶像礼拝の歴史から始まり、偶像礼拝を継続して経験していたのです。

3D エモリ人の王とバラム 8−10
24:8 それからわたしはヨルダン川の向こう側に住んでいたエモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡したので、あなたがたはその地を占領した。わたしが、あなたがたの前から彼らを根絶やしにしたからである。24:9 それから、モアブの王ツィポルの子バラクが立って、イスラエルと戦い、ベオルの子バラムに人をやって彼を呼び寄せ、あなたがたをのろわせようとした。24:10 わたしはバラムに聞こうとしなかった。彼は、かえって、あなたがたを祝福し、わたしはあなたがたを彼の手から救い出した。

 ヨルダン川の向こう側での、主が与えられた勝利の歴史です。主はここでも、「わたしがやったのだ」とご自身のされたことを思い起こさせています。バラムの呪いを祝福に変えたことも強調されています。そしてここでも、イスラエル人はエモリ人の神々を見て通り過ぎていました。偶像礼拝はやっていなくても、偶像は見ていたのです。

4D 労苦なしの主の御業 11−13
24:11 あなたがたはヨルダン川を渡ってエリコに来た。エリコの者たちや、エモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘテ人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人があなたがたと戦ったが、わたしは彼らを、あなたがたの手に渡した。24:12 わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。24:13 わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』

 最後に主は、ヨルダン川を渡り終えた後に与えられた勝利を語っておられます。したがって、神は初めから今に至るまで、イスラエルを決して見捨てることなく、確かに真実を尽くしてくださった、ということです。

 そしてそのことをさらに強調するために、二つの出来事を教えておられます。一つは、先のヨルダン川の向こう側で王二人を打ち破った時のことです。「くまばちを送った」とあります。これは、敵を混乱に陥れる恐れの形容として出て来ます。つまり、イスラエルの民は彼らと戦ったときに、自分たちが戦わずして、彼らの中に混乱と恐れが生じて自滅していったというのが事実だったようです。そしてもう一つは、彼らが住んでいるところです。攻略した町々はすでにカナン人などが建てたもので、そこに住んでいます。そして畑も既にあります。ですから、自分たちが労したのではないものを食べているのです。

2C 呼びかけ 14−15
 そこで呼びかけます。24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。24:15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」

 主がこんなにも真実を尽くしてくださったのだから、その真実を見上げていなさい。そしてひたすら主を畏れ敬いなさい、ということです。けれども彼らは長いこと安住していました。それでその良さを見上げることを怠っていたのです。そのときが最も危険です。彼らは、以前親しんでいた偶像が心の中にあり、また通って見てきた偶像に好奇心が出てきました。それで、主を試すことを行ない始めます。さらに今いっしょにいるカナン人によって、以前形成された肉が触発されて、その罪の中に陥るのです。

 私たちはしばしば、自分が罪に陥ったときに「それは悪魔がやったのだ」と言い逃れをして、またあたかも突如として襲ってきた魔力だったと説明します。それについてヤコブは否定してこう言います。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13-15

 そしてヨシュアは、「どれでも、きょう選ぶがよい」と言っています。このように自由な選択をヨシュアは与えています。キリストへの信仰をだれも強制されることはありません。もし強制力が働くのであれば、それは真の信仰ではありません。ゆえに、この選択は反対に考えると恐ろしいことです。自分自身にすべての責任があります。自分が信じなかったことについて、他の誰のせいにすることはできないのです。

 そして午前礼拝で話しましたが、「私と私の家とは、主に仕える。」と言いました。どうか、霊的に自立してください。他の人々が主にしたがっていなくても、いや主から離れていく姿を見ても、私と私の家、すなわち自分に関する人々は主に従っていく、という態度です。

2B 民との契約 16−28
24:16 すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。24:17 私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。24:18 主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」

 これは心からそういっているはずです。けれどもヨシュアは、それを否定します。

24:19 すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。24:20 もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」

 ヨシュアは知っていました。熱意は、考慮するのを忘れています。これからどうするのか、どうなるのかをよくよく考えずに、今、自分が思っていること、感じていることだけで話しています。そのため、これから実際に行なうことが口で言っていることから遊離していくのです。ヨシュアは指導者たちに対して「十分に気をつけて、主を愛しなさい」「心を尽くして、精神を尽くして知る」といいました。この思慮深さなくして主に仕えるといっても、自分に与えられている生活のプレッシャーに耐えることができないのです。

