同性愛と教会 2011/11/12

あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」(レビ記18:22

 レビ記という書物は、エジプトからの贖いを伝える出エジプト記の次にある、「聖め」がその主題です。シナイ山にて聖なる神として現れてくださった方は、イスラエルの民と共に住まれるために、彼らが聖潔の中に生きるよう命じられました。

 その中に出てくる、行ってはならない性行為の一つが、「同性愛」であります。

 私たち教会に属する者が、真剣にこの問題に取り組まなければいけない時に来ました。まず、同性愛は世界中で増え広がっている傾向であること、そして、日本においてもかなりの人数が、その性向を持ちながら現実の生活を送っているということ、です。

 「良き隣人となることができるのか?」が私たちに対する問いです。実に「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という主が引用された律法は、聖潔を命じられるレビ記にある言葉なのです(1918節)。もちろん同性愛に限らず、レビ記には近親相姦、親への暴力、盲人、日雇い生活、在留外国人、母子家庭など、社会の底辺で生きている人々の姿が出てきます。これが決して私たちに無縁なことではなく、むしろ主がそのような人々のためにもこの地に来られたということを考えれば、その人々に届くことは私たちの使命であります。(もしかしたら、この文章を読まれている人々でその渦中におられる方もいらっしゃるかもしれません。)「無関心」はまさに、半殺し状態の人を通り過ぎた祭司やレビ人と同じであります。それで、ここでは同性愛について考えて行きたいと思います。


身近にいる同性愛者

 一般の人が「同性愛」という言葉を聞いた時に、どのような印象を抱くでしょうか?私の場合は、アメリカにいた時に教会の説教壇からその問題を聞いたことでした。そして米国のニュースにはしばしば、同性愛結婚の合法化についての争点が流れてきます。日本人は、お茶の間のバラエティー番組で数多くの「おかま」芸人を目にしているので、その異質性への生理的拒否感が出ながらも、社会の現実として受け止めているのではないかと思います。

 現実の問題として受け止めるために、非常に参考になる記事があります。中絶の問題に取り組んでいるキリスト教団体である「小さないのちを守る会」にある記事を引用します。

(引用始)
ヒット曲、実は日本産ゲイ・ソング?

 私は少し前にスマップが歌った大ヒット曲、「世界にひとつだけの花」に一つの疑問を持っています。
 この歌は、花屋の情景に主人公が抱いたある思いを歌っています。
 「花はそれぞれが他の花と比較もせず、どれも誇らしげに咲いているのに、人間は人と比べて一番になりたがる。」と問題提起をし、結論として「小さな花や大きな花、一つとして同じものはないから、ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と主張します。
 この歌詞は、画一的な日本社会にあって、自己の存在価値を見失いがちな私たちへの応援歌と解釈するのが一般的でしょう。筑紫哲也さんは「多様な価値観を認めることが平和への第一歩である」と受け止めたのでしょう、この曲を反戦歌だと解釈しています。まさに多様な解釈ができてしまうところがこの曲の魅力でもあり、落とし穴ではないかと私は思っています。
 この歌詞は、多くの牧師やクリスチャンたちからも高く評価され、よく説教や証詞で引用されているようです。
 クリスチャンも賛同できそうなこの歌詞、一体誰が発信しているのでしょう?「誰が」このメッセージを発信しているかによって、歌詞の意味は大きく異なるはずです。
 作詞作曲者の槇原敬之さんは、以前薬物不法所持で逮捕された際、同性愛者であることが公になっています。また、この曲を歌ったスマップが属するジャニーズ事務所の社長、ジャニー喜多川氏も、東京高裁から所属タレント(同性)への度重なるセクハラ行為があったと認定されています。
 さらにこの曲のリリースに際して、初めてスマップ担当となった振付師の椛島永次さんも、この曲のヒットを機に同性愛者であることを公にして、今やマルチタレントとしてお茶の間の人気者となっています。つまり同性愛者が、自らの事務所のタレントに同性愛者の作品を歌わせて、同性愛者に振り付けを担当させているわけです。
 これらの情報を総合的に考えると、やはり私としては「この曲、実はゲイ・ソング?」と疑わざるを得ません。実際に同性愛者の人権運動の集会などでは、この曲は応援歌として歌われているそうです。皆さんの判断はいかがでしょうか?
(引用終)

