民数記11−12章 「神の民への教訓」


アウトライン

1A 不平に対して 11
   1B 聖めの火 1−3
   2B 主の引き渡し 4−34
      1C 日々の営み 4−15
         1D 糧 4−9
         2D 重荷 10−15
      2C 神の怒りの現われ 16−34
         1D 満たされることのない欲望 16−23
         2D 助けにならない助け 24−29
         3D 滅びの刈り取り 30−35
2A 非難に対して 12
   1B 忠実な管理者 1−8
   2B 懲らしめ 9−16


本文

 民数記11章を開いてください。今日は、11章と12章を学びます。ここでのテーマは、「神の民への教訓」です。

 私たちは前回、イスラエルの民がシナイの山のふもとから、約束の地への荒野の旅を始めたことを学びました。会見の天幕の上にあった雲が上がっていき、祭司たちはラッパを吹き鳴らしました。イスラエル12部族が集められ、部族ごとに順番に行進しました。そして、最初の目的地はパランの荒野でした。聖書地図を見れば、シナイ山の北にあるところです。

 しかし、民数記を読み進めている方はお分かりのように、彼らの世代は約束の地に入ることができずに、荒野においてさまよい、死んでいきました。1章から10章までにおいて、神が旅に出かけるためのあらゆる備えを与えてくださったのを読みました。けれども、イスラエルのほうで、いろいろな失敗をしてしまい、約束の地に入ることができなくなってしまったのです。なぜ入ることができなくなったのか、その原因となった出来事を、著者モーセは、11章から14章までに書いています。

 11章と12章においては、パランの荒野に行くまでの間に、イスラエルの民が反抗したことについて書いています。13章と14章には、イスラエルの民の不信仰について書いています。神に反抗すること、神の約束を信じないことが、彼らが相続を受け継ぐことができなくなった原因となりました。今回は、11章と12章だけを見てみたいと思います。彼らがシナイ山のふもとから離れて、すぐの出来事です。

1A 不平に対して 11
1B 聖めの火 1−3
 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。

 イスラエルが、不平を鳴らして主につぶやきました。そのために、火が宿営の端に起こり、民はパニック状態に陥りました。そこでモーセに向かって、「どうか、助けてください。何とかしてください。主に祈ってください。」とお願いしたのだろうと思われます。モーセは主に祈りました。すると火は消えました。そこを「タブエラ」と名づけましたが、それは「燃える」という意味です。

 つぶやきや不平 − これは、私たちクリスチャンがいつも抱えている問題です。イスラエルの荒野の旅は、クリスチャンにとって、この世の中における歩みであります。この世は、主に対して生きようとする人たちにとって、実に住みにくいところです。すべてが自分とは逆の方向へ進んでいるかのように見えます。もちろん、この世の人たちと同じような問題にも出くわします。病気であったり、交通事故であったり、仕事をしている人はその会社の経営状況が悪かったり、さまざまな嫌なことが起こります。そこで私たちは、イスラエルの民のように、不平を漏らしてしまうのです。神さまから、旅のためのいろいろな準備をしていただいたのにもかかわらずです。私たちも同じです。教会において聖書の教えを聞き、クリスチャンの間で模範的な会話をし、霊的に聞こえる祈りをすることができるのですが、いざ不快なことが起こると、イスラエルのように不平を鳴らしてしまうのです。

 ここでは、主の火が宿営の端をなめ尽くしました。これは、聖なる神が彼らとともにおられることを表しています。宿営の中にきよさがなくなったので、主はその汚れを取るために火によって焼かれようとしたのです。これは、恐ろしいことであるかもしれませんが、主のあわれみでもあるのです。もしイスラエルの民が不平を鳴らしていたら、彼ら自身が自分自身を滅びへと向かわせてしまうからです。教会の中に、不平が立ち込めたらどうなるでしょうか?その教会はもはやいのちを失ない、そのまま続けても形骸化した活動のみが残されてしまうのでしょう。その前に、主から来る聖霊の火があれば、教会は一時期悲しみを通らなければいけないかもしれませんが、その聖めによって再び息をふき返します。ですから、イスラエルの宿営の端から火が吹き出たことは良かったことなのです。

2B 主の引き渡し 4−34
 ところが、彼らはさらに主に対してつぶやきました。
1C 日々の営み 4−15
1D 糧 4−9
 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

