民数記13−14章 「主が見ておられるように」


アウトライン

1A 調べることにおいて
   1B カナンの地 1−20
      1C 主による派遣 1−16
      2C 綿密な検証 17−20
   2B 巨人 21−33
      1C 豊かないのち  21−29
      2C 霊の戦い 30−33
2A しっかりと立つことにおいて
   1B 行きづまり 1−10
      1C 恐れ 1−5
      2C 信仰 6−10
   2B 神の赦し 11−25
      1C 執り成し 11−19
      2C 主の栄光 20−25
   3B 放浪 26−45
      1C 古い人の死 26−38
      2C 信仰なき行ない 39−45

 民数記13章を開いてください。今日は、13章から14章までを学びます。ここでのテーマは、「主が見ておられるように」です。

 13章と14章は、イスラエルの歴史の中で、もっとも悲しい出来事の一つが書かれています。それは、イスラエルの民が約束の地に入ることができない、ということです。先祖に約束された、乳と蜜の流れる良い地にはいることができず、シナイの荒野を40年間さまよわなければいけなくなりました。それは、彼らの不信仰のためです。ヘブル人への手紙には、13章と14章で起こった出来事が引用されており、「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったは、不信仰のためであったことがわかります。(4:2)」と書いています。したがって、私たちは、ここから不信仰についての教訓を学ぶことができます。けれども、同時に、それでは信仰を持つということはどういうことなのか、その意味についても学ぶことができます。イスラエルの大人は約束の地に入れませんが、ヨシュアとカレブの二人は入ることができました。また、神は、イスラエルの新しい世代に対し、再び約束の地における戒めを与えておられます。不信仰と信仰の違い、これをこの個所から学ぶことができます。

1A 調べることにおいて
1B カナンの地 1−20
1C 主による派遣 1−16
 主はモーセに告げて仰せられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。

 彼らは今、パランの荒野にいます。パランの荒野とは、シナイ山の北に広がる砂漠です。彼らは今、カデシュ・バルネアというところにいます。この町を過ぎて北に行くと、もう彼らは約束の地に入ります。そこで主が、「カナンの地を探るために、族長を遣わさなければならない。」と言っておられますが、実は、ここにはエピソードが隠されています。申命記には、イスラエルの民が、カナンの地への偵察をモーセに要求したことが書かれています。申命記1章を開いてください。申命記1章の19節から読みます。

 私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。

 主は、イスラエルの民に、「上れ、占領せよ。」と仰せになっているのに、イスラエルの民が、「先に人を遣わして、その地を探らせよう。」と申し出たのです。このことはモーセにとって良いことだと思われました。そこで、モーセは主に伺いを立てたに違いありません。それから、主がモーセに、民数記13章1節に出てくる言葉でもって、お命じになったのです。

 モーセは、これは良いことであると思いました。そして事実、あとでカレブとヨシュアは、偵察によって、ますます元気づいて、この地を攻め取る志に奮い立ちました。ところが、イスラエルの民は、この偵察から、約束の地に入ることを拒み、エジプトに帰ろうとまでしました。この違いはどこから出てくるのでしょうか。この違いは、カレブとヨシュアが、神さまの視点からこの土地を調べたのに対して、他のイスラエル人たちは、自分たちの視点からこの土地を調べようとしたことから出ています。主が、「この土地はすでにあなたがたのものである。だから、占領せよ。」と命じられたことに基づいて、ヨシュアとカレブは、どのように占領すべきか知るために偵察に行ったのに対して、他のイスラエル人は、「自分たちには占領できるかどうか、調べてみよう。」と自分の能力、可能性とカナン人の地を比べるために偵察に行ったからです。ここに違いがあります。

 それでは続けて読みましょう。彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。シメオン部族からはホリの子シャファテ。ユダ部族からはエフネの子カレブ。カレブはユダ族です。イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。エフライム部族からはヌンの子ホセア。ホセアこれがヨシュアです。ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。ダン部族からはゲマリの子アミエル。アシェル部族からはミカエルの子セトル。ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。ガド部族からはマキの子ゲウエル。以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。