 上は「日本にも押し寄せる?同性愛容認化の流れ」という記事からの引用です。そこには、西城秀樹が歌ったY.M.C.A.が言わずとしれたゲイの歌であることなど、どのように同性愛容認の流れが今の日本社会に浸透しているかを教えています。ぜひ一読をお勧めします。

 実は、私には二人の元同性愛者のクリスチャンと知り合いです。一人は、「ソウルの女王」とも呼ばれるほどゲイの居酒屋ママとして有名で、日本でビジネスを展開していた時も、女装して教会に通っていました。けれども、ある牧師の説教を聞き、「悪霊が自分から出て行った」と証言していますが、神の御言葉によって解放されて、今は韓国で牧会をされています。同時に、精力的に同性愛者に対するカウンセリング活動をされています。

 もう一人はアメリカ人でレズでした。日本に宣教のために来た時にもその性向がなくなったわけではないですが、「自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というイエス様の弟子に対する命令に従い、その感情を主イエスの前に持っていくことによって、今は、夫を持ち、子供もいる家庭を営んでおられます。

 その他、インターネット等で調べれば、数多くの元同性愛者による救いの証しを読むことができますが、後でいくつか紹介します。


同性愛者の成り立ち

 同性愛者や容認する人たちから批判される態度は、いわゆる「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」です。同性愛者の話を聞くだけで、「オカマ」などと言って生理的嫌悪感を露わにする傾向です。けれども知らなければいけないのは、同性愛者が必ずしも、私たちが考えるような性的倒錯者や変質者ではない、ということです。

 もちろん、確かに多数の同性と性行為を持っている男娼や女娼はいるし、性的快楽を極度に求めて、異性だけでは我慢ならず同性とも性行為を結ぶ両性愛者はいますが、多くは他の普通の人と同じように節度ある生活を送っています。

 大抵、同性愛者は物心のついた時から、なぜか異性への興味が沸かず、同性に気持ちが動くことに気づきます。普通であれば男性は、女性に対する思いが成長するごとに出てきて、クリスチャンであれば、イエス様が言われた「情欲をいだいて女を見る(マタイ5:28)」問題に悩むわけですが、それが「男を見る」に変わっているだけです。ですから、その情欲に極度に陥る人もいますが、異性愛者の多くが、思いの中で苦しんでいても行為には走らないように、同性愛者の多くも行為そのものには安易に走らないことが多いのです。

 このように幼い頃から、同性愛傾向を有しているのを知っていますから、「自分は生まれながらにして同性愛者なのだ。」という結論を、ほとんど全ての同性愛者が出しています。そして、「あなたはその性向を改めなければいけない。」という言葉を聞くと、過敏に反応し、嫌がります。

 そして「社会」というものはもちろん、その細部にまで男女の結婚を土台にして出来上がっていますから、「自分」は一体何なのか?という、自己存在、すなわちアイデンティティーの問題で苦しんでいます。それで彼らは、自らが同性愛者であることを公言する行為を「カミング・アウト」と呼びます。したがって、同性愛者はしばしば、他の社会的少数派と同じように差別の是正問題として話題になるのです。


教会としてどうするか?

 では、私たちが信じているイエス・キリストの福音を、彼らはどのようにして聞けば良いのでしょうか?主は、私たちと全く同じように、この人々のためにもこの地に来てくださり、死んでくださいました。けれども、自分の体の一部、しかも極私的な部分において一体化している問題を、一夜にして直せないという問題を持っていながら、どのようにして彼らを受け入れるべきなのでしょうか?

