レビ記6−7章 「主が下さる分け前」


アウトライン

1A 祭司へのおしえ
   1B 全焼のいけにえにおいて 9−13
      1C 神のご臨在 9
      2C 清さ 10−11
      3C 日々の献身 12−13
   2B 穀物のささげものにおいて 14−23
      1C 神の御霊 14−15
      2C 聖さ 16−18
      3C 全き信頼 19−23
   3B 罪のいけにえにおいて 24−30
      1C 神の贖罪 24−26
      2C 洗い 27−28
      3C 信仰のみによる救い 29−30
   4B 罪過のいけにえにおいて 1−10
      1C 神の回復 1−5
      2C 洗い 6−7
      3C 奉仕者への貢献 8−10
   5B 和解のいけにえにおいて 11−21
      1C 神の平和 11−14
      2C 日ごとの交わり 15−18
      3C 聖なる生活 19−21
2A イスラエル人へのおしえ 22−38
   1B 脂肪と血 22−27
      1C 豊かさ 22−25
      2C いのち 26−27
   2B 奉献物 28−36
      1C 主へのささげもの 28−34
         1D 胸 28−31
         2D 右もも 32−34
      2C 主の定め 35−36
   3B 主の命令 37−38
 

本文

 レビ記6章をお開きください。今日は、レビ記6章9節から7章の終わりまでを学びます。ここでのテーマは、「主が下さる分け前」です。

 私たちは今、レビ記において、救われたあとのクリスチャン生活について学んでいます。それは、一言で言うと、「聖い生活」です。神を礼拝し、神との交わりの中に入って、神の聖さにあずかることが私たちクリスチャン生活です。そこで、レビ記では、前半部分の1章から16章までが、いけにえによって神の聖さにあずかることについて述べられています。いけにえがなければ、私たちは決して神に近づくことはできません。そして、後半部分の17章以降は、聖別によって神とともに歩むことについて書かれています。私たちは御国の市民にされた者ですが、外国であるこの世の中に住んでいます。ですから、この世との接触において、どのように関わっていけばよいのか、という問題が出てきます。そこで、聖別ということが大切になるのです。

 そして、前半部分において、1章から7章までは、いけにえの種類について述べられています。どのようないけにえがささげられるのか。どのようにささげられるのかについて述べられています。いけにえには、主へのなだめの香りとなる、全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして和解のいけにえがありました。それぞれ、神への献身、御霊のいのち、キリストの平和を表していました。これらは、だれからも強制されることのない、自発的ないけにえです。そして、いけにえには、選択ではなく、「ささげなければならない」と命じられているいけにえがあります。罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえです。罪は、神に対して犯すもの。罪過は、罪によって人に損傷を与えたときにささげられます。これらいけにえをささげることによって、イスラエルにとっては、シナイ山に現れてくださった聖なる神のところに近づくことができました。私たちも、同じ神に仕えています。同じように、神は聖い方であるし、その方に近づくには、同じ方法で近づかなければいけません。

 そして今から学ぶ6章と7章では、同じいけにえについて述べられていますが、違った角度から述べられています。1章から5章は、イスラエル人に対して語られたものでした。6章と7章は、アロンとその子ら、つまり祭司に対して語られています。イスラエル人がささげるいけにえを、祭壇のところで受け取ってから、その後、どのようにするのか、どのように受け取るのかについて書かれています。その際に、この個所で数多く出てくる言葉は、「分け前」とか、「食べる」とか、「受ける分」という言葉です。ささげられたいけにえが神にささげられますが、その一部は祭司のものとして分け与えられるのです。そこでメッセージの題が、「神が下さる分け前」となっています。

 

1A 祭司へのおしえ 6:9−7:21
 それでは、6章の9節から読んでいきましょう。

1B 全焼のいけにえにおいて 9−13
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならない。そして、祭壇の上で火が焼き尽くした全焼のいけにえの脂肪の灰を取り出し、祭壇のそばに置きなさい。祭司はその装束を脱ぎ、別の装束を着けて、脂肪の灰を宿営の外のきよい所に持ち出しなさい。祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。ここまでは、全焼のいけにえについての教えです。

