民数記26−31章 「約束の地に入る備え」

アウトライン

1A 人口再調査 26
   1B 各部族の人数 1−62
   2B まとめ 63−65
2A 主への願い 27
   1B 女の相続地 1−11
   2B 後継者 12−23
3A 主への食物の捧げ物 28−29
   1B 常供と春の祭り 28
      1C 常供 ・ 安息日 ・ 新月 1−15
      2C 春の祭り 16−31
   2B 秋の祭り 29
      1C 新年と贖罪日 1−11
      2C 仮庵祭 12−40
4A 女の誓願 30
5A ミデヤン人への復讐 31
   1B 主の復讐 1−24
   2B 略奪品 25−54

アウトライン

 民数記26章を開いてください。早速ですが一節から読みましょう。

1A 人口再調査 26
1B 各部族の人数 1−62
26:1 この神罰の後、主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げて仰せられた。

 イスラエルの民はもう、エリコをはさむヨルダン川の東岸地域にいました。そこで宿営している時に、私たちは前回見たように、呪い師バラムがモアブの王バラクに雇われてイスラエルを呪おうとしました。そして、それができないことを知るとバラムは、イスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ、彼らが彼女らと不品行を行い、偶像礼拝を行わせれば、神ご自身が彼らを殺すということを助言しました。その結果、神罰が下り二万四千人が死にました。その神罰の後の出来事です。聞いたのはモーセと、祭司エルアザルです。父アロンは既に死んでいます。

26:2 「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をせよ。」26:3 そこでモーセと祭司エルアザルは、エリコをのぞむヨルダンのほとりのモアブの草原で彼らに告げて言った。26:4a 「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」

 人口再調査です。民数記は、その題名の通りイスラエルの民を数える記録の書です。民数記の始めに、シナイ山のふもとにいたイスラエルで二十歳以上の男子、軍務につくことのできる者たちを数えよと命じられました。けれども既にその時から三十八年以上が経っており、新しい世代になっています。そこで主は新たに約束の地に入るため、その戦いに備える者たちを登録させました。 

TRIBE

BEFORE

AFTER

CHANGE

PERCENT

Reuben

46,500

43,730

-2,770

-6%

Simeon

59,300

22,200

-37,100

-63%

Gad

45,650

40,500

-5,150

-11%

Judah

74,600

76,500

+1,900

+3%

Issachar

54,400

64,300

+9,900

+18%

Zebulun

57,400

60,500

+3,100

+5%

Manasseh

32,200

52,700

+20,500

+64%

Ephraim

40,500

32,500

-8,000

-20%

Benjamin

35,400

45,600

+10,200

+29%

Dan

62,700

64,400

+1,700

+3%

Asher

41,500

53,400

+11,900

+29%

Naphtali

53,400

45,400

-8,000

-15%

Levi

Not counted

Not counted

 

 

Total

603,550

601,730

-1,820

-0.3%

26:5 イスラエルの長子ルベン。ルベン族は、エノクからはエノク族、パルからはパル族、26:6 ヘツロンからはヘツロン族、カルミからはカルミ族。26:7 これがルベン人諸氏族で、登録された者は、四万三千七百三十人であった。26:8 パルの子孫はエリアブ。26:9 エリアブの子はネムエルとダタンとアビラムであった。このダタンとアビラムは会衆に選ばれた者であったが、彼らはコラの仲間にはいり、モーセとアロンに逆らい、主に逆らったのである。26:10 そのとき、地は口をあけて、彼らをコラとともにのみこみ、その仲間は死んだ。すなわち火が二百五十人の男を食い尽くした。こうして彼らは警告のしるしとなった。26:11 しかしコラの子たちは死ななかった。

 コラの反乱に加担した者は、このルベン族のダタンとアビラムでしたね。そして、コラ自身も共に滅びましたが、コラの子らは死にませんでした。後世に礼拝賛美奉仕者となっていきます。

 ところで、新しい世代の各部族の数を、古い世代と比べると興味深いです。ルベン族は43730人となっていますが、以前は46500人でした。2770人の減少です。次にシメオン族が12節から書いています。22200人ですが以前は59300人でした。37100人の減少です。そしてガド族も減少しています。45650人だったのが今は40500人です。

