レビ記24−25章 「主の与える疲れ休め」

アウトライン

1A 聖なる御名 24
   1B 不断の奉仕 1−9
      1C 燭台のともし火 1−4
      2C 供えのパン 5−9
   2B 御名の冒涜 10−23
2A 主に属する地 25
   1B ヨベルの年 1−22
      1C 安息年 1−7
      2C 所有地への帰還 8−17
      3C 三年間の収穫 18−22
   2B 買い戻しの権利 23−55
      1C 近親の権利 23−28
      2C 住宅 29−34
      3C 奴隷の回避 35−55
         1D 扶養 35−38
         2D 雇い人 39−46
         3D 異邦人の奴隷 47−55

本文

 レビ記24章を開いてください。さっそく本文を読んでいきましょう。

1A 聖なる御名 24
1B 不断の奉仕 1−9
1C 燭台のともし火 1−4
24:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。24:2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。24:3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えず、そのともしびをととのえておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。24:4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前にととのえておかなければならない。

 私たちは前回23章にて、イスラエル人が例年行う七つの祭りについて学びました。収穫に応じて、春の祭りと秋の祭りにおいて、火による捧げ物と共に主に対して祝います。そして次の章25章は、土地を休ませる安息年についての教え、さらに26章ではその土地について、主に背き続けるならば、引き抜かれてしまうという壮大な神の警告とご計画について述べられています。

 その合間に、このように日々行わなければいけない奉仕について、主が命じておられます。2節を見てください、「イスラエル人に命じて」とありますね。聖所の中のともし火を絶やさないのは祭司ですが、その油を携えてくるのは一般のイスラエル人であります。主は、イスラエル人に対して七つの祭りという大きな集まりについて教えられましたが、その時だけ主への祭りではないのだ、ということを教えられているように思います。

 私たちはとかく、特別な出来事において主が共にいてくださると感じ、日々の務めや奉仕に楽しみを感じなくなるという傾向を持っています。けれども、主に対する奉仕はここで繰り返されているように、「絶えず」行うものです。テサロニケの教会の人々に使徒パウロはこう書き記しました。「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:15-18」週ごとにこのようにして集まり礼拝を捧げること、また日ごとにそれぞれが主に対して祈り、感謝を捧げることは、特別な集会と同じように大切なことです。

 そしてここの奉仕は具体的に「燭台のともし火」ですが、これがなければ聖所は幕で覆われているので暗くなってしまい、何も見えなくなって奉仕ができなくなります。非常に大切な奉仕です。聖書の中には、聖霊が「油」として例えられているし、また神の御言葉も「光」として例えられています。それらを絶やすことなく灯すということは、聖霊にいつも満たされていること、そして御言葉をいつも見つめていることに他なりません。

2C 供えのパン 5−9
24:5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。24:6 それを主の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。24:7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、主への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。24:8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。24:9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

 燭台の灯火が日ごとの奉仕であれば、パンの供えは週ごとの奉仕です。聖所の中にある供えのパンの台に、イスラエル十二部族を表す十二のパンを供えます。また乳香も添えますが、それを煙にして主に捧げます。その煙は主への祈りを意味しており、イスラエルの民が主に覚えられているよう祈っていることを表しています。そして新しいパンに取り替える時に、そのパンを聖所で祭司たちが食べます。これはちょうど聖餐式と同じであり、主と共に食事をする、交わりをすることを意味します。

 燭台の光が、主から私たちに与えられるものだとすれば、パンの供えは私たちの命を表しています。主が私たちに聖霊と御言葉を与えてくださいますが、私たちは主に自分の命をお捧げします。主から私たちが受け、そして私たちが主に自分自身を差し出すことによって、主との親しい交わりが確立します。

2B 御名の冒涜 10−23
24:10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。24:11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。24:12 人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。24:13 そこで、主はモーセに告げて仰せられた。24:14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。24:15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。24:16 主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。24:17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。24:18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。24:19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。24:20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。24:21 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。24:22 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」24:23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、主がモーセに命じられたとおりに行なった。