 ものすごい激しい欲望にかられました。むさぼりです。毎日、マナばかりを食べている。もううんざりする。エジプトには、有り余るほどの肉や魚があったではないか。刺激のある野菜も。きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくを食べていた。うわ〜、これが食いてえよお、と叫びました。けれども、マナはそんなにひどい食物だったのではありません。

 マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。

 マナによってパン菓子を食べることができ、そして、その味はおいしいクリームのようでした。それが、毎朝、天幕から出て外を見ると、露といっしょに降りていたのでした。彼らは、この荒野において飢え死にしてしまうような状態にいて、マナが日々与えられているのですから、それを感謝しなければなりませんでした。主の不思議なわざを見て、また主の真実を思って、彼らはそれで感謝できたはずなのです。けれども、彼らは、この一見お決まりの食事がいやになってしまったのです。

 これは、私たちクリスチャンにとって、大切な教訓となります。というのは、この世における歩みは、荒野の旅のように、単調で、お決まりの日々が続くからです。必ずしも、自分たちの魂を満足させるような目新しいこと、きわだったことが起こるわけではありません。この世においては、そのようなスリルを味わいたくて、私たちを刺激させるようなものをいろいろ提供してくれるのですが、キリスト者は違います。キリスト者は、与えられたマナを食べるような、単調でありますが、主の真実を知って、喜び感謝する日々を送るわけです。エレミヤは言いました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。(哀歌3:22-24)」日々、与えられるマナを思いながら歩んでいきましょう。

 ところで、彼らがつぶやいていたことは、事実に反していました。「エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。」と言って、エジプトでの生活が楽であったように言っていますが、実際は、激しい苦役であえぎ、叫んでいたのです。あの激しい労働を忘れてしまっていたのです。これが、私たちが陥ってしまう過ちです。この世は楽しそうに見え、過去のほうが良かったように見えるときがあります。けれども、その時はきまって、自分が通ってきたむなしさ、苦しみ、悩み、暗やみを忘れてしまっているときです。

 もう一つ、ここで気づかなければいけない点は、このつぶやきを初めに言ったのは、「イスラエルの中に混じってきた者」であるということです。彼らはイスラエル人ではありません。イスラエルがエジプトを出るときに、「さらに、多くの入り混じって来た外国人も、彼らとともに上った。」と出エジプト記12章38節に書いてあります。イスラエルとの契約の中に入っていない者たちが、イスラエル人たちとともに旅をしていました。行動はともにしているのですが、異なる動機で、異なる価値観で生きていたのです。けれども、彼らがいたことそのものが問題ではありませんでした。問題は、イスラエル人自身が、彼らにつられて、つぶやいてしまったということです。宿営の中に、神の思いではなく、人の思い、肉の思いを入らせてしまったところに問題がありました。

 私たちの信者の集まりにも同じことが言えます。教会は、主から与えられた幻を見て、ともに前進する共同体です。そこに必要なのは信仰であり、主を仰ぎ見ながら前に進まなければいけません。けれども、他人がの行なうことに自分も合わせることに焦点を当てるという過ちを犯します。すると、この混じっていた人と同じような不平が出てきます。けれども、その不平を、決して教会の中心的な事柄にしないよう注意しなければなりません。教会は、あらゆる人々を受け入れるところでありますが、人々に影響される共同体ではありません。教会は、神の方法によって人々に影響を与えているところの共同体なのです。

2D 重荷 10−15
 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

 モーセは、すっかり落ち込んでしまいました。彼は、神がイスラエルにこんなに良くしてくださっているのに、そのことを分からずに、泣いているのを見て、とても残念に思いました。また、彼らが願うところの肉を、どんなふうにしても仕入れることはできないと思いました。それで、この重荷があまりにも重すぎて、耐えきれなくなり、主の前で自分自身も泣いてしまったのです。

 ここで、モーセは過ちを犯していました。それは、自分が考えるような方法で、肉を集めなければならないと考えたことです。モーセは、これを神による方法で、神に解決していただく、ということを考えませんでした。そこにモーセにのしかかった重圧感の原因であり、不必要な原因だったのです。ここで、私たちは、自分たちで計算してしまう過ちについて気づかなければいけません。私たちは、主に与えられた重荷について、「これは私にはできないから、やめておこう。」とあきらめたり、「これはあまりにも重すぎます。」と言って、モーセのように落胆してしまったりします。「自分にできるかできないか」という物差しで、主の働きにかかわるかかかわらなかを決めているのです。

