レビ記1629-31節 「ただ一度」

アウトライン

1A 年に一度
   1B 至聖所に対する聖め
      1C エデン追放
      2C アブラハムの懐
      3C 陰府に下られるイエス
      4C 開かれる天
         1D 祈りにおいて
         2D 死において
         3D 携挙において
         4D 啓示において
   2B すべての罪の聖め
       1C 導き手の律法
       2C 何度も捧げるいけにえ
       3C 死のからだ
       4C 律法の成就
       5C 罪の除去
       6C 永遠の贖い
2A 全き休み
   1B 祭りの完成
      1C 神の言葉の漸次的啓示
      2C テテレスタイ
      3C 主の与える安息
   2B 完成された業
      1C 義と聖
      2C 祝福
      3C 知恵と知識
      4C 平安
3A 地上での歩み


本文

 レビ記16章を開いてください。私たちは明日、第二礼拝で15章から17章まで学んでみたいと思います。今日はまず、1629節から31節までを読んでみたいと思います。

16:29 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。16:30 なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。16:31 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。

1A 年に一度
 私たちはレビ記において、いけにえによって聖なる神に近づくことについて学びました。四つのいけにえから始まり、祭司の任職式、そしてアロンの息子が異なる火をささげたことによって、焼き殺されたことから、清めと汚れの区別を読んできました。そして、いけにえによって聖なる神に近づくことは、クライマックスに入ります。それは、「贖罪日」と呼ばれる祭りです。今読んだように、第七の十日、今の九月から十月にかけての時期に、年に一度だけ行います。

 これは、一年の総清算の日です。もちろん、その重大性については比べてはいけないほど違いがあるのですが、私たちが年越しの時に、部屋の中を大掃除したり、お風呂に入ったりしましたが、それによって一年の垢落としをします。神道的な浄めとは全然違いますが、けれども、一年のすべての罪を主によって贖っていただき、聖めていただく、云わば一年の完成であり、七つある祭りの頂点です。

 贖罪日は年に一度だけの出来事ですが、ちょっと今、これを一生に一度の出来事を考えてみましょう。一生に一度だけしか経験しないもの、またしなかったものは何でしょうか?「一生に一度の恋」なんて言わないでください。何度も抱きますね。結婚も残念ながら、このご時世、再婚することがあります。「誕生」はいかがでしょうか?けれども、私たちが物心ついた時はすでにそれは経験済みです。これからの人生で、たった一度だけの経験は、そうですね「死ぬこと」です。ヘブル書927節に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。私たちは死をもってこの生活のすべての活動に終わりを告げ、その後に人生の総決算である神の審判があります。

 ですから贖罪日を考える時、私たちは単に例年行うことだけでなく、神の審判の前に出なければいけない総決算のことを考える必要があります。

1B 至聖所に対する聖め
 贖罪日において、最も特徴的なことは、大祭司が至聖所に入って、そこに聖めを行なうことです。15-16節にはこう書いてあります。「アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。」これまで外庭にある祭壇のきよめというのは見てきました。けれども、至聖所はまさに主ご自身がおられるところであり、そこには灯の火がないのに光り輝いている神の栄光があり、そこから主が語られます。まさに、そこは神の玉座なのです。

 つまり、この儀式は、天の御座におられる神の前にイスラエルの民がどのようにして立つことができるのか?という問いに答えるものなのです。言い換えれば、人が、神の御座のある天の中に入ることができるのかどうか?ということです。そこは、イエス様は「狭い門からはいりなさい」と言われた狭き道であり、また、「父が完全であられるように、あなたがたは完全でありなさい」と言われた、ほとんど不可能な道なのです。金持ちは、らくだが針の穴を入るよりも難しいと主が言われた門であります。

1C エデン追放
 アダムが罪を犯して以来、人類は神がおられるところに決して入ることができなくなってしまいました。贖いの蓋にはケルビムが彫られていますが、エデンの園の、いのちの木の実に至る道には、ケルビムが炎の剣をもって守っています。