1C 神のご臨在 9
 9節と13節を見ますと、この全焼のいけにえは絶えず、燃え続けさせなければいけないと教えられていることが分かります。個々のイスラエル人が持ってくる全焼のいけにえとは別に、絶えず燃やしているいけにえがありました。実は、このことはモーセがシナイ山にいるときにも、主から教えておられました。出エジプト記29章をお開きください。29章の38節です。「祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。(29:38-43」このように、毎日絶やすことなくささげられていますが、その目的は、ここに書いてあるとおり、祭司たちが主ご自身に出会い、主が祭司たちに語られるためであります。つまり、この燃やされた火は、神ご自身の臨在を表しています。ヘブル書1229節には、「私たちの神は焼き尽くす火です。」と書かれています。

 祭司たちは、これから、穀物のささげものや、罪と罪過のいけにえ、とくに和解にいけにえにおいて、自分たちの分け前が与えられます。レビ人は、約束の地において、割り当ての相続はなく、その生活は、幕屋におけるささげものに支えられているからです。その分け前の中で、もっとも優れたものは、主ご自身であり、主の臨在なのです。民数記18章には、こう書かれています。「主はまたアロンに仰せられた。『あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。』(18:20)」どのような祝福の中でも、主がともにおられることこそが最大の祝福です。どのような祝福よりも、主のご臨在がもっとも尊いものです。クリスチャンにも、未信者の人とまったく同じように困難や試練がおとずれます。しかし、主がともにおられるので、その状況に対してまったく違った受けとめ方をすることができ、それゆえ生き方も変わってくるのです。預言者エレミヤは言いました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3:22-24

2C 清さ 10−11
 レビ記6章に戻ります。10節と11節においては、祭壇の火を燃えつづけさせるとき、亜麻布の衣を着ることと、また、灰を宿営の外に捨てるときに、その装束を脱いで着替えなければいけないと教えられています。そして、捨てる場所は、「きよい所」であるとされています。つまり、神が受け取られた脂肪の灰は、きよく保たれているのです。神がおられるところは、きよいところです。神がおられるところにいるとき、私たちは清められていなければいけません。私たちの思いや行ないにに罪をとどめているとき、私たちは神のご臨在を楽しむことができません。賛美の歌を歌い、祈り、他の信者と交わったとしても、その罪によって、神がともにおられることを意識することができなくなるのです。使徒ヨハネは、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(ヨハネ第一1:7」と言いました。

3C 日々の献身 12−13
 そして12節と13節には、朝ごとに全焼のいけにえをささげて、火を絶やしてはいけないことが書かれています。1回かぎりではなく、日ごとにささげなければならないのです。全焼のいけにえとは、献身を表します。私たち自身を主におささげることを表しています。つまり、献身は、一回かぎりのことではないのです。毎日、毎朝、私たちは主に自分自身をおささげして、自分の生活を主に支配させていただかなければいけないことになります。私たちは、毎朝、主との時間を取っているでしょうか。主と時間を過ごすことを、1日の生活の中でもっとも大切にしているでしょうか。私たちは、生活の中でいろいろなことをしなければなりませんが、主との交わりを主体にして、それらのことをしているでしょうか。祭司たちは、朝ごとに、全焼のいけにえを整え、たきぎをくみ、火を燃やしていました。

2B 穀物のささげものにおいて 14−23
 そして、次は、穀物のささげものについての教えです。

1C 神の御霊 14−15
 穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。

穀物のささげものは、「主の前」で行なわれると書かれています。主が祭壇のところにご臨在されていることを意識しているからですね。このような主のご臨在を知るのに、大切なことが二つあります。穀物のささげものは、油が混ぜられています。油は聖書では、聖霊を表しています。聖霊に導かれることによって、主を第一とした生活を可能にします。私たちは、自分自身で主が命じられることを行なうことはできないのです。自分がみことばを行なうことができないと悩んでおられる方は、行なうことができないのではなく、ささげることができていないことであることを知ってください。もうすでに力は用意されているのですが、自分がある分野で主に明け渡していないので、行なうことができないのです。ですから、聖霊に導かれることが第一歩です。