 第一に、私たち自身が悩み、苦しむべきです。上のあるような生い立ちを持って生きて来られたことを、理解し、できうる限り共感することです。もちろん、(元)同性愛者でなければ決してその感情を理解できないでしょうが、けれども以上話した実情を知るだけでも、私たちはその人々に対等に、そして他の人と変わることなく差別を付けないで接することができます。イエス様は決して罪を犯されませんでしたが、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4:15

 第二に、確固とした聖書的「性」観を持つべきです。私たちは軽々しく、「同性愛は罪である。あなたはそのままでは教会に来ることはできない。」と言えません。もしそうだったら、イエス様は罪人の友人という酷評をパリサイ人から受けることはなかったことでしょう。けれども同時に、イエス様のところには罪人が悔い改めたのであって、イエス様がその罪を容認した、妥協したということではないのです。それで涙を持って、次のように言わなければいけません。 

「同性愛者は受け入れます。けれども同性愛行為は受け入れません。」

 これは、同性愛者にとってはとてつもない過酷な言葉でしょう。なぜなら、同性愛者という「自己存在」は、当然それの延長線上に「行為」が存在するわけであり、この二つを切り分けることは決してできないと感じるからです。彼らにとっては、その言葉は「左利きを右利きに直せ」と言われているに等しいです。

 しかし、ここからが「福音の力」の現れであります。同性愛に限らず、私たちはみな「これが自分」だと思っていたものは、実はそうでないことを神の真理によって切り分けることができるのです。そして、その切り分けによって、新たに見えてくる自分が浮上します。最後に、その新たな自分によって、これまで「自分」だと思っていたものを相対視できるようになります。その相対視こそが、聖書に約束されている「自由」なのです!「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32

聖書が明らかにする「性」

 聖書は終始一貫、創世記のみならず、黙示録の最後に至るまで「男と女による結婚の中での一体」のみを述べています。

創世記127-28; 218, 23-24

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世2:24

 聖書はこの世界を造られた時に、まず人(男)を造られ、そして彼から女を造られました。男から男はお造りになりませんでした。したがって、一体となる性行為は男と女の間であるように造られたのであり、「男と男」あるいは「女と女」ではないのです。

 元レズであったクリスチャンが、この箇所を次のように説明しておられます。

*************
神様は、アダムを造った後に、イブを作った。
ジョンをつくったわけでもなければ、デイビッドをつくったわけでもない。
女であるイブを作った。
男と一体となるために。
神様は男をつくることもできたはずだ。
なのに、女を造った。
なぜなら、男は男と一体になれないからだ。
**************
(引用元:「私が同性愛から解放された証」)

 そして彼女は、神は自分を確かに同性愛者として造られたのではないことに気づいたそうです。そして自分の体を見て、確かに自分は女として神に造られたのであり、男と結ばれるために造られたのだ、と悟りました。そして、女が女と一つになろうとする性行為は神の御心に反することが分かりました。

 この真理は、聖書の底流として創世記から黙示録まで続いています。実に、神とイスラエルとの関係、神がご自分の民を贖われる関係を、「夫が妻と結ばれる」物語として述べておられます。そして創世記124節の言葉をパウロは、「教会とキリストの奥義」として述べているのです。

私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5:30-32

 上の箇所では教会はキリストの花嫁であるとしていますが、黙示録の最後では教会と贖われたイスラエルを「小羊の妻」として夫婦の関係に入った姿として描いています。

『ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。』そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。(21:9-10

 このように、神秘的で永遠性を持つ、キリストと教会との関係を、神は男と女の結婚によってこの地上に制度として立てられたのです。したがって、「男と男の結びつき」「女と女の結びつき」はその秩序に反する行為であり、聖書全体において好ましいものとして述べられているところは一箇所もありません。

創世記194-9

そしてロトに向かって叫んで言った。『今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。』(創世19:5

 ソドムの町は、この忌まわしい行為によって滅ぼされました。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(ユダ7」「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(2ペテロ2:6-8

 もちろんソドムの罪は同性愛だけではありませんでした。同性、異性に関係なく強姦をしようとしたこと、また豊かさの中で安逸を貪っていたこともあります(エゼキエル16:49)。けれども、上の二つの新約聖書の箇所にあるように、同性愛行為そのものも「好色」また「不法」とされています。

レビ記1822節、2013

 これは冒頭に引用した御言葉です。「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」実に明快であり、同性愛行為そのものが神の目にとって忌まわしいものです。

 「ここは旧約時代の律法であって、キリストが十字架につけられ律法が成就した今は現代に適用されない」という人たちがいます。確かに、新約聖書の中で、祭りや安息日、その他の儀式はキリストを実体とする影である、という説明がありますが、神の正しさとしてキリスト者の基準として当てはめている行為が数多くあります。

