レビ記8−10章 「主に用いられるには」

アウトライン

1A 聖別による奉仕 8
   1B 公の認知 1−5
   2B 献身 6−30
      1C 姿において 6−13
         1D 装束 6−9
         2D 油そそぎ 10−13
      2C 行ないにおいて 14−29
         1D 罪のためのいけにえ 14−17
         2D 全焼のいけにえ 18−21
         3D 任職の雄羊 22−29
      3C 不可欠の要素 30
   3B 一定の期間 31−36
2A 主の栄光のための奉仕 9
   1B 人への思いやり 1−7
      1C 自分のためのいけにえ 1−4
      2C 神の臨在 5−7
   2B 贖い 8−21
      1C 血 8−14
      2C 神の所有 15−21
   3B 祝福 22−24
3A 主の聖を現わす奉仕 10
   1B さばき 1−11
      1C 自分の栄光 1−3
      2C 注ぎの油 4−7
      3C 分別 8−11
   2B 分け前 12−20
      1C 食べる奉仕
      2C 罪ゆえの悲しみ

本文 

 レビ記8章をお開きください。今日は、レビ記8章から10章までを学びます。ここでのメッセージ題は、「主に用いられるには」です。

 レビ記全体のテーマは、「主の聖さにあずかる」ことです。シナイ山の上でご自分の聖さを現わされた主が、今、会見の天幕の中におられます。その中からモーセを呼び出して、そこから語られます。そして、イスラエル人がどのようにしてご自分のところに近づいて、主と交わることができるのかを教えられます。そして、レビ記は、前半の1章から15章までの部分と後半の16章から最後のまでに分かれますが、前半は、いけにえによって主に近づくことについて主に語られています。汚れた、罪ある私たちが、自分たちが努力しても、聖なる神に近づくことはできません。ただ、いけにえを通してのみ近づくことができます。そして、16章からの後半部分は、聖別によって主とともに歩むことについて語られています。聖なる神と交わりを保ちながら、世にあって生きていくには、何が聖であって何が俗であるかを見分けなければいけません。聖別によって神とともに歩むことについて書かれています。

 そして私たちは、1章から7章までにおいて、ささげなければいけない、いけにえついて学びました。イスラエル人が幕屋にやって来て、神を礼拝するときに、どのような種類の動物をささげればよいのか、祭司はどのようにその動物をほふり、祭壇で焼けばよいのか、そうした犠牲の供え物について学びました。そしてこれから学ぶ8章から10章においては、祭司について学ぶことができます。アロンとその息子がどのように聖別されて、祭司として任命されるのか、彼らがどのような奉仕をするのか、それからどのような制約が課せられているのかについて学びます。

 祭司とは、神と人との仲介の役目を果たす人です。人々に代わって、人々を代表して神に近づきます。そして、人々の前に出て、神からの祝福を分かち合い、そのため人々は神とつながることができます。預言者は、神のことばを告げ知らせる者として、神から遣わされ、神の権威によって人々に語りますが、一方、祭司は、人々の中から選ばれて、人々の弱さをたずさえて、神の御前に出て、神に語ります。そうした祭司の職務は、旧約においてはアロンとその子孫だけに限られていました。聖所の中に入ることができるのは彼らだけであり、イスラエル人は間接的にのみ神に近づくことができました。けれども、私たちの主が十字架の上で血を流され、葬られ、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となりました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(Tペテロ2:9」とペテロは言っています。そして、主イエスご自身が私たちの大祭司となり、神の右の座におられて、私たちのために執り成しをしてくださっています。「私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方です(ヘブル8:1」と、ヘブル書の著者は言いました。ですから、8章から10章は、私たちの主の大祭司としての働きを学ぶことができ、そして何よりも、祭司の務めを任されている私たち自身の働きについて学ぶことができます。祭司は、主に用いられた器です。ですから、私たちがどのように主に用いられるのかについて学ぶことができるのです。

1A 聖別による奉仕 8
 それでは、8章を読みましょう。

1B 公の認知 1−5
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンと彼とともにいるその子らを連れ、装束、そそぎの油、罪のためのいけにえの雄牛、二頭の雄羊、種を入れないパンのかごを持って来、また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。」そこで、モーセは主が命じられたとおりにした。

 これから、アロンと4人の息子が、祭司となるための儀式を受けます。彼らが神のものになり、彼らが神のご用にあずかることができるよう聖別されます。彼らが、そのままの姿で主に用いられることはありません。アロンがモーセの兄という理由で、また、息子たちがアロンの子どもであるという血縁関係によって用いられることはできません。主が命じられた事柄を自分に当てはめることによって、はじめて祭司になることができます。私たちもこれと同じです。流れにまかせて、漫然とクリスチャン生活を送っているだけでは主に用いられることはありません。主が自分自身に何を語っておられるのかをはっきりと聞き分けて、それを自分自身の生活に当てはめるところから、主との交わりをスタートさせることができます。