 そして、もう一つは、穀物のささげものが乳香といっしょにささげられていることです。主へのなだめのかおりは、この乳香によって引き出されますが、これは聖徒たちの祈りを表します。聖霊に満たされることのほかに、祈ることによって主のご臨在を意識することができます。祈りとは、主により頼む行為、主に明け渡す行為です。私はとかく、自分が祈っていないなあと反省するのですが、祈ってみると、「ああ、祈っていないことのほうが大変なのだ。自分自身でがんばらなければいけないのだから。」ということが分かります。主がともにおられることほど力強いことはありませんが、それは祈りによって意識することができます。穀物のささげものは、イエスさまが、「わたしがいのちのパンです。」と言われたように、神のいのちを表します。その中に生きるには、聖霊の導きと祈りによって可能になります。

2C 聖さ 16−18
 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。

 穀物のささげものは、すべてが祭壇の上で燃やされるのではなく、一部は祭司たちが食べることになります。彼らが食べるのは、自分たちのお腹をふくまらせることが目的ではありません。このパンは、聖なる所で食べなければいけません。また、パン種が入ってはいけません。私たちは、パン種が悪いものの象徴であることを学びました。そして、この分け前は最も聖なるものであり、それに触れるものは聖なるものとなります。ですから、パンを食べることは、空腹を満たすために食べるのではなく、神を礼拝する行為の一部なのです。私たちクリスチャンにとっては、聖餐式がそれに当てはまるでしょう。

 食べるという行為は、霊的にとても深い意味を持っています。一つのものを互いに分け合って、それを体内に入れることによって、自分たちが互いに一つになっていることを表します。これは、単に知り合いの人との付き合いにある一体感や、友人の間にある会話以上に、さらに深い交わりであり、相手に起こっていることがまるで自分の身に起こっているかのように感じるほどの一心同体の関係です。キリストと教会との関係にそれがありますが、だから、イエスさまは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:56」と言われたのです。さて、ここで、祭司たちが、穀物のささげものを食べることにどういう意義があるのでしょうか。このささげものは神に対するものです。それゆえ、このささげものの一部を分けていただき、それを食べることは、神と一つになることを表します。シナイ山に現れて、少しでも近づけはたちまち殺されてしまう、絶対的な完全な神と一つになることを意味するのです。ですから、「最も聖なるもの」であると表現されています。

 もちろん、このことは、イエス・キリストと私たちの関係において実現しました。まず、神であられる方が肉体を持ち、この世に現れてくださいました。私たちと神との間にある、計り知れない溝が埋められました。そして、十字架において罪が処理され、復活において、イエスさまは私たちのうちに生きてくださるようになったのです。イエス・キリストによって、私たちは神と一つとなることができ、その交わりが与えられているのです。私たちは、どこまでこの交わりを楽しんでいるでしょうか。「この食事を感謝します。肉体を養ってください。」と決まり文句を並べて見たり、「今日は、こういうことが起こりました。」と事実報告をして見たりします。それらは必要かもしれませんが、神はもっと深い交わりを求めておられます。私たちの心の最も深い部分を注ぎ出す祈りを神は求めておられます。主は、そのことをすべて共有することがおできになるのです。ですから、祭司は、神にささげられた穀物の分け前を食べることによって、神の聖さにあずかることになります。

3C 全き信頼 19−23
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、主にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。

 ここでの穀物のささげものは、イスラエル人が持ってきたものではなく、彼らが祭司職に任命されるときに、自分自身が持ってくるものです。

 それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持ってはいらなければならない。主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。


 この穀物のささげものは、まず油でよくこねること、そして、できあがったものは粉々にして持っていかなければならないことが定められています。油でこねられて、粉々になって燃やされるものが、主にとって香ばしいかおりとなります。これが意味していることは、「聖霊に満たされて、砕かれた魂は、主がお用いになることができる、尊い器である。」ということです。油は聖霊を表しています。粉々にされるのは、砕かれた魂です。聖霊に満たされるとは、言い方を変えると、ご聖霊に自分自身が乗っ取られることを意味します。自分の考えや意思は優先されず、ご聖霊が自分を力強く導かれる主人となり、たとえ、その命じられている理由が理解できなくとも、とにかくそれに従うという、ご聖霊が主権を握られた関係のことを意味しています。ですから、私たちの自我が砕かれていないといけません。これがなかなかできないですね。まだ自分を主人とする部分が心の中に存在するからです。私たちは、その部分が砕かれて、主にすべてを明け渡すときに、聖霊に満たされるのです。


 さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを主のために完全に焼いて煙にしなければならない。このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。

 このささげものは、すべて焼かないといけません。他の穀物のささげものには分け前がありましたが、祭司が任職するときは分け前がありません。これは、彼らがこれから、自分の生活の必要がすべて神によって満たされることを信じなければいけないことを表しています。自分のものがなくなります。だから神により頼まないといけません。それを表明するために、この穀物は全焼のささげ物としなければならないのです。

3B 罪のためのいけにえにおいて 24−30
 そして、次は、罪のいけにえについてのおしえです。

1C 神の贖罪 24−26
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。

 罪のいけにえにおいても、これを食べなければいけないことが教えられています。穀物のささげものと同じように、これは最も聖なるものであり、また肉に触れるものも、聖なるものとなると教えられています。罪のためのいけにえなのですから、これが汚れたもの、罪あるものになっていないのかが、不思議です。このいけにえの動物の頭に手を置いて、その人が犯した罪が動物に転嫁されます。それらの脂肪は祭壇の上で焼かれますが、その他の皮や肉、内臓や汚物などは、宿営の外の灰捨て場で焼かなければいけません。罪を負った存在として、宿営の中にさえ入れておくことはできないのです。なのに、その肉の一部は祭司のものとなり、その肉はもっとも聖なるものとされています。

 けれども、実はとても理にかなったことなのです。罪のためのいけにえは、そのいけにえ自体は傷のないもの、欠陥が何一つないものでなければならないのです。完全なものでなければ、他者の罪を肩代わりすることができません。ですから、その肉は罪を負った存在なのですが、その肉自体は、神に受け入られる聖なるものなのです。これはまさに、十字架に架けられたイエスさまご自身を表しています。預言者イザヤは、「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。(共同訳53:12)」と預言し、パウロは、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(Uコリント5:21」と言いました。けれども、イエスさまご自身は罪をもっておらず、いや、罪がないからこそ、罪を背負うことがおできになったのです。もし罪があったら、ご自身のために死ななければなりません。けれども、罪がないから、罪を肩代わりすることができるのです。

2C 洗い 27−28
 また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。

 罪のためのいけにえのときには、その血を聖所の幕の前で7回振り掛けて、さらに、聖所の中の垂れ幕の中でも7回振り掛けます。それから、残りの血を祭壇の土台に注ぐので、その間に血が着物にはねかえることがあります。そのときは、その着物を、聖所の中で洗います。また、洗うときに土の器の中で煮沸しますが、土器はその水を吸収しますので、それをこわさなければいけないほどの徹底ぶりです。また、青銅の器の場合はすりみがく必要があります。これは、私たちの罪が贖われるときに、私たち自身が洗われることを表しているからに他なりません。パウロは、私たちが救われるときには、洗われることを話しています。テトスに対して、「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(
3:5」と書きました。また、使徒ヨハネは、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Tヨハネ1:9」と言いました。

3C 信仰のみによる救い 29−30
 祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。罪のためのいけにえは、穀物のささげもののように食べることができますが、聖所での贖い、つまり、贖罪の日のもちいられる罪のためのいけにえは、食べることができません。贖罪の日についてのおしえは、レビ記16章に詳細に描かれていますが、これは、大祭司が至聖所に血を持っていく儀式であります。

4B 罪過のためのいけにえにおいて 7:1−10
 そして、次は、罪過のためのいけにえについての教えです。

1C 神の回復 1−5
 罪過のためのいけにえのおしえは次のとおりである。これは、最も聖なるものである。罪過のためのいけにえは、全焼のいけにえをほふる場所で、ほふらなければならない。そして、その血を祭壇の回りに注ぎかけなければならない。それから取った脂肪を全部、すなわち、あぶら尾と内臓をおおう脂肪、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなければならない。祭司は、それらを祭壇の上で主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。これは罪過のためのいけにえである。

