民数記22−25章 「バラムの迷い」

アウトライン

1A 金に迷うバラム 22
   1B バラクからの使者 1−20
      1C 民への呪い 1−6
      2C 大きくなる利益 7−20
   2B 話すろば 21−41
      1C 抜き身の剣 21−30
      2C 主と反対の道 31−41
2A 祝福に変えられる呪い 23−24
   1B 主が祝福される民 23
      1C 選び別たれた民 1−12
      2C 主の約束 13−30
   2B メシヤ王国 24
      1C 獅子の国 1−9
      2C メシヤの到来 10−25
3A ペオル事件 25
   1B 不品行と偶像礼拝 1−9
   2B 主のねたみ 10−18

本文

 民数記22章を開いてください。22章から25章まで学びますが、有名な「バラム」の話です。私は個人的に、ここから多くのことを学びました。主に教訓と警告でありますが、新約聖書では偽教師の例として、ペテロ第二の手紙、ユダの手紙、そして黙示録に登場する人物です。けれども、彼の口から発せられた言葉は、まさに神の預言そのものでありました。それにも関わらず、彼はイスラエルにとてつもなく大きなつまずきの石を置くことに成功したのです。この人物について学びたいと思います。

1A 金に迷うバラム 22
1B バラクからの使者 1−20
1C 民への呪い 1−6
22:1 イスラエル人はさらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した。22:2 さてツィポルの子バラクは、イスラエルがエモリ人に行なったすべてのことを見た。22:3 モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。それでモアブはイスラエル人に恐怖をいだいた。22:4 そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。

 前回の学びを思い出してください、イスラエルの新しい世代はカデシュからヨルダン川の東岸から約束の地に入る旅を始めました。エドムがそこを通過するのを許さなかったので、紅海のほうに回ってそしてモアブの地に入り、そしてエモリ人の住んでいる地に入りました。エモリ人の王シホンはイスラエルに戦いをしかけてきましたが、イスラエルは彼らを徹底的に打ち倒しました。さらに、今のゴラン高原にいた、バシャンの王オグを倒しました。そして彼らは、ヨルダン川の東岸にある草原にいます。「エリコ」とありますが、それはヨルダン川の西岸にある、死海の北端から少し北にある町です。ヨシュア記において、ヨシュア率いるイスラエルが初めに倒す町です。

 それで、モアブ王バラクは恐れましたが、本来は恐れる必要はなかったのです。申命記を読みますと、モーセに神は語りかけ、エドム人やアモン人と同じようにモアブ人と戦ってはいけないと命じておられたからです。けれども、私たちは恐れを抱くと攻撃的になりますね。本来は主が守っておられるのに、自分を守ろうとして攻撃的になることがあります。

22:5 そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。22:6 どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」

 モアブ王バラクの考えはこうでした。「物理的に戦ったらイスラエルに負けるのは明らかだ。けrども、霊的に、まじないによってイスラエルを呪うことをすれば良かろう。」ということです。彼の考えはもちろん愚かですが、けれども今の人たちよりはもっと賢いかもしれません。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(2コリント10:4」目に見えないところにある力のほうが、目に見えるものよりも力があるのです。終わりの日には、反キリストや世界の軍隊も、その物理的な武器をもって、再臨のキリストに戦争をしますが、この方の口から出てくる言葉によって滅ぼされます。

 そしてバラムという呪い師が、「ユーフラテス河畔」にいると書かれています。申命記234節には、「アラム・ナハライムのペトル」とあります。ヤコブのおじ、ラケルの兄ラバンのいたところです。ユーフラテスと言っても下流のバビロンの地域ではなく、上流のシリヤのところに当たります。アブラハムが父テラと共に滞在したカランあるいはハランの近くだったのでしょう。