2C アブラハムの懐
 その状態は旧約の時代、ずっと続きました。神とその約束を信じて死んでいった聖徒たちは、天の中に入ることはできませんでした。死者の下る、地の中にある「陰府」に行かなければいけませんでした。たとえ、主の前で全うな人生を送った人であっても、神の聖所はまだきよめられていなかったのです。

 けれども、陰府の世界には慰めがありました。神の約束を信じた一人者であるアブラハムがそこにはいました。イエス様が例えではなく、実際の金持ちとラザロという乞食の話をされました。「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。(ルカ16:22-23

 アブラハムは、天の都に入れる約束を神から与えられていました。天の故郷に入れることをあこがれていましたが、入れずにいました。キリストによる贖いが行なわれていなかったからです。けれども、必ずその救いが訪れることを信じながら陰府の中にいました。そして、アブラハムに倣って信仰をもって死んだ人々はそこに降りていったのです。対して、不信仰な者たちは金持ちのように、陰府の中の苦しみの場所に連れていかれました。

3C 陰府に下られるイエス
 そして、主は十字架につけられ死なれます。罪の贖いを成し遂げられました。主は初めに、陰府にいる捕われ人を解放せねばなりません。イザヤはメシヤについて、「捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」と言いました(61:1)。主は陰府に下られたのです。そして、そこにいる霊たちに解放を告げ、ご自身が聖徒たちを引き連れて高い所に上られたのです(エペソ4:8)。

 イエス様は、世に対してご聖霊が過ちを正すことを話されましたが、「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。(ヨハネ16:10」と言われました。イエス・キリストのように義なる方が、父のもとに行くことができる、ということです。天は、イエス・キリストの義をもっていないと入れないところだ、ということです。私たちは、どんなに素晴らしいとされている人であっても、だれ一人、キリストの義に達する人はいません。旧約の聖徒であってもそうだったのです。けれども今、キリストが十字架の上で贖いを成し遂げられたので、キリストの義をもって中に入ることができるようになりました。

4C 開かれる天
 したがって、今や私たちには天の窓が開かれています。キリストがよみがえられ、天に昇られた時に私たちのために成し遂げてくださったがあります。それは、キリストの内にあって天に住まわせてくださったことです。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4-6

 いかがですか?私たちは、すでにキリストにあって天の所に座らせていただいているのです!「えっ、私はまだこの地上にいるんですけど。」と言われるかもしれません。いいえ、私たちはキリストの内にいる者であれば、キリストがおられる所に私たちも霊的にいるのです。キリストが父なる神の右の座におられるのであれば、私たちもそこにいる、ということなのです!主は約束されました。「「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23」主が私たちの内に住んでくださり、そして父なる神が共に住んでくださっています。でも、父なる神はもちろん天におられます。だから、私たちも天にいます。もちろん肉体的にではなく、霊的に、神秘的にそこにいるのです。

1D 祈りにおいて
 「あら、まあ。だったら、なんで今までぼっとして生活していたのだろう。こんなすごいことが起こっているなら、どんどん祈らないとな。父なる神と私たちの主はそのまま祈りを聞いてくださるではないか。」そうなのです!私たちの祈りは、直にそのまま届けられるのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16

2D 死において
 そして私たちは死に対しても、大きな変化が起こりました。もはや陰府に下らずとも良くなりました。あいかわらず不信者は、金持ちと同じ苦しみの場所に降りなければいけませんが、アブラハムの懐の部分は空になりました。死ねば、そのまま神の御座のご臨在の中に入ることになります。使徒パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。(ピリピ1:23」と言いました。世を去ることが、キリストと共にいることなのです。世を去って、キリストがおられない所に行くのではありません。カトリックの教えのように、煉獄などという中途半端な所はありません!

3D 携挙において
 そして、私たちは生きながらにして天に引き上げられることもできます。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:20-21」そして、主にお会いする時には、「顔と顔を合わせて見ることになります。(1コリント14:12」このように、天の聖所の聖めが行なわれたので、私たちはそのまま天に入り、主の顔をじかで見えることができるのです!