 会衆は会見の天幕の入口の所に集まった。それで、モーセは会衆に言った。「これは主が、するように命じられたことである。」

 モーセは、アロンとその子らが通る儀式について説明します。その内容は、すでにシナイ山において主はモーセに伝えておられました。出エジプト記
29章をお開きください。「あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。(29:1」とありますね。この29章全体に、彼らが祭司となるための聖別の儀式が長々と書かれていますが、このことをモーセは説明しました。

 説明したのは、集まって来た全会衆です。これが本当にすべてのイスラエル人なのか、それとも、彼らを代表する長老たちが集まって来たのかは分かりませんが、いずれにしても、大人数の前で、アロンとその子らが祭司として任命されます。つまり、彼らが主に用いられることは、公にも認められるようにしなければならなかったのです。新約時代においても、使徒パウロとバルナバは、アンテオケの教会の人々に手を置かれて、祈られて、小アジア地方に遣わされました。私たちが主に用いられるときも、これと同じです。私たちが神のために何らかのお仕事をするときには、自分にそのようなことをするように言われたという確信があるだけではなく、周囲の人々も私が召されていることを認めなければいけません。私たちはキリストのからだであり、からだの器官が他の器官をないがしろにして機能することはできないからです。主に用いられるのは、一匹狼になったり、個人プレーをすることではなく、他の人々に祈られて支えられるチームプレーなのです。

2B 献身 6−30
 そして実際の儀式が行なわれます。最初に、祭司の装束を身に付けることから始まります。

1C 姿において 6−13
1D 装束 6−9
 それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。

 彼らは、装束を着る前に水で彼らが洗われました。この地上で生活しているときに出てきたよごれを洗ってきれいにしなければいけません。これはもちろん、この世における自分の歩みの中で付いてしまった自分の心、思い、行ないの中にある汚れを、主によって洗っていただくことを象徴しているに他なりません。主は、きよめられた者のみを受け入れ、用いることがおできになります。私たちクリスチャンのとっての洗いの水は、神のみことばです。使徒パウロは、エペソ人に、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためである。(エペソ
5:26」と言いました。そして、神のみことばによって自分の汚れている部分が明らかにされます。使徒ヨハネが言っているように、明らかにされた罪を言い表すならば、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Tヨハネ1:9

 そして、モーセはアロンに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着けさせた。すなわち、エポデを帯で締め、あや織りのエポデをその上に着けさせた。次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。

 装束を身に着けますが、まず白色の長服を着ます。その上に青服を着て、それからエプロンのようなかたちをしているエポデを身にまといます。その上に胸当てがつけられ、そこにはポケットがあります。ウリムとトンミムという二つの石が入っています。胸当てには、
12個の宝石が埋め込まれ、イスラエルの12部族を表しています。その装束や胸当ての色には、それぞれ意味があります。長服の白は、正義を表しています。青は天または神がおられるところを表します。そしてエポデや胸当ての色である、青、紫、緋色と白は、それぞれ、天、王位、犠牲の血、そしてきよさを表します。これらはすべて、イエス・キリストの御姿をみわざを示していますね。イエスさまは罪のない方です。また、他の預言者とは違い、天から来られた方です。またイスラエルと世界の王であり、ご自分の血を流されて贖いを行なわれました。

 パウロは、ローマ人に、主が来られることが近づいたことを話したあとで、このように言っています。「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ13:14」主イエス・キリストご自身を着なければいけないと言いました。言いかえれば、私たちの存在そのものをイエス・キリストという方に、すっぽり入れてしまわなければならないのです。新約聖書には、私たちが、キリストにあってどのような存在であるかが描かれています。例えば、キリストにあって天にあるすべての霊的祝福を受けたこと。キリストのうちに神に選ばれ、傷のない、汚れのない者にされたこと。キリストによって子どもと定められたこと。キリストの血によって罪が赦され、正しい者と認められていること。キリストにあって御国を相続する者と言われています(以上エペソ1章参照)。私たちがいくらがんばっても、その義はぼろ切れにしかすぎないのですが、主イエスという、美しい、栄光に輝く衣装を着させていただいているのです。ですから、私たちが主に用いられるための第一歩は、キリストにあって自分は何であるか、明確な答えをもって歩むことです。自分ではなく、キリストであること。自分はキリストに属している者で、「クリスチャン」であることをはっきりと自覚していることです。

2D 油そそぎ 10−13
 次にモーセは、油を注ぎます。ついで、モーセはそそぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油をそそいだ。こうしてこれらを聖別した。さらにそれを祭壇の上に七たび振りかけ、祭壇とその用具全部、また洗盤とその台に油をそそいで、これらを聖別した。

 幕屋と外庭にあるあらゆる用具に油を注ぎました。これらを聖別するためです。聖別とは、他のものから別れて、神だけのものになることを意味します。これらの用具は、例えば、
12個のパンを置く机は、他の机と区別されて、主を礼拝するためだけに用いられます。そのために油が注がれます。

