民数記18−20章 「ただ一度のわざ」


アウトライン

1A 祭司の務め 18−19
   1B 神のあわれみ 18
      1C 奉仕の賜物 1−7
      2C 永遠の分け前 8−32
   2B 罪のきよめ 19
      1C 完全な赤い雌牛 1−10
      2C 死人への灰のふりかけ 11−22
2A 律法への死 20
   1B モーセの死(の予告) 1−13
   2B アロンの死 14−29

本文

 民数記18章を開いてください。今日は、18章から20章までを学びます。ここでのテーマは、「ただ一度のわざ」です。

 私たちは、前回、コラの反乱の出来事について学びました。レビ人であり、かつケハテ氏族に属していたコラは、アロンの祭司職を欲して、モーセとアロンに挑みかかりました。すると、主は、コラの家族を、生きたまま陰府に投げ込まれました。それを見たイスラエル人は、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下されました。宿営の中で、次々と死んでいきました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰は終わりました。けれども、死者は17400人になりました。

 その後、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせて、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた祭司であることをお示しになりました。しかし、イスラエルの民は、ここにあらわされた神さまのあわれみを理解せず、「私たちも滅びる!私たちも滅びる。主の幕屋に近づいたら殺される。」と言って、パニック状態になっていました。

 しかし主が、イスラエルの民に教えたかったことは、祭司の務めによって初めて、彼らが主の恵みとあわれみを受けることができる、ということだったのです。主はさばきを行なわれる方です。しかし、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主は、18章以降も、さらに祭司の務めについてお語りになっています。

1A 祭司の務め 18−19
1B 神のあわれみ 18
1C 奉仕の賜物 1−7
 そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。

 主はアロンに語っておられます。アロンの家族が、祭司職を担わなければならないと確認されております。たった数日前、コラの家族やそれにくみ与する者たちを死をもってさばかれたことによって、イスラエル全体に混乱が起こっているからです。もう一度、「あなたがたの家族こそが、祭司の務めを果たすのです。」とアロン自身にお語りになっているのです。

 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。

 アロンの家族以外の、レビ人たちの位置についても、神は確認されています。レビ人は、聖所の中に入ることは決してできません。けれども、レビ人は、幕屋において、アロンの祭司の務めを助ける奉仕を行ないます。このように、はっきりとした役割分担があり、割り当てられた任務に忠実であることを神は求めておられます。

 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。

 神がこのように祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認しておられるのは、イスラエル人のことを思ってなのです。混乱してしまっているイスラエル人をあわれに思い、それで二度と、コラたちが受けたような激しい御怒りを受けることがないように、配慮してくださっています。私たちも、イスラエル人のように、神は自分に対して怒っておられる方だと思って、恐れ退いてしまうときがあります。しかし、もし私たちを怒っておられるのであれば、神はご自分の子をこの世に遣わされなかったはずです。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」とイエスさまは言われました。

 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを主にささげられたあなたがたへの贈り物とする。あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。

 主は、祭司職について、それは賜物であるとおっしゃられています。アロンたちがこれらの任務と特権を自分たちが手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたのです。それは、教会に対しても同じなのです。今は、キリストにある者一人一人が、主に対する祭司であることを思い出してください。「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』(エペソ4:7−8)」私たちは、主によって人々に恵みを与えるために、賜物が与えられています。そしてその賜物を用いることによって、人々が主の恵みの知識にいたるようになるのです。

2C 永遠の分け前 8−32
 主はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物にかかわる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。

 アロンの家族たちは、祭司としてイスラエルが神に対するものとしてささげた、動物のいけにえや穀物のささげものなどの一部を、受け取ることができます。そして、それは祭司としての任務なのです。聖なるささげ物、つまり主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることになります。一つのものを共有するとき「交わり」が成り立つのですが、祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わる、あるいは礼拝するのです。

 そして、「永遠の分け前とする」という言葉に注目してください。また、すぐにこの言葉が繰り返されています。

 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。

 最も聖なるものとして、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえがあります。なぜこれが最も聖なるものであるかは、お分かりになるでしょうか。それは、罪のいけにえがささげられることによって、神と人の仕切りとなっている罪が取り除かれるからです。その肉を食べるということは、主ご自身が人の代わりに罪のさばきをお受けになったことを受け取ることに他なりません。