 民数記は、軍役につく者たちを登録するために、12部族のかしらを集めて登録させましたが、偵察のときも、12部族のかしらを集めています。それぞれ、以前のかしらと異なる人物ですが、それはおそらく、スパイ行為というかなり危険で、体力をつかう特殊な行為であるため、比較的若い人が必要であったからかもしれません。

 そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。

 ヨシュアは、モーセによって名づけられた名前でした。その前は「ホセア」という名前で、意味は「救い」です。そしてヨシュアは「ヤハウェは救い」あるいは「主は救い」となります。このギリシヤ語名が、「イエス」なのです。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエスさまを、あらかじめ指し示す人物となったのです。

2C 綿密な検証 17−20
 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブにはいり、山地に行って、その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。

 モーセは、綿密にその土地と住民を調べてくるように指示しています。どのような地形になっているのか。住んでいる民は強そうか弱そうか。また人口はどうか。地質はどうなっているのか。また彼らはどのような町をつくっているのか。単なる宿営なのか、それとも、外敵から守るための城壁があるのか。また、土壌はどうなっているのか。作物を得るのに、適しているかどうか。そして、みなを元気づけるために、そこのくだものを取ってきなさい、と言いつけました。

 モーセのこの指示に対して、ヨシュアとカレブの二人と他のイスラエル人では、異なった受け取り方をしていたでしょう。カレブとヨシュアは、主によって、どのような住民を征服しなければならないのか、その御霊による歩みの指針としたことでしょう。また、これから入るところの土地にある、いのちの豊かさに思いをはせるため、この調査に乗り出したことでしょう。けれども、他のイスラエル人は、自分たちがこの土地にはいって、自分たちが何とかやっていけるのかどうか、つまり、「自分ができるかどうか」という判断材料にするために調査に行こうとしていました。

 聖書には、「自分自身を調べてみなさい。」という勧めが何度も出てきます。自分自身の歩みがどのようになっているのかを調べてみなさい、という教えです。私たちが自分についての真実を知らなければ、どのように御霊に導かれればよいのかを知ることができません。けれども、自分の肉の弱さ、まだ御霊の導きにゆだねていないところを見ることによって、私たちは、その肉をキリストの十字架につけてしまうことができます。そして、さらにもう一歩、信仰の歩みを前進させることができます。ですから、「自分自身を吟味しなさい。」「自分自身をさばきなさい。」という言葉は、決して自分を罪責感で押しつぶすためのもの、落ち込ませるようなものではありません。聖霊が私たちのありのままの姿を示してくださるとき、私たちを決して罪責感で押しつぶすことなく、いのちと平安へと導いてくださいます。

2B 巨人 21−33
1C 豊かないのち  21−29
 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。

 カデシュ・バルネアから北はツィンの荒野です。そして、レボ・ハマテというのは、ダマスコよりもさらにはるか北にあり、ユーフラテス川の近くまで来ています。神さまが約束された土地の北端になっている町です。

 彼らは上って行ってネゲブにはいり、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。

 ネゲブは、イスラエルの南にある広大なさばくになっています。そこから北にヘブロンがあります。ヘブロンは、アブラハムが主にお会いしたころでです。そしてアブラハムとイサク、ヤコブが葬られているところであります。つまり、ヘブロンは、いうなれば、神さまがご自分の民との交わりを持たれる特別な場所です。ですから、ここに特別に記されているのでしょう。しかし、同時に、ここには、強力な民が済んでいました。アナク人が住んでいます。彼らは巨人のように図体が大きく、ちょうどダビデが対峙したゴリアテのようであったのでしょう。

 つまり、ヘブロンは、神との深い交わりの場であり、かつ大きな敵がいる場であります。けれども、私たちの御霊の歩みの中でも同じことが言えるのではないでしょうか。もっとも深い主との出会いをするところには、必ず大きな障壁、問題、試練が待っています。ですから、私たちがしなければならないのは、戦うことです。霊の戦いは、一部のクリスチャンにだけ与えられたものではなく、主との歩みを深めていく者には、必ずつきまとってくる現実であります。