 御名を冒涜した罪を犯した者が、石打ちによって死刑に処せられた出来事を記しています。なぜ、レビ記のような「教え」がほとんどを占めている書物の中で、歴史的出来事を記しているかと言いますと、確かに主の教えはそのまま適用されなければいけないことを教えているからです。

 十戒の中に、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト20:7」とありました。そして具体的に、「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(同22:28」という定めもあります。今の日本の法律の中にも「名誉毀損罪」というものがありますが、言葉によって人を攻撃することは列記とした犯罪です。当時も同じであり、特に神の名前というのは、単なる私たちが持っている名前以上に、神ご自身の本質を表すものであり、神ご自身を指しているものと言って良いでしょう。

 ここで罰を受けた者が、イスラエルの宿営にいたけれどもイスラエル人ではなかったことに注目してください。「エジプト人を父とする」とあります。エジプトを出てきた時に、イスラエル人だけではなく他民族も出てきたことを思い出してください(出エジプト12:38)。聖書では、父がイスラエル人であれば母が異邦人でも子供はイスラエル人ですが、その反対はイスラエル人にはなりません。それでイスラエル人ではない者が、イスラエルに対して与えられた律法を適用するべきかどうか分からなかったので、人々は主の命令を待ちました。それで主からの答えは、「石で打ち殺しなさい」というものでした。つまり、イスラエルの宿営にいる限り、異国人であってもイスラエルの律法は適用されるということです。

 旧約時代の律法が、新約時代でそのまま実行するものではないことを私たちは以前学びました。イエス様は姦淫の現場で捕えられた女の罪を赦されました。けれども、律法に表れている神の正しさと聖さは今でも変わりなく同じです。ヨハネ113節には、神の子供になることについて、こう言っています。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」もっぱら神によって生まれたのでない限り、血筋によっても、自分の人間的な頑張りによっても、また他の人が認知するにしても、決して神の子供になれるのではない、ということです。

 けれども、神の御霊によって生まれた経験を持たずして、あたかも神の家族の中に属しているように振舞ったら、どうなるのでしょうか?平素では、それらしく振舞うことができるでしょう。けれども、いざその人の根幹に関わる事項で確執が起こった時に、その人はこれまで表向き信じているという化けの皮が剥がれてしまいます。その時に、主ご自身を呪う言葉、あるいは言葉に表さなくても明らかに呪っている行動に出てくるのです。真に御霊による新生を体験している人は、どんなことをしても神を呪うことはできません。呪ったとしても、悔い改めに導かれるだけでしょう。イスラエルの宿営の中にいたそのエジプト人は、そのように表向きイスラエル人のように生きていたのです。

 私たちは神はえこひいきをされる方ではないことを知ります。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11」エジプト人だからと言って、異なる律法ではなく一つの定めしかなかったように、聖書や教会から遠く離れている人々に対して、神はご自分の聖さを引き下げることはなさいません。やはり罪人として裁かれます。したがって私たちは、全ての人に対してその人が罪から救われるように祈るよう召されているのです。

2A 主に属する地 25
1B ヨベルの年 1−22
1C 安息年 1−7
25:1 ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。

 25章と26章は、主がイスラエルに与えられる土地についての律法です。これまでは主がモーセを呼んで会見の天幕から語られていましたが、ここではシナイ山から語られています。幕屋における奉仕ではないからです。

25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。25:5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。25:6 地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、25:7 また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。

 週ごとに安息日を守るだけでなく、七年毎に土地を一年間休ませます。刈り入れもしてはいけません。種を蒔いてもいけません。全く手入れをしてはいけません。働き好きの私たち日本人には、到底受け入れがたい戒めです。これでは放置状態であり、私たちは何とかせねばと思います。