 思い出すのはラバンが、まじないでテラフィムを使っていたことです。ラケルがその偶像を盗み出し、ラバンはヤコブの家財からそれを捜して見つけようとしていました(創世31章)。ラバンは、ヤハウェなるイスラエルの神を知りつつも、他の偶像も拝んでいたようです。バラムもそのような人であったと考えられます。ヤハウェなる神は知っていますが、他の神々とも交流する呪い師でした。

 そして興味深いのはバラクが、バラムの呪いの力を次のように信じていることです。「あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれる」その呪いの力は相当に強力だったのでしょう。けれども、主がアブラハムに対して、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、呪う者をのろう。」と約束されました。どんなに彼が呪術において長けた人物であっても、全能者の前には立ち向かうことはできません。

2C 大きくなる利益 7−20
22:7 占いに通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちとは、バラムのところに行き、彼にバラクのことづけを告げた。

 モアブだけでなくミデヤン人の長老も、使者としてバラムのところに行っています。モーセの舅イテロもミデヤンの地に住んでいましたが、アラビヤ半島から今のヨルダンにかける南北の広範囲に住んでいたようです。後に、ヨルダン川の西側のイスラエルの相続地にも入ってきて、ギデオンが生きていた時代にイスラエルを苦しめていました。この彼らとモアブ王バラクの利害が一致して、共にバラムのところにやって来ています。

22:8 するとバラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。主が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう。」そこでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。22:9 神はバラムのところに来て言われた。「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」22:10 バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。22:11 『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」22:12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」22:13 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」22:14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」

 バラムは人々に対しては、新改訳聖書の太字の「」つまり、「ヤハウェ」の名を使っています。イスラエルの神の霊と交流することを示しています。けれども、9節に「神は・・・」とありますね、ヤハウェご自身は単なる神として、バラクに語りかけておられます。これは、バラクはヤハウェの名を使えても、ヤハウェとの人格的関係を持っていかったことの現れです。イエス様も、終わりの日にご自分の名で預言をする者が出てくるが、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と答えておられます(マタイ7:23)。

 そして神が、「彼らといっしょに行ってはならない」と強く戒められたので、彼らと一緒に行くことはしませんでした。

22:15 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。22:16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。22:17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」22:18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。22:19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」22:20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」

 ここで、主は「彼らとともに行け」と命じられていますが、決してこれが神の御心ではなかったことは次を読めば明らかです。神は、出て行ったバラムに対して、抜き身の剣をもって立ち向かわれます。「では、なぜ、彼らとともに行け、と言われたのですか?」という疑問を持たれた方がいるかもしれません。その質問に対する回答が、実はここバラムの事件についての大きなメッセージとなっています。

 バラムのところに、さらに多くの、そして位の高いつかさたちが来ています。さらに手厚いもてなしをすることを約束しています。そしてバラムは、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」とまで言っています。預言者として、至極すぐれた返答です。ところが、その前の訪問でもそうでしたが、その使者たちを家に泊めているのです。つまり、彼は口では実にすばらしいことを言っているのですが、心の中ではこのことに対する報酬を貪っていたのです。ペテロは第二の手紙で、「不義の報酬を愛したベオルの子バラム(2:15」と言っています。

 そこで主が、「彼らとともに行け」と命じられています。これは、神が積極的にそうするように命じている言葉ではなく、突き放している言葉です。主が彼に対して、「彼らといっしょに行ってはならない」と命じているのに、バラムは「主よ、あなたはどうお告げになっているのですか。」と尋ねているのです。彼は主に尋ねているようで、実は心では金銭を貪っており、心の中で既に彼らといっしょに行くことを決めているのです。

 自分の意志を強く固めている人に対して、誰もそれを止めることはできません。神でさえ止めることはできません。それは神が無力なのではなく、人をご自分のかたちに似せて自由意志を持たせて造られたからです。その意志をもって、「主よ、私は行くべきでしょうか?」と尋ねるとはずいぶん不誠実だなと思われるかもしれませんが、私たち人間はこれをしばしば行いますね。自分をだましているというか、欺いているのです。クリスチャンのふりをして、実は自分のしたいことをやり通すのです。神の御心を行ないたいと言いながら、自分の思うままに生きていきたいと願うのです。

