民数記16章1-4節 「神の家の中の反抗」

アウトライン

1A 偽教師の特徴
   1B 恵みを放縦に変える者たち
   2B 主イエスを否定する者たち
2A 平和の神の教会
   1B 監督者の資格
   2B 信徒たちの服従
   3B 恵みによる賜物

本文

 民数記16章を開いてください、午後礼拝では16章から18章まで学びたいと思っていますが、今は161-4節をお読みしたいと思います。

1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

 私たちは前回の学びで、イスラエルの民が約束の地に入ることができず、四十年間、荒野をさまよわなければいけないことを神から宣言されたところを読みました。今、読んだのは、その放浪生活の間に起こった出来事です。自分たちは、この荒野で死ななければいけない定めにあることを知った彼らは、モーセとアロンを神がお立てになったその秩序そのものを疎むようになりました。そして、アロンの家系による祭司職を転覆して、自分たちでイスラエルの全家を治めようとしました。

 それが、ここに出てくるレビ人のケハテ族の子コラです。共謀しているのは、ルベン族のダタンとアビラムであり、また会衆の上に立つ二百五十人が彼らにしたがってモーセとアロンに立ち向かっています。

 私たち日本人は、よくまとまりのある国民であると、世界から評価されています。震災の時に見せたあの秩序を、称賛した数多くの外国メディアがありました。けれども、興味深いことに教会の中では、数多く分裂の話を聞きます。まとまりのあるように見える日本人でも、それは表向き自分自身を抑えているだけで、教会という、真に自分の人格とキリストが交わるところにおいては、ありのままの自分が出やすいです。

 けれども、それは日本人のみならず、世界の教会の中で起こっている現実です。実は、新しく始まったばかりの初代教会においてもその問題があり、使徒たちの手紙の中にその問題が取り上げられています。ですから、私たちは今、この教会においてそのような兆候を見ることはなく、神に感謝しているのですが、それでも人間の肉の弱さの中にあるこの分裂あるいは、教会にある神の権威に対する反抗の問題を取り上げたいと思います。

1A 偽教師の特徴
1B 恵みを放縦に変える者たち
 新約聖書の中で、モーセとアロンに反抗したコラが取り上げられている箇所があります。ユダの手紙11節です。黙示録の手前の手紙です。「忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。(ユダ11

 ここの「彼らは」というのは、終わりの日に出てくる背教者たちのことです。かつては教会に属していたが、反抗的になり、ついに今は敵対している人たちのことを話しています。その前の節、10節も読んでみます。「しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。」この人たちはそしりや、権威ある者を軽んじることが、その特徴の大きな一つです。

 そして、彼らについて語り始めている導入部分を読んでみましょう。3-4節です、「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。(3-4節)

 私たちは、なぜある人々に対して反抗的になるのでしょうか?しばしば問題になるのは、最近、カルト的になった教会であります。そこで「権威」ということを話すと、すぐに反発してしまう傾向を持っている人たちがいます。それは、私はある意味で自然であると思います。カルトのみならず、父親に対して、また夫に対してなど、これまで正しい神からの権威、霊的な健全な権威でないものに服従していくと、内にある自己が破壊されていくからです。個の確立の過程として、反発してしまうということがあります。

 いま話しているのは、そうした人間的な権威ではありません。真に神から与えられたところの権威であります。神からの権威は私たちに自由をもたらします。この地上でもっとも自由に生きた方はイエス様でした。イエス様はご自分の父に対して、完全に服従されていました。父が言われることのみを語り、父が行われることのみを行っていたので、父と一つになられていたこの方は、父のものをすべて受けておられたのです。神から来る権威に服従することこそ、私たちは最も自由になることができます。

 けれども、その権威にさえ反発していくというのはどういうことなのでしょうか?いま読んだユダの手紙を見てください。「私たちの神の恵みを放縦に変えた」とあります。神の恵みを知らない人々です。神の恵みの話を聞くと、「ならば、何を行っても良いんですね。」と反応して、文字通り、何でもかんでもやろうとする人たちです。

 私たちがいつもの生活に満足できていない時に、信仰生活全般に満足できていない時に、しばしばこの反抗心が芽を出していきます。その時は、神の恵みを忘れている時です。神が、罪人である自分のために、イエス・キリストによってどれだけのことをしてくださったのかを忘れた時です。モーセはコラに対して、「あなたが主の幕屋の奉仕をするために、神はみもとに近づけてくださったのだ。それなのに祭司職まで要求するのか。」と言いましたが、いま自分が置かれているところが神の恵みであり、それに感謝すべきであるのに、それに満足ができません。それは、神の恵みを忘れているからです。