4D 啓示において
 さらに、主は私たちを天からの啓示で祝福してくださっています。黙示録は、「イエス・キリストの黙示」という言葉から始まります。この日本語訳は良くありませんね、「イエス・キリストの現われ」あるいは「イエス・キリストの啓示」です。封印されている巻き物は主ご自身によって開かれていきます。そして私たちは黙示録にて、今ある事、この後に起こる事の幻をはっきりと見ることができています。これは、あの神に愛されたダニエルでさえ見ることのできなかったものです。「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。(12:4」当時は封じられていた書物が、今は開かれています。

 イエス様は言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17」私たちはもっと神秘的になりましょう!こんなことを言うと危ないと思われるかもしれませんが、天が開かれたのですから、聖霊の照明によって、御言葉の奥義を知ることが許されているのです。天の幻を旧約の時代の人とは異なり、はっきりと見ることができるのです。

2B すべての罪の聖め
 そして贖罪日においてもう一つの特徴は、「主の前ですべての罪がきよめられる」ことです。この「すべて」には、永遠性が含まれています。29節、31節に「永遠のおきてとなる」とありますが、単にこれまで自分が犯した数々の罪を赦していただくというよりも、主ご自身がご自分の前にある罪というものをすべて清掃された、という意味です。イスラエルのすべての罪を、ご自分がご自分の前で消し去られたということであり、「もうこれで終わり。もう二度と思い起こさない。」という神の決定のような強い意味合いを持っています。

1C 導き手の律法
 主は、律法を与えられた目的をガラテヤ書でこう語っておられます。「信仰が現われる以前は、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。(3:23」私たち人間は、元々、自分の行いによって義と認められようとする存在です。アダムとエバが自分の裸をいちじくの葉でつづったように、自分で自分の恥を覆おうとします。けれども、主は私たちに信仰を生み出すために、律法の下に置かれました。自分がいかに罪深いか、自分の良い行ないは神の前では不潔な着物にすぎないということを知るために、あえて律法の中にイスラエルの民を置かれたのです。

2C 何度も捧げるいけにえ
 律法の中で定められているいけにえの制度も同じです。彼らが動物のいけにえを捧げている中で、これでは罪の贖いが完全にされているのではないと分かりつつ、けれども、このいけにえの先にはメシヤによる贖いがあるのだという期待を募らせて、その信仰をもって捧げるようにされました。とこしえの贖罪を示している贖罪日でさえ、年に一度という頻度で行ないますから、年ごとに罪を思い起こさなければなりませんでした。

 ヘブル書の著者はこのように言います。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:1-4

 いかがでしょうか?このような教会生活を送っておられる人はいるでしょうか?教会で礼拝をささげることによって、自分の罪を思い起こし、そこで罪の赦しを得るべく祈り求めます。そして赦しの確信は与えられたけれども、再び罪を犯すので、さらに罪責感が強くなり、そして赦しを得るために教会の礼拝に行く。礼拝を捧げるのは、あくまでも罪の赦しを得るためであり、自分の奉仕も罪の償いをするためのものになっている。これは実は、新約の礼拝ではありません。旧約の礼拝に似ています。いけにえを捧げることによって、かえって罪を意識しているからです。

3C 死のからだ
 使徒パウロは、この葛藤をローマ人への手紙7章で告白しています。自分が神の律法が正しいことを知っていて、善を行ないたいと思っています。けれども、かえって憎んでいる悪を行なっており、自分の体に、自分の思いの中にある原理とは異なる原理が働いていることを知る。そして、パウロは嘆きの声を上げました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」けれども、これが神が意図されたことでした。自分の体に善が住んでいないことを本人が知るために、自分ではなく神が救ってくださることを本人が知るために、あえてこのがんじがらめの状態に導かれたのです。

4C 律法の成就
 この敗北宣言が、私たちをキリストに近づけさせるのです。動物のいけにえでは不完全であったものを、神の御子自身が肉体を取られて、自らいけにえとなられたのです。「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」(ヘブル10:5-7」神の御子自身が肉体を取ってくださいました。そして、それは動物のいけにえでは満足できなかったところを完成させる、完全ないけにえとなるためでした。家畜小屋の飼葉おけで寝かされていた赤子の肉体は、私たちの罪のいけにえのそれでした。