 また、そそぎの油をアロンの頭にそそぎ、油をそそいでアロンを聖別した。


 アロン自身にも油が注がれました。頭から注がれました。アロンも、神への奉仕だけに用いられる器として聖別されるためです。
この油は、聖書においてご聖霊のことを表しています。ヨハネは、「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。(Tヨハネ2:20」と言いました。ご聖霊が注がれることによって、私たち自身が聖別され、神のものとなるのです。コリント人への第一の手紙6章をお開きください。19節からお読みします。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(Tコリント6:19-20」聖霊が私たちのうちに宿っておられるので、私たちは自分がもはや自分自身のものではなく、神のものになっています。神のために日曜日は働いて、他の曜日は自分のために使おうという考えは、もはや通用しないのです。24時間ずっと、一生の間、私たちは神のものになっているのです。もちろん、これはリラックスする時間をなくすということではありません。いや、むしろ、私たちはキリストにあって休むことを学ばなければいけません。キリストにあって食事をし、友人と会話をし、妻とともにテレビを見、読書をし、主にあって台所のお皿を洗って、ずっと主にあってすべてを行なっていくのです。また、幕屋の用具に油が注がれたように、私たちの持ち物は、神のご用になっているでしょうか。神が喜ばれることに用いられているでしょうか。自分たちの家に、主が悲しまれるものが入っていないでしょうか。すべてが主のものであり、それゆえ、聖霊が私たちに宿っておられるのです。

 次に、モーセはアロンの子らを近づかせ、彼らに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、彼らにターバンを巻きつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。

 アロンの息子たちは、エポデや胸当ては着ませんでした。大祭司だけがそれを着ることができます。大祭司が神の栄光と美を表しているのに対し、他の祭司は表していません。これはイエス・キリストと私たちとの関係を表しているようです。私たちは、主の栄光を反映させながら生きるのですが、主ご自身は神の栄光の完全な現われです。教会において、私たちは脇役であり、主が中心になっておられます。

2C 行ないにおいて 14−29
 そして次に、3頭の家畜がいけにえとしてささげられます。最初は、罪のためのいけにけです。

1D 罪のためのいけにえ 14−17
 ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。モーセはさらに、その内臓の上の脂肪全部と肝臓の小葉、二つの腎臓とその脂肪を取り、それを祭壇の上で焼いて煙にした。しかし、その雄牛、すなわちその皮とその肉とその汚物は、宿営の外で火で焼いた。主がモーセに命じられたとおりである。

 
私たちがこれまで学んできたように、決められた手順でいけにえがほふられます。まず、雄牛の上に手を置きます。これはこの動物が、確かに自分の身代わりになった、自分の罪がこの動物に転嫁されたことを示すものです。そして、この動物をほふり、血が流れ出てきます。それを取って、祭壇をきよめます。水できよめるのではなく、血できよめるのです。日本人の感覚からして、これは理解できないことですが、それは、神概念が違うからです。聖書の神は聖なる方であり、完全な存在です。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル
9:22」とヘブル書の著者は言いました。そして、雄牛を解体して、脂肪と内臓の部分は祭壇の上で焼きます。肉や皮や汚物など、その他の部分は宿営の外に持っていき、そこで焼きます。これは、私たちの主が、エルサレムの町の外で、十字架につけられ、死なれたことを示すものであることを、私たちは学びました。

 このように、祭司の務めを果たすとき最初に知らなければいけないことは、自分は罪ある人間であることです。自分は弱き存在であることを知らなければいけません。自分の弱さを知って、はじめて神にお仕えし、神に用いられるようになるのです。ペテロが夜通し漁をしても一匹も魚がとれなかったのに、主が、「網をおろしなさい。」と言われてそのとおりにしたら、大漁でした。そこでペテロは、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました。そのときに主は、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(ルカ5:10」と言われました。預言者イザヤも、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者だ。(イザヤ6:5」だと言ったあとで、その口がきよめられたあとで遣わされました。自分がいたらない人間であると知ったそのときに、主は私たちに呼びかけられます。そして、その召しに応えるとき主は私たちをお用いになることができます。

2D 全焼のいけにえ 18−21
 罪のためのいけにえの次に、全焼のいけにえがささげられます。次に、彼は全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を祭壇の回りに注ぎかけた。さらに、その雄羊を部分に切り分け、モーセはその頭とその切り分けたものと内臓の脂肪を焼いて煙にした。それから、その内臓と足を水で洗い、モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、主への火によるささげ物であった。主がモーセに命じられたとおりである。

 全焼のいけにえと呼ばれるように、このいけにえは雄牛全部が祭壇の上で焼かれます。ほふられた雄牛は、部分に切り分けられ、頭と内臓と脂肪をまず祭壇の上で焼きます。内臓と足は水で洗って、それも祭壇の上で焼きます。そして、全焼のいけにえは、私たち自身を主にすべて明け渡すことを意味します。パウロが言いました。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ
12:1-2