 ところが、それがむしろその土地のためになります。6節に、「あなたの食糧のためになる」とあります。これは一般的にも通用する原則であり、連作をするとその土地が痩せると言われます。だから他の作物を植える訳ですが、イスラエルの土地の場合は一切の耕作を止めます。さらに豊かになるために、むしろ働きを止めるということが必要だという神の教えです。

 私たちはどうして、ひっきりなしに働くのでしょうか?一つは不安です。働かないと収入が減る、他の人たちに追い越される、などの不安がいつも労働へと駆り立てます。もう一つは貪欲です。もっと富が欲しい、もっと成績を伸ばしたい、という欲望が休むことを止めさせます。けれども、そこにあるのは「神が働かれる余地を除外」することに他なりません。主が実を結ばせてくださるという、神こそが命と成長の源泉であることを忘れて、自分たちの手こそが成果を結ばせるのだという傲慢がそこにはあります。

 神は、私たちの助けなしに、まったく妨げられることなく働くことがおできになるのです。すべての良いものは神から来ていることを知るには、立ち止まる必要があります。そして自分が行うべきことはそれほど多くはなく、実に主の命令を聞き、それを守ることだけなのだという単純なことなのだと気づくには、立ち止まる必要があるのです。

 漫画による伝道小冊子に、「The Search ― 道を探して ―」というものがあります。そこには(7頁)、若者が背中にひどく重くなっている背嚢(リュックサック)を背負っている絵があります。「信じられるのは自分だけ」と自負している人たちが、気合を入れて進んでみるのですが、人生には想像もつかない困難がやってきます。そして、進めば進むほどその荷物が重くなるのです。その荷物には、「責任」「受験」「仕事」「人間関係」「結婚」「子育て」「病気」という名が付いています。皆さんはどのような荷物を背負っているでしょうか?それらを主の前に降ろして、ゆっくりするときが必要です。

 なぜこんなにも主が休むことを強調されているかと言いますと、それはイスラエルがエジプトで奴隷だった、ということがあります。奴隷は休むことができません。休むということは、奴隷状態から解放されて自由人になったことを表しています。そしてもっと昔を辿れば、汗して働くことはアダムが罪を犯した後に神が土地を呪われたところから始まります。神を認めないで、自分の知恵で生きることを選んだ者には、自分で動かなければいけない、けれども空回りしている人生を歩んでいる、思ったような成果が上がらないという重荷を背負うのです。その鎖を断ち切ってくださるのが、安息の実体であられるキリストであり、キリストを思う時に私たちに魂の安息が与えられます。

 そしてもう一つの目的は、貧しい人たちに食べさせるということがあります。自分たちは昨年の収穫物を食べるのですが、土地を持っていない貧しい人々が今年の収穫物を自由に食べることができます。この年において、土地を持って農業を営んでいる人も、持たずに奴隷として働いている人も、全く同じように休むことができるのです。

 主は、全ての人が等しくご自分に近づくようにすることを望んでおられます。ローマ人への手紙を読みますと、すべての人が罪を犯して、神の栄誉を受けることができなくなっていることを教えています。どんな類いの人であっても、罪を犯しました。ゆえに、どんな人も、ただ神が備えてくださったキリストの十字架による罪の赦しによって、救われることができます。救いにおいては、何の差別もありません。私たちが教会として集まる時に、誰一人として、誰かがより神に近づいて、他の人が神から遠いということは決してないのです!キリストにあって、全ての人に神は近いのです。

 ここレビ記ではなく申命記15章において、この年に行わなければいけないもう一つのことが書いてあります。負債を免除することです。イスラエル人の間で起こっていた貸し借りが、七年毎に帳消しになります。ここにおいても、「疲れを休ませる」という考えがあります。これまでの経済活動を一切、振り出しに戻させるのです。それによって、全ての人が、各人、主の前で身軽になることができるのです。

 これが、「罪の赦し」につながります。新約聖書では、「罪の赦し」が「負債」に例えられています。借りているお金が帳消しにすることを、罪を赦すことと同じにしています。私たちがキリストの前に来るときにこそ、あらゆる人間関係にあったもつれが解きほぐされます。赦すことによってこそ、私たちは初めの行いに戻ることができ、神の前にも、人との間にも、新たな歩みを始めることができるのです。

