民数記13−15章 「約束を得られない人たち」

アウトライン

1A 約束の地の偵察 13
   1B 十二人のかしら 1−16
   2B 住民と土地の偵察 17−24
   3B 対立する報告 25−33
2A 不信の反抗 14
   1B 民の泣き叫び 1−12
   2B モーセの執り成し 13−25
   3B 荒野の死 26−38
   4B 不遜の行動 39−45
3A 約束の地における捧げ物 15
   1B 特別な誓願 1−16
   2B 初物の奉納物 17−21
   3B 罪のためのいけにえ 22−36
   4B 青いひもの房 37−41

本文

 民数記13章を開いてください。私たちは民数記において、また聖書全体においても分岐点となる出来事を学びます。それは、イスラエルの民が約束の地に入れなかったことです。アブラハムに神が約束され、ヤコブの時代にエジプトに下り、モーセによってエジプトから出て行き、それで神の数多くの奇跡と養いによって、ようやくその中に入ろうとしていたにも関わらず、その大人の世代はすべてその手前で四十年間さまよい、死に絶えていったという話です。

 この出来事がこの後に、教訓として数多く語られ、そして新約聖書においても私たちに対する戒めとして引用されています。ですから、しっかりと私たち自身が戒めを受け、その過ちを繰り返さないように努める必要があります。

 民数記の前回の学びでは、シナイ山のふもとから旅に出発したイスラエルの民が、さっそく不平を鳴らしている部分を読みました。火が宿営の端から出て、民がわめき、モーセが祈ると主はそれを消されました。けれども次に、エジプトにある食べ物を貪ったため、彼らはうずらの肉を食べすぎて疫病で死にました。そしてモーセの姉ミリヤムが、神の権威が与えられているモーセをねたみ、彼を言葉で攻撃しました。それで七日間、彼女はらい病にかかり、宿営の外にいなければいけませんでした。

 そこでついに、彼らの不平は頂点に達します。約束の地を目の前にする所まで到着します。けれども、約束の地に入るところに近づいたからこそ、そこには実は入りたくなかったのだという本音が噴出します。イエス・キリストの真理に近づくにつれて、私たち一人一人はこれまでにない決断に迫られます。信仰をもってその永遠の命の約束を受け入れるか、それとも恐れて退き、滅びるかの選択です。

1A 約束の地の偵察 13
1B 十二人のかしら 1−16
13:1 主はモーセに告げて仰せられた。13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」13:3 モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。13:4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。13:5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。13:6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。13:7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。13:8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。13:9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。13:10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。13:11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。13:12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。13:13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。13:14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。13:15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。13:16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。

 私たちは民数記の前半部分において、イスラエル部族が軍務につくことのできる者たち二十歳以上の成年男子を登録し、各部族にかしらを立てたところを読んでいます。そして今、カナン人の地に入ろうとしている時に、そこを偵察するべく彼らを遣わします。

 ここでは3節によると、「主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした」とあります。ところで、パランの荒野とはシナイ半島の北部に位置する地域であり、そこを北上するとシンの荒野と呼ばれ、ネゲブという砂漠に入ります。ここ民数記では「主の命によって」とありますが、モーセはエジプトを出てから四十年後、ヨルダン川の東岸にて人生で最後の説教を行ったとき、事情はもっと複雑であったことを明かしています。申命記119節から23節までを読みます。
 

19 私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。21 見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。

 約束の地に入る手前にある「カデシュ・バルネア」まで来たときに、モーセは初めそのまま進出し、そこを占領するように主の命令を彼らに告げました。けれどもイスラエルの民の方から、「前もって人を遣わして、報告を持ち帰らせよう」と言ったのです。それで民数記に戻って、主は改めて、イスラエルの十二人を遣わすようモーセに命じられた、という経緯でした。

 戦いの前に偵察を送ることは決して悪いことはではありません。主の戦いをしっかり戦うために、そこにあるものを前もって知っていくことはとても良いことです。主の働きをする前に、しっかりと準備することは必要です。けれども、イスラエルの民の動機は少し異なっていました。「確かめてから、状況が良かったら中に入っていく。」というものだったのでしょう。私たちが、主に自分のすべてを捧げて、その決心をしてから、その前にある事柄を知っていくことは良いことですが、そうではなく自分が捧げるかそうでないかの判断材料にしているのであれば、すべては否定的な方法に動いていきます。