 今、自分がいたらない人間であると知ったあとに、主の呼びかけがあると話しましたが、その呼びかけに応えることが、自分の身を主におささげすることです。多くのクリスチャンが、自分はいたらない人間であることを知っています。けれども、主に、「それでは、すべてをわたしにゆだねて、わたしに従いなさい。」と呼びかけられると、「私はこれだけ無力なものですから、おささげすることはできません。」とその召しを断ってしまうのです。いや、自分がいたらない人間だから主はお呼びになっているのであり、ささげるとはまさにそういうことなのです。自分の能力によってではなく、主の能力によって生きるために、自分の身を主におゆだねすることが献身です。水の上を歩いたペテロのように、主を仰ぎ見て、主の御力によって生きる道を選ぶことが献身です。

3D 任職の雄羊 22−29
 そして次は、これまで出て来なかった「任職の雄羊」です。「任職」というヘブル語は「聖別」となっているので、「聖別の雄羊」と言っても良いでしょう。

 次に、彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗り、モーセはその血の残りを祭壇の回りに注ぎかけた。

 このように、任職の雄羊は、その流された血を、祭司になる人の耳たぶと手足の親指に塗ります。その他は、和解のいけにえと基本的に同じなのですが、任職の雄羊においては、このことが特徴的になっています。すべて右側に付けられていますが、聖書では右は権威や活動の象徴になっています。イスラエルが、紅海の中に沈むエジプト軍を見て、「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。(出エジプト
15:6」と歌いました。また、主イエスは、今、神の右の御座におられます。そして、耳たぶに血が塗られるのは、私たちが聞くことばがきよめられるためです。主が喜ばれることだけを聞くようにするためです。私たちは、この世に生きていていろいろな言葉を聞きます。その聞いている言葉に私たちは従い、私たちの生活が支配されています。私たちの耳は、聖別されているでしょうか。そして、右手の親指に血が塗られるのは、祭司の働きがきよめられるためです。手を動かすことによって、私たちは働きます。この手は、主が喜ばれることのみに用いられているでしょうか。そして、右足の親指に血が塗られるのは、私たちの歩みが聖別されるためです。私たちが足を運んでいるところは、聖別されているでしょうか。耳と手と足、つまり生活のすべてが聖別されなければいけません。

 そして続いて、任職の雄羊のいけにえについての説明があります。それから彼はその脂肪、すなわちあぶら尾、それと内臓の上の脂肪全部、また肝臓の小葉、および二つの腎臓とその脂肪、それからその右のももを取った。

 和解のいけにえは、脂肪がささげられます。聖書によると脂肪は、最良の部分です。祭司の最良の部分はみな主のものとなります。それをしないと、マラキ書にあるように、残り物を主にささげることになります。私たちは、最良のものを主におささげしているでしょうか。自分の生活で主が第一となっているでしょうか。日本人は、年に一度、神社にお賽銭を投げるだけで幸運が来ると信じています。それは、神を最後にしているのです。私たちは、すべてのものの先に主を持ってくる生活をしているのです。

 それにまた、主の前にある種を入れないパンのかごから、種を入れない輪型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個とを取り、それをその脂肪と右のももの上に置いた。
和解のいけにえでもそうでしたが、穀物のささげものが脂肪に添えられます。それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主に向かって揺り動かした。

 和解のいけにえで特徴的なのが、いけにえを主に向かって揺り動かすことです。これは、主に感謝を表しているしぐさです。

 ついで、モーセはそれらを彼らの手のひらから取り、祭壇の上で、全焼のいけにえとともにそれを焼いて煙にした。これらは、なだめのかおりとしての任職のいけにえであり、主への火によるささげ物である。
モーセはまた、その胸を取り、奉献物として主に向かって揺り動かした。これは任職のいけにえの雄羊のうちからモーセの分となるもので、主がモーセに命じられたとおりである。

 
胸は、モーセが食べる分となりました。いけにえが始まってからは、祭司が食べるようになりますが、これは、主から備えが与えられることを意味します。私たちが聖別されるとき、神は私たちの必要を加えて与えてくださいます。イエスさまは、山上の垂訓において、富と神の二つに仕えることはできないと言われたあとに、心配してはならない、神の国とその義を第一としなさい。着るもの、食べるものは加えて与えられると言われました。

3C 不可欠の要素 30
 それから、モーセはそそぎの油と、祭壇の上の血を取り、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束の上に振りかけて、アロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束を聖別した。

 いけにえがほふられた後に、再び油と血が振りかけられます。アロンらの装束には、血のしみがあえてつけられます。これは、祭司の務めが、罪の赦しと、聖霊の満たしを中心にしていることを伝えてくれます。私たちが主に用いられるとき、それは、人々に罪の赦しを知らせることです。罪からの解放が、私たちの福音であり、メッセージの内容です。