 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。

 イスラエル政府観光局でしょうか、忘れてしまいましたが、一ふさのぶどうのを棒でかつぐ二人のイスラエル人の姿をシンボル・マークにしています。イスラエルに観光しにいくと、必ず見ます。とにかく、ここが乳の蜜の流れる地、豊かないのちをもたらす土地であることを表しています。神の約束は、この豊かないのちをもたらすことなのです。

 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。

 40日かかりました。これが後で、イスラエルの荒地放浪の年数が40年であることを決められます。

 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」

 イスラエル人たちは、自分たちが見たとおりのことを話しました。豊かな土地であるけれども、かつ強い民が住んでいる地でもある、ということです。ここからが問題です。この調査をどのように受けとめるか、自分がこの事実に対してどのように対処するのか、それが大きな分かれ目になります。主の豊かないのちの中に入るか、それとも恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生を歩むのか、その選択を自分がします。

2C 霊の戦い 30−33
 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

 カレブの判断は、「占領しよう」というものでした。その強い民も、主の前には朝飯前である、というものです。カレブは、主ご自身と、このアナク人を比較したのです。もちろん自分とアナク人を比較したら、自分はたちまちのうちに敗れてしまいます。しかし、主は、この強い者よりも、さらに強い方であります。

 この判断を聖書では、「信仰」と言います。主が言われることを聞き、そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰です。単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめます。カレブはそのことを行なったのです。

 このような信仰を、新約聖書では、「信仰の賜物」と呼んでいます。私たちが、むりやり、「これを信じます。信じます!」と言い聞かせることではなく、御霊が信じることができるような能力を与えてくださるのです。自然にそのように信じることができ、必ずこのことは起こると確信することができます。この賜物を受け取るには、「自分が」ではなく、「神が」という姿勢が必要です。自分ができるかどうか、ではなく、神が何をなしてくださっているのかを気にしていきます。

 カレブはこのような態度に出ましたが、他のイスラエルのかしらは違いました。しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

 ここで、「私たちよりも強いから」と言っていますね。ここが問題なのです。主ご自身と敵を比較するのではなく、自分自身と敵を比較しているのです。

 いったん、自分と問題とを比較すると、それは恐れとなり、また現実を歪めて見ていくようになります。次のイスラエル人スパイたちの言葉を見てください。彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

 ネフィリム人と言っていますが、ネフィリム人は、神が全世界を洪水でさばかれる前に、神の子らと人の娘たちが結ばれて、生まれてきた者たちです。巨人であったようです。けれども、彼らは、洪水が起こったのですから、存在しないはずです。しかし、言い伝えがあったのでしょう。アナク人をネフィリム人と呼んでいます。そして、自分たちをいなごと呼んでいます。こうして、彼らは心に植え付けられた恐れによって、物事を誇大解釈しました。

 私たちのうちには、このカレブも、そして10人のイスラエルのスパイも存在します。信仰によって、戦いの中に入っていくときもあれば、恐れ退くときもあります。御霊によって、「これはきっとできる。」と思って前に進むこともあれば、思いもよらかなった攻撃や試練によって、「これ以上前に進んだら、自分がだめになってしまう。」と思って、退いてしまうときがあります。しかし、私たちが、乳と蜜の流れる地に入りたいならば、前進しかないのです。キリストのいのちを保ちたいなら、前に進んで、戦って勝つしかないのです。ヘブル書には、「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:39)」と書いてあります。

2A しっかりと立つことにおいて 14
 しかし、もし私たちが恐れ退いてしまったらどういうことになるのでしょうか。それが14章に書いてあります。
1B 行きづまり 1−10
1C 恐れ 1−5
 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 イスラエル人のこの嘆きは、一言で言うと、「行き詰まり」です。これからどうすれば分からない。前に行けば、妻子供がさらわれてしまう。でもここにいれば、死んでしまう。ではエジプトに戻ろうではないか、と言っています。けれども、エジプトでは過酷な奴隷状態が待っています。どこにも行くことができなくなった、ということです。