 
罪過のためのいけにえは、人に損傷を与えた場合にささげられます。その関係が回復するようにささげられるものです。まず祭壇の回りに血が注がれますが、これは全焼のいけにえや和解のいけにえと同じ手順です。そして、脂肪の部分を祭壇の上で焼きます。これは和解のいけにえと同じ手順です。

2C 聖め 6−7
 祭司たちのうち、男子はみな、それを食べることができる。それを聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえについてのおしえは一つである。そのいけにえはそれをもって贖いをする祭司のものとなる。

 
罪過のためのいけにえも、罪のためのいけにえと同じように、その肉を食べることができます。また、これを食べる場所は聖なるところであり、この食べることは最も聖なるものであることも同じです。神と一つになる交わりを示しています。

3C 奉仕者への貢献 8−10
 そして、次に、祭司たちの分け前について、ふたたび述べられています。祭司が、ある人の全焼のいけにえをささげるとき、そのささげた全焼のいけにえの皮はその祭司のものとなる。さらに、かまどで焼いた穀物のささげ物全部、およびなべや平なべで作られたものはみな、それをささげる祭司のものとなる。また、穀物のささげ物で油を混ぜたものも、かわいたものもみな、ひとしくアロンの子ら全員のものとなる。

 
全焼のいけにえは、皮の部分ははがされて、祭司たちのものとなります。これは、彼らの着物などにあてがわれます。また、穀物のささげものも、みな祭司たちのものとなります。ここで、このことが強調されているのは、レビ人に対して、生活の必要を支給することを神が教えておられるからです。彼らは割り当ての相続地を持たず、彼らの生活は、宮にささげられるいけにえによって賄われるからです。ですから、これらは儀式であると同時に、その奉仕の働きをささえるために必要なことでした。

 神へささげるものから、奉仕者へ支給するという教えは、旧約だけのものではありません。実は、福音の働きをする者が、礼拝における献金によって支えられなければいけないことを、新約聖書は、この聖書個所を引用して教えているのです。コリント人への第一の手紙9章13節において、パウロはこう語っています。「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。(Tコリント9:13-14」ですから、教会形成が行なわれるとき、牧師が自分の手で働かなくてもよいような方向性を将来的に持っていることは大切なのです。使徒たちは、「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。(使徒6:4」と言いましたが、牧師が祈りとみことばの奉仕に専念することができるような生活支援を、礼拝における献金から出てこなければいけないという原則があります。

5B 和解のいけにえにおいて 11−21
 そして次は和解のいけにえについての教えですが、この教えは、7章の最後まで続きます。それは、祭司たちの分け前は、主に、この和解のいけにえによって与えられるからです。

1C 神の平和 11−14
 主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。そのうちから、おのおののささげ物の一つを取って、主への奉納物として、ささげなければならない。これは、和解のいけにえの血を注ぎかける祭司のものとなる。

 
私たちが主イエス・キリストの血によって罪が赦されて、自分自身を主にささげ、祈りと御霊に導かれる生活を続けるなら、そこから出てくる実は感謝や喜びです。その感謝をするためにささげるのが、和解のいけにえです。「和解」ということばは、「交わり」とか、「平和」とか訳すことができ、私たちは、和解のいけにえについて学んだとき、これはキリストの平和を示していることを知りました。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において敵意を廃棄された方です。(エペソ
2:14-15」とパウロは言いました。ですから、教会は、さまざなな違いを超えて、キリストにあって一つになり、愛と喜びと感謝に満ちているところとなるのです。

 そして、この感謝をささげるときに、パンをささげなければいけません。これは言うなればパン菓子です。その一つに、パン種をいれたパンをささげなければならないことが書かれています。これは何を意味しているのでしょうか。私たちが集まるとき、喜びや感謝がその特徴になります。これはすばらしいことですが、しかし集まっている私たちは罪ある存在であることを示しているのです。使徒ヨハネは、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。(Tヨハネ1:8」と言いました。ですから完璧な教会など、何一つないのです。私たちはよく、「つまずいた。」という言葉を聞きます。ある牧師は、「日本人のクリスチャンは、つまずいたことを勲章のようにしている。」と言っていましたが、つまずくことは恥ずかしいことなのです。教会に来るのは、あくまでも主ご自身をあがめるためであり、私たちに完璧さを求めてはいけません。

