レビ記42-12節 「罪を犯した時」

アウトライン

1A 神に対して
   1B 罪のためのいけにえ
      1C 誤って犯した罪
      2C 罪の告白
      3C 絶対的必要性
   2B 垂れ幕での贖い
      1C 血の振りかけ
      2C 香壇の角への血
   3B 宿営の外に捨てられる肉
2A 人に対して
   1B 罪過のためのいけにえ
   2B 償い

本文

 レビ記4章を開いてください、第二礼拝では4−7章を学びますが、今晩は2-13節までを学びたいと思います。

4:2 「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、4:3 もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。4:4 その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。4:5 油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。4:6 その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。4:8 その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、4:9 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。4:10 これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。4:11 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。

 私たちはレビ記において、「聖め」について学んでいます。私たちの神は聖い方であるから、この方といっしょにいるためには私たちも聖なる者とならなければいけないというのがレビ記の主題です。そのために必要なのは犠牲のいけにえです。私たちが特定の行為を行ったから聖くなるのではなく、主なる神が受け入れてくださる、自分にとって変わるものが必要になるということです。

 それで私たちは前回、1章から3章までに三つの種類の捧げ物を見ました。全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、そして和解のいけにえです。全焼のいけにえは、自らを全てささげることを表し、穀物の捧げ物は、命と生活を捧げること、そして和解のいけにえは、神との交わりを表していました。そして4章と5章です。ここでは「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」の教えがあります。私たちが今読んだのは、罪のためのいけにえで、大祭司が罪を犯した時のものです。

 レビ記において、とても大切なことは、すでに神の所有の民とされたイスラエル人に対して神が語っておられるということです。これから救われる人ではなく、すでに救われた人々に対して、ご自分のところに近づくように呼びかけている書物です。したがって、初めに行わなければいけないのは全焼のいけにえに表れている「献身」であり、主イエス・キリストに自分のすべてを捧げることでありました。そして自分の生活を主に捧げ、それによって神との交わりを楽しむことができます。

 けれども、救われた人と言えども罪を犯してしまいます。「キリスト者が罪を犯してしまった時にどうすれば良いのか」という重い内容ですが、けれども、絶対に対処しなければいけない問題です。

 私たちは、「罪」ということについてどうしても軽く考えたいと願います。けれども、「罪」がもたらす悲しみと別離は現実に存在することを認めなければいけません。私はこの頃、責任者の発言の重さを感じています。73日に、当時の復興相であった松本氏が、岩手県知事と宮城県知事との会見で恫喝に近い発言によって、大臣を辞任しました。そして713日に、彼が軽度の躁状態になっているとの入院先の病院関係者からの発表がありました。

 大臣を辞める、そして入院する、という道を辿ってしまったのですが、自分自身の思いと心の中では強い悪意を持っていなかったかもしれないけれども、自分が言ってしまったことがどれだけの影響をもたらすのか、その重みを私は感じます。

1A 神に対して
1B 罪のためのいけにえ
1C 誤って犯した罪
 つまり、「そういうことをするつもりはなかったのに」という後悔です。けれども、しっかりとそれは罪であったということです。私たち人間はそれを神に対して犯してしまうことがあります。それがレビ記4章において、「誤って罪を犯し」たという言葉に表れています。2節をもう一度ご覧ください。「もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合」とあります。ここの「誤って」というのは、そのまま過失ということですが、英訳の一部には「知らずに」とも訳されています。この二つの意味から考えてみたいと思います。

 私たちは一つに、知識を持っていなかったことによって犯している罪があります。使徒パウロは信仰を持つ前は教会の迫害者でしたが、「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。 (1テモテ1:13」と告白しています。これは単に知識の上で知らなかった、ということではなく、イエス・キリストについては、噂や他の使徒たちの宣教によって情報としては知っていました。けれども、イエス・キリストという方に出会っていなかった、つまり知的な情報ではなく、人格的に、霊的に知らなかったということであります。

 使徒パウロは、復活のイエス・キリストに直接出会ったことによってその知識を得ましたが、私たちは今、御言葉を通して生けるキリストに出会うことができます。旧約の時代、同じように神の言葉によって自分が無知であったことを非常に後悔して、へりくだって祈った人がいます。ヨシヤという王です。

 彼は八歳の時に王になり、その時から主を愛していました。(以下、2歴代誌34章参照)16歳にして神を求め始め、20歳にしてユダとイスラエルの地にある偶像を取り除くよう命令しています。そして26歳の時に、彼は神殿の修繕を命じました。その時に祭司が、モーセの書を発見しました。そう、私たちが今、読み続けている創世記から申命記までの律法の書です。レビ記も含まれていました。それを書記が王の前で読み上げました。