 しかし、私たちには祈ることができます。重荷があることを知りながら、けれども、主の御前に大胆に近づき、主が成してくださるわざを期待しなければいけません。私たちには、子供のクラスがありますが、妻が平日に働いているため、土曜・日曜日にしか教えることができません。けれども、大胆に、平日に教えることができますように、と祈ることができるのです。自分にはできません。けれども、神の方法で、私たちが考えるようにではなくても、神が行なってくださるのです。けれども、モーセは、自分だけでは荷が重すぎます、と主に訴えました。

2C 神の怒りの現われ 16−34
 そこで主は、モーセの願いを聞き入れられます。
1D 満たされることのない欲望 16−23
 主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。」

 モーセが主の働きをすることができたのは、主の御霊によりました。同じように、御霊によって私たちの主のわざを行なうことができます。そこで主は、モーセの霊を取って、七十人の長老にそれを分け与え、ともに重荷を担うことができるようにされました。けれども、本質的にはその必要はなかったのです。肉を与える問題については、主は他の方法を持っておられました。

 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった。』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう。』と言ったからだ。」

 神は、イスラエルの民に対して怒りを燃やしておられますが、その怒りは、肉を一ヶ月の間与え続けるところに現われました。欲望を満たしつづけることによって、主はご自分の怒りを現わされたのです。これを使徒パウロは、「欲望のままに引き渡す」という言葉を使って説明しています。ローマ人への手紙1章です。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(ローマ1:24)」パウロは、この前に、「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ1:18)」と言いましたが、その怒りは欲望に引き渡すところに現われました。欲望のままに生きている人たちは、自分たちが楽しんでいると思うことでしょう。けれども、いつまでたっても、自分が満たされていないことに気づきます。もっと何かが、もっと刺激を欲しいと願いますが、決して満たされることはないのです。これが実は、神の怒りの現われなのです。心のむなしさ、満たされない思いをもって、神は怒りを現わされています。

 私たちは、自分の欲しているものがそのまま与えられるのであれば、幸せではないかと思います。けれども、むしろ、与えられないことのほうが幸せであるのです。何でも買って与えられる子供が、幸せにしているでしょうか。いいえ、元気を失い、落ち込み、いつも不平を言っています。その反面、きちんと躾られている子はどうでしょうか。親が与えてくれるものを、感謝していることができます。大人の私たちも、神に対して同じなのです。

 しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

 モーセはびっくりしました。ひとりだけではできない、どうしましょうか、と主に聞きましたが、主は70人の長老を立てることを約束してくださいまいました。けれども、何と肉を一ヶ月の間、与えなければいけません。これでは70人いたって、できっこありません。けれども主は、「主の手は短いだろうか。」と言われて、主がこのことを成し遂げてくださると言われています。これを聞いて、モーセは気づいたかもしれません。「ああ、70人の長老が与えられても、それは、この肉の食べ物の問題には関係のなかったことなのだ。私は、的外れなお願いをしていたのだ。」と。主は、私たちがあまりにも切羽詰っていて、しきりにお願いするので、それを惜しまず与えられることがあります。けれども、実は神はもっと違ったことを考えておられることがあるのです。

2D 助けにならない助け 24−29
 ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。

 預言を行なったのは、彼らに霊がくだったしるしでありました。

 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。・・彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。・・彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で恍惚状態で預言しています。」若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

 七十人の長老が会見の天幕に来るはずだったのですが、その知らせを聞き損じたのか、エルダデとメダデは幕屋のところに行きませんでした。他の68人は正式に、モーセの前で役割分担をすることを告げられて、モーセの下で働くことを認められ、それで霊を受けましたが、エルダデとメダデは違いました。そこで、若者やヨシュアもびっくりして、彼らの預言をやめさせなければいけない、と思ったのです。しかし、モーセはすばらしかったです。彼は、自分が行なっている同じことを、自分のもとで行なっていなくても、それをねたまずに、そのような働きがもっともっと起こされればよいのに、と言ったのです。この謙遜さ、心の広さがモーセの特徴でした。

 このことは、主イエスご自身が持っておられる態度でした。ヨハネが、イエスさまの名で悪霊を追い出している者がいたけれども、自分たちの仲間ではないのでやめさせた、と言いました。けれどもイエスさまは、「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はいないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。(マルコ9:39-40)」このような大きな、広いイエスさまの心を私たちも持ちたいです。他のことで意見が食い違ったり、自分たちに不利益になるようなことをしている人がいても、イエスさまが宣べ伝えられているのだから良いではないか、という態度、これがキリストの思いです。