 ユダ族(19節以降)は増えています。74600人から76500人です。イッサカル族がかなり増えています。54400人から64300人です。ゼブルンも増えています。そしてヨセフ族(28節)はマナセ族とエフライム族がいますが、マナセ族はかなり増えています。以前は32200人だったところ、52700人になっています。そして、エフライムは減少、ベニヤミンは上昇、ダン、アシェルも上昇しています。ナフタリは減少しました。そして合計ですが51節を見てください、601730人です。以前は603550人いました。ここからでも、荒野の生活がかなり過酷であったことを物語っています。イスラエルはたちまち増えることによる神の祝福なのに、かろうじてほぼ同じ人口は保ったものの全然増えてはいないのです。では52節から読みます。

26:52 主はモーセに告げて仰せられた。26:53 「この人々に、その地は、名の数にしたがって、相続地として割り当てられなければならない。26:54 大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならない。おのおの登録された者に応じて、その相続地は与えられなければならない。26:55 ただし、その地はくじで割り当て、彼らの父祖の部族の名にしたがって、受け継がなければならない。26:56 その相続地はくじによって、大部族と小部族の間で割り当てられなければならない。」

 これら数えた人口にしたがって、相続地の大きさも変わります。そして、その割りあてはくじによって行ないます。旧約の時代は、神はくじを通してご自分の御心を示されました。それが続くのは使徒行伝1章までです。ペテロが、イスカリオテのユダに代わる使徒を選ぶ時に、主の御心をくじによって求めました。

26:57 さてレビ人で氏族ごとに登録された者は、次のとおりである。ゲルションからはゲルション族、ケハテからはケハテ族、メラリからはメラリ族。26:58 レビ諸氏族は次のとおりである。すなわち、リブニ族、ヘブロン族、マフリ族、ムシ族、およびコラ族。ケハテはアムラムを生んだ。26:59 アムラムの妻の名はヨケベデで、レビの娘であった。彼女はエジプトでレビに生まれた者であって、アムラムにアロンとモーセとその姉妹ミリヤムを産んだ。26:60 アロンにはナダブとアビフとエルアザルとイタマルが生まれた。26:61 ナダブとアビフは主の前に異なった火をささげたときに死んだ。26:62 その登録された者は、一か月以上のすべての男子二万三千人であった。彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されなかった。彼らにはイスラエル人の間で相続地が与えられていなかったからである。

 覚えていますか、民数記の初めにもレビ記は、他の部族と分けて数えられていました。軍務につく者ではないし、相続地が与えられていない者たちだったからです。二十歳ではなく、一ヶ月以上の男子で数えられました。23000人ですが、かつては22000人でした。千人しか増えていません。それでまとめが次にあります。

2B まとめ 63−65
26:63 これがモーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、イスラエル人を登録したときにモーセと祭司エルアザルによって登録された者である。26:64 しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。26:65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。

 これが民数記の要約と言ってもよいでしょう。約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その出てきた者は、ヨシュアとカレブ以外は誰一人として入ることができなかったという事実です。約束のものを受けていたのに、その約束にあずかれなかったという厳かな現実を話しています。これが私たちが民数記から最も学ばなければいけないことです。新約聖書で取り扱われているのは、大きくコリント人への手紙第一10章と、ヘブル人への手紙3章から4章です。まずコリント人への手紙第一10章を開いてみましょう。
 

そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(1-6節)

 御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく滅んでしまったということです。そして7節から10節に、彼らを滅ぼしてしまった数々の要因が列挙されています。
 

あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。(7-10節)

 私たちはこれらのイスラエルの通ってきたところを、すべて見てきましたね。これらのことを行なっていて、私たちも神の国に入れると思い上がってはいけないのだよという戒めです。そこでパウロはまとめます。 

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(11-13節)

  世の終わりに私たちは今、生きています。ですから倒れてしまう可能性が十分にあるのです。けれども神は倒れないようにするための約束をくださっています。試練あるいは誘惑は、必ず耐えることができる。逃れの道も備えていてくださる、というものです。

 そしてヘブル人への手紙にも警告が書かれています。313節から19節まで読みます。
 

「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

 私たちは、この世の歩みの中でいろいろな試練を受けます。ゆえに13節に書かれているように、日々互いに励ましあいます。心がかなくなにならないようにします。罪に惑わされないようにします。そして初めに信じた時に与えられた確信を最後まで保つのです。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうのだよ(4:2)、という警告です。

2A 主への願い 27
 27章には、主に願いを申し出ている人たちが二組います。初めは午前礼拝でお話した女性たちです。その後に、モーセ自身が主に願いを申し上げている場面があります。

1B 女の相続地 1−11
27:1 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち・・ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子・・が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。27:2 彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。27:3 「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。27:4 男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」27:5 そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。