 感謝をする、というのにはへりくだりが要求されます。パウロはテサロニケの人々に対して、「いつも感謝しなさい」と勧めましたが、いつも感謝することは難しいことです。けれども、もし今、自分に与えられているものがなくなったのなら、いったいどうなるのか?ということを考えれば良いです。この前のアメリカの旅行で、ホームステイしたその家庭の奥さんが、スーパーマーケットで店員の人とこう会話したそうです。「毎日、いつでもこのように食べる物があるって、すごいことよね。感謝しないとね。」店員の人も、「そういう風に考えてみたことがありませんでした。感謝すべきですね。」と答えたそうです。

 「もし、これらのものがなかったら」と考えるのができないのなら、裏返すと「これらのものはあって当たり前」と考えているからです。この当然の権利であるかのようにふるまうのが、私たちが神の恵みを忘れた徴候の始まりです。

 私たち教会、また神の家族もそうですね。初めに会った人々に対しては、新鮮ですから、喜んでわくわくして付き合うことができるかもしれません。けれども時間が経つと、また同じ人たちだと思ってみたり、相手のことをもっと知るようになりますから、その欠点も見えてきます。けれども、「家族」ということを考えてみてください。もし、父親が来たら十代の娘は、「うざったい」と言うかもしれません。けれども、父が死んでしまったらどうなるでしょうか?どれだけ貴い存在であったかに気づくことでしょう。むしろ、そのある意味で「うざったさ」が大事なのです。箴言に「鉄が鉄をとぐ」という言葉があります。そこで、ロマンチックなハネムーン時期を越えて、互いに愛していくような成熟した愛の結びつきを、神の家族の兄弟姉妹としても持つことができます。

 ここに愛する兄弟姉妹がいること自体が、私にとっては神の恵みなのだ、という、真の謙虚さが必要なのです。

2B 主イエスを否定する者たち
 そして、ユダはこれら反抗する者たちを、「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち」と言っています。イエス・キリストを唯一の支配者であり、主であることを否定するようになっていく時に、教会の中に混乱を引き起こすようになっていきます。

 「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(2ペテロ3:18」とペテロは第二の手紙の最後で言いました。イエス・キリストの恵みについて知ることは、救われるために信じることの一回性ではありません。成長していくものなのです。イエス・キリストを知ることが、さらに深まっていくことになるのです。

 もちろん聖書全体にイエス・キリストが示されていますが、福音書には具体的に人間の肉体をとられたキリストの姿を見ることができます。この方が行われたこと、この方が言われたことに注目する時に、私たちは自分のありのままの姿があぶりだされてきます。普段は考えていなかったことが、実はそこで非難されているパリサイ人と自分は同じ心を持っていたのだ、いつもは馬鹿にしている弟子たちのこっけいな発言や行動が自分にも当てはまることに気づきます。主に私たちが触れる時に、私たちはいつも、「自分を捨てる」ことが求められます。そしてキリストを身につけて、聖霊に満たされて、自分ではなくキリストによって生きることができるのです。

 ヘブル書の著者がこう書きました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(12:2-3」私たちが、他の人々ばかりを見るときに私たちの心は疲れます。自分が何かをしているのだと錯覚します。どうか、イエスに目を戻してください。教会は主が働かれるところです。この方が自分のためにすべてをしてくださいました。この方のうちに休んでください。

2A 平和の神の教会
 このように、主イエス・キリストを知ることと、神の恵みを知ることによって私たちは神から来る権威に服従することができます。それでは具体的に、服従しなければいけないという命令を読んでいきたいと思います。

1B 監督者の資格
 民数記では、コラが神の家の管理者であるモーセとアロンに楯突いています。けれども、モーセ自身が柔和な人であったことに注目してください。4節に「モーセはこれを聞いてひれ伏した。」とあります。彼は、そのまま主の前にひれ伏したのです。したがって、教会において権威に服従することについて語らなければいけないのは、指導者の資格です。彼自身がすべてのことに対して神に明け渡し、へりくだって、柔和な姿勢を保っているかどうかが重要になります。

 テモテへの手紙第一3章に、教会の監督者に対する資格についてパウロが述べています。「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。』ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・(1テモテ3:1-5」「自分を制する」「慎みがある」「暴力をふるわない」「温和だ」「争わない」というところに、「柔和さ」が表れています。

 私がこのメッセージを準備している時に、先ほど話したカルト化した教会に以前通っていた人のブログ記事を読みました。今通っている教会の牧師に対して、その牧師が悪いわけではないのに、これまで抑圧されてしまっていたので反動で、反抗してしまう、八つ当たりをしてしまうという内容が書いてありました。そして私が教わったのは、その牧師の態度でした。「信頼は築き上げるものだから、信頼できないならそれでかまいません。そのままでいいです。」

 パウロは、若い牧者テモテにこう指導しています。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。(2テモテ2:24-25」このことができている牧者に、主は真の権威を与えてくださいます。

2B 信徒たちの服従
 このことの前提があって、次に信者が指導者に従い、尊敬を払うことについての教えがあります。テサロニケ人への手紙第一512,13節、「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。(1テサロニケ5:12-13」大事ですね、指導者が「労苦していること」また、自分の都合ではなく「主にあって」指導していること、また「務め」をしっかりと果たしていること、これらがある指導者であれば、「愛する」ことが必要です。愛のゆえに深い尊敬を払います。