2B 話すろば 21−41
1C 抜き身の剣 21−30
22:21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。22:22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。

 これが、主の真の心です。報酬を愛してイスラエルを呪おうとしているバラムに対する、神の御怒りです。「主の使い」とありますが、これはもちろん、ベツレヘムで赤ん坊として生まれる前のイエス・キリストの御姿です。

22:23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。22:24 しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。22:25 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。22:26 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。22:27 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。

 従順なろばに対して、バラムは激しく鞭打ちしています。これが、神からの警告のしるしであることも知らずに、彼はそれに対して強く反発しています。私たちも自分が貪っている時に、それを止められるとものすごく怒り、それを阻もうとする物や人に対して攻撃的になります。

22:28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」22:29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」22:30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」

 ここの箇所を、子供たちに教えるのが好きです。子供たちは笑います。そして大人は疑います。けれどもどちらの反応も間違っています。これは事実、その通り起こったことです。ペテロは第二の手紙で、「しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。(2:16」と解説しています。もちろん、ろばは当然、普通の状態であれば人の言葉を話せません。けれども、神は全能のお方であります。このようなことももちろんおできになります。

 そしてこれは、面白いことではなく、深刻で、重々しい場面です。神が、ろばが人間の言葉を話すようにされたことによって、バラムの気違い沙汰を阻まれたのです。このような特殊で、異様な光景を通して、バラムが自分のしていることを悟らせようとしているのです。バラムも占いに深く入り込んでいる人ですから、動物が語り出すということは以前も目にしてきた可能性があります。

2C 主と反対の道 31−41
22:31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。22:32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。22:33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

 主はバラムがロバに対して語った言葉、「もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」と使って、反対に主がバラムを殺すつもりだったことを明かしておられます。主は三度、ろばを通して警告を発せられていましたが、それでも止めることはなかったので、ろばの口を通して語られたのです。そして、ろばに対しても憐れみを示しておられ、ろばは生かして置いただろうと言われています。

22:34 バラムは主の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」22:35 主の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。

 ここの神の許可も、先と同じです。ここの神の言葉を言い換えるなら、「勝手に彼らといっしょに行ってしまいなさい。けれども、わたしはあなたの口を捉えて、わたしが語るようにする。」ということです。神が強く介入されて、バラムが呪うことを意図していたのに祝福に変えられたことが、他の箇所に書いてあります。例えば申命記235節に、「しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。」とあります。神は、不義の報酬を愛する人バラムをさえ用いて、ご自分の言葉を語らせるということです。けれども、それは神がバラムの行うことを受容されたということではありません。彼をなすがままにさせるのですが、それでも彼によってご自分の栄光を現そうとされているのです。

22:36 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。

 前回学びましたが、死海の東側に流入するアルノン川までがモアブの領土でした。その国境のところまでバラムが近づいていることを聞いて、バラクがそこまで迎えに行きました。

22:37 そしてバラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」22:38 バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」22:39 こうしてバラムはバラクといっしょに出て行って、キルヤテ・フツォテに来た。22:40 バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それをバラムおよび彼とともにいたつかさたちにも配った。22:41 朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見ることができた。

 「バモテ・バアル」は、おそらくアルノン川をさらに北上した山のところで、死海の北に広がるヨルダン渓谷を遠くに眺めることができるところだったと思われます。そして「バアル」という名称が付いているのは、そこが明らかにカナン人の宗教儀式に深くつながりのある所であることが分かります。バアルはカナン人の主神だからです。そして事実、ここでバラクはバラムの呪いのために、牛と羊をいけにえとして捧げています。

2A 祝福に変えられる呪い 23−24
1B 主が祝福される民 23
1C 選び別たれた民 1−12
23:1 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」23:2 バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。23:3 バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現われて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。23:4 神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を造り、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました。」23:5 主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない。」23:6 それで、彼はバラクのところに帰った。すると、モアブのすべてのつかさたちといっしょに、彼は自分の全焼のいけにえのそばに立っていた。