 イエス様は大勢付いてきている群集に対して、弟子になることの犠牲を語られました。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:28-33」イエス様が最後に「財産全部」と言われたのは、全部を捨てることが弟子になる条件ということではありません。たとえ全部なくなったとしても、それでもあなたは付いてこられますか?という意味です。

24:21 それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」24:22 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です。」と言った。24:23 「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」24:24 民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

 民は最後まで自分たちの中で偶像礼拝をしていないと言い張りました。そこでヨシュアは、彼らの言葉を証拠とします。彼らが後に、「そんなことは言っていなかった」と言わせないためです。

24:25 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。24:26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。

 今はシェケムはパレスチナ人の町「ナブルス」と呼ばれています。その中に、カナン人の住んでいた町シェケムの遺跡があります。そこに石があります。それがもしかしたら、この石ではないかと言う人もいます。そして以前もここで律法を書き記しましたが、その他に彼らが証言したことも付け加えました。そしてここに聖所を一時的にここに持ってきている様子をうかがうことができます。

24:27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」24:28 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。

 モーセの律法をこのようにして更新しました。古い契約はこのようにいつも更新しなければいけません。なぜなら、彼らの従順による契約だからです。新しい契約は、永遠の効力を持っています。その与える罪の赦しは永遠の赦しです。その与える命は、永遠のいのちです。救いも永遠です。したがって、新しい契約は、思い出しはしますが改めて更新するということはないのです。

3B 過ぎ去る今の世代 29−33
24:29 これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。24:30 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。

 ヨシュアが以前、自分の相続地としたところです。そこに人々は彼を葬りました。

24:31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。

 ここですね、ヨシュア自身、また主がイスラエルに行なわれたことを目撃した長老たちが生きている間は、彼らは主に仕えていました。けれども、その長老たちが死ぬと彼らは堕落します。その堕落の歴史が士師記です。

 時代が変わる時に、神の働きかけが変わる時ともなります。以前、創世記から出エジプト記に入る時に、エジプトにおいてヨセフの働きによって、ヤコブの家族は手厚い保護を受けていました。けれども、こう書いてあります。「さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。(出エジプト1:8」それで、とてつもない迫害をイスラエル人たちは受けることになります。

 指導者の働きというのは、何なのでしょうか?それは、人々を神へ直接につながることへ導く働きであります。指導者が神の命令に聞き従い、神がご自分の業を現し、その御業の中に人々が入る時に神を見ることができます。けれども指導者がいなくなれば、それを自分たちでしていかなければならないのです。他の人の働きを見ていて分かったようになるのと、自分自身が行なってみて知るのとでは歴然とした差があります。私たちは、本当に「そうだ、アーメン」と言っていたことが、はたしてそうなのか吟味する必要があります。そして自分自身が直接、神に出会う体験をしていかなければならないのです。教会の雰囲気の中だけで神を知っていると思うのではなく、実際に御言葉によって神を個人的に体験するということが必要になります。

24:32 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。

 これが驚くべきことです。創世記の最後に、ヨセフが遺言として父ヤコブと同じように約束の地の中に遺骸を持っていきなさいと言い付けていました。そして四百年ぐらいたった今、そのことを実行しているのです。

24:33 アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。

 ついにヨシュアの時代の他の偉大な指導者も消えていきました。エルアザルがいなくなりました。軍事的な指導者ヨシュア、そして霊的な指導者エルアザルがいなくなったことで、イスラエルの時代に一つに区切りができました。イスラエルはこれから試されます。主によりすがるのではなく、各々自分の正しいと思うことを行なうようになっていきました。神の御言葉の基準ではなく、自分が正しいと感じることに従っていくのです。

 ですからどうか、今からよく考えて主によりすがってください。その静かな時を持ってください。教会における勢いや私たち仲間の中にある気運はそれ自体は何ら悪いものではありませんが、けれどもそれだけでしたら、その気運がなくなったときに同時に自分の信仰もなくなります。今からでも、良く考えて、よく注意して、心を尽くして、精神を尽くして事実を知っていくことが必要になります。犠牲をよく考えて、そのうえでイエスに従っていく弟子となることを決断します。

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