民数記23章10節 「正しい者の死」
アウトライン
1A 正しい者の最期
1B 永遠の命
1C 恐れなき死
2C 確かな死後
3C 喪失なき死
2B 生きている者の願い
3B 死後の報い
1C 正しい者
2C 悪者
2A 正しい者の生
1B バラムの迷い
1C 富
2C つまずき
2B バラムの最期
3B 正しく生きる決断
1C 弟子としての生活
2C 信仰の戦い
本文
民数記23章10節をお開きください。午後礼拝では22章から25章までを学んでみたいと思いますが、極めて興味深い人物、バラムについて見ていくことになります。今は23章10節を読んで、そこから主が語られることを聞いていきたいと思います。
だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。
これはバラムの言葉です。彼が、イスラエルが宿営している姿を見ながら語っている言葉です。彼は呪い師ですが、モアブ人の王バラクに雇われて、イスラエルを呪おうとしていました。ところが、実際イスラエルを呪うべく口を開くと、主がそれを阻み、むしろ祝福する言葉を述べました。そして、イスラエルを祝福することが正しい事であることを自分の心で知っていたので、「正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」と述べたのです。
バラムの願いは私たちの願いと同じですね。私が福音宣教の働きに専念したいと願ったのは大学生の時でしたが、その動機は「死ぬ時に、『これをやっておいて悔いはない』と言うにはどうすれば良いか。」と考えた時に、福音の言葉を余すところなく語ってきた、と言えれば良いのでは、と考えました。自分の死が、正しい者の死と同じようでありたいという願いです。いろいろな言葉があると思いますが、最期は正しい者としての終わりを遂げたいというのが全ての人が願いだろうと思います。
1A 正しい者の最期
1B 永遠の命
聖書では、正しい人がどのように死んでいくのかを、明確に描いてくれています。
1C 恐れなき死
詩篇23篇にはこう書いてあります。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(4節)」正しい人には死への恐れがありません。詩篇16篇には、すばらしい神の約束があります。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(8-11節)」主が生きてる時だけでなく、死んだ後も共におられます。喜びと楽しみがあり、それは死後にも続きます。
とても有名なフランスの哲学者で無神論者のヴォルテールという人がいます。彼は強力な反キリスト教論者でした。イエス・キリストについて彼はこう言ったことがあります。「この、ひとでなしめが。20年でキリスト教はなくなる。十二使徒が築いた殿堂を、俺の片腕でぶっこわしてやる。」もちろん彼は、成功しませんでした。彼の死の床にいた看護婦は、「ヨーロッパの全財産を手に入れたとしても、私は無神論者の死を見るのを拒否します。」と言ったとされます。そして、ヴォルテールは医者に対しては絶望の極みからこう叫びました。「私は神と人に見捨てられている。あなたが私に六ヶ月の命をくれるなら、私の大事にしている物の半分を与えよう。」医者が、「あなたには六ヶ月の命もないですよ。」と答えると、「なら、私は地獄に行くが、お前も私と行くのだ。キリストよ、おお、イエス・キリストよ!」
一方、神を信じていた人はどうでしょうか?ステパノは、ユダヤ人から石打ちを受けながらこう言って死にました。「主イエスよ。私の霊をお受けください。・・・主よ。この罪を彼らに負わせないでください。(使徒7:59-60)」十九世紀に活躍したアメリカの伝道者ムーディーは、「地上が遠のき、天が開いてきている。神が私を呼んでおられる。」と言いました。神とキリストを信じる者とそうでない者とでは、これだけの違いがあるのです。恐れやおののき、不安ではなく、平安と喜び、愛と希望に満ち溢れています。
なぜ、それほど恐れがないのでしょうか?自分の行いではなく、百%キリストが行ってくださったことに拠り頼んでいるからです。「これは、(主の)死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15)」キリストが罪を負われ、死の棘を取り除いてくださいました。
2C 確かな死後
したがって、正しい者はこの肉体の終わりについてはっきりとした確信があります。使徒パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。(ピリピ1:23)」と言いました。死んだらどうなるのか分からないという、もやもやしたものは一切ありません。
もし日本人の方々に、「死んだからどうなるとお考えですか?」と尋ねたら、こういう答えが大半ではないでしょうか?「考えないことにしている。」考え出したら埒が明かないから、考えないことにしている、と答えると思います。けれども、死ぬことは確かにやってきます。けれども、死後にどうなるかという答えが分からないから、考えないことにしているのです。
私は、義理の父に死んだ後のことについて尋ねたことがありました。父は「それは分からないじゃないか。」と答えたのですが、私は、「すでに死んだ人が生き返ったのであれば、どうですか?その人が死後の世界について言っている言葉は信用できませんか?」と尋ね、そして「イエス・キリストは死んだけれどもよみがえった。」と言いました。イエス様はマルタに、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と言われました。そして、イエス様ご自身が、「わたしには、(いのち)を捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。(ヨハネ10:18)」と言われました。イエス様がよみがえられたので、キリストにつながっている者もよみがえる希望があるのです。
3C 喪失なき死