 すると彼は、「律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。(19節)」とあります。さらに、「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。(21節)」と言いました。ヨシヤはモーセの律法の中にある命令をことごとくイスラエルとユダの民が行っていなかったことを、嫌になるほど悟ってしまったのです。それから、ユダの国に大規模な宗教改革を実行したのです。

 これが「誤って犯した罪」あるいは「知らずに犯した罪」です。私たちが、聖書によって、神とイエス・キリストの知識を増し加える時に、自分の意識では罪だと思っていなかったことが、実はとんでもない罪であることが心の中で明らかにされて、その罪を主の前に言い表すというのが、ここで言っている「罪のためのいけにえ」です。

 さらに、神の御言葉は知っているけれども、良心が鈍くなってしまったために犯している罪もあります。ダビデが犯した罪がそうです。彼は、夕暮れまで寝ていて、王宮から出てきた時に生理の後の汚れを清めている女を見ました。それで彼女に使いをやって呼び寄せ、彼女と寝たのです。ところが彼女はウリヤという自分の部下の軍人の妻でありました。そしてなんと彼女はダビデとの行為で妊娠したのです。

 それでダビデは、ウリヤを呼び寄せて、彼が妻と寝ることによって、その妊娠はウリヤとのものであるとの隠蔽を行おうとしました。ところがウリヤは、「仲間が戦場にいるのに妻のところで楽しむことはできません。」と言って、家に戻らなかったという優れた軍人でした。そこでダビデは、彼をあえて最前線に送り、敵の手で殺すように仕向けたのです。

 それでダビデは、その妻バテ・シェバを自分の妻にしました。だれも彼のしたことを咎める者はありません。彼の心はカラカラになっていたことを、彼自身が詩篇32篇で告白していますが、それでもはっきりと自分が罪を犯したことを主の前で言い表すことはありませんでした。

 けれども、ダビデの友人であり預言者でもあるナタンが、ダビデに喩えを聞かせました。「『ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。』すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。』(2サムエル12:1-6

 そしてこの後にすぐにナタンは、「あなたがその男です。(7節)」と言いました。ダビデは、自分がしでかしたことを心の奥底では間違っていることを知っていましたが、それでも主の前に罪を犯したという強い意識は持っていませんでした。けれども、ナタンが作り出した喩えによって、確かに死に値する罪を犯したことに気づいたのです。それで彼は、「私は主に対して罪を犯した。(13節)」と告白します。そしてナタンはすぐに、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」と宣言したのです。この出来事もまた、誤って犯した罪であります。

 では、故意の罪というのはいったい何でしょうか?民数記15章に、罪のためのいけにえをささげなさいという命令がありますが、もしいけにえを携えるのを拒むときに、それが故意に罪を犯していることであると定義しています。「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。(30節)」誤って犯した罪のために、主は罪のためのいけにえをもって罪を赦す備えを与えてくださったのに、それさえも拒めば、それは民から絶たれることになる、つまり滅びることになります。

 ヘブル人への手紙10章にも、故意に犯す罪が述べられています。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。(26-29節)

 よろしいですか、故意に、ことさらに罪を犯すということは、神の御子を踏みつけること、契約の血を汚れたものとみなすこと、恵みの御霊を侮ることです。私たちが罪を犯してしまって、それでキリストの十字架のところまで来なさい、という呼びかけを受け、「その罪を捨てなさい」という勧めを受けているのに、「いや、私はこれから自分自身の道を歩みます。キリストによる罪の贖いは必要ありません。そんないけにえで、私自身を煩わせようとは思いません。」というのが、故意に罪を犯すことです。私たちがたとえ何度、同じ罪を犯してしまっても、恵みの御霊によって、キリストが流された血によって来なさいという招きに応じて、罪を言い表し、その罪を捨てるなら、主は豊かに赦してくださるのです。