 この個所で興味深いのは、モーセのことばです。「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と言っています。この当時、神は、特定の選ばれた者にのみ御霊を注がれました。そこで、モーセは「すべての人」が御霊が注がれるとよいのに、と言いました。実は、預言者ヨエルが、世の終わりにそのようになると預言しました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(2:28-29)」そして、この預言は成就しました。五旬節の日に、聖霊が弟子たちに降り、それだけではなく、サマリヤ人、異邦人コルネリオの家族にも降りました。イスラエルの長老たちにくだった霊が、汚れていたとされ、イスラエルの契約とは無縁であるとされていた異邦人にさえ下ったのです。私たちにも注がれる御霊です。

3D 滅びの刈り取り 30−35
 それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。

 うずらが飛んで来ました。うずらが、自分たちが捕まえることができるほど低いところを飛んでいたようです。そこで幅が二日ほどの道のりになり、高さが1メートル弱になりました。

 民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、・・最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた。・・彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。

うずらと集め、それを干乾しにしたのでしょう。

 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。

 彼らは、疫病によって死んでしまいました。主が激しい疫病で民を打ったとありますが、科学的には、うずらに何らかのばい菌が入っていたかもしれません。それを、少しずつ除菌しながら食べればよかったのかもしれませんが、むさぼり食ったためにばい菌が体に蔓延して死んだ、という可能性はあります。ここに教訓があります。肉の欲望は、人を滅びに至らせるということです。私たちは欲望に駆り立てられているときに、そのことに気づきません。けれども、自分のからだ、いのちさえをも惜しんで、欲望を満たしたいと思うようになります。そこで、病気になったり、交通事故にあったり、金がなくなったので盗みを働いたり、離婚をしなければいけなくなったり、さまざまな悲惨な結果をもたらします。

 キブロテ・ハタアワから、民はハツェロテに進み、ハツェロテにとどまった。

2A 非難に対して 12
 こうして今、つぶやきと欲望についての戒めを見ましたが、また次に、別のかたちで神に逆らった人がでてきます。それはなんと、モーセの姉ミリアムです。
1B 忠実な管理者 1−8
 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。

 ミリアムがモーセを非難しました。モーセには、チッポラというミデアンにいたイテロの娘をめとっていました。ここのクシュ人が、チッポラであるか、あるいはチッポラが死んで二人目の妻であるか分かりませんが、イスラエル人ではない異邦人であることは確かです。そしてミリアムは、この女をねたんだようです。「異邦人のくせに、なぜ神と人との仲介に立つところにいなければならないのか。私はイスラエル人の女で、モーセの姉であり、これまで、神からいろいろな啓示を受けてきた。モーセとともに、骨折ってともに主のわざに励み、ここまでやって来た。なのに、なぜ私は認められないのか。おまけに、70人の長老は、主の霊を受けている。これはおかしい。」という焦燥感があったのでしょう。しかし、こうしたねたみの心は、地に属するものであり、悪霊に属するものであるとヤコブは教えています。私たちは、自分たちの心がねたみになっていないか、見張っていなければいけません。

 ミリアムが見失ったことは、モーセが主によって立てられたしもべであるということです。モーセには欠陥があるかもしれません。しかし、主がお立てになったのです。したがって彼を非難して、彼の評判を傷つけることは、主ご自身を傷つけることと同じことなのです。教会でも、上に立つ教会の指導者に立て付くことがあります。さばき、非難し、悪口を言います。しかし、いかにそれが主ご自身の心を傷つけるかは、この個所からだけではなく、コリント人への手紙第二においても学びました。むろん、キリストにあって私たちは一つです。神の前に、人はみな平等です。しかし、神には秩序があります。神によって始めた奉仕をしている奉仕者を、主にあって支え、守る責務を、周りの人たちは持っているのです。