 ツェロフハデには息子がおらず、娘だけでした。そして、大胆にも彼女は主の天幕まで来て、モーセと祭司、そして全会衆の前でこの訴えをしています。父が「自分の罪で死んだ」と言っていますが、コラの事件ではなく荒野で四十年さまようと神が宣言された時に死んだ、ということです。

 そしてモーセが彼女たちの訴えを、主の前に出していますね。モーセにはこのことに関する神からの啓示を持っていませんでした。分からないので、主から聞いたのです。当たり前のことなのですが、私たちは他の人から主についての事柄を聞かれて、クリスチャンのプライドなのか無理やり答えようとしたり、分からないと恥ずかしがったり、落ち込んだりします。「分からない」と言って構わないのです。

27:6 すると主はモーセに告げて仰せられた。27:7 「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。27:8 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。27:9 もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。27:10 もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。27:11 もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」

 午前礼拝で話しましたが、彼女たちの訴えは身勝手なものではありませんでした。むしろ、主の御心にかなったものでした。主の情熱は、ここがイスラエルの所有地であることを定めておられたからです。その心を彼女たちも願いの中に抱いていて、そして訴えたのです。私たちは心を主に関することでいっぱいにしている時に、そこから出てくる願いは神からのものです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14

2B 後継者 12−23
27:12 ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。27:13 それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。27:14 ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。

 ついにモーセは自分の死期を告げられました。「このアバリム山」と主が仰られているように、目の前に死海北東部にあるアバリム山脈があります。その中にネボ山があり、そこに上がって彼はヨルダン川の向こうにあるイスラエル全土を見ることになります。申命記の最後にあります。

 主は、モーセが約束の地に入れない理由を明確に述べておられます。「主の命令に逆らい、彼らの目の前で神を聖なる方としなかった。」ということです。モーセは彼らがまた不平を鳴らしていたので、「逆らう者たちよ」と言って、怒って岩を二度打ちました。彼らは確かに逆らっていたかもしれませんが、彼自身が主の命令に逆らっていました。私たちキリスト者も、キリストを聖なる方とする召しを受けています。他の人々が私たちを見るときに、キリストを代表しているということを忘れてはいけない、ということです。

27:15 それでモーセは主に申し上げた。27:16 「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、27:17 彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

 これがモーセの願いでした。モーセは自身が約束の地に入れないことを嘆くのではなく、イスラエルの民のことを思っていました。神への呼びかけは、「すべての肉なるもののいのちの神」ですね。主が、一人一人の生命の源であられ、心に留めておられるということです。そして、「主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」と願っています。

 同じことをイエス様が仰いました。マタイ93538節です。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」ここの「かわいそうに思われた」というのは、中国から来たことわざの「断腸の思い」に似た、内臓が動かされるという強い言葉です。

 私は不思議に思うことがあります。なぜ親は、特に母親は、あそこまで子供たちに尽くすことができるのか?ということです。これは神から来ているものとしか思えません。生命の誕生も不思議ですが、その生命を守り、養い育てようとする力も不思議であり、母の子に対する愛も神から来たものだと思います。それは私は、教会の牧者にも言えるものだと思います。「養わなければ」という思いは、自分から出てくるものではないことを知っています。主の願いが与えられているのでしょう。主はこのように、ご自分の羊をかわいそうに思っておられます。

27:18 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。27:19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。27:20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。27:21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」27:22 モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、27:23 自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。

 ヨシュアがモーセの後継者となります。彼が後継者になる第一の条件は「神の霊の宿っている人」です。能力のある人ではありません。もちろん、御霊による賜物がなければできませんが、人の能力ではないのです。御霊に満たされている人であるかどうかが大事です。

 そして第二に「祭司のさばきの前に立つ」ということです。ヨシュアはあくまでも軍事指導者になります。これから約束の地に入ってカナン人との戦いを指揮しなければいけません。けれども、その軍事指導者は、神の御霊に属する事柄や、律法に関する事柄の下にいなければいけません。すべては神の支配の中にいなければいけません。「ウリムによるさばき」とありますが、それは祭司の装束の胸当てにある石の一つであると考えられています。それによって主の御心を求めます。

3A 主への食物の捧げ物 28−29
 次は、約束の地におけるイスラエルが共同体として捧げるいけにえについての教えです。

1B 常供と春の祭り 28
1C 常供 ・ 安息日 ・ 新月 1−15
28:1 主はモーセに告げて仰せられた。28:2 「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。28:3 彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。28:4 一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。28:5 穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。28:6 これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。28:7 それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。28:8 他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

