信仰の賜物 2001/04/04

「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30)



 先週の土曜日は、民数記13−14章を学びました。
 ここは、イスラエルの歴史の中でもっとも痛切な出来事の一つであります。つまり、イスラエルの民が、約束の地にはいることができず、40年間、荒野をさまよったところの話しです。

 なぜイスラエルが、恐れ退いてカデシュ・バルネアから約束の地に上っていくことができず、一方ヨシュアとカレブが、きっと占領できると確信を持つことができたかを考えてみたいと思います。

 カレブの上の発言と、他の10人のスパイたちの発言とを比べてみると、両者の姿勢に根本的な違いがあります。カレブは、主ご自身とアナク人(巨人)を比べていました。「主が占領される。だから、あの巨大なアナク人を私たちはえじきとすることができる。」という姿勢です。ところが、イスラエル人は、「あの民は私たちより強いから。(31節)」と言って、自分たちとアナク人を比べていました。初めに神のことを考え、神が考えておられることを目に見る現実に当てはめているのがカレブであるのに対して、初めに自分たちのことを考えて、目に見える現実を自分の能力と比べ、計算しているのがイスラエル人です。「神」から始まるか、「自分」から始まるかの違いがあるのです。

 主は、ご自分の恵みに応じて、私たちの信仰を与えてくださいます。それを聖書では、「信仰の賜物」と呼びます。主のことを思い巡らし、主ご自身を喜びとしているときに、不思議と見えてくる世界があります。「このことをするのは、主のしもべとして当たり前のことである。」「これは、きっとそのとおりになる。」という確信が与えられます。それは、私たちが自分で無理に、「信じます!信じます!」と自分に言い聞かせるような性質のものではなく、自然にそのようになると信じていることができるようになっています。なぜなら、これは自分から出たものではなく、御霊が賜物として私たちに授けてくださったからです。そのような確信が与えられたら、カレブのように行動に移らなければいけません。そうすれば、必ず道が開かれます。

 しかし、このような賜物を受け取るのは、「自分」というものを横に置き、「神」のみを考えているときです。自分の好みに合っているかどうか、自分でできるかどうかではなく、主が今何に一番関心を寄せられているのかを求めるのです。そのような求めに応じて、主は具体的に、何らかのかたちで私たちにするべきことを示してくださいます。

 私たちの人生の道程には必ず、私たちのカデシュ・バルネアがあります。主は、私たちを豊かな土地へと導かれているのですが、そこには必ずアナク人のような巨大な敵がいます。それは、周囲の状況かもしれませんが、自身自身であるかもしれません。まだ聖霊におゆだねしていない肉の領域です。私たちは、恐れて退くことはできません。退けば、どこに行けばよいかわからなくなるような行き詰まりの生活、荒野をさまよう生活を歩むことになります。(そのときは、クリスチャンであることのほうが、クリスチャンでないことよりも苦痛になってきます。)しかし、私たちは前進することのみによって豊かないのちを楽しむことができ、戦うことによってのみ、いのちを獲得することができるのです。


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