 ところで、実はイスラエルはこの戒めをずっと守りませんでした。紀元前586年、ユダがバビロンによって捕え移された時、歴代誌第二の最後の章を読みますと、こう書いてあります。「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。(21節)」ユダの国が主に背き続けたので、主は彼らをご自分の地から引き抜かれました。その預言については、次回レビ記26章で学びますが、この戒めについても背き続けていました。それで主が強制的に、その土地を休ませるために彼らを取り除けたのです。

 私たちは神の命令を重荷であると思って、それを退けることができると思っても、実は退けられるのは神の命令ではなく、私たちの方であることをここで知ることができます。例えば、イエス・キリストの福音を退けることはできますが、それでイエス・キリストがいなくなるのではなく、むしろ自分自身が神とキリストの御座のある天から引き離されて、地獄の中で苦しまなければいけないのです。

2C 所有地への帰還 8−17
25:8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。25:9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。25:11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。25:12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。

 七年に一度ある安息年を七度経た時には「ヨベルの年」があります。前回の学びでは、初穂の祭りから七週を数えた日が五旬節ですが、似ていますね、週ではなく年を数えます。

 七度目の安息年の贖罪日に、ラッパを吹き鳴らします。「ヨベル」とは、「雄羊の角笛」という意味です。その時は安息年と同じように、土地を完全に休ませます。したがってヨベルの年の目的の一つは安息年と似ており、「疲れたものを休ませ、回復させ、新たな始まりを与える。」ことにあります。けれども安息年にはないヨベルの年の大きな特徴は、それぞれが自分の所有地に帰還する時であります。

25:13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。25:14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。25:15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。25:16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。25:17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。

 エジプトの奴隷状態から解放し自由人になったことを表すのは、安息であることを先ほど話しましたが、土地を所有することは自由を得たことの何よりもの証拠です。主はかつてアブラハムに、カナン人の地を彼の子孫に与えることを約束してくださいました。そして彼らはこれから約束の地に向かって旅をし、それからカナン人の地に入ったらそこを部族ごとに割り当て、また部族内でも氏族、家族ごとにその土地を割り当てます。神は、初めに定めた地は決して失われるものではないと堅くお決めになったのです。

 ところが、経済的事情が必ず生じます。ある人が富み、他の人が貧しくなります。そのため貧しい人が土地を売らなければいけなくなります。ところが五十年目には、それら全ての土地譲渡がリセットつまり原状回復します。必ず、元所有者の所に戻るのです。このようにして神は、代々、初めに定められた相続地を誰かに売り渡されることのないようにしてくださっているのです。

 そこで土地の売買は、次のヨベルの年までどれだけ収穫することができるのかでその評価額が決まります。40年先にヨベルの年があるのであれば、40回の収穫数に応じた価値があり、10年後にヨベルの年があるならば10回の収穫数に応じた価値があります。今読んだところは、それを無視して土地の売買をするとのないようにという戒めです。「神を恐れなさい」と主は言われます。

 ところで私はこの頃、知り合いの牧師や宣教師からマッキントッシュのコンピューターが良いと言われて勧められることが多いです。私はウィンドウズを使っているので、それがいかに良くないかを説明してくれます。ウィンドウズの良くないのは、レジストリーという仕組みだ、ということです。使用すればそれだけそれが複雑になり、OS全体の動きが遅くなります。けれども、私は年に一度か二度、ウィンドウズを再インストールします。そうすれば、まったく新しい所から始められるので問題は解決します。

 ヨベルの年というのは、ウィンドウズの再インストールのようなものです。人の思惑によって、神が初めに与えられた土地の約束が次第に損なわれていきます。それで神は七年の七周期という時を定めて、新たな始まりを設けてくださっているのです。