 ところで、ここで後に約束の地に入ることのできる部族長がいます。ユダ族のカレブとエフライム族のヨシュアです。ヨシュアはモーセの付き添いをしていた人物です。彼の元々の名前は「ホセア」でした。「救い」という意味です。ヨシュアは「ヤハウェは救い」という意味があり、それをギリシヤ語にすると「イエス」になります。ヨシュア記において、ヨシュアがイエス・キリストを予め示す型になっているのを知ります。

2B 住民と土地の偵察 17−24
13:17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブにはいり、山地に行って、13:18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。13:19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。13:20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。

 イスラエルの地形は、中心部に南北に山地が走っているものになっています。西は地中海沿岸の平野になっており、なだらかな低地が中心部に向かってあり、その低地は「シェフェラ」と呼ばれます。そして、山地があって東は急激に死海やヨルダン川の低地になり、死海付近は世界一の低い陸地です。ネゲブというイスラエル南部にある砂漠から、その山地は出現します。そしてヘブロン、ベツレヘム、エルサレムなどの町はみな、ユダの山地にあります。

 その山地に住む住民について調べなさいとモーセは言いました。そこが戦う相手になるからです。そして土地が事実、乳と蜜の流れる地であるのか、つまり、乳業と農耕に適した所なのかを見てきなさいと命じています。

13:21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。13:22 彼らは上って行ってネゲブにはいり、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。13:23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。13:24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。

 「レボ・ハマテ」は、イスラエルのはるか北、レバノンの北にある町です。後にそこがイスラエル相続地の北の境界線になります。そこまで地を探って、それから戻って、南に下ってきました。「ヘブロン」に強い住民がいます。はるか後にカレブがヨシュアに、この町を私に取らせてくださいと願った町です。そしてもちろん、そこはアブラハムとイサクがいたところであり、族長の墓のある所であり、霊的にゆかりのある町です。

 ヘブロンのそばにエシュコルの谷がありました。「エシュコル」とは「房」という意味ですが、そこで二人が棒で担がなければいけないほどの大きなぶどうの房があり、それを担いでカデシュ・ベルネアに戻りました。

3B 対立する報告 25−33
13:25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

 二つの対立する報告を十二人は行いました。十人は、確かに乳と蜜の流れる地であるが、そこに住む住民は強いというものでした。山地に住むアナク人を始め、地中海の沿岸にもヨルダン川の低地にも先住民がいます。けれどもカレブ、そしてここには出てきませんがヨシュアも、これらの住民を打ち倒すことができる、占領ができると言いました。

 この二つの見方の違いはどこから出てきているのでしょうか?カレブとヨシュアは、「神の約束してくださったものはすばらしい。」と、そのまま素直に受け入れました。そして、「神が約束してくださったのだから、そこに敵がいても神が責任を取ってくださる。」と見ました。信仰によって前に踏み出しますが、それは自分たちの力で戦わなければいけない問題として見るのではなく、主がその力を自分たちに与えてくださるのだ、と見たのです。

 これは信仰に入る者たちの姿です。神の命令に従って、イエス・キリストを自分の主として心に受け入れます。それからの歩みについては、数々ある問題はあるだろうけれども、主がその問題を克服するにふさわしい力と知恵を授けてくださると信じて前に進むのです。

 その一方で、十人のかしらの意見は異なりました。確かに約束の地はすばらしいが、住民が力強いので入ることはできない、というものでした。午前礼拝でも話しましたが、すべて自分たちの力で戦わなければいけないと思ったのが、彼らの大きな過ちでした。神の命令に従うのは、自分たちの力で、自分たちの知恵で、その基準に達しなければいけないと思ったのです。

 これが、神の約束にある祝福を受けることのできる人とそうでない人の違いです。神の祝福を受けることのできる人は、ただ信仰によって受け入れます。そしてその信仰のゆえに、神がその人の内で御霊によって働いてくださり、御霊の力で敵に打ち勝つことができるのです。けれども、神の祝福を受けられない人は、自分の行いで神の要求を満たそうと考えるのです。そのため、その要求があまりにも高くて、そして厳しいものなので、自分には決してできないと判断して、恐れて退いてしまうのです。「神に委ねて、神の力で神の世界の中に入る」か、それとも「自分というものをしっかりと握っていて、自分の力で神の世界に入ろうとして恐くなるか」の違いであります。