 テモテへの手紙第一517節にはこうあります。「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(1テモテ5:17」二重というのは、目に見えない尊敬のみならず、物質的な形で支えなさいということです。パウロ自身は、基本的に天幕作りをして自活していましたが、はっきりとこう述べています。「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。(1コリント9:14

 これは、それだけ福音宣教と御言葉を教えることが大事なのだよ、ということです。神の御言葉とイエス・キリストの福音が、自らの働いた収入をもってそれに専念する人を支えるほど、伝えられていくべきものである、ということであります。それで、教会は歴史を通じて、専属で奉仕の務めにあずかっている人々は、この重要性を分かっている人々の金銭的支えによってそれらを行うことができました。

 そしてヘブル人への手紙1317節にはこう書いてあります。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル13:17

 教会の指導者は、終わりの日に神の前で、自分が監督していた信者の魂について、神の前で弁明あるいは申し開きする日が来ます。その時に、喜んでそれをすることができることはすばらしいことです。パウロはテサロニケの人たちのことを、こう言いました。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。(1テサロニケ2:19

 そして「魂のために見張りをしている」とありますが、これは監視しているということではありません。あくまでも監督している、ということです。使徒ヨハネは、こう言っています。「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。(3ヨハネ4」真理の中に生きている姿を見聞きするほど、指導者にとって嬉しいことはありません。

 牧会者のための雑誌が売られていて、そこに「牧師をやっていて、良かったなと感じる時」というので、一番多かったのは「受洗者が与えられる時」とありました。私個人は少し違います。確かに、水のバプテスマを受ける人が起こされたらそれは嬉しいことですが、それは、あくまでもイエス様の命令に従っている姿を見ているからです。バプテスマを受けた人々の人数は、私は気になりません。それ以上に私は、真理の中に人々が歩んでいるのを見るときです。真理の御言葉を聞いて、それを喜び受け入れて、御霊にしたがって歩もうとしている姿を見るときにこの上のない喜びを感じます。その実として確かに兄弟姉妹に対する愛を持っていること、そして魂の救いのために心を砕いて祈っていること、つまり真理の中に歩んでいるのを見ることほど、嬉しいことはありません。

 もし、そうではない姿を見ると嘆きます。「嘆いてすることにならないようにしなさい」とありますが、この「嘆き」は、「内にある、言葉にならないうめき」という意味です。真理に逆らっているのを見る時に、心はうめいて、泣き悲しんでいます。そして最後に、「あなたがたの益のため」とあります。指導者が教えていることに従うことは、結局は自分のためになるのです。

3B 恵みによる賜物
 そして、もう一度、コラがモーセとアロンに逆らった理由を考えてみたいと思います。先ほども話したように、コラは神が、「主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださった。(9節)」とモーセは言いました。ケハテ族は、主の幕屋の祭具、すなわち契約の箱や、香壇、供えのパンの机を運ぶ、極めて光栄ある奉仕にあずかっていました。ところが、それよりも光栄ある祭司の務めを見て、ねたみを燃やしたのです。

 私たちは神の恵みによって与えられた信仰の中にとどまるべきです。パウロが教会における奉仕について、その賜物について話すときにこう言いました。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12:3-5

 私たちは、神から与えられた信仰の分を越えて、何かをしようとしてしまいます。それはあからさまな、うぬぼれかもしれません。「あの人よりも私は上手にすることができる。」という思い上がりです。または、義務感から行うこともあります。周りの人からの心理的圧力あるいは、自分自身が勝手に抱く義務感によって、単純に神とキリストを信じて恵みによって救われたという喜びを失うところまで、何かを行おうとします。または、行き過ぎた使命感かもしれません。「この集まりは、私がいなければ続いていかない。」という思い込みがあり、主がこの群れを守っておられることを忘れ、主を出し抜いて自分自身が守ってあげていると思い込みます。

 いずれにしても、単純に、イエス様を信じて救われたという神の恵みから離れた越権行為です。「思うべき限度を越えて思い上ってはいけません」とパウロは言いました。

 そして、大事なのは個人プレーではない、ということです。パウロは「キリストの一つのからだ」であると言いました。からだの器官が競争してそうするのでしょうか?あまりにも滑稽な姿です。どれが最も優れているというものはないのです、むしろ弱いと見えるような部分を体は尊びます。そして、私たちは神の家族です。仕事から家に戻ってきて、そこで仕事で行っているように個々人の仕事ぶりを披露してその実力を試されるようなことがありうるでしょうか?私たちはキリストのからだであり、そして神の家族です。ですから、「仕える」のです。自分の能力や行為を披露するところではないのです。他者を尊び、神に仕えるときに、そこには混乱ではなく、平和の神が私たちを支配してくださいます。

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