 バラムはバラクに、呪いのための儀式を行なわせました。そして、いつものように呪いをしました。その時に神が現われましたが、5節を見てください「主はバラムの口にことばを置き」とあります。バラム個人に対しては、単なる「神」としてのみ現れましたが、バラムの口にヤハウェなる方が直接、その言葉を置かれたのです。ですから、先ほど引用した申命記にある言葉、「あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。」と言うことなのです。バラムは呪いますということを話したのですが、彼がバラクのところに戻る時にその言葉を変えられました。

23:7 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。『来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』23:8 神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。23:9 岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。23:10 だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」

 すばらしい祝福の言葉です。イスラエルが滅びるどころか、イスラエルは他の諸国の民から選び別たれた、特別な民であると宣言しています。そして、その大人数であることをほめたたえています。神がアブラハムに対して、星の数のようになると言われた約束を彼らの宿営の中に見ているのです。

 そして午前礼拝で話しましたが、彼の願いがここに書いてあります。「正しい人が死ぬように死にたい」つまり、彼の良心にはイスラエルを呪ってはいけないということが分かっていました。イスラエルを祝福することが正しいことだと分かっていました。

23:11 バラクはバラムに言った。「あなたは私になんということをしたのですか。私の敵をのろってもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。」23:12 バラムは答えて言った。「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。」

 バラムは何度となく、「主が語られることを、忠実に語らなければいけない」と言っています。この発言自体はすばらしい言葉です。自分で善悪を判断するのではなく、ただ神の主権に服して、神が言われていることのみを語ることが、預言者に命じられています。これは福音の真理を語る私たちも同じであり、自分が好む好まずに関わらず、また聞き手が好む、好まずに関わらず、そのままを語らなければいけません。

2C 主の約束 13−30
23:13 バラクは彼に言った。「では、私といっしょにほかの所へ行ってください。そこから彼らを見ることができるが、ただその一部だけが見え、全体を見ることはできない所です。そこから私のために彼らをのろってください。」23:14 バラクはバラムを、セデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行き、そこで七つの祭壇を築き、それぞれの祭壇の上で雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。

 バラクは「場所がいけなかったのだ」と思ったのでしょうか、場所を変えて呪うようにさせました。そして「ピスガの頂」とありますが、ここが後にモーセが死ぬところであり、そこからはヨルダンの低地を十分に眺めることができます。イスラエルの宿営が全体ではないけれども、かなり見えたことでしょう。

23:15 バラムはバラクに言った。「あなたはここであなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私はあちらで主にお会いします。」23:16 主はバラムに会われ、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう告げなければならない。」23:17 それで、彼はバラクのところに行った。すると、モアブのつかさたちといっしょに、彼は全焼のいけにえのそばに立っていた。バラクは言った。「主は何とお告げになりましたか。」

 一度目と同じです。呪いをするために独り出ていき、そして主が自分の口に言葉を置かれて、その言葉をバラクと他のつかさたちに語ります。

23:18 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。23:19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。23:20 見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。23:21 ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、主は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。23:22 彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。23:23 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。23:24 見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」

 二度目の「ことわざ」あるいは託宣です。とても大切な神の属性をバラムは話しています。19節ですが、一つは「神は偽りを語れず、悔いることもできない」ということです。「前にはこう言ったけれども、状況が変わったから、じゃあ思いを変えよう。」ということをなさらない、ということです。ヤコブ117節には「父には移り変わりや、移り行く影はありません。」とあります。ヘブル138節には「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。そしてもう一つは、「約束されたことを成し遂げる力を持っている」ということです「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ55:11

 そして20節には、「イスラエルを祝福する」と断言しています。この言葉に、世界が、いやキリスト教会の一部までがねたんでいます。イスラエルに対する神の祝福の思いは、キリスト教会に移ったのだと言い張ります。けれども、救いの教理、キリスト教の教理の根幹を教えているローマ人への手紙の中で、使徒パウロはこう断言しているのです。「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(11:28-29

