ミカ書1−4章 「公義と勇気による預言」

アウトライン

1A 聖なる宮からの来臨 1
   1B 溶ける山々 1−4
   2B 廃墟となるサマリヤ 5−7
   3B ユダへの侵略者 8−16
2A 貪欲への裁き 2
   1B 相続地のゆすり 1−5
   2B 「たわごと」という批判 6−11
   3B 残りの民の召集 12−13
3A 答えない主 3
   1B 首領の搾取 1−4
   2B 預言者の惑わし 5−8
   3B 金で動く公義 9−12
4A シオン山の王 4
   1B 異邦人の従属 1−5
   2B 弱い者の相続 6−8
   3B 略奪者への攻撃 9−13

本文

 ミカ書を開いてください、今日は1章から4章までを学びたいと思います。今日のメッセージ題は、「公義と勇気による預言」です。さっそく本文に入りましょう。

1A 聖なる宮からの来臨 1
1B 溶ける山々 1−4
1:1 ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。

 ミカの名前の意味は「誰がヤハウェのようであるか」です。そして預言活動は、「ヨタム、アハズ、ヒセキヤの時代」とあります。紀元前八世紀のことです。預言書を書き記した預言者の多くが、この時期に預言していることが分かります。イザヤのことを思い出してください、彼はウジヤ王の時期から預言を行い、ウジヤが死んだ後に天の御座の幻を見ました。それからアハズに対してあの有名な「インマヌエル」の預言をして、そしてヒゼキヤの時に、アッシリヤに取り囲まれたエルサレムが奇跡的に救われることを預言しました。

 エレミヤとエゼキエルはその一世紀後、エルサレムが滅ぶ前後に預言しましたが、ホセア、アモス、ヨナはイザヤと同じ紀元前八世紀頃、700年代に預言を行っています。

 なぜ同じ時期に預言者がこれほど多く出てきたかと言いますと、アッシリヤが台頭してきたからです。北イスラエル、そして南ユダの歴史はとても似ています。北イスラエルは、ヤロブアム二世の時に繁栄しました。その後間もなくしてアッシリヤが攻めてきて、紀元前722年にサマリヤが陥落します。南ユダはウジヤの時に繁栄しました。同じように間もなくして、アッシリヤがユダにも攻めてきて、その町々を攻め取りました。エルサレムだけが孤島のように残りましたが、ヒゼキヤの悔い改めと嘆願の祈りによって奇跡的に救い出されました。南北どちらの国も、その破壊の前に繁栄期を迎えているのです。

 したがって、その繁栄、豊かさの中で預言者たちが次々と現れ、その後に来る破滅を警告したわけです。豊かになれば私たちは高ぶります。その高ぶりによっていろいろな罪を犯します。

 そしてミカが預言したのは、「サマリヤとエルサレム」とあります。サマリヤまで攻めてきたアッシリヤがユダに攻めてくることを預言します。サマリヤで行われていた罪を、アモスが責め立てましたね?貧しい人から取り上げて、彼らは豪奢な生活をしていました。そのサマリヤを神がアッシリヤを通して裁かれたのですが、同じ理由でエルサレムを、同じようにアッシリヤを通して裁かれます。

 けれども歴史は、この警告の言葉をサマリヤは聞かなかったけれども、エルサレムは聞いたということを教えています。ヒゼキヤがへりくだって祈りました。その為に裁きは引き伸ばされました。ミカの預言はこの一世紀後に、エルサレムの政治指導者たちによって開かれています。エレミヤの預言を、祭司や預言者らが聞いて怒って、彼を死刑にせよと訴えました。けれども、首長たちは死刑に値しないと判断し、そしてミカの預言を取り上げました。「エルサレムは廃墟となるとミカが預言したのに、ヒゼキヤとその民は彼を殺しただろうか。むしろヒゼキヤが主を恐れたので、その災いを主は思い直されたではないか。」ということを言っています(エレミヤ26:16-19参照)。