 けれども、新約聖書には、「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:4)」と書いてあります。神と人とが一つとなることができたのは、神ご自身のひとり子キリストが、罪のためのいけにえとなってくださった時です。イエスさまが、私たちの罪を背負ってくださり、罪人として数えられました。そのイエスさまを、私たちが自分の心に受け入れるのであれば、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスさまは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。祭司が罪のためのいけにえの肉を食べるとき、それは私たち新約聖書の祭司がキリストを抱くことに他なりません。

 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前とする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。

 罪のいけにえは聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることになっていましたが、その他の奉納物や奉献物は、娘たちにも与えられます。そして、ここに「永遠の分け前」という言葉がまた出てきました。この分け前は、時を経ると効力をなくすような一時的なものではなく、永遠に続くものである、ということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないもの、ということであり、また他の言い方をするなら、繰り返す必要のない、ただ一度の出来事、と言うことができるでしょう。

 天地創造のときに、主は無から有を創造するみわざを行なわれました。6日間でその創造のわざは完成し、そして7日目は休まれました。休んだというのは、疲れたからということではなく、完成したので、もうそれ以上必要な仕事が残されていない、ということであります。それ以後の、神の創造のみわざは、すでに存在している物質によって組み合わせたりさせることによるものであり、目に見える物質の世界においては、無から有を造られるわざは、そこで完成したのです。むろん、この世の終わりには、すべてのものが過ぎ去って新しい天と地が再創造されます。

 したがって、神の創世の御業は、世の終わり以前には、再び繰り返されたりするようなことはありません。それは完成しているからです。これと、神の贖いのわざは同じなのです。キリストが十字架の上で血を流され、死なれました。これによって贖いは完成しました。神にとって必要な贖いは、もうこれ以上は何一つありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないものなのです。

 このことについて詳しく書かれているのは、ヘブル人への手紙です。9章11節から読みます。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 そこで考えなければならないのは、私たちクリスチャンが、このただ一度の、永遠の贖いの中に生きているかどうか、ということなのです。私たちは、果たして、自分の罪が過去も、現在も、そして将来のすべての罪が、2千年前にキリストの十字架によって、すべて取り除かれていることを信じているでしょうか。あたかも罪が赦されていないかのように、その赦しを請うために、祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をしていることはないでしょうか?あるいは、自分をもっと聖めたいと思って、これらの宗教的活動をしていることはないでしょうか。心の中で、「まだ自分は聖められていない。もっと神さまに従って、神さまに近づかなければいけない。」と思っていないでしょうか?しかし、キリストの贖いは、そのような不完全なものではないのです!使徒パウロは言いました。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Tコリント6:11)」私たちはすでに、洗われて、聖められて、義と認められたのです。キリストが二千年前に死なれたときに、これらはみな完成しました。ですから、祭司たちが、神からいただく分け前は「永遠」のものであったのです。

 12節をご覧ください。最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。

 罪や罪過のためにいけにえだけではなく、収穫物の初物をイスラエル人は幕屋にたずさえてきます。最良の油、最良のぶどう酒や穀物を自分たちの分け前とすることができます。これらも、罪のためのいけにえと同じく、キリストを表しています。キリストが信者たち初物となってくださっています。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じれば死んでも生きます。キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死にました。キリストが神からすべてのものを相続しておられるように、キリストのうちにある者も、神から相続を受けます。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。祭司としての私たちは、初物であられるキリストを心に受け入れているのです。

 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。

 聖絶のもので思い出すのは、イスラエルの民がエリコの町を陥落させたときのことです。エリコの町にある貴金属類はすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければならないと、主は命じられました。そして、それを祭司たちは自分たちのものとなります。

 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。

 植物の初物が祭司のものになったように、動物や人間の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が、祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、イスラエル人はお金を払って買い取るのです。「汚れた獣」とは、レビ記11章の食物規定で、汚れているとされている動物のことです。

 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、主へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。

 牛、羊、やぎはみな、イスラエル人は贖うことはできません。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげられなければいけないからです。そして、肉はみな祭司たちのものとなります。

 イスラエル人が主に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」

 ここで、主は、分け前についての教えのまとめをされています。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約、すなわち解消されることのない契約である、ということです。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど申し上げましたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しているということです。