13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

 「恐れ」は信仰とは相容れないものです。恐れによって、私たちは見えるものが見えなくなります。あるいは、見えているものが非常に大きくなります。彼らはアナク人を「ネフィリム人」であると呼びました。ネフィリム人は、かつてノアの時代の洪水が起こる前に、堕落した天使どもが人の娘のところに入り、それによって生まれ出た者たちです。ネフィリム人は、もちろん洪水によって死に絶えたのですが、その伝説はいまだ残っており、アナク人をそのように恐ろしい化け物だと呼んでいます。

 私たちが恐れを抱くときに、私たちは強く戒めて神の愛の中に留まるべきです。使徒ヨハネがこう話しました。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(1ヨハネ4:18」神があなたを全き愛で愛しておられる、このことを受け入れ、そこに休む時に恐れは心から締め出されています。

2A 不信の反抗 14
1B 民の泣き叫び 1−12
14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。14:3 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 ここで彼らは、エジプトに戻ることを決めてしまいました。妻子がさらわれるよりは、荒野で死ぬほうが、またはエジプトに帰ったほうが良いではないか、と言っています。覚えていますか、「エジプト」は、アブラハムの時代から「この世」の型になっていました。カナン人の地で飢饉になったときに、ナイル川によって豊かな地になっていたエジプトに彼らは下って行きました。そのため、パロがサラを自分の妻として娶ろうとする事件が起こり、そしてそこで得た女奴隷ハガイによって後にイシュマエルが生まれ、そしてロトはエジプトの楽しみを知ってしまったばかりに、ソドムのほうへ移動していきました。

 つまり、以前の生活のほうが良かった、と後悔しているのです。今、目の前にある試練や課題に取り組むぐらいなら、この世の提供する楽しみに戻りたいと願っているのです。

14:5 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。

 モーセとアロンは、このようになってしまっている民に対して何もすることなく、ただ主の前で祈り、主にひれ伏すしかありませんでした。モーセはこの地上で最も謙遜な者であるとありましたが、反逆に走っている民に対して祈りをもって反応しました。

 これが、霊的指導者のあるべき姿です。人が行っていることに対して、霊的に指導の立場についている人は、助言はできるけれども何事も強制することはできません。助言をしても、相手が自分のしたいことをするのであれば、それを悲しみこそそれ、無理強いさせ、正すことはできないのです。相手の決断を変えることはできないのです。そのような柔和さに対して、多くの人は自分のしていることを是認していると考えます。究極的には神の御姿でもあり、神の忍耐を自分の罪を是認していると考えるのです。

14:6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。14:9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

 午前礼拝の話を思い出してください。信仰の人は約束を見つめています。すばらしく良い地、これを得たいと強く願っています。私たちの前に置かれている競走を、賞を得るために走りなさいということを使徒パウロは言いましたが、その賞を得たいと願っています。

 そして、敵については「主がともにおられる」という確信があります。イエス様が弟子たちを福音宣教に召しだされた時は、「世の終わりまで、わたしはあなたがたとともにいる。」と約束してくださいました。自分ではなく、主が自分のために戦ってくださるのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6

14:10 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。14:11 主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。14:12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

 「全会衆」が、石でヨシュアとカレブを打ち殺そうとしました。私たちが、民主制が世における政体として優れていると考えますが、霊的には最も避けるべきことですね。私たちは多数決で物事を決めるのはありません。キリストの絶対主権で物事を決めます。キリストが頭であられ、この方の御心を求めて、祈りに専念することが必要です。

 彼らが石を投げようとした時に、いつも礼拝の時に現れる主の栄光が現れました。そして何と、イスラエルを全滅せしめ、かつてアブラハムに対して約束されたように、モーセに対しても彼から大きな国民を造ると言われています。

2B モーセの執り成し 13−25
 そして次のモーセの執り成しの祈りがとても大切です。主は、イスラエルを全て打ち滅ぼすと言われていますが、それはあくまでもご自分の正義にしたがえばそうであります。主はそのことを語られた時に、もちろんご自分には、真実や憐れみなど、他のご性質を持っていることはご存知です。変わることのない約束もされています。けれども、それをモーセの口を通してあえて語らせておられます。このように主は、私たちに祈りを通して、ご自分のみこころを行おうとされているのです。

14:13 モーセは主に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、14:14 この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主がまのあたりに現われて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。14:15 そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。14:16 『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』

 モーセは、主の栄誉を求めました。途中でイスラエルを放棄することは、「あれだけ、我々に災いを下した神は、結局、自分の民まで滅ぼしているではないか。」という評価になります。主の御名が汚されるのです。