5C 罪の除去
 これは、贖罪日に表れている「すべての罪」を清めるためでした。すべての罪というのは、これまで過去に犯した罪を帳消しにするということ以上に、神の前で一切の罪を取り去ってしまう、金輪際、罪がご自分の前から取り払ってしまう、という永遠のきよめです。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(同10:10-14」「ただ一度」また「一つの永遠のいけにえ」「一つのささげ物」と繰り返し強調しています。英語ですと、once and for allです。これで最終です。もうこれ以上、同じことはしません、ということです。

6C 永遠の贖い
 私たちは、この完全ないけにえを自分のものとして悟ることができれば、教会に来るたびに罪が思い起こされるという律法の中にいるような生活から解放されます。主の前には、あなたに対する罪は一切置かれていないのです。これまでの罪を赦してやったが、あなたがその後犯した罪についてはまたここに溜められている、というものではないのです。過去だけでなく、未来に犯してしまうかもしれない罪も含めて、神は一切の罪を永遠の赦しをもってきよめてくださったのです!

 ですから、私たち新約にいる礼拝は変わります。すべて清められたから、その喜びと感謝を言い表すために集います。主が永遠の罪の赦しを行なってくださったことを聖霊の示しによって確認するためにやってきます。これからあたかも神と和解をするかのようにやってくるのではなく、すでに神が下さった和解を私たちが心から受け入れ、喜び楽しむようにしてくださいます。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:22

2A 全き休み
 そして次に、贖罪日は全き安息であることが特徴です。31節に「全き休みの安息」とあり、他の安息日よりにも増して、一切の仕事から休息します。それは、すべての罪の贖いが完了したからです。

1B 祭りの完成
1C 神の言葉の漸次的啓示
 ヘブル書の冒頭は、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(1:1-2」とあります。アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてその他の数々の預言者によって、神は、時代を区分けしながら私たちに契約や約束を与えられました。けれども、最終的な啓示として御子ご自身が神の言葉となって、私たちに語っておられる、ということです。

2C テテレスタイ
 イエス様は十字架の上で、「完了した(テテレスタイ)」という言葉を言われ、息を引き取られました。ご自分において救いが完了した、ご自分において罪の贖いは完了した、これで救いは確率したのだ、という宣言です。

3C 主の与える安息
 したがって私たちには、イエス・キリストご自身という安息があります。この方にあってすべてが完成されているからです。だから主は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30

2B 完成された業
 私たちはもはや、これから完成に向かって何かを行なう必要はないのです。むしろ、すでにキリストにあって完成されているのです。もしかしたら反論されるかもしれません、「『恐れおののいて自分の救いを達成しなさい。』とパウロは言ったではないか。」いいえ、その後も読んでください。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:12-13」志を立て、事を行なうのさえ、神が予め備えておられるものであり、神が行ってくださることなのです。

1C 義と聖
 私たちは、完全な義と聖が与えられています。キリストの義と聖です。したがって私たちは、神の前でこれ以上正しくなることはできません。自分の義の行ないを付けたすことはできないのです。私たちは完全な義であられるキリストの中にとどまることしかできません。

2C 祝福
 そして祝福もすべて用意されています。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3

3C 知恵と知識
 さらにキリストを得ていれば、知識や知恵においても完全にされています(コロサイ2:3,10)。

4C 平安
 そしてもちろん、キリストにある平安は完全なものです。すべてが一切を成し遂げてくださったキリストから無尽蔵に流れ出てくれるものであり、私たちは完成から、終わりから今の生活を逆算して歩んでいることになります。

3A 地上での歩み
 ということになりますと私たちは、今、死んでもよいことになります。けれども、まだすべきことがあります。パウロは、世を去るほうが優っているのだけれども、「私の働きが豊かな実を結ぶことになる(ピリピ1:22」とも言っています。なぜ、今、この世を去ってもよいほど完成されているのに、この世に残っているのでしょうか?主に対して豊かな実を結ぶためです。私たちのうちにキリストが現れるためです。これらが生活の中で具体的に現れるようにするため、神があえて私たちを残していてくださいます。聖霊の力によって主の良き証人となりますように。 

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