1:2 すべての国々の民よ。聞け。地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となる。

 「聞け」と神は命じておられますが、同じ言い回しが3章の初めに、そして6章の初めにあります。ですからミカ書は三つの部分に分けることができ、1章から2章、3章から5章、そして6章から7章の三つです。

1:3 見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。1:4 山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。

 主はご自分が裁きを行われるに当たって、「すべての民に」対して、また「地と、それに満ちるもの」すなわち自然全体に対して語られています。神の裁きがすべての人、またすべての物に対して行われることをここで厳かに宣言しています。単にイスラエルやユダだけに関わることではなく、全世界がこの神の御前で裁きに服さなければいけないのです。「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するからです。(ローマ3:19」とあるとおりです。

 そして主は御住まいを持っておられますが、それは天においてです。主がその聖なる御姿をもって現れる時、自然界は溶け去ってしまいます。具体的には、イエス・キリストが再臨されるとき、オリーブ山に立たれます。その時、オリーブ山が真っ二つに割れて、東西に伸びる大きな谷ができます(ゼカリヤ14:4)。また、最後の災いに時には、かつてない大きな地震が起こり、「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。(黙示16:20」と黙示録にあります。

2B 廃墟となるサマリヤ 5−7
1:5 これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。ユダの高き所は何か。エルサレムではないか。

 天変地異をもたらす神の裁きが、神の民が犯している罪のためであるとミカは言います。神はご自分の民を取り扱われるために、この天地をも巻き込んで事を行われます。世界に下る災いは、むろん世が行っている罪に対して下るものですが、けれども神の焦点は、まずご自分の民に向けられているのです。「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(1ペテロ4:17」とあるとおりです。

1:6 わたしはサマリヤを野原の廃虚とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。1:7 そのすべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる。わたしはそのすべての偶像を荒廃させる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに返る。

 サマリヤは北イスラエルの首都でした。そこは丘の上にあり、栄えていた町だったのですが、神は「野原の廃墟」とする、「ぶどう畑」にする、そして「石を谷に投げ入れ、基をあばく」と言われます。ちょうど東京が空襲によって焼け野が原になった時のことを思い出してください。そのようにする、と神は言われているのです。

 そしてサマリヤの偶像崇拝に対する神の裁きがあります。その偶像礼拝の中に、神殿娼婦がいました。彼女が顧客から儲けた金の一部を彼女は奉納金として神殿に納めました。けれども、それをアッシリヤが偶像を破壊して、今度はアッシリヤが同じ金銀を使って自分たちの神々を作り、そして神殿娼婦を雇うことをする、というものです。

3B ユダへの侵略者 8−16
1:8 このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう。わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう。1:9 まことに、その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。

 ミカの預言は、主にユダに向けられているものです。なぜ初めにサマリヤに対して神が語られたかというと、サマリヤの罪がそのままユダにまで達し、そして同じように神の裁きが同じようにユダとエルサレムにまで達するからだ、ということです。

 そしてミカが泣き喚いています。ユダに起こることを前もって幻の中で見て、気が狂いそうになっています。自分の泣き声を、荒野や廃墟の中にいる動物であるジャッカルや駝鳥の鳴き声に喩えています。それは神の裁きの後のユダの地が、そのようになることを暗に示しているものです。

1:10 ガテで告げるな。激しく泣きわめくな。ベテ・レアフラでちりの中にころび回れ。1:11 シャフィルに住む者よ。裸で恥じながら過ぎて行け。ツァアナンに住む者は出て来ない。ベテ・エツェルの嘆きは、あなたがたから、立つ所を奪い取る。1:12 マロテに住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう。エルサレムの門に、主からわざわいが下ったのに。1:13 ラキシュに住む者よ。戦車に早馬をつなげ。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。1:14 それゆえ、あなたは贈り物をモレシェテ・ガテに与える。アクジブの家々は、イスラエルの王たちにとって、欺く者となる。1:15 マレシャに住む者よ。わたしはまた、侵略者をあなたのところに送る。イスラエルの栄光はアドラムまで行こう。