 私たちの祈りで効果的なのは、私たちの願いを並べ立てるのではなく、主の御心に訴えることです。主の御名、主のご性質、主の働きに訴えるのです。そうすれは、それらのことはもちろん主の願われていることですから、それを行おうとされるのです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14

14:17 どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。あなたは次のように約束されました。14:18 『主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。』と。14:19 あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

 シナイ山において、主がモーセにご自分の栄光の後姿をお見せになったときに、宣言してくださったことです。主の憐れみ深さがこれほどはっきりと宣言されているものはありません。モーセは執り成しをしている中で、主ご自身の願われていることをかえって申し述べています。このようにして、主は私たちも祈りの中に導き、私たちが主のみこころに関わることができるようにしてくださいます。

14:20 主は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。14:21 しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、14:22 エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、14:23 わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

 主は赦してくださいました。モーセが御心に沿って祈ったからです。けれども、「主の栄光が全地に満ちている」と言われます。赦すけれども、罪を取り除くことなくして主の栄光が現れません。私たちに神は恵みをもって臨んでくださいますが、それは罪をそのままにしてよいということではありません。むしろ、その罪を捨て去るよう神は働きかけます。

 ここで「十度も」とありますが、文字通り十回かもしれませんが、人を試す数として「十」が聖書にはしばしば出てきます。例えば、ヤコブは義父ラバンに対して、賃金を十度変えたということを非難しました。主は数限りなく、奇跡や不思議、養いによって彼らに良くしてあげたのにも関わらず、それを信じることができなかったという罪を犯しました。私たちは、キリストが生きておられる証しを知っているのにも関わらず、どれだけこの方に信頼を寄せていることができているでしょうか?

14:24 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。14:25 低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」

 ヨシュアに加えてカレブは、約束の地に入ることができます。これが信仰による報いです。信じる者は、たとえ神の裁きがあろうとも滅びることなく、命を持つことができます。裁きから免れる道は、神とキリストを信じることです。

 そして、主は彼らをカデシュ・バルネアから迂回させて、紅海の北端にあるところを通らせていこうとされています。「低地」というのは、先ほど説明したように中央の山地から東あるいは西に広がっているところです。そこにはアマレク人とカナン人がいるので、迂回して後に死海の東側、今のヨルダンのほうから回って北上するように神は命じられます。

3B 荒野の死 26−38
 けれども民は続けて不平を鳴らしています。そこで主ははっきりと、ご自分がなさることをお定めになりました。

14:26 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。14:27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。14:28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。14:31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。14:32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。14:33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。14:34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。

 主が、この荒野を彼らの墓場とすることに決められました。彼らが、「荒野で死んだほうがましだ」と言ったその言葉通りにすることを決められました。けれども、イスラエルの民全体を滅ぼすのではありません。二十歳以上の登録された者たちは死に絶えますが、それ以下の子供たちが新しい世代として約束の地に入ることになります。けれども、信じ続けたヨシュアとカレブだけはそのまま約束の地に入ることができます。

 今、イスラエルの民全体が自分自身であると考えてみましょう。そうすれば、私たちは神に反抗して神の言うことを聞かない肉が死ぬことによって、新しく御霊によって神の約束にあずかることができる、と考えることができます。ローマ86節には、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。私たちが信仰によって入ることのできない、自分たちの肉の領域を残していると、私たちはその肉が死ぬまでは神の世界の中に入ることは決してできません。その肉が、キリストの御体によって十字架において罰せられたことを知ることによって、いのちの御霊の生活に入ることができるのです。

 私たちは信仰の訓練の中に生きています。先ほど、エジプトがこの世を表していると言いました。そして約束の地は、御霊によって神の約束と祝福を得ることを表しているに他なりません。荒野の旅は、その約束に至るために肉の部分が削がれて、信仰によって生きていくことを学ぶ部分です。私たちは、御霊に導かれることを知るために、しばしの間、肉の中でもがく時を神は許されます。自分自身で罪の問題を解決しようとします。けれども、できないで敗北を味わいます。その間に、「自分」というものに死んでいなければいけないことに気がつきます。自分には何も良いものがなく、かえってキリストに愛に自分が満たされて、自分ではなくキリストが自分を通して働いてくださることを願います。信仰によって神の約束をそのまま信じて、主に働いていただく御霊の領域に入ることができるのです。