そして正しい者には“悔い”がありません。失うものが何一つありません。イエス様は言われました。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26)」人は裸で生まれて、裸で世を去ります。その間に蓄えた物は死後に持っていくことはできません。持っていくことのできるものは、信仰に裏づけされた希望なのです。そのために、今の自分を追い求める生活をやめても構わないと思っています。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8:35)」
「いや、自分はもって行くことはできないけれども、残された者たちが幸せに暮らすことができる遺産となるではないか。」と反論するかもしれません。いいえ、莫大な富を持っていたソロモンは晩年にこう述懐しています。「私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。(伝道2:18-19)」「物」には究極の報いがないのです。
2B 生きている者の願い
けれども、死ぬときの備えというのはできていなくても、死ぬときには栄誉をもって死にたいとほとんどの人が願います。バラムがそうであったように、自分が死ぬときには悔いが残ってはいけないから、だからここでイスラエルを呪うことはしてはいけない、と言うことです。そしてバラムは、少なくともイスラエルの神、ヤハウェの名を口にしています。この神に対して、自分は罪を犯したまま死んではならないという良心を持っていたのです。
そして私たちは死んだ人たちのことを良く話す傾向があります。「死人に鞭打つな」ということわざがあるように、死んだ人が地獄にいるというような言い方はしません。むしろ、その人は天国に行った、と話します。あるいは、その人が今も魂はここにあって私たちを見守っている、と話します。そこには、バラムと同じように正しい死に方をしたいという願いが込められています。
3B 死後の報い
1C 正しい者
聖書は、正しい者には数々の報酬があることを約束しています。一つは主イエスご自身に顔と顔を合わせて合うことができることです。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13:12)」
そして主は、私たちと会ってくださる時に報いを携えておられます。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。(黙示22:12)」「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:23)」
さらに栄光の体が与えられます。この肉体は衰え、滅びるけれども、イエス様が戻って来られる時に天からの体を与えてくださいます。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:20-21)」
そして死後は、天において、神がキリストにおいて示してくださった恵みを永遠にほめたたえることになります。「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。(エペソ2:7)」私は初めてイエス様を信じた時に、その恵みは知っているから、飽きることはないのか?と思っていました。けれども、それでも恵みの豊かさというものがあると信じてここまで来ましたが、確かにかつての恵み以上の、その豊かさがすぐれて大きいことを知りました。これが実は、天において永遠に続きます。恵みに飽き足りることは決してありません。永遠にほめたたえるほど、その恵みはすぐれて豊かなのです。
2C 悪者
そして、悪者の終わり方を申し上げなければいけないでしょう。イエス様は、つまずきを与える者についてこう言われました。「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。(そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。)もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。)もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。(マルコ9:42-48)」ゲヘナ、つまり地獄で永遠に苦しむことになります。
このように正しい者と悪者との間には大きな開きがあり、信じていない人はここまではっきりした死生観を持っていなくても栄誉ある死に方をしたい、と願います。そして信者はもちろん、正しい者として信仰を全うしたいと願っています。
2A 正しい者の生
私が今でもはっきり思い出す、ある韓国人牧師とアメリカ人宣教師の会話があります。その韓国人牧師は、「私はキリストのために死ぬ心の備えをしたい。」と言いました。それは冗談ではなく、殉教ができるのであれば最も光栄なことであるという意味です。それでアメリカ人宣教師がこう言いました。「キリストのために死ぬことは大切なことかもしれないが、キリストのために生きることは、実はもっと大変なことだと思います。」そのとおりです、私たちは死ぬ時には栄誉ある死に方をしたいと願いますが、正しい者の死に方を願う前に、正しい者として生き方を今しているかどうかが、もっと大事です。そして今どう生きているかによって、将来が決まるのです。
1B バラムの迷い
バラムの生涯を、午後礼拝でじっくり辿っていきます。大まかなことを話しますと、彼は、表向きは、イスラエルの神、ヤハウェを敬い、正しいことを預言し、自分を雇ったモアブ人の王バラクに反してイスラエルを祝福しました。
ところが、彼の裏の面を聖書は描き出しています。ろばに乗って、バラクのところに向かっていた時に、主の使いが抜き身の剣を持って道を阻んでいました。ろばには見えていましたが、バラムには見えず、バラムはろばが動かないのを怒って、激しく鞭打ちます。そしてろばがバラムに語り始めるのです。そして主の使いの姿をバラムが見えるようになりました。彼は主の警告にも関わらず、お金ほしさにモアブに向かっていたのです。
そして預言を行なった時は、イスラエルを呪うことをせず、かえって祝福しました。そしてバラクは怒って報酬を与えないと言い、バラムも「金銀の満ちた家をくれても、主のことばに背いては告げることはできない。」と言って、「自分の故郷に戻る」とまで言い放ちました。ところが、その後にモアブ人の女たちがイスラエルの宿営にやってきました。イスラエルの男をつかまえて、ふしだらなことをやり始めました。そして自分たちの持ってきた神々を拝ませました。そのため神がイスラエルに神罰を下さざるを得なくなりました。