 ここに出てくる数多くの町の名前は、主にミカの出身である「シェフェラ」と呼ばれる地域です。ペリシテ人のいる地中海沿岸地域と、イスラエルの中央を走るユダの山地の間にある低地です。少年ダビデがゴリヤテに対峙したところもシェフェラですし、サムソンが活動していたところもシェフェラです。アッシリヤは、サマリヤを紀元前722年に陥落させた後、このユダの地域に攻め入ってきました。エルサレムの西側に廻って、そして南のラキシュまで行き、それから北上してエルサレムを包囲したのです。そのアッシリヤが倒した町々の名がここに記されています。

 ミカは1章1節に「モレシェテ人」であるとの紹介がありますが、このモレシェテも14節、「モレシェテ・ガテ」という名で出てきます。ミカは自分のふるさとがこのように踏み荒らされるのを幻の中でいて、泣き叫んでいたのです。

 ところで、ここの箇所を元々のヘブル語で読むならば、語呂合わせや掛詞になっていることに気づくそうです。それぞれの町の名称の発音と、それに続く言葉の発音がとても似ているそうです。それで語呂合わせが分かるように、この箇所を読み直してみたいと思います。
 

ガテで告げる(ナガド)な。激しく泣きわめくな。ベテ・レアフラ(ちりの家)でちりの中にころび回れ。シャフィル(美)に住む者よ。裸で恥じながら過ぎて行け。ツァアナン(出て行く)に住む者は出て来ない。ベテ・エツェル(嘆きの町)の嘆きは、あなたがたから、立つ所を奪い取る。マロテ(苦み)に住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう。エルサレムの門に、主からわざわいが下ったのに。ラキシュ(早馬)に住む者よ。戦車に早馬をつなげ。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。それゆえ、あなたは贈り物をモレシェテ(相続)・ガテに与える。アクジブ(座)の家々は、イスラエルの王たちにとって、欺く者となる。マレシャ(相続)に住む者よ。わたしはまた、侵略者をあなたのところに送る。イスラエルの栄光はアドラム(逃れの町)まで行こう。

 これらの町々の中で有名なのが、「ラキシュ」です。ラキシュは交通の要衝にある町であり、そして軍事戦略的にも重要な地点にあります。その丘状遺跡には、アッシリヤがラキシュを攻めた時の跡が克明に残っています。そしてアッシリヤの王セナケリブは、ユダの町々を攻め取ったこと、ヒゼキヤが自分に贈り物をおくってきたことなどを、勝ち誇っている文章が残っています。さらに、ニネベにある、セナケリブの宮殿の壁画には、ラキシュにおいて人間を串刺しにした絵、生きたまま皮を剥いでいる絵が残っています。前回ヨナ書で学んだとおり、アッシリヤは非常に残虐だったのです。

1:16 あなたの喜びとする子らのために、あなたの頭をそれ。そのそった所を、はげ鷲のように大きくせよ。彼らが捕えられて、あなたから去って行ったから。

 ことごとく町々が倒れて、捕らえ移される姿を見て、その激しい嘆き悲しみを「頭をはげ鷲のように大きくそれ」と神は言われています。これはユダヤ人の習慣にない悲しみ方ですが、おそらく異教の影響を受けていたのでしょう。その異教徒の悲しみをもって悲しみなさい、という言葉です。

2A 貪欲への裁き 2
 そして次に、ユダの人々がどのように罪を犯していたのかを、神は明らかにされます。

1B 相続地のゆすり 1−5
2:1 ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。

 悪を行う時に、この表現は実にその過程を如実に表しています。心で欲することを、じっくりとふところで暖めて、それから実行するのです。それをここでは寝床で悪巧みを計っている、と言っています。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:15」とあるとおりです。