 ミリアムが取ったこの態度について、多くの人たちは、初代教会のときのユダヤ人を予表していると言います。つまり、モーセが異邦人の女をめとっているのは、イエスさまが異邦人をも救いに加えられたという、神のご計画を現わしていると言います。モーセは40歳のときに、イスラエル人を助けようとして、拒まれました。そしてエジプトを逃げて異邦人の娘をめとりましたが、イエスさまも同胞のユダヤ人を救われるために来られましたが、ユダヤ人がこの方を拒みました。そこで福音が異邦人に宣べ伝えられ、異邦人に受け入れられるようになりました。しかし、モーセが二回目に現われたときは、イスラエル人に受け入れられました。つまり、イエスさまが再臨されるときは、大多数のイスラエル人に受け入れられるということです。

 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ。」と言われたので、彼ら三人は出て行った。

 モーセは、ミリアムとアロンから非難されたとき、何も反発しませんでした。そのままにしていました。モーセはたしかに、私は足りない人間である、と思っていたのでしょう。「私に立てつくとは何者だ。」というような思いが湧いて来なかったのでしょう。ですから、地上のだれにもまさって非常に謙遜である、と書いてあるのです。そこでモーセではなく主ご自身が三人に天幕のところに来なさい、と命じられました。モーセは傷ついていましたが、それ以上に主ご自身が傷を受けられたのです。

 主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。」

 預言者であるなら、幻や夢で語るかもしれない、と主は言われています。つまり、解き明かしが必要であるようなあやふやなもので語る、ということです。

 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。

 ここに、大切なことが書かれています。モーセが神の家全体のために「忠実な者であった」というところです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言をし、不思議を行なっているのを見て、なんとすばらしいのだろう。興奮するようなことであろう、そのような位に着きたい、と思ったかもしれませんが、モーセ自身は忠実であることに徹していたのです。神から賜物を与えられていましたが、彼は、自分の分をわきまえて、その賜物を用いてしっかりと主のわざを行なっていくところに集中していました。目ざましいわざや、自分を楽しませるような出来事を追い求めるのではなく、親が子を世話するように、日々に務めをしっかりと果たしていたのです。これが、私たちの歩みに必要なことです。私たちは御霊の賜物を持ち上げすぎる傾向があります。賜物を持っている人をすばらしいと思って、自分もそれを持ちたいなあと思うことがあります。けれども、そのために賜物が与えられるのではありません。しっかりと主に与えられた務めを行なうために、主にお仕えするために用いていきます。それは地味な歩みで、きらびやかしたものではありません。モーセは、スーパースターではなく、忠実なしもべの姿だったのです。

 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。

 モーセに対して、主は、夢や幻で語ることをなさいませんでした。顔と顔を合わせてお語りになりました。主の姿を仰ぎみています。主は霊であり、主ご自身の御顔をモーセは見ていませんから、これは、それほど接近している、という意味でしょう。

2B 懲らしめ 9−16
 そしてこの罪に対して、主はミリアムに罰を与えられます。

 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病にかかっていた。

 らい病にかかってしまいました。

 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」

 アロンは、らい病にかかりませんでした。これは、ミリアムが率先してアロンを付いて来させたからでしょう。アロンは、ここの部分において弱かったようです。金の子牛を造るときも、民に脅されて、そのプレッシャーに負けて造ってしまいました。だから主は責めておられれないのですが、はっきりと「やってはいけない。」と言うべきだったでしょう。

 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」

 モーセは、自分を非難したミリアムのために祈ることができました。彼には赦す心がありました。愛は、忍耐し、親切にする、とありますが、まさにモーセが愛を行なっています。

 しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。

 律法の中に、死刑ではないけれども、軽減された刑で、つばきをかけられるということがあります。ミリアムはらい病にかけられましたが、その刑は軽減されて、7日間の隔離だけになりました。けれども、この7日間は大切な期間だったでしょう。ミリアムにとって、自分の罪を悲しみ、もう二度としないと悔い改める期間であったに違いありません。また宿営全体が、ミリアムのために移動しなかったのですから、イスラエル全体が、このことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するのではなく、愛をもっておられるからです。主の懲らしめを軽んじてはならない、とソロモンは箴言で言いました。

 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。

 こうしてモーセたちは、パランの荒野に宿営しました。私たちは、こうやって、民のつぶやきを読みました。欲望を読みました。また主のしもべを非難するのも読みました。これらはみな、どこから来ているかと言いますと、主のあわれみと真実から離れてしまったところから来ています。主は私たちに良くしてくださっています。一見、いつもと同じことが続いているようであり、物足りないと思うかもしれませんが、いや、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てきます。そして、非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序をこわすこと、平和をこわすことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むこと、これが私たちが天に凱旋するまでの務めです。