 そして21節をごらんください。「ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。」とあります。これが、不平を鳴らしてきたイスラエルに対する神の言葉なのです。なぜ、神はそのようにイスラエルを見ておられるのか?それは、彼らの行ないではなく、彼らの神に対する信仰のゆえです。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:5」この真理をしっかりと受け入れてください。義とみなされるのは、行ないではなく、神がキリストにあって示してくださった義、つまり十字架にある義を信じることであります。

 そして、「王をたたえる声が彼らの中にある」とありますが、それは神を王とする国がある、ということです。22節と24節を見ますと、それゆえに彼らは野牛の角のように強く、そして獅子のように力強いと言っています。ヤコブがかつてユダに対して預言をして、彼が獅子のようになり、王権が彼から離れないことを宣言しました。

 さらに、23節に「まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。」と宣言しています。これもとても大事な言葉ですね。ミリヤムがモーセのことを非難した時に、主はミリヤムに、「預言者には幻や夢で語るが、モーセに対しては、口と口で語り、明らかに語り、謎で話すことはしない。(民数12:6-8参照)」と語られました。多くの人が、女性であれば占い、男性であればマスコミの情勢分析を頼りにして、「もしかしたらそうなる」と思われることに拠り頼みますが、キリスト者はそんなことをする必要はまったくないのです!モーセによって神が語られたこと、その後の預言者によって、そして終わりの時にはイエス・キリストご自身が語られた、という、隠されたものが何一つない言葉が与えられているのです。

23:25 バラクはバラムに言った。「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください。」23:26 バラムはバラクに答えて言った。「私は主が告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」23:27 バラクはバラムに言った。「さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」23:28 バラクはバラムを荒地を見おろすペオルの頂上に連れて行った。23:29 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」23:30 バラクはバラムが言ったとおりにして、祭壇ごとに雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。

 三度目の呪いをバラクはバラムに要求します。今度は「ペオルの頂」です。ピスガの頂よりさらに北にあり、イスラエルの宿営の全景を眺めることができます。

2B メシヤ王国 24
1C 獅子の国 1−9
24:1 バラムはイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見、これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。24:2 バラムが目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。

 日本語で「三度目の正直」という言葉がありますが、バラムは三度目に呪いが必要ないことに気づいたようです。先に三回、立ち止まるろばを打ちたたきましたが、三回目になる前に彼は気づきました。それで呪いをせずに、そのまま主の前に出ています。

 ここに「部族ごと」とありますね。覚えていますか、民数記の始めに主が東西南北、三部族が一つの方角になり、神の幕屋の周りに宿営することを命じられました。それを上から見たら、部族の人数を鑑みると十字架に近い形になっているであろうことを話しました。それを見ていた彼に、神の霊が臨まれました。

24:3 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。24:4 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。24:5 なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。24:6 それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。24:7 その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。その王はアガグよりも高くなり、その王国はあがめられる。24:8 彼をエジプトから連れ出した神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼はおのれの敵の国々を食い尽くし、彼らの骨を砕き、彼らの矢を粉々にする。24:9 雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」

 5-7節は、荒野における預言として、とてつもなく力強い言葉です。水辺にある生い茂った植物のように、命溢れるものとなるということです。主の教えを喜びとしそれを口ずさむ人は、「水路のそばに植わった木のようだ」と詩篇13節にあります。そして御霊についての約束は、イエス様が「あなたがたの心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる」と言われました。