2C 日ごとの交わり 15−18
 和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。

 イスラエル人がささげるいけにえの肉は、祭司たちのものになりますが、感謝のいけにえは、その日のうちに食べなければいけません。

 もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。


 誓願のささげ物とありますが、聖書の中では、ハンナが、主が自分に男の子を授けてくださるなら、その子を主におささげしますと誓願を立て、サムエルが与えられてから、主の宮に行くときに持っていったものが、この和解のいけにえです。感謝の祈りや、また嘆願の祈りが、このようにいけにえによって表現されたのです。

 いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。


 誓願ためのいけにえも、二日間のうちに食べなければいけません。このように、与えられたものはすぐに食べる、というのが原則です。それらを保存して、計画を立てて後で食べることはできなかったのです。和解のいけにえが、主にある交わりを意味していることを考えるとき、このことは大切になります。キリストにある交わりは、貯めておくことはできません。「今日は、こんなに祈ったから、もう二三日は祈らなくてもいいだろう。」ということはできないのです。主に与えられたものを、その場で感謝し、喜び、祈りをささげなければいけないのです。また、兄弟姉妹との交わりも定期的に行なわなければ、ここに書いてあるとおり、私たちは、世の汚れの中に入っていってしまう弱き存在なのです。ヘブル人への手紙の著者は、こう言いました。「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル
10:24-25」互いに勧め合い、励まし合う必要があります。

3C 聖なる生活 19−21
 和解のいけにえについて、また別の教えがあります。また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。汚れたものに触れた肉は、食べてはならないとの命令です。人がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。

 
肉だけではなく、人が汚れたものに触れたら、肉を食べてはならないという命令です。これは、交わりの中で私たちは罪を持ち込んではいけないことを表しています。罪を犯しつづけ、悔い改めないで、それを教会の中で行なうときに、その交わりは汚れてしまうのです。ヘブル書には、こう書かれています。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行な者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長氏の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。(
12:14-16)

2A イスラエル人へのおしえ 7:22−38
 そして次から、続けて和解のいけにえについての教えがありますが、今度はイスラエル人に対して語られます。

1B 脂肪と血 22−27
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。すべて、火によるささげ物として主にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。どんな血でもこれを食べる者はだれでも、その者はその民から断ち切られる。」

 脂肪と血は、決して食べてはならないという教えです。これを教えに従わないと、民から断ち切られる、つまり、殺されるか、滅ぼされるかという深刻な結果を招きます。

1C 豊かさ 22−25
 まず脂肪を食べてはならないことについてですが、脂肪は聖書のなかで最上の部分として考えられています。また、豊かさを表す比喩として使われています。最上のものや、豊かさはすべて主のものである、ということです。私たちを楽しませてくれる豊かさは、すべて主から来ることを私たちは知っています。パウロは、テモテにこう言いました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(Tテモテ6:17」豊かさはすべて神から来ます。物質的な必要、精神的な必要は、私たちが神を第一にして生きるとき、加えて与えられるものなのです。しかし、私たちが、人々との交わりにおいて、その他人から自分の必要を満たそうとするとき、つまり、主ご自身にいのちの源があると思わずに、自分自身でそれを求めてしまうときに、それらの必要が満たされないどころか、人々との交わりは、争いや挑み合う結果に終わってしまうのです。あらゆる罪や悪い行ないは、自分の必要を神ではなく、他のものに求めている結果によって起こっています。イエスさまに豊かさの源があります。ですから、脂肪の部分は主のものであり、私たちのものではないのです。