2C 罪の告白
 そして次に必要なのは「罪の告白」です。全焼のいけにえと同じように、手を牛の頭の上に置きますが、それは自分が罪を認めている姿であります。「告白」というのは、「同意する」ということです。神が罪であると宣言しておられるものに同意すること、確かに自分は罪を犯したと認め、言い表すことです。ヨハネ第一19節の言葉を見てください。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 この箇所の前後には、二つの偽りが書いてあります。一つは、「罪はない」とする偽りです。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。(8節)」私には罪の性質があります、という告白です。自分は罪人であるという告白です。私たちは、自分は基本的に正しく生きているという認識をしたがります。そうでなければ、自分の存在を健全に保つことができません。けれども、やはり本当の自分は異なります。それで、いろいろ弁明を自分に対して行って、自分が罪人ではないように仕向けます。これが、「自分を欺いている」という行為です。私たちは他人に嘘をつくことはできるけれども、自分には嘘はつけないと思いますが、実はそのような罪人を正しいとみなすことによって、自分を騙していることが多々あるのです。

 そしてもう一つは、「罪は犯さなかった」という偽りです。「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(10節)」これは、特定の罪について、「それは罪ではない」ということです。神が罪であるとしているのに、自分を正当化しています。ですから、私たちはへりくだりが必要です。神の御言葉の権威に服して、自分が正しいとするのではなく、神を正しいとしていくのです。

3C 絶対的必要性
 それから、いけにえを捧げますが、全焼のいけにえや和解のいけにえとは異なり、「宥めの香り」という言葉が出てきません。そして、英語の聖書に出てくる「自ら進んで」という言葉も出てきません。つまり、これは選択ではないのです。主との交わりを回復させるのに必ず踏まなければいけないステップであり、罪を告白してもよい、しなくても良いというものではなりません。

 全焼のいけにえにも、和解のいけにえにも、それを捧げた後で、「主への宥めの香りによる捧げ物である」という言葉がありました。主はこれを快く受け入れてくださり、彼らが自らを捧げること、また神に感謝して交わることを喜んでおられている姿を見ることができます。そしてそれらは、決して他者が強制することもなく、神ご自身でさえ強要するのでもなく、ちょうど主人に死ぬまで仕えたいと申し出た僕のように、自らの意思で行います。

 けれども、神は罪のためのいけにえについては、私たちが好む好まないに限らず、必ず捧げるように命じておられます。なぜなら、罪があることによっては交わりを確立することができないからです。

2B 垂れ幕での贖い
1C 血の振りかけ
 このいけにえで行うことを見てみましょう。罪を犯した大祭司は、祭壇でほふった雄牛のいけにえの血の一部を携えて、聖所の中に入ります。そして聖所と至聖所を分け隔てる垂れ幕の前でその血を七度振り掛けます。つまり、神のご臨在と自分の奉仕との間に、決定的な仕切りができてしまったということです。神と自分との間に仕切りができたので、それを血によって清めなければいけないということです。

 預言者イザヤは神の言葉をこう預言しています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:1-2」私たちは、神が自分から離れてしまったという誤解をしばしばします。神は、「そうではないよ」と言われます。神が自分から離れたのではなく、自分が反対に神から離れてしまったのです。神が私たちに届きたいと願っても、私たちが犯している罪が仕切りとなって近づくことができないのです。

 使徒ヨハネも、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。(1ヨハネ1:6」も言いました。闇の中にいる、つまり罪を犯しているなら神とは交わりを持っていません。なぜなら神は光であり、光と闇は同居することができないからです。罪を犯していれば、必ず神との交わりは途切れているのです。

 それは救いを失ったことを意味しません。キリスト者が罪を犯せば、救いは失いませんが、神との交わりを失います。罪を犯した後にダビデが告白した言葉の中に、その状態がよく表れています。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。(詩篇51:10-12」私たちが罪を犯すと、自分の霊が揺るぎます。聖霊を悲しませているので、神のご臨在を感じられなくなります。それで救いの喜びが失われます。救われているのですが、救いの確信が揺らいでしまっているからです。喜びをもって神に仕えることができなくなります。

 だからすぐにでも、罪を告白して、その罪を捨てる必要があります。

2C 香壇の角への血
 次に、大祭司が聖所まで携えた血を、香壇の四隅にある角に塗っていることに注目してください。7節に書いてあります。外庭の青銅の祭壇の角ではなく、聖所にある金の香壇の角の四隅につけます。ここはいけにえを捧げるところではなく、香をたくところですが、大祭司またはイスラエル全体が罪を犯した時は、ここにいけにえの血を塗ります。

 香壇で香をたいた煙が、垂れ幕から至聖所の中に入っていくことを思い出してください。それは、聖徒たちの祈りを意味していました。祈りに罪の贖いが必要なのです。私たちが罪を犯すと、神に対して持っている大きな特権である「祈り」が妨げられるのです。詩篇6618節にこう書いてあります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」またヤコブはこう言いました。「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(4:3