 これを神は、人間の救済の歴史において大体的に行ってくださいます。第一礼拝の説教をお聞きください、神は世界を回復される時を定めてくださいました。主イエス・キリストが再び来られる時に、アダムが罪を犯した時以来、損なわれてしまったこの地を一気に回復してくださるのです。ペテロは、ユダヤ人に説教をした時にヨベルの年のことを思いながら、このことを話しました。使徒の働き319-21節です。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

 私たちはキリストにあって、罪から解放され自由になりました。そのことによって私たちは安息を得るだけでなく、万物が改まった後の神の国における相続が保証されています。ペテロ第一1章を開いてください。3節から読みます。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(3-4節)」ちょうどヨベルの年に民が神の相続地に戻るように、私たちも主の来臨の時に確かに神の相続をもって共に現れるのです。

3C 三年間の収穫 18−22
25:18 あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。25:19 その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。25:20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。

 安息年またヨベルの年に、土地の休耕をする時に試されるのは、自分たちの食糧です。一年間まるごと耕作をせず、しかもその年の収穫物を食べません。そして安息年の翌年に種を植えることができても、収穫は次の年になります。したがって三年分の収穫が、安息年の前の年に必要なのです。主はそのことを約束してくださっています。かつてマナを安息日に集めてはならないと主が命じられた時に、その前の日のマナを二日分与えると約束されていました。それでも安息日に集めに行った人がいて、モーセが怒ったところを読みましたが、はたして主が備えてくださるのかどうか心配なのです。それで主が、細心の配慮をもって必ず三年間の収穫を生じさせることを約束してくださっているのです。

 イエス様は、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。(マタイ6:25」と言われました。そして二つの例を挙げておられます。空の鳥と野の花です。私たち人間は種蒔き、刈り入れ、倉に納めることをしますが、空の鳥は神に養われています。野の花は、ソロモンが窮めた栄華よりも美しく着飾っています。空の鳥も、野の花でさえそのように神に養われているのだから、どうして神の子供たちを養わないはずがあろうか、とイエス様は言われます。そして、こう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(33節)

 安息を週ごとに、そして七年ごとに持つことは、神が養ってくださることを信じることに他なりません。言い換えれば、食べ物も財産も、神からの恵みがなければ何一つ持つことができないものであるという認識です。すべては神から来ており、自分が持っているものは何もないのだ、という認識です。すべて自分が行なっているのだ、という思いは養い、備えてくださる神を無視した、傲慢な態度です。

2B 買い戻しの権利 23−55
1C 近親の権利 23−28
25:23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。25:24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。

 主がヨベルの年を定められ、それだけなく、買い戻しの権利も定められました。つまり、ヨベルの年が来なくても、一度売ってしまったものを、対価を支払って買い戻すことのできる権利です。なぜこうも主が一度割り当てられた所有地に対して、拘りを持っておられるのでしょうか?23節に書いてあります、「地はわたしものであるから」であります。確かに、イスラエル人がそれを所有しています。けれども、究極的にはそこは神に属している地であり、彼らにただ委ね与えられているに過ぎないのです。

 私たちは全てのことについて、この姿勢を持っていなければいけません。なぜ、安息を土地に対して主が与えられるのかという先ほどの質問に戻りますと、安息することによって、自分の手の業からその土地が離れるからです。そして元々、その土地を与えられた神を認めることができるからです。同じように、私たちが自分の手で働いていると、それ自体は正しいことなのですが、度を越すことによって、それは自分のものであるという錯覚に陥るのです。所有欲という罪です。

 それは、どんなことにおいても現れるでしょう。子供を育てている母親は、その子育てに熱心になるあまり、その子が主からの賜物であることを忘れてしまいます。奉仕においてさえ、そのことが起こりえます。私たちが自分の教会を自分のものだと考える所属意識はとても大切です。けれども、あまりに熱心になるあまり、あたかも自分自身が行わなければ教会は成り立っていかないというような傲慢に陥ることがあります。自分のものではなく主ご自身のものである、そして自分はあくまでも主にこの務めを割り当てられているにしか過ぎないのだ、ということを知ることです。