2:2 彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。

 他人のものを欲しがる罪です。モーセの十戒の最後の戒めです。殊に、ユダの人々にとって他の人々の土地は決して取ってはならないものでした。「地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもと居留している異国人である。(レビ記25:23」と主は言われました。主が、約束の割り当て地を与えられるのは、彼らがエジプトで奴隷であったのを解放されたこと、彼らが自由人であることを示す重要なものでした。したがって、相続地は決して失ってはならないものであり、その為に、ヨベルの年や買い戻しの権利を定めておられるのです。申命記では、「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。(19:14」とあります。

 北イスラエルの王アハブが、宮殿の隣にあったナボテのぶどう畑を取り上げましたが、それと同じことをユダの人々は行っていたのです。

2:3 それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。」2:4 その日、あなたがたについて、あざけりの声があがり、嘆きの歌が起こって言う。「私たちはすっかり荒らされてしまい、私の民の割り当て地は取り替えられてしまった。どうしてそれは私から移され、私たちの畑は裏切る者に分け与えられるのか。」2:5 それゆえ、主の集会で、あなたのために、くじを引いて測り綱を張る者がいなくなる。

 主の裁きは、彼らが自分たちの割り当て地が、アッシリヤが荒らしに来たのでなくなってしまうことでした。そしてアッシリヤが過ぎ去った後も、くじを引いて測り綱で張る時も彼らに割り当て地が戻ってこないという裁きが与えられます。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7」とあるとおりです。

2B 「たわごと」という批判 6−11
2:6 「たわごとを言うな。」と言って、彼らはたわごとを言っている。そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。2:7 ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。

 これまでのミカの預言を聞いて、それで「たわごとを言うな。」と言い返している場面です。6節の後半「そんなたわごとを言ってはならない。・・・」以降は、ミカの預言を批判している人々の言葉です。7節後半の「・・・これは主のみわざだろうか。」というところまで批判の言葉です。

 彼らが言っていることは基本的に、「ヤコブの家には神の祝福が約束されています。その恥が起こるはずがない。主がご自分の民にそのような恥を与えるようなことはなさらない。割り当ての地を失わせるようなことなど、主ご自身ががまんならないだろう。こんな裁きは主の御業ではない。」ということです。

 彼らの言っていることは、半分当たっていて、半分間違っています。ヤコブの家には、確かに主の祝福が約束されています。ヤコブに対して主は、「わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。(創世28:13」と約束されました。この約束は必ず実現するものであり、取り消されないものです。

 けれどもこの約束は、ミカが7節の後半で、「正しく歩む者に益とならないだろうか」と言っているように、正しく歩むからこそ益になる言葉なのです。自分たちが貪欲の罪を犯していても、それでもヤコブの家にある祝福にあずかれると教えるのは、偽預言者のすることであり、まさに多くの者が、彼らの貪欲を許容するような偽預言を行っていたのでした。

 これをキリスト者らに当てはめるならば、「罪の中に生きていながら、永遠の命の約束にあずかることはできない。」ということです。「いや、待ってくださいよ。救いは永遠の保証されているのでしょう?罪の中にいようとも、神の御手から私たちを引き離すものはないのでしょう。」と反論する人がいることでしょう。

 けれども、ヨハネの手紙第一には、はっきりとこう書いてあります。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。(1ヨハネ3:9」罪を全く犯さない、ということではありません。けれども罪を犯せば、救いの喜びは失われます。そして罪を犯しても、それを神に告白して、清められなければいけません。その罪を犯し続けても、永遠のいのちの喜びにあずかれると思っている人は、自分を騙している者であり、真理がその人の内にはないのです(同1:8)。

2:8 以前から、わたしの民は敵として立ち上がっている。しかし、あなたがたは、戦いをやめて安らかに過ごしている者たちのみごとな上着をはぎ取る。2:9 あなたがたは、わたしの民の女たちを、その楽しみの家から追い出し、その幼子たちから、わたしの誉れを永遠に取り去る。