3B 一定の期間 31−36
 そして、モーセはまた、アロンとその子らに言った。「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。そしてそこで、それを任職のかごにあるパンといっしょに食べなさい。私が、アロンとその子らはそれを食べよと言って命じたとおりに。しかし、肉やパンの残りは火で焼かなければならない。肉やパンの残りは、アロンたちのものになります。これで儀式は終わりと言いたいところですが、まだ続きます。また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。何と、7日間も儀式は続くのです。きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように主が命じられたとおりである。あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、主の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。」こうしてアロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことを残らず行なった。

 
7日間、ずっと幕屋の中にいなければならず、主に命じられたことを続けて行なわなければなりません。そして、実際、彼らはそれを行ないました。
7日間という期間は、いったい何を表しているのでしょうか。よく、聖書に出てくる数字には意味を持っていて、7は完全の象徴であると言われます。そうかもしれません。ただ、この個所においてもっと大切なことは、彼らの聖別は徹底的に行なわれたという事実です。お役所に行って、書類の手続きをするような無味乾燥な儀式でもなく、自動販売機で硬貨を入れたらすぐに缶が出てくるようなすばやいものではないのです。私たちが聖別されるときは、時間をかけて聖別されるのです。私たちの心が変えられるのは、時間と取って静まり、主のことを深く考え、正さなければいけないことは、頭を使って、意識的に、計画的に正していきます。じっくりと神のみことばに取り組む必要があるのです。そうすることによって、私たちの思いが一新され、主が望まれる生き方を送っていくことができます。

2A 主の栄光のための奉仕 9
 このように、8章においては、アロンが主に用いられるためには聖別が必要であることが分かりました。次は、アロンが初めて祭司としての務めを始めたことが記されています。今まではモーセが執り行なっていましたが、その務めはアロンにバトンタッチされます。

1B 人への思いやり 1−7
1C 自分のためのいけにえ 1−4
 それから、八日目になって、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、アロンに言った。「あなたは、子牛、すなわち、若い牛を罪のためのいけにえとして、雄羊を全焼のいけにえとして、それもまた傷のないものを取って、主の前にささげなさい。あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。また主へのいけにえとして、和解のいけにえのための雄牛と雄羊を、また、油を混ぜた穀物のささげ物を、取りなさい。それは、きょう主があなたがたに現われるからである。」

 7日間の聖別のときが過ぎて、八日目になりました。このときは、聖書によると、週の初めの日になります。つまり日曜日です。レビ記
23章に出てきますが、イスラエルで守られる例祭、年に一度行われる祭りの中に、初穂の祭りと、五旬節がありますが、それらは週の初めの日に行なわれます。この曜日に、何が起こったでしょうか。そうです、初穂の祭りの日には、私たちの主がよみがえられ、五旬節には聖霊がお降りになり、教会が誕生しました。主はよみがえられて、昇天されたあとに天において大祭司となられました。また、聖霊が信者たちに臨まれるようになってから、彼らはそれぞれが祭司としての働きを開始したのです。したがって、八日目は、祭司の務めを始める記念すべき曜日なのです。

 そして、アロンたちは奉仕を始めるのですが、まずしなければならないことは、なんと自分の罪のためのいけにえをささげることでした。子牛をささげなければいけないと命じられています。思い出せるでしょうか、アロンは、モーセがシナイ山からなかなか戻ってこないときに、金の子牛を造ってしまいました。この偶像礼拝の罪の赦しを、今、主は与えようとされているのです。アロンにとって、自分の罪を認めなければいけないことなので、辛いことでしょう。けれども、同時に、主はアロンの罪を豊かに赦されようと、あわれみをもって臨んでいてくださっているのです。

 このようにまず、祭司自身の罪のためのいけにえをささげなければいけません。ヘブル書には、大祭司は人の中から選ばれなければならないと書かれています。そして、5章の2節からですが、「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。(ヘブル5:2-3」とあります。大祭司はあくまでも人であり、人々の弱さを思いやり、その人々のために神の御前に出て、執り成しの祈りをささげます。私たちイエスを信じる者すべてが祭司であります。私たちは、それぞれが弱さをもった罪人であるだけではなく、互いにその弱さを思いやなければならない存在なのです。教会は、人々をさばくところではありません。罪を犯した人、弱い人をあわれみ、自分もその罪を充分に犯しえることを認識し、その人を回復させてあげるように助けの手を差し伸べます。ガラテヤ書6章に、こう書かれています。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:12」互いの重荷を負い合うこと、これが祭司の務めです。またユダはこう言いました。「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(22-23」その罪に自分自身が汚されることのないように恐れつつ、あわれみなさいと勧めています。

 そしてささげられるいけにえは、傷のないものですが、神は完全ないけにえのみを受け入れられます。ですから、動物は実は、彼らの罪を取り除くことはできず、後に来る罪を取り除かれる方を待っていたのです。私たちには、傷も汚れもない、キリストによる尊い血潮によって贖われました。

 この罪のためのいけにえがささげられたあとに、全焼のいけにえがささげられます。それから、イスラエルの人々のためのいけにえが、同じく罪のためのいけにえ、全焼のいけにえの順にささげられます。そして、加えて、和解のいけにえがささげられるように命じられています。そのときには、「主があなたがたに現われる。」とモーセは言っています。