このことを行なえばよいと助言したのが、モアブ本人だったのです。彼は自分の家に帰ったけれども戻ってきました。モーセはこう言っています。「ああ、この女たちはバラムの事件(助言)のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。(31:16)」イエス様ご自身も、ペルガモにある教会に対して語られた時にバラムのことを話しておられます。「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。(黙示2:14)」
確かにバラムは、「正しい人が死ぬように死にたい」と言いました。彼はそう願いました。けれども、彼には迷いがあったのです。その迷いによって、ついに彼は道を踏み外し、イスラエルに対して最もやってはいけないことをしでかしたのです。ユダは手紙の中で偽教師らのことを話していたときに、「彼らは、・・・利益のためにバラムの迷いに陥り(11節)」と言いました。
1C 富
彼は、富に迷いました。ヤハウェなる主から言われることを、私は伺いますと言いながら、バラクの使者からの金銀に目が眩みました。「彼らといっしょに行ってはならない。」と神は言われたのに、バラムは行きたくて仕方がなかったのです。結局、自分の心の中では行くことに決めていました。それで主は、「行きなさい」と言われました。けれども、それは命令ではなく、むしろ「あなたが決めたとおりにしなさい。」という意味でした。それで神は、抜き身の剣を持つ使いを遣わし、そしてろばの口を開かせて、その愚かさを明らかにされたのです。このことについて、使徒ペテロはこう言っています。偽教師について話しているときにこう言っています。「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。(2ペテロ2:15-16)」
2C つまずき
そして彼は、イスラエルをつまずかせるという邪悪な助言を行ないました。イスラエルを呪おうとしても、決して呪うことはできません。神がイスラエルを祝福すると決めておられるからです。けれども、イスラエル人たち本人が神罰を招くようなことを行なったらどうなるのか?バラムはよく知っていたのです。それで、つまずきとなるもの、具体的には女を宿営に送り込ませたのです。
私たちキリスト教会は、何によって弱くなることができるでしょうか?外部の反対がある時でしょうか?未信者の人から悪く言われる時でしょうか?いいえ、教会が弱体化するのは、教会の中で神の悲しまれることを行うことです。ですから悪魔は虎視眈々と、私たち自身が罪を犯し、私たち自身が神の悲しまれることを行うように、私たちを誘惑するのです。
この「つまずき」について、イエス様はかなり強い警告を発しておられます。先ほど読んだ箇所ですが、「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」と言うことです。「大きい石臼」とは、ろばが引く石臼であり、これが首にゆわえつけられたら、ガリラヤ湖に投げ込まれても決して浮かび上がってくることはできません。そしてイエス様は、自分自身をつまずかせることについても警告しておられます。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」しかし、バラムは迷いに迷って、これらのことを行なってしまいました。
2B バラムの最期
彼の得た不義の報酬は、本当に報いがあったでしょうか?いいえ、「彼ら(イスラエル人)はベオルの子バラムを剣で殺した。(民数31:7)」とあります。彼はまだそこら辺にいたのです。そして、このことを共にたくらんだミデヤン人の王らと共にイスラエル人に殺されました。これが彼の最期であり、彼は正しい人としてではなく悪者として死んだのです。
3B 正しく生きる決断
これは私たちに大きな教訓を与えています。
1C 弟子としての生活
終わりは正しい人として死にたいと願うのであれば、今、正しい生活をしなければいけません。けれどもバラムのように迷いがあります。それに立ち向かうのは、自分自身がイエス様を自分の主としてあがめることです。単に「主」と言うことの話をしているのではありません、自分の大切なものの何にもましてこの方を第一とすることです。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:26-27)」自分の命というものが、私たちが最も愛する対象です。自分を生かし、自分を高める本能が私たちには備わっていますが、それを追及するならば滅びに至ります。自分ではなく、イエス様を愛していくには、「自分のいのちまでも憎む」という強い選択と決断が必要になります。
2C 信仰の戦い
そして信仰の戦いを戦わなければいけません。パウロは確かに、栄誉ある死に方をしました。彼はネロによって斬首の刑を受けたと言われていますが、死ぬ前にこう言っています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモテ4:7-8)」彼の前には走るべき道のりがありました。それを走り終えたのですが、そこには勇敢に戦う、信仰の戦いがありました。私たちは何があっても、どんな犠牲を払っても、「私の主イエス・キリストを信じる信仰を守り通します。」という強い決意が必要となります。
パウロは終わりの日は、困難な時代がやってくると予告しました。けれども、それは世が悪くなるというよりも、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。(2テモテ3:5)」と言いました。私たちに対する警告です。ですから、なおのこと私たちは身を慎み、自分を低くして、心を主に探っていただき、心にある迷いを主によって取り除いていただき、主にのみ仕える決断を果敢に取っていかなければいけません。
主はご自分が戻ってくる時に、人々は真っ二つに分かれることを教えておられます。「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(黙示22:11)」聖さを求める人は、主はますます聖くしてくださいます。義を求める者を主はますます正しくしてくださいます。