 神の真理は、「わたしの民は敵として立ち上がっている」です。神の民であっても、神に敵対することがあるのです。そして具体的に、彼らは人々から着物を剥ぎ取り、女(おそらく、やもめ)から家々を奪い取り、また子供たちを奴隷に売らざるを得なくさせるようなことを行っています。律法はなんと言っているでしょうか?「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。(出エジプト22:26-27

2:10 さあ、立ち去れ。ここはいこいの場所ではない。ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ。

 かつてカナン人がその忌まわしい行いのゆえに、この地から追い出されたように、イスラエル人らもこの人々から奪い取るという罪のゆえに、この地を汚し、それゆえ追い出されます。

2:11 もし人が風のまにまに歩き回り、偽りを言って、「私はあなたがたに、ぶどう酒と強い酒について一言しよう。」と言うなら、その者こそ、この民のたわごとを言う者だ。

 なぜ人々が、ミカの預言に「たわごとだ」と非難したかと言いますと、偽預言者たちがいたからです。彼らは、人々の貪欲の罪については何も触れません。いや、触れるかもしれませんが、それは自分たちに報酬をどれだけ与えたかに拠るのです。「ぶどう酒と強い酒について一言しよう。」というのは、彼らが受け取る報酬のことです。「お酒でも贈り物としていただけませんかね?」というお願いです。そうしたら、預言の内容を彼らの要求に合わせて変えたのです。自分に報酬をくれる者には祝福を、くれない者には災いを預言しました。だから、これらの偽預言者たちこそ、たわごとを言っている!とミカは非難しているのです。

 ですから、一般の民が貪欲の罪を犯しただけでなく、預言者が同じ罪を犯していました。イスラエルの国、そしてユダの国が豊かになっていたことを思い出してください。国が豊かになれば、人々が高慢になるだけでなく、神の教会も高慢になるという危険があるのです。

3B 残りの民の召集 12−13
 そしてミカの預言は、一挙に、祝福の約束に変わります。高ぶっている者は破滅しますが、残された者、うちひしがれた者たちには神の救いが約束されています。

2:12 ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。こうして人々のざわめきが起ころう。2:13 打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く。彼らの王は彼らの前を進み、主が彼らの真先に進まれる。

 12節に「おりの中の羊」とありますが、これは「ボツラの羊」と訳すことのできる箇所です。「ボツラ」と言えば、預言書の中に数多く出てきた、エドムの首都であった町で、自然の要塞であり、神が裁きをこの町から始められることを語っておられます。

 イエス様が、ユダヤ地方にいる人々に、「荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つのを見たならば、山へ逃げなさい。(マタイ24:25-26参照)」と言われました。この山が死海の南にあるボツラ、今のペトラと呼ばれる町です。反キリストがユダヤ人を絶滅しようとします。けれども、そこに逃げた者たちは、その地形のゆえに何とか守られます。黙示録12章に、「地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。(16節)」とあります。イスラエルが、患難期七年間の後半、三年半の間、荒野にあるボツラの町で守られ、それから主が天から来られて、反キリスト率いる世界の軍隊に対して戦い始められます(イザヤ63:1-6)。

 そして、とてつもない速さで、ことごとく敵どもを倒される姿が13節に書いてあります。「打ち破る者」とは、キリストのことです。主がイスラエルのために戦ってくださるのです。

3A 答えない主 3
 そして3章から、また新しい部分に入ります。「聞け」という言葉から始まります。

1B 首領の搾取 1−4
3:1 わたしは言った。聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を知っているはずではないか。3:2 あなたがたは善を憎み、悪を愛し、人々の皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取り、3:3 わたしの民の肉を食らい、皮をはぎ取り、その骨を粉々に砕き、鉢の中にあるように、また大がまの中の肉切れのように、切れ切れに裂く。