 コリント人への手紙第一2章と3章には、人間には三つの種類の人がいることを教えています。一つは、「生まれながらの人間」です。御霊の新生を体験していません。それは、エジプトにいる人だると言い換えることができます。そしてもう一つは「御霊の人」です。御霊に導かれて生きている人です。神の約束の地に入った人と言うことができるでしょう。戦いがなくなる、ということではありません。約束の地に入っても敵との戦いがあります。けれども、主が大将となってくださっているので、どんなに力強い相手でも打ち勝つことができるのです。

 もう一つの種類の人間をパウロは述べています。それが「肉に属する人」「キリストにある幼子」です。御霊によって新生はしたけれども、御霊によって生きることを知らない人です。肉の欲求が自分の行動に先行します。罪に敗北します。平和よりも争いを好みます。ねたみによって人を裁きます。けれども、それらによって主に拠り頼むことを学びます。

 このような期間があることは必要です。だれでもキリストにある成熟さに向かって生きることができることは必要です。けれども、それが長い期間経ったらどうでしょうか?幼い子どもだから、母親といっしょに寝ても問題ないですが、大人になってお母さんといっしょに寝ないといけないと言うことであれば、それは悲劇です。同じように、いつまでも肉に属する者でいることは悲劇なのです。

14:35 主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。14:36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」14:37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。14:38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。

 責任者の罪は重大です。悪く言いふらした者たちは、即、死にました。

4B 不遜の行動 39−45
14:39 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。14:40 翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。」14:41 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。14:42 上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。14:43 そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」14:44 それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。14:45 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。

 ここで彼らが取っている行動を何と言ったら良いでしょうか?「不遜の罪」と呼んだら良いでしょう。彼らは、信仰によって敵陣に入っていったのではありません。先ほどは、自分たちの力で敵に打ち勝つことはできないと思って、それで約束の地に入ろうとしませんでした。けれども、ここでは同じく自分の力で敵に打ち勝つことが出来るとおもって入っていったのです。自分にはできる、と思ったのです。

 私たち人間にはふりをすることは可能です。信仰によらないで、信仰を持っている人のようにふるまうことはできます。信じていないのに、祈りの言葉を話すことはできます。信じていないのに、礼拝に参加して、礼拝をしている風にすることはできます。むしろ、祈ったから神に認められる、礼拝に出ているから、自分は天国に入ることが出来る、と思っています。「自分がこれこれを行えば、神はその自分の行いに対して借りを持っており、神がそれに応答するのだ。」と決めてしまうことです。これを「不遜」、英語ではpresumptionと言います。

 彼らは、「罪を犯したのだから」と言っています。けれども、それは罪への悔恨なしに告白をしているものです。教会で牧師が罪を犯したとします。例えば、姦淫の罪を犯したとしましょう。「けれども口で告白したのだから、次週から再び説教壇に立つ。」ということであればどうでしょうか?「このことは罪の告白は本当にはしていなかったね。」ということになります。罪を悔い改めたことを、他の人々にも認めることのできる形で現さなければいけません。教会の奉仕は一定の期間、お休みして、仲間の牧師や尊敬できる人からのカウンセリングを受け、そして本当に悔い改めたのだという行いが見えるときに、恵みによって再び奉仕につくことができます。

 神の力強い御手の中でへりくだる時が必要です。イスラエルの民が四十年間、荒野をさまよったように、自らをへりくだる期間が必要です。そうすれば、主がちょうど良いと思われるときに、その人を引き上げてくださいます。

3A 約束の地における捧げ物 15
1B 特別な誓願 1−16
15:1 主はモーセに告げて仰せられた。15:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたがはいり、15:3 特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、主へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を主にささげるときは、15:4 そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを主にささげなければならない。

 主は突然、モーセに動物のいけにえと共に穀物による捧げ物についての指示を与えておられます。四十年間、荒野をさまようことを宣言された後に、なぜこのような教えを与えられたのでしょうか?その答えは2節にあります、「わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたがはいり」とあります。主はモーセに対して、彼らが、子供の新しい世代が約束の地に入ることをすぐにお示しになり、そこで行うべき事をすぐに教えられたのです。

 私たちが主から懲らしめを受けると、それで自分は全く見捨てられたのだと感じます。けれども、そうではないのです。懲らしめは一時的なのです。それは、将来の益になるためのものであり、義と平和の実を結ぶためのものであります。

15:5 また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。15:6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、15:7 さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンを主へのなだめのかおりとして、ささげなければならない。