2C 神の臨在 5−7
 5節から読みましょう。そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に持って来て、全会衆が近づき、主の前に立った。モーセは言った。「これは、あなたがたが行なうように主が命じられたことである。こうして主の栄光があなたがたに現われるためである。」

 いけにえをささげたあとに、主ご自身が現われてくださり、主の栄光が現われます。これが、いけにえをささげる目的であり、祭司の務めの目的です。主のご臨在の中に、主の栄光の中に他の人々を導くことを祭司は任されているのです。教会において、私たちは主のご臨在のなかに入っていく必要があるし、他の人を主のご臨在のなかに導かなければいけません。それが教会の目的であり、礼拝の目的です。私たちは日々、主がご臨在を深く意識しているでしょうか。礼拝の賛美において、祈りにおいて、どれだけ主のご臨在を感じているでしょうか。私たちは互いに祭司であり、主の栄光の中に入っていく者たちであります。

 それから、モーセはアロンに言った。「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなた自身のため、またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、主が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」


 モーセがこうアロンに言ったあとで、アロンが先ほどのいけにえについての命令を行ないます。モーセは、それが贖いのためであると言いました。贖いのために必要なことは血が流されることです。それでは見てみましょう。

2B 贖い 8−21
1C 血 8−14
 そこで、アロンは祭壇に近づき、自分のために罪のためのいけにえの子牛をほふった。アロンの子らは、その血を彼に差し出し、彼は指をその血に浸し、祭壇の角に塗った。彼はその血を祭壇の土台に注いだ。ほふられた子牛の血を祭壇の角に塗り、残りの血を祭壇の土台に注ぎました。彼は罪のためのいけにえからの脂肪と腎臓と肝臓の小葉を祭壇の上で焼いて煙にした。主がモーセに命じられたとおりである。しかし、その肉と、その皮は宿営の外で火で焼いた。ここまでが罪のためのいけにえです。それから、アロンは全焼のいけにえをほふり、アロンの子らが、その血を彼に渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。再び血が流されて、祭壇の回りの注ぎかけられています。また、彼らが全焼のいけにえの部分に切り分けたものとその頭とを彼に渡すと、彼はそれらを祭壇の上で焼いて煙にした。それから、内臓と足を洗い、全焼のいけにえといっしょにこれを祭壇の上で焼いて煙にした。

 
ここまでが、全焼のいけにえです。このように、血が流されることによって贖いが行なわれます。贖いとは、買い取るという意味ですが、悪魔の支配下で罪の奴隷となっていた者たちが、神がお支払いになる代価によって、神のものとされることが贖いです。その代価が血であり、神の御子の流された血です。

2C 神の所有 15−21
 それで、私たちは神のものとなります。神の所有物になります。そのことを祝うときに、和解のいけにえがささげられ、感謝をささげるのです。次からは、イスラエルの人々のためのいけにえがささげられますが、そこには、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえの他に、和解のいけにえがあります。

 次に、彼は民のささげ物をささげ、民のための罪のためのいけにえとしてやぎを取り、ほふって、先のと同様に、これを罪のためのいけにえとした。それから、彼は全焼のいけにえをささげ、規定のとおりにそうした。次に、彼は穀物のささげ物をささげ、そのうちのいくらかを手のひらいっぱいに取り、朝の全焼のいけにえと別に、祭壇の上で焼いて煙にした。


 全焼のいけにえの次に、穀物のいけにえがあります。これは、キリストのいのちを表します。主は、「わたしがいのちのパンです。」と言われました。私たちが主に自分自身を差し出すと、主はその器にご自分のいのちを注ぎ入れてくださいます。私たちは、そのいのちによって生きるのです。

 ついで、彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり、アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。その牛と雄羊の脂肪の部分、すなわちあぶら尾、内臓をおおう脂肪、腎臓、肝臓の小葉、これらの脂肪を彼らが胸の上に置くと、彼はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にした。しかし、胸と右のももは、アロンが、モーセの命じたとおりに奉献物として主に向かって揺り動かした。

 先ほどと同じように、胸と右のももの部分は、主の前で揺り動かされます。主に感謝のいけにえをささげているのです。

3B 祝福 22−24
 そして次に、アロンとモーセが民を祝福します。それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。

 まずアロンが民を祝福しました。これは民数記に書かれている、アロンの祝福と言われています。6章
24節からです。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」と祝福するように、アロンはモーセをとおして主から命じられました。

 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。


 次は、モーセも加わって民を祝福しています。その前に天幕に入りましたが、おそらく香壇へ行って、主への祈りをささげたのでしょう。主とともに時間を過ごすことによって、祝福がもたらされます。私たちの生活に祝福が与えられるのは、この意味深い主との時間を持つことによります。