 先に貪っている人々に対する神の裁きの言葉がありましたが、ここでは具体的に「首領」に対して神が語られています。神から与えられた権威の中で貪りを起こすと、このようなひどいことを行うのです。「骨までしゃぶる」という日本語の言い回しと同じです。

 私たちには、神から与えられた権威があります。神から任された分があります。それは神の恵みによるものであり、私たちが勤勉にその賜物を用いることによって神に仕えることができます。けれども、ここでユダが豊かであったように、私たちも豊かになっていると、主を求めることを怠るようになります。祈ることを止めます。そこで、私たちは自然と、その権威を自分の欲を満たすために使っていくようになるのです。

 主を追い求めることは、非常に能動的です。祈ることは、私たちの思いや気持ちに反することがよくあります。祈らないで、便利な生活の中で快適になっていたいのです。よく言われますが、「前進しなければ、後退するのみ」なのです。だから、ここの首領たちの罪は私たちからかけ離れている話ではなく、誰もが陥る危険のあるものです。 

3:4 それで、彼らが主に叫んでも、主は彼らに答えない。その時、主は彼らから顔を隠される。彼らの行ないが悪いからだ。

 彼らが叫んでいるのは、へりくだって、悔い改めて叫んでいるのではありません。なぜこのような災いを受けなければいけないのか?という訴えです。けれども、主ははっきりと、「あなたがたの行ないが悪いからだ。」と言われています。イエス様が、地獄にいる偽預言者たちに対して、「あなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(マタイ7:23」と言われた通りです。

2B 預言者の惑わし 5−8
3:5 預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように。」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する。

 今度は預言者たちに対して、主が語られています。先ほど話したように、彼らは自分に報酬をたくさんくれる者には祝福あるいは「平和」を宣言しました。けれども、自分に食べ物をくれない者には、「聖戦」を宣言しています。

 恐ろしいことですが、これは十分起こることです。イエス様は「良い牧者」の喩えで、命を捨てるご自分と、そうではない羊飼いを比べられました(ヨハネ10章)。彼らは「雇われている」からです。御言葉をまっすぐに語れば、必ずそれを好まない人々が出てきます。そうすると献金が減ります。ある人は、献金をたくさん出すことによって教会における発言力を強めようとさえします。その圧力に屈したら、まさに雇われ牧師になってしまい、そして報酬にしたがって説教の内容を変えるという悪を犯してしまうのです。

 この誘惑はどの説教者でも受けるものであり、それゆえパウロはテサロニケ人の信者にこう言いました。「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(1テサロニケ2:3-4

3:6 それゆえ、夜になっても、あなたがたには幻がなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。3:7 先見者たちは恥を見、占い師たちははずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。

 首領たちにとって、国が滅びそうになっているときに神に叫んでも答えがないのは、大いなる恥です。民を救うべき力と知恵がないのです。その一方、預言者にとっての恥は、国が危機に陥っている時に、語るべき言葉がなくなることです。みなが神からの言葉を欲しているその時に、何も言うべきことがないのです。彼らのことを「先見者」「占い師」と呼んでいますが、彼らが行っていたのはまさに異教のそれと変わらないことを当てこすっています。

 預言者が、その時代の人々の必要に合わせて、その人々の耳に心地よいことだけを話していたら、必ず語るべきものがなくなります。なぜなら、実際はそのようにならないからです。「積極的に思いを変えていきましょう。そうすれば、あなたは幸せになります。」と説教しても、非常に否定的なことが自分たちの周りで次々と起こるのです。「暗やみになっても」とありますが、この世が真っ暗になったとき、何も言えなくなるのです。

 それに対して、まことの預言者はどうでしょうか?次をご覧ください。

3:8 しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう。

 まことの預言者には、「」があります。そして力とともに「主の霊」、ご聖霊がおられます。パウロはテサロニケの人々に、「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。(1テサロニケ1:5」と言いました。