 主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

 ここから、相続地についての教えがあります。祭司たちは、約束の地においてなんら自分たちの所有となる土地は与えられません。それは、彼らにとって主を礼拝することがすべてであり、主を礼拝するという霊的富をすでに得ているからです。主は、「わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である」と言われています。私たちも、新約時代の祭司としてこの告白をしなければいけません。私たちはただ、イエスさまだけを相続として喜んでいるでしょうか。「天地は過ぎ去るが、わたしのことばは過ぎ去りません。」と言われたイエスさまのことばに拠り頼んでいるでしょうか。この地では、楽しいこと、喜ばしいこと、多くの友だち、家族、いろいろな祝福があります。しかし、「わたしは、イエスさまがおられるだけで十分なのです。」という告白ができているでしょうか。アロンに対して、主は、「相続地を持ってはならない。わたしがあなたの相続地である。」と言われました。

 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

 レビ人に対しても、主は相続地を与えられていません。その代わり、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな、レビ人が受け取ることができます。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いようにしてくださいました。

 主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として供えなさい。これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を供えなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。

 レビ人は受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとするのではありません。受け取った十分の一のさらに十分の一を、今度は祭司アロンに与えます。こうして祭司の家族が、生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようになのです。

 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちから主へのすべての奉納物を供えなさい。またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。

 レビ人が祭司に手渡す十分の一は、イスラエル人が携えてくる収穫物のように考えられます。

 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

 こうやって、アロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して、主に奉仕をし、礼拝をささげています。物質的な必要を支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすみます。

2B 罪のきよめ 19
 こうして、神は、イスラエル人がコラの反乱のことで、慌てふためいていることに対する対処を行なわれました。次にさらなる対処を行なわれます。

1C 完全な赤い雌牛 1−10
 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「主が命じて仰せられたおしえの定めは、こうである。イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡せ。彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。祭司は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びよ。その後、宿営にはいることができる。

 しかしその祭司は夕方まで汚れる。それを焼いた者も、その衣服を水で洗い、からだに水を浴びなければならない。しかし彼も夕方まで汚れる。身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。この雌牛の灰を集めた者も、その衣服を洗う。彼は夕方まで汚れる。これは、イスラエル人にも、あなたがたの間の在留異国人にも永遠のおきてとなる。」

 主は、完全に赤い雌牛によって灰を作るように命じられています。その灰は汚れをきよめる水をつくるためのものであります。11節からは、この灰の入った水を、死人を触れたことによって汚れた人々にふりかけることによって、きよめることが教えられています。

 今、イスラエルの宿営には、いたるところに死体がころがっている、あるいはころがっていたことに注目してください。神罰によって、1万4千7百人の人が死にました。この死体の処理をしなければならないわけで、死体にふれていない人のほうがむしろ少なかったのもかもしれません。そこで、主は、完全なきよめを行なわれるために、完全に赤い雌牛によって灰をつくることをお考えになったのです。

 完全な赤い雌牛は、宿営の外に引き出されます。罪のためのいけにえと同じです。罪のためのいけにえは、幕屋においてほふられて、祭壇の上にささげられ、皮や汚物や内臓を宿営の外に運び出しますが、ここではほふられるところから、宿営の外で行なわれています。幕屋においても、たくさんの死者がいたために、すべてのものが汚されているからでしょう。そこできよめはできません。そこで外に引き出しています。

 そしてほふられた牛の血を、幕屋の正面に向かって7度ふりかけ、それから牛を火で焼きます。そのとき、杉の木とヒソプと緋色の糸を投げ入れます。これで祭司エルアザルの務めは終わり、水浴びをしたあと、宿営に戻ります。そして、その焼かれた灰を他の人が集めて、先ほど言いましたように、汚れをきよめる灰として用意するのです。このようにして、コラの反乱によってもたらされた被害を、主は完全にきよめようとされています。

 そこで、この完全な牛について考えなければいけません。傷もなく、くびきも負ったこともないという赤い牛は、まさにキリストそのものです。神は、罪のない方が血を流されることによって、完全に人を洗いきよめることができることを、この牛を通して示しておられます。先ほど引用した、ヘブル人への手紙9章の個所の次に、この赤い牛について書かれています。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(9:13-14)

 この雌牛は、宿営の外に引き出され、そこでほふられましたが、私たちの主イエスも、エルサレムの城壁の外に引き出され、十字架につけられました。そして、その雌牛には、杉の木とヒソプと緋色の糸が投げ込まれましたが、杉の木は十字架の木を表し、緋色の糸はもちろん流された血潮を表しています。そしてヒソプは、罪を洗いきよめるためのものとして詩篇にはたとえられているので(詩篇51:7)、罪のきよめを表しています。したがって、この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架につけらえたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを示しているです。もうこれで、汚れはなくなり、罪はみなきよめられ、完全なきよめが果たされます。