 そしてイスラエルについて言えば、それは強い王国の預言です。「アガグより高くなる」とありますが、サムエル記第一に、サウルが戦うアマレク人の王が「アガグ」と呼ばれていました。もしかしたら、アガグは王の称号であり当時のアマレク人の王のことを指していたかもしれません。そして8節以降は、先ほどと同じようにイスラエルの国が野牛の角のようになり、獅子が動物界で第一の王であるように、イスラエルも諸国の中でその地位を得ることを約束しています。これはダビデの時代にある程度実現しますが、究極的にはダビデの世継ぎの子であるメシヤにおいて実現します。そして最後に、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」というアブラハムへの神の言葉を述べています。ですからバラクが望んでいることは、自らの呪いを招くことでした。

2C メシヤの到来 10−25
24:10 そこでバラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵をのろうためにあなたを招いたのに、かえってあなたは三度までも彼らを祝福した。24:11 今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」

 手を打ち鳴らしていますが、これは極めて強い怒りを表現しているしぐさです。私がイスラエル旅行でカルメル山に行った時に、そこはエリヤがバアルの預言者に対決したことを記念する修道院でした。団長のデービッド・ホーキングが、その建物の屋上で御言葉を語り、この修道院の起源がなんとバアル宗教の延長であることを明かしました。それを大声で語るものですから、屋上にここの修道院の管理者が手を打ち鳴らしていたと思います、話すのを制していました。

24:12 バラムはバラクに言った。「私はあなたがよこされた使者たちにこう言ったではありませんか。24:13 『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』24:14 今、私は私の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が後の日にあなたの民に行なおうとしていることをあなたのために申し上げましょう。」

 次に四度目の神からの選択を語ります。そしてそれは「後の日」のこと、すなわち私たちの時代を越えて神の国が建てられる幻まで見すえた驚くべき預言を行ないます。

24:15 そして彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。24:16 神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。24:17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

 「ヤコブから一つの星」というのは、まさしくイエス・キリストの預言です。覚えていますか、東方の博士たちがユダヤ人の王が出現するという徴を、星の動きによって突き止めました。バラムはこの後、故郷に戻りますが、その時にユダヤ人の王メシヤの徴が星であることを伝えたことでしょう。そして東方には、すぐれた預言が後世に与えられます。ダニエルがバビロンにいた時に、彼はメシヤが諸国を打ち砕いて、神の国を打ち立てることを預言しました。東方の博士はこれらの知識を基に、エルサレムで当時「ユダヤ人の王」と自称していたヘロデ王を謁見したのです。そして「一本の杖」というのは、牧者の杖を表し、後々には指導者のことを言い表します。キリストはまことの牧者であられました。

 そしてこの方がモアブを打ち砕きます。モアブが打ち砕かれる預言は、後世のイザヤ、エレミヤ、そしてエゼキエルが預言します。イザヤ15-16章、エレミヤ48章、そしてエゼキエル25章です。モアブはアッシリヤ、バビロン、そしてギリシヤなどの進出によって、時代の中で亡き民となってしまいました。

24:18 その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。24:19 ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から消し去る。」

 エドムに対しても、主は後の時代にそこをご自分がイスラエルによって支配されることを、例えばマラキ13-5節に書いてあります。ヘロデ王もエドムの末裔です。当時はイドマヤ人と呼ばれていました。けれども、この預言にあるようにその後いなくなりました。

24:20 彼はアマレクを見渡して彼のことわざを唱えて言った。「アマレクは国々の中で首位のもの。しかしその終わりは滅びに至る。」

 イスラエルが荒野の旅にいる時に襲ってきた民です。彼らもいなくなります。ペルシヤの時代、エステル記においてハマンがアマレクの末裔でしたが、彼はユダヤ人撲滅を企みました。けれども結果は彼とその家族が取り除かれ、ユダヤ人を襲おうとした者がかえって殺されました。

24:21 彼はケニ人を見渡して彼のことわざを唱えて言った。「あなたの住みかは堅固であり、あなたの巣は岩間の中に置かれている。24:22 しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアシュルがあなたをとりこにする。」

 ケニ人はミデヤン人のところに住んでいた遊牧民です。イテロがケニ人でした。そして、モーセたちと共に移動してきて、イスラエルの中に住むようになります。けれども、彼らはずっと後にアッシリヤによって捕え移されます。驚くことに、紀元前八世紀に起こることを紀元前十五世紀に預言したのです。ちなみに22節の「カイン」は、創世記510節にある、セツの孫「ケナン」から来た名前であり、アダムとエバの息子のカインとは違います。さらに、驚くべき遠い将来の預言をバラムは行います。

24:23 彼はまた彼のことわざを唱えて言った。「ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう。24:24 船がキティムの岸から来て、アシュルを悩まし、エベルを悩ます。しかし、これもまた滅びに至る。」

 「キティム」とはキプロス島のことです。これは西からの勢力全般のことを指しており、アシュルつまりアッシリヤとそれに続く東方の国々が西の勢力に打ち負かされることを指しています。ペルシヤがギリシヤによって倒れ、そしてローマが世界を支配します。「エベル」とはヘブル人のこと、つまりユダヤ人ですが、ユダヤ人はギリシヤによってもローマによっても悩まされました。しかし、最後にはローマもメシヤによって滅ぼされます。ダニエル書が預言している通りです。

24:25 それからバラムは立って自分のところへ帰って行った。バラクもまた帰途についた。

 バラムはこの後、故郷に戻ったことでしょう。彼は優れた言葉を残しました。「たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」これが、主の預言者、そして主の言葉を預かっているすべての者が持っていなければいけない姿勢です。けれども、彼がそれをしなかったことが次の事件で明らかになります。

3A ペオル事件 25
1B 不品行と偶像礼拝 1−9
25:1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。25:2 娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。25:3 こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。

 「シティム」は、ヨルダン川の東にある所ですが、向こう側にはエリコがあります。そこに宿営していたのですが、モアブ人の女たちがやってきました。そしてみだらなことを行ないました。さらに彼女らが持って来た偶像を拝み始めました。ペオルにある「バアル」ということですが、モアブ人が拝んでいた主神と言えばケモシュです。ケモシュの神々を連れて来た可能性があります。ケモシュは快楽の神です。神々を拝む儀式において、情欲を燃やしていました。私たちにはそうした偶像は存在していませんが、その代わりになっているのがポルノです。これをもって、今、何とかして私たち神の民を滅ぼそうと悪魔は躍起になっています。

25:4 主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕えて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」25:5 そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」

 悪を行なっている者のみを連れ出してきなさい、そして彼らを殺すことによって主の怒りが去ると主はモーセに教えられました。

25:6 モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。25:7 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、25:8 そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋にはいり、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。25:9 この神罰で死んだ者は、二万四千人であった。

 イスラエルの民は、この不品行と偶像礼拝を主導していた者たちを会見の天幕の前まで連れてきて、殺していきました。そして罪の悲しみの中で泣いています。ところが大胆不敵に、他の者たちが見ている前で淫らな行為を行なおうとして、イスラエル人の男とミデヤン人の女が天幕に入っていきました。モアブ人の女だけでなく、バラクと共に策動していたミデヤン人もこの仕業に加担していました。

 この時に誰もが、仲に入りませんでした。おそらく、全体の雰囲気はイスラエル人がそれらの不品行と偶像礼拝を行なっている勢いが残っていたのでしょう。その雰囲気の中で悪を取り除くことは極めて勇気を有します。しかし、大祭司エルアザルの息子ピネハスが、それを行ないました。その天幕の中に入って、おそらくはその淫らな行為を行なっている最中、腹を刺し通して殺しました。そのことによって神罰は終わりましたが、二万四千人も死んでしまっています。

2B 主のねたみ 10−18
25:10 主はモーセに告げて仰せられた。25:11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。25:12 それゆえ、言え。『見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。25:13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表わし、イスラエル人の贖いをしたからである。』」