 私たちは、いったい自分の祈りが神に聞き届けられているのかどうか、分からないことがありますね。その時に悩まないでいただきたいのは、決して神が聞かないということはない、ことであります。神は面接入試の試験官ではありません。父なる方であられ、私たちの言葉にならない祈りさえも、御霊の助けによってすべて聞いてくださいます。

 けれども、聞かない時があります。それは、御言葉の中で罪だと宣言されていることを行っている時の祈りです。嘘をついて行っている商売で、その商売に主が祝福してくださるようにという祈りは決して聞かれません。姦淫の関係を持っているのに、その結婚を許してくださいという祈りも聞かれることはありません。しかし、その時にさえ聞かれる祈りがあり、それは悔い改めと罪の告白の祈りです。先ほど引用したように、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」であります。一部の悪ではなく、すべての悪から清めてくださいます。

3B 宿営の外に捨てられる肉
 そして罪のためのいけにえでは、大祭司とイスラエル会衆全体が犯した罪に関しては、全焼のいけにえのように、肉を火で燃やしつくすこともせず、また和解のいけにえのように食べることもありません。11-12節を見てください。「ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。」宿営の外に持っていって、汚れたものとして焼いてしまうのです。つまり、この肉は罪あるものとみなされ、イスラエルの共同体から引き離され、処理されることによって、罪が取り除かれるということです。

 私たちはここから、イエス・キリストを眺めなければいけません。私たちが罪を犯したことによって、イエス・キリストが何を負われたかと言いますと、私たちが神の家族から追い出されないようにするために、ご自身が宿営の外に行かれて、その肉体において裁きを受けられたのです。

 ヘブル人への手紙13章に、宿営の外に罪のためのいけにえを持っていくのは、主ご自身がエルサレムの町の外で捨てられたことを意味することを教えています。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(10-12節)」今日、エルサレムの町に行くと、キリストが十字架につけられた可能性のある所が二つあります。一つは聖墳墓教会のあるところ、もう一つは「ゴードンのカルバリ」と呼ばれる「園の墓」です。聖墳墓教会は現在のエルサレムの旧市街の中にありますが、今のエルサレムの城壁はオスマン・トルコ時代に作られたものであり、当時は城壁の外側にありました。ですから、どちらもエルサレムの外に存在し、主は確かに神の御名がおかれているエルサレムから引き離されて、呪われた者とされたのです。

 私たちの罪はこれだけのことをしたのだ、という深い改悛が必要です。私たちが神から引き離され、神の民から引き離される代わりに、主ご自身が引き離されたのです。私たちの罪がそうさせたのだ、という深い悲しみと悔いがあってこそ、私たちは罪の清めの道を進み出ることができます。

2A 人に対して
1B 罪過のためのいけにえ
 このようにして、罪のためのいけにえを見ましたが、それは神に対して犯したものです。けれども、罪というものは人に対しても害を及ぼすものです。5章に、人々に害を及ぼした場合のいけにえとして、罪過のいけにえが書いてあります。私たちは神に罪を告白するだけでなく、害を及ぼした人との和解も果たす必要があります。

 イエス様はこう言われました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24

2B 償い
 そして、私たちは赦しと償いを区別する必要があります。罪過のいけにえには、損害を与えた場合は五分の一を加えた上で賠償しなさいという命令があります。私たちはその人の罪を赦します。けれどもそれは、その人が償いをしなくてもよいということではありません。私たちが神の前で罪が赦されたから、自分が行った行為によって被害を受けた人々に償わなくてよいということではありません。

 むしろこれは両立させなければいけないのです。つまり、罪は赦します。その謝罪を受け入れます。そして加害者はその謝罪を受け入れられた安堵感をもって、良心の咎めから自由にされて償うことができるのです。

 私たちはこのような赦しの世界があります。罪の咎めの束縛から解放されます。確かに、罪の結果にともなう償いはあるかもしれません。ある人は自分の愚かな過去の行為によって、病にかかっているかもしれません。ある人は貧乏になっているかもしれません。ある人は離別しているかもしれません。けれどもそのことについて、まず主がすべてを赦してくださっているのです。そして、たとえ状況が今変わっていなかったとしても、その制約の中にいても、自分の魂はその制約の中にいないのだという確信を持つことができます。

 どうか私たちが罪の重荷をまだ持っているのならば、それを主のところにもっていってください。そして新たな主との歩みを始めてください。罪は重いのです。そして大きな損害をもたらしています。けれどもやり直しができます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
HOME