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9-10

 ヘブル語をギリシヤ語に翻訳した七十人訳において、上記のレビ記の箇所にある「寝る」の言葉を使って、使徒パウロは「男色」と発言しています。(もっと正確に言うと、「男と寝る者」という意味になっています。)

ローマ126-27

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

 ここも明確に、同性愛行為を不義として述べている箇所です。先ほども話したように、今日の同性愛者の多くが、ある程度の節度を持っています。ここの箇所を「当時はローマの男娼制度があり、実に性的に乱れていた。そのことを述べているのであって、一人の相手とだけの結びつきを求めている私には当てはまらない。」と言います。

 確かに、当時、ローマ社会は他の古代文明と同じく乱れていました。公娼制度のみならず、宗教儀式の一部の中で同性愛行為を行なっていることもありました。(事実、ユダの国では男娼が宮の中にいて、ヨシヤがそれを壊しました。2列王23:7

 けれどもパウロがここで強調しているのは、そういうことではありません。新改訳の聖書がきちんと訳しているように、ギリシヤ語においては、生物学的な「男性」そして「女性」の言葉が使われています。生物学上の男が同じ男と性行為をすること、また生物学上の女が同じ女と性行為を行なうことが「不自然」と呼んでおり、また「情欲」「恥ずべき行為」として述べているのです。

テモテ第一19-10

すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。

 先に引用したコリント第一69-10節と同じ「男色(=男と寝る者)」という言葉が使われています。ここでの強調点は、パウロが、律法を自分の義をたてるための手段として用いている者に対して、そうではないことを反駁していることです。つまり、旧約聖書の律法で罪だとされている事柄が、そのまま新約時代にも当てはまることを確認しています。上で列挙されているのを見ますと、数多くレビ記でも触れられています。

 当時は、偶像礼拝と深く関わっていたり、また、公娼制度と関わっていたのですが、では偶像礼拝の伴わない同性愛行為、男娼ではない同性愛行為は含まれないのか、と言いますと、そうではありません。以上説明してきましたように、旧約の律法において、そして新約において補強されている倫理において、同性愛行為そのものが罪であることを明らかにしています。その罪に関連して偶像礼拝の罪もあるし、売春行為の罪もありますが、同性愛行為は同性愛行為として罪なのです。

(参照:"Responding to Pro-Gay Theology", "Pro-Gay Theology Overview" "Problems with Pro-Gay Theology"

罪を受け入れず、罪人を受け入れる

 結局は、「罪は決して受け入れないが、罪人は受け入れる。」という、キリストご自身の態度を私たちがどれだけ身に着けられるかにかかっていると思います。頭では分かっていますが、至極苦しい作業です。けれども、これこそキリストご自身が私自身を受け入れてくださるときに通られた苦悩であり、意義のある奉仕であると思います。私は元「小さないのちを守る会」代表による、同性愛者への牧会指針が大変参考になっています。

同性愛についての資料と牧会指針

 そして先ほども引用しましたが、日本人の同性愛者の女性が、クリスチャンになって同性愛から解放されたことの証しは大変参考になります。

私が同性愛から解放された証

 英語でしたら、数多くの証しがあります。下は、その一つです。教会に通っていたけれども小学生の頃から同性愛性向があることに気づき、インターネットで同性愛者チャットでのめりこみ、同性愛者バーなどに母親を連れて行ったりしたとのことです。けれども、麻薬にはまりDJとしての仕事では費用を賄えなくなったことで、男娼で稼ぐ道を選びました。けれども、そこから抜け出す道をキリストにあって与えられ、その後も同性に対する感情がなくならなかったけれども、ある時、すべての感情も主の前に明け渡す決断をした後に、教会内に好きな女性ができて、結婚して、子供も生まれた、という証しです。



 次はかつてゲイの社交会をリードしていた元活動家の証しです。



「性意識について考える」 テモテ・コールさん、藤田桂子さん from Harvest Time Ministries on Vimeo.


 そして私の知り合いの元同性愛者の韓国人牧師ですが、以下の本を書いています。
동성애, 사랑인가?

-Homosexuality, natural love?-


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