 これが、自分で何とかしようとする人の結末です。私たちが信仰を持った以上、私たちは必ず、自分自身では何もできないという道を歩まされます。行けども行けども、自分の前には岩があり、自分を食い尽くす敵がいます。そこで、自分とその問題を比べながら生きていこうとしている人は、そこで行き詰ってしまうのです。引き下がれば、初めに出てきたときよりも悲惨になることは知っています。そのことも分かっているので、大抵は、今いる場所であたふたとしていることが多いのです。クリスチャンになってから、むしろ、生活がおかしくなった。生活が葛藤でいっぱいになっている、という人の話しを聞きます。それは、クリスチャンになったのに、クリスチャンではない法則で生きようとしてしまっているためです。

 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。

 「エジプトに行くためのかしらを立てよう」とイスラエル人は言いました。モーセのリーダーシップを完全に無視した発言です。このときに、モーセとアロンは怒らず、地にひれ伏しました。主に祈り叫んでいることは間違いありません。主の奉仕者の姿であろうと思います。私なんか、気にくわないことを言われたら、自分が傷つきたくないので、「何だ、この野郎〜!」と心の中で反発しているものですが、全然、モーセとは違う態度なあ、と思わされます。「ああ、そうだ。まず主に叫ばねば。」と思います。

2C 信仰 6−10
 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。

 モーセとアロンがひれ伏しているので、ヨシュアとカレブが立ち上がりました。勇気ある行動です。みなが右に流れているときに、自分だけが立っているというのは、とても大変なことです。勇気がいります。しかしパウロが言っているように、「しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)」なのです。信仰にかたく立たねばなりません。

 「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

 彼らは、あの強い民のことを、自分たちのえじきになる、とまで言っています。信仰に立ったときに見えてくる世界、そして不信仰になったときに見えなくなる世界があります。

 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。

 モーセが無視され、そしてヨシュアとカレブが殺されそうになりました。そこで主ご自身が介入されました。

2B 神の赦し 11−25
1C 執り成し 11−19
 主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

 主がお怒りになっています。しかし、この怒りはもちろん、私たちが怒っているような自己中心的なものではありません。神は正しい方ですから、その正義にしたがって、この民を滅ぼさなければいけないのです。ノアの時代のことを思い出してください。神は、ふたたびやり直しを行なわれても、一向に不思議ではないのです。

 主は、やり直しのご計画として、モーセ個人からご自分の民をつくりだそうと提案されております。アブラハムに約束された「大いなる国民」のご計画を、モーセをとおして再開されるというものです。しかし、モーセはこの提案を拒みました。

 モーセは主に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主がまのあたりに現われて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。」

 モーセのこの執り成しに注目してください。モーセは、「あなた」という言葉を何回も繰り返しています、「あなたが」「あなた、主が」「あなたの雲が」「あなたがこの民を打ち殺すなら」と、言っています。つまり、モーセは、主の御名のゆえに、主の栄誉のゆえに、この民を滅ぼさないでください、と言っているのです。この民がかわいそうだからとか、人間側の理由を申し上げていません。神の問題であることを訴えているのです。ここが、ものすごく大切なことです。私たちは、よいことであれ、悪いことであれ、自分で思っていることを主に申し上げることが多々あるのです。「私はこういう悪いことをしました。あういう足りないところもありました。」などと、いろいろ話すのですが、それは反省であって、悔い改めではありません。そうではなく、まず自分や他人を横に置いておいて、神ご自身のことを考えるのです。そして、神のみことばにそって、祈ります。神のみことばやみこころにそって祈り、それから罪の告白があるかもしれないし、感謝や賛美が出てくるかもしれないし、願いや執り成しが出てくるかもしれません。まず、主がどのような方なのか、どのようなことを行なったのかを神に申し上げてください。ご自分のことを話されている神は、その祈りを聞き入れてくださいます。

 あなたは次のように約束されました。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。

 モーセは前に語られた主ご自身のことばを引用しています。これも大事ですね。主のみことばと約束を引用することによって、主の御旨にかなった祈りをすることができます。

 ところでモーセは、これほど、うなじがこわく、かたくなな民のために、このような真剣な祈りをしました。自分のリーダーシップを完全に無視するような者たちのために祈りました。彼はかつて、「彼らのためであれば、私の名をあなたの書物から消してください。」と祈ったのです。私にはまだ、そのような心が与えられていません。主によって、失われた人々に対する愛をましくわえてくださるよう、祈らなければいけないと感じています。