 そして「公義」があります。人々の必要や要求に合わせるのではなく、神の義に合わせるのです。それが彼らの耳を楽しませなくても、語るのです。そして「勇気」があります。人々が反発するかもしれません。迫害するかもしれません。けれども、人への恐れを乗り越えて語り告げるのです。

 そして、今語らなければいけないのは、「ヤコブの罪、イスラエルの罪」でした。これが真実であり、愛をもって真実を語らないといけないのです。真実を語るときには力が与えられます。御霊に満たされます。そして公義と勇気も与えられます。これが、ただ表向き良いことだけを話す語り手との大きな違いです。

3B 金で動く公義 9−12
3:9 これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を忌みきらい、あらゆる正しいことを曲げている。3:10 血を流してシオンを建て、不正を行なってエルサレムを建てている。3:11 そのかしらたちはわいろを取ってさばき、その祭司たちは代金を取って教え、その預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主に寄りかかって、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない。」と言う。 

 エルサレムの建設に関わっている全ての人々がお金で腐敗しています。まずその町を建てる責任者は首領たちです。そしてその建設に関わっている棟梁がいます。そしてできあがった神殿で、祭司が、また預言者がその奉仕の働きを金銭を取ることによって行っています。教会が、またキリスト教の働きが、「お金、お金」と言い始めたら危険信号です。

 そして、再び誤った安心感を持っています。「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない。」です。主がおられる、という前提で私たち信者はすべてのことを行いますね。祈りも、礼拝も、伝道も、すべての活動が、主が共におられるからだと信じているから行えます。そして、祈っているから、礼拝しているから、だから主は祝福してくださるに違いない、ということも思っています。けれども、主がそこからいなくなるということも十分あり得るのです!エペソにある教会に対して、イエス様は、「悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたがたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(黙示2:5」と言われました。

3:12 それゆえ、シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、エルサレムは廃虚となり、この宮の山は森の丘となる。

 これは、ヒゼキヤまたヨシヤのへりくだりと、その祈りのゆえに、神が引き伸ばされた裁きです。ヨシヤが死んでからしばらくして、その息子たちの行いが悪かったので、バビロンによって滅ぼされました。

4A シオン山の王 4
 けれども再び、主は祝福と回復の約束を下さっています。

1B 異邦人の従属 1−5
4:1 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。

 今、ミカはこの山が廃墟となり、森の丘となると預言したばかりです。けれども、ここでは「山々の頂に堅く立つ」と預言しています。

 ここから私たちは、「どんなに罪によって破壊されてしまっても、神はそこから再創造する力を持っておられる。その恵みを持っておられる。」ことを知ります。罪を犯していても、この祝福があるのだと勘違いしてはいけません。けれども、たとえ罪を犯して絶望の淵にいたとしても、神がそこからとてつもない回復と祝福を下さるのだ、ということは知ってください。

 ここでは具体的に、「終わりの日」についてのことです。主イエス・キリストが再び戻ってこられた後の話です。先に話しましたが、イエス様がオリーブ山に立たれた後に天変地異が起こります。諸国の軍隊を滅ぼし、また諸国の民を裁かれて、神はこの地上をエデンの時のように回復してくださいます。そしてゼカリヤ書14章にもありますが、エルサレムの町は最も高い所となり、世界中の人々が都上りをするようになります。

 大事なのは、イスラエルの人々だけでなく異邦人たちが、シオンにおられる主を礼拝するためにお参りをすることです。聖書は、多元主義を真っ向から否定しています。西洋人にはキリスト教、中東の人にはイスラム教、けれども日本人は神道また仏教なのだ、という考えを真っ向から否定します。全ての人が、シオンに住むと宣言されたこの神を拝むように召されているのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12

4:2 多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 すばらしいですね、人々が主の教え、主の言葉を聞くためにシオンに上っています。主の教え、主の言葉の回復です。ある人々は神秘的な体験を求めているかもしれません。ある人々は、知的な追及を自分の生きがいにしています。そして多くの人は、物質的なこと、自分の着ている服、持っているバイク、次にどこに旅行に行くのか、グルメなどを喜びとしています。けれども、私たちの喜びはただ一つ、主の言葉を聞くところにあります!