2C 死人への灰のふりかけ 11−22
 11節を読みます。どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。

 死体にふれた人は、七日間汚れます。けれども、汚れてから三日目と七日目に、灰を入れた水を振りかけられるならば、きよめられます。三日目と七日目が何を象徴しているのか、定かでありませんが、神の完全性を表していることだけは確かです。

  人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕にはいる者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。身のきよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを、天幕と、すべての器と、そこにいた者と、また骨や、刺し殺された者や、死人や、墓に触れた者との上に振りかける。

 天幕の中で人が死んでしまった場合のきよめについて書かれています。死体に触れた者だけではなく、ふたがされていない器や、天幕そのものにも水を振りかけます。

 身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。汚れた者が、罪の身をきよめなければ、その者は集会の中から断ち切られる。その者は主の聖所を汚したからである。汚れをきよめる水がその者に振りかけられなかったので、その者は汚れている。これは彼らに対する永遠のおきてとなる。

 ここでも「永遠」という言葉が使われています。キリストが永遠のきよめを、私たちに成し遂げてくださったことを表しています。

 汚れをきよめる水を振りかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れをきよめる水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる。

2A 律法への死 20
 こうして、神が、アロンの祭司の務めを確かなものとし、完全な贖いときよめを示してくださいました。そこで20章に入ります。20章では、この祭司職を通してのキリストの贖いを理解することができなかった、モーセとアロンの姿が出てきます。そして、失敗を犯してしまい、なんと約束の地に入るまえに死んでしまうことを、神から予告されます。

1B モーセの死(の予告) 1−13
 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。

 ミリヤムが死にました。第一の月とありますが、これは荒野の放浪の旅の最後の年である40年目の第一月であろうと考えられます。そして、彼らは約束の地に入ることができなかったと同じ場所、カデシュ・バルネアにいます。

 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。

 ミリヤムが死んだので、その死体に触れた者がいたでしょうから、水を使って洗いの儀式を行なっていたはずです。けれども会衆のための飲み水はありませんでした。そこでモーセとアロンに逆らいました。

 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

 この兄弟たちとは、コラたちのことです。彼らはいまだに、コラのことを話しているのです。これで、モーセとアロンの堪忍袋の緒が切れたようでした。

 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。

 主は、杖を取って、岩に命じれば、岩から水を出すと約束してくださっています。以前にも、岩から水を出してくださったことがあります。まだシナイの山に到着するまえに、主はモーセに、自分の杖を取って、それで岩を打てば、水が出てくると約束してくださいました。

 けれども、ここでは少し神さまの命令が異なっています。杖で岩を打つのではなく、岩に命じなさい、語りなさいと命令されています。それに、取らなければいけない杖は、モーセの杖ではなく、アロンの杖のようです。モーセが主の前から杖を取ったとありますが、主の前にある杖は、契約の箱の中に入っている、アーモンドの花と実を結ばせている、あのアロンの杖です。ところが、モーセは、この神さまの命令に逆らってしまいます。

 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 かなり怒っていますね。モーセはこれまでも怒ったことはありますが、それは主にある憤りでした。しかし今は違います。度を越した怒りを発散させています。

 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

 ここに二つの過ちがあります。一つは、岩に語るべきだったのに岩を打っていることです。しかも、二度も打っています。さらに、アロンの杖を持たずに、モーセ自身の杖をもって岩を打っています。けれども、主は、それでも民をあわれみ、水をわき出るようにされています。

 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

 モーセとアロンの過ちは、なんと約束の地に入ることができないという結果をもたらしました。モーセとアロンが行なったことは、実に深刻なことでありました。

 神は、ご自分に逆らう民の姿を見ましたが、徹底的にご自分の恵みとあわれみをお示しになろうとしておられました。18章と19章で、私たちは、祭司職によるキリストのみわざを、神がお示しになろうとしているおこころを、読むことができました。それは、ただ一度かぎりの永遠の贖いであり、罪の完全なきよめでありました。そこで、イスラエルの民が水を求めている姿をご覧になったとき、神のいのちと恵みを表すところのアロンの杖を持ってくるように言われたのです。それだけではありません。モーセの杖は、ナイル川を血に変えるような、悪に対する神のさばきを表していました。その杖で岩を打つことによって、神の正しさとさばきを表していました。しかし、今は恵みを示そうとお考えになっていたのです。