2C 主の栄光 20−25
 主は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。」

 主は、モーセの祈りを聞かれて、イスラエルを赦すことになさいました。けれども、こうも言われます。

 しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

 彼らの罪を赦されるのですが、それは彼らがなんら自分の蒔いたものを刈り取らないということではないことではありません。多くのクリスチャンは、罪が赦されるということを、罪の結果を負わないことであると混同しています。罪が赦されるということは、罪に対する咎めをまったく受けない、ということです。罪は赦され、きよめられ、忘れ去られ、遠くに追いやられ、海の深みに投げ込まれます。ですから、もはや罪の責めを負わなくてもよいのです。けれども、自分が行なったことに対しては、その結果が残されています。ダビデを思い出してください。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しましたが、罪を告白したら、すぐに罪赦されました。けれども、初めに生まれる子は死に、自分の息子たちの間に悲劇が重なりました。ダビデは、それを主によるものと認めましたが、決して自分がさばかれていると思いませんでした。むしろ、主のねたむほどの愛を、これらの出来事を見て、ますます知って言ったことでしょう。彼の主への信仰と愛はますます精錬されました。そして、主はダビデのことを、「わたしの愛する者」と呼ばれました。

 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。

 主はカレブが、「他の者と違った心」を持っていると言われています。カレブを喜こばれたのは、その行ないよりも、心だったのです。夫は妻から、何かいろいろ注文をつけられるとき、「ほら、きちんとやっているではないか。」と反論しますが、何かをやっている、ということで妻は訴えているのではないことがほとんどですね。すべてのことがらに対する態度、姿勢、そのようなことが原因となって、それで注文をつけていることが多いです。それと同じです。「私はきちんと祈っています。聖書も呼んでいます。ほら、あの人にも優しくしました。」という行動ではなく、「心」を主は欲しておられるのです。

 低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。

 主はイスラエルの望むように、エジプトのほうに彼らを導こうとされているのでしょうか。分かりませんが、この時点では、まだ彼らを荒野で死なせるようには考えておられないようです。

3B 放浪 26−45
 けれども、次をごらんください。
1C 古い人の死 26−38
 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。」

 イスラエル人は、会見の天幕における主の栄光を見ても、ずっと、つぶやいていたようです。そこで主は次のような判断をされます。

 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。

 イスラエル人は、「この荒野で死んだほうがましだ。」と言いましたね。また、「妻子がさらわれてしまう。」とも言いました。言ったとおりのことをしよう、と言われます。

 そしてここで大切な言葉は、「わたしは生きている」です。先ほどモーセに対し、「わたしは罪を赦すが、主の栄光が全地に満ちているので、彼らは約束の地に入ることはできない。」とも言われました。主が生きておられるゆえに、また、主の栄光のゆえに、彼らを死なせなければならない、と言われています。私は、この「主は生きておられる」ということばを見たとき、新約聖書の学びのコリント書第二13章を思い出しました。「(キリストは、)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。(4節)」とパウロはコリント人たちに言いました。彼らの一部は、にせ使徒たちの言うことを聞いて、パウロを中傷し、パウロの信用を傷つけていました。そして、犯している罪を悔い改めようとしませんでした。彼らには、「主は生きておられるのか。もし生きておられるなら、私たちをとうの昔にさばかれていたではないか。」という侮りの心があったのです。主があたかも死んでいるかのように、弱々しい存在であるかのように振舞っていました。けれども、主は生きておられます。悔い改めず、反抗する者に対して、主は強く臨まれることがあるのです。

 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。

 彼らは荒野でさまよい、荒野で死体となって死ぬようにされました。けれども、20歳以上の人だけです。民数記は、20歳以上の軍務につく者たちが登録されるところから始まったことをおぼえていますか?この登録された者が死ぬことになります。むろん、成人女性も死ぬことになります。