4:3 主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。4:4 彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。

 主が絶対的な主権を持って、どんなに遠くにいても、どんなに強くても、その国を平定させます。そしてそれは、人間の指導者が行うような圧制ではなく、人々に正義と平和を与えるものです。軍事費をすべて農業予算に変更させます。

 そして、「ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座る」というのは、ここに書かれている通り、「それだけ安全だ」ということを表しています。平和と繁栄を象徴している姿です。私たちが家の戸に鍵をかけなくても、安心して眠ることができます。その時セコムは倒産します!

4:5 まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。

 これは終わりの日の幻ではなく、今の私たちの信仰告白です。終わりの日にはこのような平和が、平和の君によってもたらされるのだから、私たちは今から主の御名によって歩もう、という信仰告白と決意です。私たちの周りの人々は神社で参拝し、仏の前で手を合わせているかもしれないが、私たちはこの御国をもたしてくださる神をあがめよう、と決意します。

2B 弱い者の相続 6−8
4:6 その日、・・主の御告げ。・・わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。4:7 わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。

 主が集めてくださるのは、「足のなえた者」です。「追いやられた者」です。捕囚の民となって、弱められた者たちを神が顧みてくださり、それでシオンにまで引き連れてきてくださいます。「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:3-5

4:8 羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ。あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る。

 ここの「」は「オフェル」のことです。ダビデの町の丘であり、神殿の丘の南に位置します。オフェルと聞けば、あのダビデの王権を思い出します。その時の主権をまた戻すと主が約束してくださっています。主がダビデにこう言われました。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(2サムエル7:16

3B 略奪者への攻撃 9−13
4:9 なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕えたのか。4:10 シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。

 神は再び、当時の彼らに対して語っておられます。以前の主権が帰ってくる、という約束がありますが、いや差し迫っているのはその王権が失われる時です。王がおらず、議官がいません。国を失ったのでユダヤ人は産みの苦しみのような苦しみで泣き叫びます。

 けれども主は、「バビロンで救う」と約束してくださっています。確かに裁きは受けなければいけない。けれどもそれは一時的であり、わたしはそれからあなたがたを救う、と約束してくださっているのです。これが、神が与えられる「懲らしめ」です。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11

4:11 今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう。」と。4:12 しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。主が彼らを打ち場の麦束のように集められたことを。

 これは終わりの日の幻です。エルサレムを世界中の軍隊が攻めてきます。そしてそこにいる人々を襲い、家々を略奪し、婦人は犯されます(ゼカリヤ14:2)。けれども、主が彼らをそのままにされません。主がエルサレムに戻ってきてくださいます。そして今度は彼らが、その軍隊をことごとく滅ぼすのです。

4:13 シオンの娘よ。立って麦を打て。わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる。

 「打ち場」では、麦の束が並べられます。そして牛が器具を引いて、その器具が麦を押しつぶしていきます。この例えによって、主は、ユダの人々が多くの国民を粉々に砕くと約束してくださっています(ゼカリヤ10:5)。

 そして彼らからの略奪品は、自分たちで使うのではなくすべて主にお捧げします。これらのことが、終わりの日には起こるのです!

 続けて5章でも、この回復の預言が続きます。その中に「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。(2節)」という、メシヤ預言があるのです。ベツレヘムでお生まれになる方が、イスラエルのために戦ってくださるという預言です。

 今日、私たちが学ばなければならないのは、「まことの力はどこから出てくるのか?」です。この世がますます悪くなってくるにつれて、私たちはその暗やみを明らかにする光の子どもとして歩むことができているか?ということです。調子を合わせたら、当時の首領や預言者、祭司のようになってしまいます。けれども、ミカのように力と御霊、そして公義と勇気に満たされたら、へつらいではなく、真の希望を伝えることができます。