25:25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。25:26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、25:27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。25:28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。

 貧しくなってその地を売却しなければいけなくなった時には、近親の者がそれを買い戻してあげなければいけません。これをヘブル語で「ゴエル」と言います。ルツ記に出てくるボアズが、ルツが嫁いだエリメレク家にとってゴエルでした。彼は今は亡きエリメレクの土地を、ナオミとルツのために買い戻してくれました。

 また、例えば自分のしている商売がうまくいって、暮らし向きが良くなったら自分自身で買い戻すことができます。ヨベルの年までの土地の収穫によってかつて売っていたわけですが、自分の手から離れた年数を差し引いて、その土地を買い戻します。けれども、たとえ買い戻すことができなくても、ヨベルの年になれば自分のものに戻ってきます。

2C 住宅 29−34
25:29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。25:30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。25:31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。

 作物を育てる土地と異なり、城壁に囲まれた町にある住居は買い戻しの権利は一年しか有効ではありません。なぜなら、そこは生活空間だからです。当時の町は必ず城壁に囲まれていましたが、それだけ敵が襲ってくるというのが現状でした。もし買い戻しの権利を行使されてしまったら、居住者は町から出て行かなければいけなくなり、極めて危険な状況に陥ります。

25:32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。25:33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。25:34 しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。

 レビ人には、土地の割り当てが与えられません。彼らは神の幕屋に関する奉仕に従事する人々であり、主にお仕えするということそのものが財産であるからです。彼らには住む町と、生活を何とかしていける分に放牧地があてがわれています。このようなレビ人の場合は、城壁の中の住居と異なり、いつでも買い戻すことができます。また放牧地は、売ることそものが論外です。

3C 奴隷の回避 35−55
1D 扶養 35−38
25:35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。25:36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。25:37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。25:38 わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。

 ここから、イスラエル人が貧しさの度合いが強くなる場合について、どのようにすべきかを主が教えておられます。先の25節の貧しさは、土地を売却しなければいけない場合でしたが、生活そものは成り立っていました。けれども、ここ35節以降の貧しさは生活費さえままならない状態です。

 このような状態になると、その人は自分を身売りしなければいけない奴隷になる危険があります。そうなれば、主がエジプトからイスラエル人を連れ出した意味が無に帰してしまいます。それで主は、同胞のイスラエル人がその貧しい人を扶養するように命じておられます。そして、その状況を利用してその人から利息を取ることによって従属関係に陥れることのないように主は戒めておられます。

 先ほど話しましたように、主は神の家族の中で、全ての人が平等であるように定められました。全ての人が罪人であり、全ての人がキリストへの信仰によって義と認められるという差別なき救いです。ゆえに、そこに上下関係や階層制度が入ることをイエス様は酷く嫌がられます。黙示録に出てくる七つの教会のいくつかに「ニコライ派」と呼ばれる、聖職者と平信徒の階級制度を持ち込んだ偽りの教えが出てきますが、イエス様はそれを憎まれました。全ての人が兄弟であり、姉妹なのです。

 そして実際においても、兄弟の間でお金の貸し借りはなるべく避けるようにという戒めがローマ13章にあります。けれども、愛の借りはあることを教えています。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。(13:8」私たちはお金を貸す時に、気をつけなければいけません。その人が返済できなかったとしても自分が与えてもよいという金額で貸すことに決めています。そうでなければ、その人を虐げる主人のようになってしまうからです。

2D 雇い人 39−46
25:39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。25:40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。25:41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。25:42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。25:43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。

 39節以降の場合は、実際に身売りしてしまった状況のことです。その時においても、主はイスラエル人の間で主人と奴隷の関係を持たせることを厳に戒めておられます。「雇い人としておらせなさい」と命じています。つまり、労働にふさわしい賃金を支払わなければいけません。