 そして、次にすばらしい光景が書かれています。すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。

 主の栄光が民全体に現われました。火が出て、全焼のいけにえをなめつくしましたが、これは主が彼らのいけにえをお認めになり、受け取られたからです。民は、これを見て叫びました。喜びの叫びです。私たちが主を礼拝し、祭司としてともに仕え合うとき、喜びが訪れます。興奮します。心の中に、状況に左右されない喜びがあることが、クリスチャン生活の特徴です。みなさんにはあるでしょうか。主の栄光を見て、私たちもこの喜びにあずかりましょう。

3A 主の聖を現わす奉仕 10
 こうして、9章から、祭司の務めは、主の栄光の現われのための奉仕であることが分かりました。そして10章に入りますが、10章には、このような喜ぶべき出来事の中で、突如として悲しむべき出来事が起こることが書かれています。何と、始まったばかりの奉仕の中で、アロンの長男と次男が、死んでしまったのです。

1B さばき 1−11
1C 自分の栄光 1−3
 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

 
先ほどの主の前から出た火は、今、さばきの火として、アロンの子ナダブとアビフを焼く尽くしてしまいました。彼らは、主が命じなかった異なった火をささげた、とあります。主の命令に従わなかったことに対するさばきです。具体的には、贖いの日にのみ、大祭司しか入ることのできない至聖所に入って行ったと考えられます。レビ記
16章の1節をごらんください。「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とあります。ですから、二人の息子は、主に決してしてはならないと戒められたことを故意に行なったと考えられ、そのために火で焼き尽くされてしまったのです。

 なぜそのような不従順を行なったのか、考えられることは、自分たちに栄光が帰されるためであったと考えられます。モーセがアロンに、「すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす、と主は仰せになっている。」と言いました。おそらく、この二人は、主の前から火が出てきたことを見て、これはすばらしいと思い、自分たちにもそれをまねして、火を出してみせることができるのでは、と思ったのかもしれません。主ではなく自分に栄光が与えられるために行なったと考えられ、それゆえ焼きつくされたと考えられます。自分に栄光が与えられるように仕向けることは、主に用いられる人が立ち向かわなければいけない誘惑の一つです。

 モーセはまた、「主は、わたしは自分の聖を現わす、と仰せられている。」とアロンに言いました。主から出た火は、その栄光を現わす火であると同時に、聖さを現わす火でした。祭司は、このすばらしい主の栄光を見て、その祝福を他者にも分かち合うというすばらしい務めを任されているのですが、同時に、聖なる主のしもべとして、決してしてはならない事柄があり、高い基準が課せられているのです。私たちクリスチャンは、恵みによって主の栄光にあずかることが許されている特権を持っています。と同時に、してはいけないことが明確に示されている、神を畏れかしこむ存在です。ある人がこう言いました。「恥は、人を恐れるところから来る。良心は、神を畏れるところから来る。」主が聖であられるがゆえに、私たちはしてよいこと、いけないことがはっきりと定められています。

2C 注ぎの油 4−7
 次をごらんください。モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。「進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。

 モーセは、二人の息子の死体を、アロンのいとこにあたるミシャエルとエルツァファンに引き出してもらうように命じました。アロンは、今死んだ、自分の息子のからださえ触ることが出来ません。

 次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。しかし、あなたがたの身内の者、すなわちイスラエルの全家族が、主によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。

 アロンは、二人の息子のために泣き悲しむこともできませんでした。これは辛いですね。ユダヤ人は、髪の毛を乱したり、着物を引き裂くことによって、自分の悲しみを表現し、喪に服します。葬式にまで参加することができないのです。けれども、これは実は、私たちの主イエスさまもお話しになったことです。父を葬ることを願い出た弟子に、イエスさまは、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。(ルカ
9:20」と言われました。もちろん、私たちは家族の人が死んだときに、葬式に出てはいけないということではありません。そうではなく、イエスを主として歩むときに、そのような大切なことも犠牲にしなければいけない時があるということです。家族ではなく、他の何者でもなく、イエスが主となっているかどうか、それがここで問われていることです。

 またあなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には主のそそぎの油があるからだ。」それで、彼らはモーセのことばどおりにした。

 アロンは天幕の外にも出ることができませんでした。こうした規制の理由は、「主のそそぎの油があなたがたの上にはあるからだ。」というものです。油注ぎがあるので、してはいけないのです。私たちは、油注ぎがご聖霊を示すことを学びましたが、私たちが聖霊に導かれ、聖霊に満たされるようになると、主に用いられ始めます。私たちの周りに、主のすばらしいみわざが起こり、私たちは主の栄光を見る特権にあずかります。けれども、それは同時に、自分ができることが狭められていることを意味します。これは、窮屈に感じる必要はありません。目的がはっきりと定まっている、と考えればよいでしょう。具体的に、自分が主のご用にあずかっているわけですから、これはすばらしい特権なのです。

3C 分別 8−11
 そして、次に主はアロンに直接語りかけられます。それから、主はアロンに告げて仰せられた。「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。」