2C いのち 26−27
 そして、血を食べてはいけないという教えは、他の個所で、いのちは血の中にあるからであるという理由が書かれています。いのちは尊いものであることを表すために、血は決して食べてはいけないのです。今日、いのちの大切さがないがしろにされています。人々の都合によって、いのちを操作し、滅ぼすことができると考えていますが、これは深刻な罪であることを私たちは知ります。また、血によって私たちの罪が赦されます。血を食べることは、この贖いが神ではなく自分によって成し遂げられることを、暗に主張することになるのです。救いは、受け取ることしかできません。自分自身で獲得することは決してできないのです。

2B 奉献物 28−36
 そして和解のいけにえについての教えが続きます。

1C 主へのささげもの 28−34
1D 胸 28−31 
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。和解のいけにえを主にささげる者は、その和解のいけにえのうちから、そのささげ物を主のところに持って来なければならない。その者は、主への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として主に向かって揺り動かしなさい。

 イスラエル人は、自分自身で若いのいけにえを持ってきます。自分自身が、主に対して感謝をささげなければいけません。だれかに頼むことはできません。そして奉献物ですが、これは前後に揺り動かします。主に感謝をささげているのです。

 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。

2D 右もも 32−34
 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。

 
胸のほかに、右のももが祭司に与えられますが、これは奉納物と言われています。奉献物は前後に揺り動かしますが、奉納物は上下に動かします。神への賛美を表していると言われています。

 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。


 このように、主は、祭司たちに分け前として与えなければならないことを、強調しておられます。「永遠の分け前」と呼ばれています。なぜ、ここまで大切にされているのかは、先ほど説明しましたように、主への奉仕者は、物質的な援助を受けなければいけないことが神のみこころだからです。牧師は、信徒たちによってその生活が支えられなければいけません。

 けれども、本質的には、すべての信者に自分たちが受けるべき分け前があります。この世においては、またクリスチャンもそうですが、日々の仕事の報酬として、ある程度の楽しみを得ることは私たちへの分け前です。ソロモンは、「私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。(伝道者3:22」と言いました。ソロモンは、またこの世の不信者も、これから後の起こることについての分け前は考えませんでしたが、私たちは、イエス・キリストにあって、天における分け前にあずかることができます。私たちは、御国を受け継ぐように定められているのです。使徒ペテロは、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(Tペテロ1:4」と言いました。御国を受け継ぐのですから、この地上において、主のわざのために労苦して働いています。使徒パウロは言いました。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(Tコリント人15:58」私たちは、これら祭司たちのように、主に仕えています。そして、彼らと同じように、神ご自身から、その富を分けていただくことができます。

2C 主の定め 35−36
 これは、モーセが彼らを近づけて、祭司として主に仕えさせた日から、アロンとその子らが、主への火によるささげ物のうちから、受ける分であって、それは、彼らが油そそがれた日から永遠のおきてとして、代々イスラエルの人から取って彼らに与えるよう、主が命じられたものである。

 
ここでも、彼らが受ける分があることを強調されています。

3B 主の命令 37−38
 これは、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえについてのおしえである。これは、モーセがシナイの荒野でイスラエル人に、そのささげ物を主にささげるよう命じた日に、主がシナイ山でモーセに命じられたものである。

 
ここで、いけにえについてのおしえが終わります。1章から7章まで、いけにえについて主がモーセに教えられましたが、今度は、実際に祭司たちが油注がれる話が始まります。

 こうして祭司に対する主のおしえを読むと、祭司の奉仕は、主とお会いすること、主と交わることであることが理解できます。全焼のいけにえによって、主のご臨在を確かめ、その他のいけにえやささげものを食べることによって、神と一つになる儀式を行ないました。そして、それらの奉仕には報酬が伴ないます。私たち信者がみな祭司であることを考えるときに、このことは大切です。自分がクリスチャンになって、何をしなければならないのかを考えるとき、それは、ある特定の活動やプログラムでないことがわかります。礼拝なのです。自分の生活そのものから、キリストのかおりがただようこと、自分自身が神への供え物になっていることがクリスチャン生活なのです。そこで、ある人は、個人伝道をするかもしれません。ある人は、教会の会計をするかもしれません。また、ある人は、家事をして、子供を育てることかもしれません。大事なのは、そこで主を礼拝しているか、ということなのです。主のご臨在を意識して、主との交わりを楽しむことができているか、ということなのです。



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