 ここから、「責任年齢(age of accountability)」という考えを言う人たちがいます。主に対して申し開きしなければいけない年齢があり、それ以下であれば罪の責めはない、という考えです。責任を取ることができる年齢に達した者が、救いについても責任を問われるという考えです。けれども、この考えの問題は、それではどの年齢なのか、ということです。それに、ダビデは、「罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5)」と言っています。ですから、私はそのような年齢がはたして存在するのか、分かりません。しかしながら、私たちは霊的な年数に相応する責任はあるでしょう。多くを知り学んでいるのに、実を結んでいない。まるで、キリストの幼子のようである、このことに対する責任です(ヘブル5:12)。イスラエルの場合も、神によって軍務につくのに登録されたにも関わらず、それだけの神の知識を得ていたのにも関わらず、神を信じないでつぶやいていたのですから、それに対する責任が問われます。

 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。20歳以上で約束の地に入れるのは、カレブとヨシュアだけです。さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。新しい世代のイスラエル人も、古い世代が死に絶えるまで40年間、ともに荒野にいなければなりません。あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。

 イスラエルが不信仰になったそのつけは、荒野でさまよいながら死に絶えるというものでした。そして、これが私たちクリスチャンの霊的現実でもあるのです。つまり、私たちがいつまでも自分の行ないにたより、信仰によって生きないのであれば、自分の肉が死ぬまで、いつまでも、同じところを巡回しているような生き方をしなければいけません。

 神は、私たちにキリストのいのちを与えられました。私たちは罪を赦されただけではなく、罪に対して死んで、キリストに対して生きている者とされました。このいのちに生きるのに必要なのは信仰です。たとえ、自分の問題が、アナク人のように巨大に見えても、それをキリストにあって死んだものだとみなし、信仰によって前に踏み出ることが必要なのです。「この分野に入ると、私の肉が出てくるので、前に進むのはよそう。」と言って、主が示されているところに出て行くのを拒むのであれば、その時点で、自分はさまよう民となってしまうのです。前進もできず、後戻りもできないです。しかし、私たちのこの世における歩みは、自分の肉の領域、神にゆだねていない領域を聖霊によって示され、それを死んだものとみなし、御霊によって進むことです。カデシュ・バルネアまで来たら、やはり前に進むのです。

 「モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。

 あの悪く言いふらした10人のイスラエル人は、40年を待たずしてすぐに死にました。

2C 信仰なき行ない 39−45
 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。」

 私はこの気持ちが、よく分かります。とにかく前に進めばよかったのだろう。それでは今、やろうではないか、と思うことです。けれども、彼らはまだ分かっていませんでした。彼らの問題は、山に上らなかったことではありません。そうではなく、主に聞き従わなかったことなのです。同じ行動を行なっても、信仰を持っていなかったら、まったく意味がないのです。同じように聖書のことばを聞きます。同じように賛美をします。同じように祈ります。けれども、信仰がなければ、それは無に等しいのです。

 ヘブル人への手紙には、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかなくなにしてはならない。(4:15)」とあります。信仰というのは、御声に聞き従うことであります。御声を聞くそのときでなければ、私たちは後で従おうとしても、力が出てきません。なぜなら、それは信仰によるものではないからです。信仰とは、神の御声を従順な心で聞くことに他なりません。そのときに、自分ではなく神の力が自分のうちに働き、それで神のみわざが自分のうちに成されます。イエスさまによっていやされた人たちが、どのようにいやされたかを思い出してください。イエスさまが、「起き上がりなさい。」と言われたそのときに起き上がりました。「右手を伸ばしなさい。」といわれたそのときに、伸ばしました。みな、信仰をもって聞いたからです。

 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」

 信仰のないところには、主がともにおられません。

 それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。契約の箱は、主の臨在であります。動かなかったということは、主がともに出て行かれていないということです。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。

 こうして私たちは、生き残ったカレブとヨシュアの信仰と、荒野で死体となって倒れるイスラエル人の不信仰を見てきました。彼らの違いは、巨人と城壁を、主にあって見ていたか、それとも自分の視点から見ていたかの違いでした。自分から出発して、「自分はこれだけのことができる。これだけのことができない。」と計算して、行動することは、人間の世界では通用しますが、霊の世界では通用しないことが分かりました。同時に、私たちの前に広がっている敵の存在、肉の所在を主にあって調べ、そこに果敢に進んでいくことが必要であることが分かります。みなさんも必ず、カデシュ・バルネアを経験します。そこでどうぞ、恐れて退くことなく、信仰によっていのちを保ってください。


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