25:44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。25:45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。25:46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。

 異邦人は奴隷とすることができる、ということですが、イスラエル人は決して奴隷にすることはできないと主は命じられます。再び、神はイスラエル人をご自分の民として立てておられるのですから、支配はしこそすれ、支配を受けることを決して許しておられません。キリストが地上に戻ってこられた後のイスラエルは、諸国の民がイスラエル人の下に付くことが預言されています(イザヤ14:1-2)。

 教会も同じです。キリスト者は、後に王となり祭司となることが約束されています(黙示1:6)。キリストと共に神の国を統治することを約束されているのです。したがって今の時代にも、教会の外では雇用関係や商売や政治活動など、この世の制度の中で主の命令に違反しない限りのことを行うことはできますが、それを教会の中に持ち込むことはできません。私たちはあくまでもキリストが頭であられ、互いに神の家族の兄弟姉妹なのです。

3D 異邦人の奴隷 47−55
25:47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、25:48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。25:49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。

 47節以降が、最悪な状況です。イスラエル人の奴隷になることも主は避けるように戒めておられたのに、ここでは異邦人の奴隷になってしまっている状態を想定しておられます。その時は、先ほど土地においての買い戻しの権利を奴隷を解放する身代金を支払うことで行使できることを教えています。

25:50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。25:51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。25:52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。25:53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。25:54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。

 先ほどの土地の計算と同じように、ヨベルの年まで何年残っているかによって身代金が変わります。例えば後十年残っていれば、十年分の労働賃金を売り手に支払います。そして、奴隷のように酷使してはならないと強く戒めておられます。これらの戒めの根拠が次にあります。

25:55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。

 イスラエル人は主のみに属する僕だからです。神の僕である者は、他のあらゆるものから自由にされている存在です。ですから、他に負債があったり、ましてや身売りされている状態は何としてでも回復させ、解放させなければいけないとお考えになります。

 第一礼拝の説教で学んだように、これを罪との関係で考えてみましょう。今、身代金の話題が出てきましたが、イエス様は、ご自分が来たのは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45」と言われました。その贖いの代価とは、人質に身代金を与える身代金の意味を持っており、また奴隷を解放する時の身代金です。貧しくなって土地を売り渡し、また自分の身をも売り渡さなければいけない状態から解放するために、主はご自分の命をもって買い戻しの権利を行使されておられます。

 確かにヨエルの年が来ます。主が究極的に全てのものを回復される時が来ます。その時には、キリスト者は栄光の姿に変えられており、主と共に地上に降りてきます。主は確かに終わりの時には私たちを救ってくださるのです。

 けれども、それでは今の私たちの生活が罪の中に存在していて良いのでしょうか?確かに救いは保証されています。けれども、私たちが罪を犯すということは、自分の身を切り売りしているに他なりません。罪を犯せば、その罪の力から支配を受けます。そして、自分の持っているものまでが奪い取られることになります。神との慕わしい交わりはもちろんのこと、教会の兄弟姉妹との信頼関係も失われ、夫婦の関係や親子関係にも傷が生じます。そして罪を犯し続けると、さらには世においても惨めな姿になります。ちょうど異邦人の奴隷に化してしまうのと同じです。

 主は、そのようなことのないように、何とかしてご自分が与えられた贖いの代価によって、私たちが自分に与えられている神の自由を、その分け前を取り戻すべく働きかけられるのです。ご聖霊が、私たちが確かに罪の支配を受けないように、そこから自由になり、神の霊的祝福を楽しむことができるように導びかれます。そして、兄弟たちが代わりに買い戻すように、教会では兄弟たちが罪を犯している仲間を、重荷をもって助け、柔和な心で正していくのです。

 最後に使徒パウロが言った言葉を引用します。ガラテヤ513節です。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」私たちは自由を持っているのですから、罪を犯してその特権を売り渡してはなりません。むしろ、その自由を保ちつつ、他の兄弟姉妹に対して愛をもって仕えていくのです。

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