 主はこのことをもってピネハスの子孫を祭司職として任じられました。エルアザルの他の息子ではなくピネハスの子孫が大祭司を受け継ぎます。

 主がなぜこれほどピネハスの行為を尊ばれたのでしょうか?主は、「平和の契約」と呼ばれます。主の義に立つ人が真ん中に出てこない限り、まことの平和は成り立たないことを教えています。私たちはいつも、挑戦を受けています。他の多くの人が間違った方向に進んでいる時に、そして間違っていると分かっていながら神の側に立つことを恐れている時、そこに立ち入って主の義を実現する人が出てくることが必要です。その人の義の行ないによって、他の人がそれに付いて行くことが可能になるからです。神の心と一つになる人が必要なのです。

25:14 その殺されたイスラエル人、ミデヤン人の女といっしょに殺された者の名は、シメオン人の父の家の長サルの子ジムリであった。25:15 また殺されたミデヤン人の女の名はツルの娘コズビであった。ツルはミデヤンの父の家の氏族のかしらであった。

 どちらも影響力のある人物の息子、娘でした。ですから前に進み出て殺すことがなかなかできなかったのです。

25:16 主はモーセに告げて仰せられた。25:17 「ミデヤン人を襲い、彼らを打て。25:18 彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなたがたを襲ってペオルの事件を引き起こし、ペオルの事件の神罰の日に殺された彼らの同族の女、ミデヤンの族長の娘コズビの事件を引き起こしたからだ。」

 モアブ人とミデヤン人が、このように巧妙にたくらんでペオルの事件を引き起こしました。これの本当の黒幕は誰か?バアルです。モーセがミデヤン人たちを攻める時に、こうイスラエル人たちに言っています。「ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。(民数31:16」口語訳は「バラムの事件」を「バラムのはかりごと」と訳しています。こちらが正しいです。

 バラムはバラクに助言をしたのです。イエス様が、ペルガモにある教会に対してこう言われました。「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。(黙示2:14」彼は、自分の故郷に戻りましたが、またモアブに来ました。その不義の報酬を得るためです。そして、こう助言したのです。「私は、イスラエルを呪おうとしても神がそれを祝福に変えられる。しかし、イスラエル人自身がつまずけば、私たちが呪わなくても、イスラエルの神自身が彼らを裁かれるだろう。」

 これまでの彼の発言を思い出してください。彼は、「神が言われることだけしか言いません。金銀は拒みます。」という姿勢を崩しませんでした。けれども、ろばに乗っていたバラムのように彼には腹心がありました。不義の報酬を愛しました。その迷いによって彼は、正しいことを語りながら偽教師となってしまったのです。

 偽教師という言葉は、明らかに異端の教理を語っている者であると私は考えていました。けれどもパウロは牧者テモテに対して、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。(1テモテ4:16」と教えています。そしてバラムの例を挙げたペテロは、偽教師についてこう語っています。「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(2ペテロ2:1-3

 つまり、語っていることは一見まっとうに見えて、外見は敬虔に見えても、自分の好色や貪欲によってそれを台無しにし、そして他の信者までも巻き込むことを行なっている者たちが偽教師だと言うのです。民数記22章から24章まで読めばバラムは、悔い改めた預言者、イスラエルの神の啓示を受けた異邦人というように見えますが、自分の貪欲を先行させた結果、人々を滅びに招き入れた張本人となっていったのです。

 彼はその不義の報酬を楽しむ時間はありませんでした。「彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。(民数31:8」彼はミデヤン人の中にいました。それでイスラエル人がミデヤン人を殺す時に、彼もいっしょに殺されました。その富はあまりにもはかなく、空しいものでした。そのために私たちは、神の与えられた真理と異なることを行なう必要はないのです。

 ですから私たちは、主の御言葉を学びながら、その御言葉に応答するための心の備えが必要です。つまり、心の中にある偶像を捨て去り、御言葉にしたがって生きていかなければ、正しいことを語りながら、実は自分の身に滅びを招いていることとなってしまいます。私たちは毎週がリバイバル集会です。自分を見つめ、自分の行ないを悔い改め、そして神に立ち返り、そして神に守っていただくことを願っていく集会となっていかなければなりません。

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