 新約聖書には、この岩がキリストを表していると述べられています。コリント人への手紙第一の10章4節です。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」キリストは、私たちが受けなければならない神のさばきを、ご自分の身にお受けになりました。事実、キリストは文字通り、ローマ兵のむちに打たれました。そして、これはただ一度かぎりのことであって、これによって神の御怒りは完全に満たされ、私たちには神の和解のみが提供されています。私たちはただ、キリストが死者の中からよみがえられたことを、心の中で信じ、口で言い表すなら救いにあずかるのです。したがって、ミリヤムが死んだ後に、モーセがしなければいけなかったのは、アロンの杖を取って、岩に語りかけることでした。

 モーセとアロンの問題は、主ご自身がおっしゃっているように、主を信じなかったことです。与えられた律法をとおして、徹底的にキリストを表していくことに不忠実になってしまったことでした。信仰ではなく、二度打つという自分の行為、パフォーマンスに陥ってしまったのです。

 また、この出来事は、律法そのものの死を表しています。ミリヤムとモーセとアロンは、律法を代表していました。けれども律法によっては決して約束の地にはいって、安息を得ることはできないことを、痛いほどこの出来事は教えています。約束の地に入ることができるのは、ただ信仰によるのです。私たちもキリストを信じる信仰によってのみ、約束の地に入ることができるのです。

 民数記のテーマには、古い世代の死と新しい世代の出発があることを前回学びました。11章においては、むさぼりによってイスラエル人が死んでいきましたが、私たちは世に対する欲望に対して死ななければいけません。次にイスラエル人は、約束の地にいる巨人たちと自分を比べて、約束の地に攻め入ることを拒みました。それゆえ、40年間、荒野をさまよい、屍をさらさなければいけなくなったのですが、それは肉に対する死を表しています。神の約束の中に生きるのではなく、自分の行為の中に生きるという肉に対して、私たちは死ななければなりません。それから、律法に対して死ななければならないのです。モーセとアロン、またミリヤムが約束の地に入れなかったように、神の戒めを守ることによって神に受け入れられ、喜ばれようとする営みに対して死ななければなりません。そのためには、ただ一度限りの、完全で永遠のキリストの贖いを、信仰をもって受け止める必要があるのです。

2B アロンの死 14−29
 それでは、14節から読みます。さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。そこで、私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」

 モーセは、カナン人の地へと向かおうとしています。カデシュからそのまま北上する道は、以前失敗していますから、死海の南側を通って、それからアカバ湾とダマスコを結ぶ「王の道」を通ろうとしました。しかし、死海の南は、エドム人たちが住んでいます。そこで、そこを通過する許可を得ようとしています。申命記2章には、この前に、主がモーセに、エドムに手をかけてはいけないと命じられています。彼らはヤコブの兄弟エサウの子孫であり、主はセイル山をエドム人に与えられていたからです。

 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」しかし、エドムは、「通ってはならない。」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。

 エドムは通らせようとしませんでした。

 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。」

 ついにアロンがここで、死ななければいけませんでした。理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。

 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。

 アロンが死ぬと同時に、大祭司の務めがエルアザルへと引き継がれます。アロンは装束を着ていました。モーセは、それをエルアザルに着替えさせます。

 モーセは、主が命じられたとおりに行なった。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。

 アロンはこうして、ホル山において息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことをとおして、主がいかに、キリストのわざをお示しになりたかったかを知ることができます。主はわざは完全であり、その贖いの完全であります。その中に生きることが私たちには要求されています。しかし、それを妨げるものがあります。それは、自分の行為によって生きていこうという取り繕いを私たちは犯してしまうのです。

 モーセの問題は私たちの問題でもあります。いかにキリストの成し遂げたみわざを見て、行ないではなく信仰によって生きていくことなのです。私たちが良い行ないをするのは、ただキリストの十字架によって、私たちの罪が赦されたという感動によるものなのです。もう罪は思い出されず、すべての罪は取り除かれ、きよめられました。私たちが神を喜ばせるためにしなければならない行為は、もはや何一つ残されていないのです。もうすでに、信仰によって、キリストにあって、神は私たちを喜んでいてくださっています。


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