 1-4節までは、すべての家畜に対する穀物の供え物を教えていましたが、それに加えて子羊の場合と雄羊の場合の穀物の捧げ物、そして注ぎのささげ物を教えています。

15:8 また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして主にささげるときは、15:9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、15:10 また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの、火によるささげ物である。15:11 牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。15:12 あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない。

 和解のいけにえとしてささげる時の規定です。同じように穀物の捧げ物と注ぎの捧げ物をささげます。

15:13 すべてこの国に生まれた者が、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげるには、このようにこれらのことを行なわなければならない。15:14 また、あなたがたのところにいる在留異国人、あるいはあなたがたのうちに代々住んでいる者が、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげる場合には、あなたがたがするようにその者もしなければならない。15:15 一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。15:16 あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。」

 ユダヤ人でなくとも、その共同体の中で生きている在留異国人は同じように守ります。ここに将来における、異邦人も交えた神の国の姿を見ます。教会ではすでに、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つにされています。

2B 初物の奉納物 17−21
15:17 主はまたモーセに告げて仰せられた。15:18 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたがはいり、15:19 その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。15:20 初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。15:21 初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を供えなければならない。

 ここでも同じですね、主が彼らを導いて行く地に入っていくことを前提で語っておられます。ここでは、収穫の初物を奉納物としてささげることの教えです。

3B 罪のためのいけにえ 22−36
15:22 あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、主がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも、15:23 主が命じられた日以来、代々にわたって主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行なわないときは、15:24 もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。15:25 祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、主への火によるささげ物、罪のためのいけにえを主の前に持って来たからである。15:26 イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。

 罪のいけにえのための教えです。会衆全体が犯した場合です。

15:27 もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。15:28 祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。15:29 イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にも、あやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。

 ここは個々人が罪を犯した場合の場合です。

15:30 国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」

 ここに「故意に罪を犯す」ことについての重要な教えがあります。これは、上に挙げた罪のためのいけにえをあえて捧げないところにある罪です。自分は罪のいけにえなど必要ないという前提で罪を犯していることです。

 これを私たちに当てはめれば、キリストの十字架なしで罪を犯しているときです。罪を犯しても、それをキリストの十字架に持っていかないことです。これを故意の罪といい、十字架という最後の罪の赦しの備えを無視した行為であり、生ける神の怒りの中に陥るしかありません。ヘブル人への手紙1026-31節を読んでみます。
 

26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。28 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

 ことさらに罪を犯すことを自分は行ってしまったのではないか、と恐れる人たちがいます。けれども、ことさらに罪を犯すことがここでは定義されています。それは、「神の御子を踏みつけ」ること。「契約の血を汚れたものとみなす」こと。そして「恵みの御霊を侮ること」です。つまり、神の御子キリストが流されたところにある、神の恵みの御霊の証しをまっこうから拒むことを意味します。イスラエルの民がいけにえを携えなかったら、それが故意に罪を犯したことであるように、イエス・キリストの十字架を信ぜず、自分の罪がその上にあることを信じないこと、受け入れないままで罪を犯すことを意味しています。

15:32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。15:33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。15:34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。15:35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」15:36 そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。

 これは、故意に罪を犯した者についての例です。安息日に大胆にたたぎを集めていました。もちろん、それを罪であることを知りながら、悔い改めもないまま行っています。それで彼は石で打ち殺されました。

4B 青いひもの房 37−41
15:37 主はモーセに告げて仰せられた。15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、15:40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。15:41 わたしはあなたがたの神、主であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしは、あなたがたの神、主である。」

 「心の思うままを行う」ことのないようにする戒めです。自分の着物のふさが、いつも御言葉が自分の思いと心を占めることを思い起こさせます。私たちも生活の中で、とにかく自分の好きなことをするという弱さがありますね。いくら御言葉がそうしなさいと言っても、今、自分がしたくないと思ったらしません。してはいけないと御言葉で命じられても、やはりしてしまいます。そこで着物の房に青ひもを付けることによって、御言葉がいつも自分にあるように戒めるのです。

 ちなみに、これは今の正統派ユダヤ教徒がしばしば身に付けているものにあります。そして、イエス様ご自身がこのような着物を身につけていました。長血を患う女は、イエス様の着物の房に触ったとあります(マタイ9:20)。

 私たち新約時代に生きる者にも、心が傾く方向に反して御言葉を与えることをこのように述べています。ヤコブ書1章です。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1:22-25」御言葉を一心に見つめて離れないことです。

 祈りましょう。

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