 今まで主は、モーセに語られて、モーセがアロンにそれを伝えたのに、今はアロンに直接語られています。他の人には分からない、アロンだけが知っている心の奥底のことについて語られたのでしょうか、その内容は、お酒を飲んではいけない、というものです。突然、お酒の話しが出てくることは不思議ですが、アロンの二人の息子は、酒に酔いしれていたという可能性があります。酔っていたので、判断力が鈍り、主が命じられることをことごとく破っていったと考えられます。パウロは、エペソ人に、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(
6:18」と言いました。酒は、ちょうど御霊が与えてくださる判断力を鈍らせてしまうのです。聖霊のみわざについて、預言者イザヤが、このように言っています。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ11:2」知恵、悟り、はこりごと、能力、知識、主への恐れなどが特徴であり、主に判断力であることが分かります。聖霊のことになると、とかく感情的になることを考えてしまいますが、確かに聖霊によって喜び、平安に満たされ、愛に満たされるのですが、明晰な判断力が聖霊に満たされることの特徴なのです。したがって、お酒はその判断力を鈍らせるので、聖霊に満たされることを阻害し、主に用いられることができなくなってしまうということです。

 それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。

 確かに、主はアロンに、区別しなければいけないことを教えられました。この世には聖なるものと俗なるものがあります。ちょうど次の章の
11章には、食べてよいきよい動物と汚れた動物が区別されていますが、汚れたものときよいものが区別されるのです。私たちが住んでいる日本は、自分の好きなことをすることが自由だと考え、電車やレストランなどの公の場で、たばこを吸ったり、ポルノ雑誌を読んだりしている人が多いです。だから、区別をして生きることは難しいのですが、けれども、異教の国に生きていたダニエルは、バビロンの文学や学問などを学びながら、王から与えられた食事を拒むという区別をしました。だからできるのです。その判断は、聖霊によらなければできず、私たちは聖霊に満たされる必要があるのです。

2B 分け前 12−20
 そしてモーセはアロンと残された二人の息子に、聖なることとして、いけにえの分け前を食べることを命じます。

1C 食べる奉仕 12−15
 そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。「主への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。それを聖なる所で食べなさい。それは、主への火によるささげ物のうちから、あなたの受け取る分け前であり、あなたの子らの受け取る分け前である。そのように、私は命じられている。穀物のささげものを、天幕の中で食べなければいけません。しかし、奉献物の胸と、奉納物のももとは、あなたと、あなたとともにいるあなたの息子、娘たちが、きよい所で食べることができる。それは、イスラエル人の和解のいけにえから、あなたの受け取る分け前、またあなたの子らの受け取る分け前として与えられている。祭司はレビ人であり、家族たちには相続地が与えられていなかったので、人々が持ってくるいけにえの分け前が与えられました。人々は、奉納物のももと奉献物の胸とを、火によるささげ物の脂肪に添えて持って来て、奉献物として主に向かって揺り動かさなければならない。これは主が命じられたとおり、あなたと、またあなたとともにいるあなたの子らが永遠に受け取る分である。

 揺り動かして、神に感謝します。食べることが聖であるのは、聖なる神のものにあずかって、神と交わりをするからです。私たちにとっては、穀物のささげものは聖餐式に当たるし、また、和解のいけにえは、愛餐会、または日々の食事に当てはまります。聖餐式では神と交わりをして、和解のいけにえでは、神に感謝するのです。

2C 罪ゆえの悲しみ 16−20
 ところが、モーセは、彼らがいけにえを食べなかったことを発見します。モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。」

 
罪のいけにえも、聖所の中で食べるように命令されていましたが、アロンたちは食べませんでした。そこでモーセは彼らを叱責したのです。

 そこで、アロンはモーセに告げた。「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげました。それでこういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。」モーセはこれを聞き、それでよいとした。

 アロンは、実に的を得たことを話しています。アロンは、たとえ罪のためのいけにえを食べていても、失った息子の悲しみのゆえに、食べることはできなかった。たとえ食べたとしても、心のともなわない単なる儀式にしか過ぎなくなると訴えたのです。モーセがこれを聞いて納得しています。つまり、これは正しいことだったのです。すべてのことは、信仰によって行なわれなければいけません。儀式をすること自体が大切なのではなく、それらの命令をなされている主ご自身に信頼し、この方に従うことのほうが大切なのです。私たちが主に用いていただくときに、形式だけの奉仕になってはいけないということです。主は、私たちの行ないよりも、その行ないの態度をご覧になられます。アロンは、息子が犯した罪のために悲しんでいました。

 こうして、祭司の務めを見てきました。私たちも祭司であり、聖別されなければいけないこと、主の栄光のために行なうこと、そして主の聖を現わすために行なうことが分かりました。主は、私たちをお用いになりたいと願われています。私たちは、このからだを主の御前に差し出し、「主よ。あなたが願われていることなら、何でも私のうちで行なってください。どのようなことにでも、私をお用いください。」と祈ってみてください。主のご臨在、主の栄光を見る特権にあずかりましょう。


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