 28章と29章に、捧げ物についての教えがあります。新しい世代に入り、改めて主が約束の地における捧げ物を強調しておられます。ここで1節に、「わたしへの食物のささげ物」と言われています。主へのささげ物がいかに大切かを物語っている表現です。私たちは、主が示してくださった恵みと憐れみに応答して生きるのが、まさに礼拝であります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1

 主が捧げ物を食べると言っても、主がおなかを空いているとか、何か事欠いているということではありません。教会に来て、「私は何か取られていっている。」という意識を持ってしまうのであれば大きな間違いです。そう感じるのであれば、その神は聖書の神ではなく、偶像です。パウロは、「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒17:25」と言いました。

 そうではなく、私たち自身が主のために生き、主の悦び(pleasure)のために造られた存在だということです。「この世では自分のために生きて、天に入る保証があるし。」とお考えの方は、黙示録にある天の姿を読んでください。そこでは天使も人も絶え間なく主に自分自身を捧げているのです。そして教会を代表する24人の長老が自分たちの冠を御座の前に投げ出して、こう叫んでいます。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころ(悦び)ゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(黙示4:11」礼拝は、私たちの存在目的を確認する時間です。そして、存在目的を確認できるならば、主の悦びだけでなく私たち自身にも究極の喜び(joy)が与えられます。

 主が私たちの捧げ物を食べるかのように、その礼拝を快く受け入れてくださいます。霊において主が私たちと一体になってくださいます。これが礼拝と捧げ物の醍醐味です。

 そして「定められた時の捧げ物」として、今読んだところには「常供」の捧げ物がありました。これは簡単に「日毎の捧げ物」ということです。基本は動物のいけにえです。朝と夕に、一匹ずつ子羊を捧げます。それに添えて、穀物の捧げ物と注ぎの捧げ物があります。

28:9 安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。28:10 これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。

 常供の他に安息日の捧げ物があります。これは常供のいけにえの他に加えて与えるものです。私たちは日毎、主の前に出ていかねばなりません。けれども日曜日の礼拝を主への日毎の礼拝に代用することはないでしょうか?「日曜日に主を礼拝できるのだから、平日は自分のことを楽しもう。」とはならないでしょうか?むしろ、日毎の礼拝の延長に、他の信者と集まって主に礼拝するというのが、神が望まれていることです。 

28:11 あなたがたは月の第一日に、主への全焼のいけにえとして若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなければならない。28:12 雄牛一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパとする。28:13 子羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらはなだめのかおりの全焼のいけにえであって、主への火によるささげ物である。28:14 それにつく注ぎのささげ物は、雄牛一頭については二分の一ヒン、雄羊一頭については三分の一ヒン、子羊一頭については四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のいけにえである。28:15 常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物に加えて、雄やぎ一頭が、主への罪のためのいけにえとしてささげられなければならない。

 これは、民数記で新しく出てきた主の定めです。新月の祭りです。当時は太陰暦によって動いていました。月の初めに祝いますが、全焼のいけにえの他に罪のためのいけにえも捧げます。けれども全焼のいけにえと比べると、非常に少ないです。次から例祭、例年行う祭りの捧げ物が出てきますが、そこでも罪のためのいけにえは全焼のいけにえと比べれば圧倒的に少ないです。これは何を物語っているでしょうか?

 礼拝というのは、俗な言い方をすれば「懺悔しにいくところ」ではないということです。毎日の生活で「罪を犯してしまった、赦されるために礼拝にいかなければいけない。」教会では、「ああ主よ、罪を赦してください!」とだけ祈って、赦されて、またその前の週と変わらない生活をしている。そうではありません!自分自身を主に捧げにいくのが主体であります。そこにある喜びと平和と聖霊のご臨在を楽しむところであります。

 そして新月の祭りにおいても、安息日と同じように常供の供え物は絶えず行なわれています。例祭においても、この言い回しはずっと続きます。

2C 春の祭り 16−31
28:16 第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。28:17 この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。28:18 その最初の日には、聖なる会合を開き、どんな労役の仕事もしてはならない。28:19 あなたがたは、主への火によるささげ物、全焼のいけにえとして、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。28:20 それにつく穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパをささげなければならない。28:21 子羊七頭には、一頭につき十分の一エパをささげなければならない。28:22 あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。28:23 あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。28:24 このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。28:25 七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。

 過越の祭りにおける捧げ物です。過越の祭りは種なしパンの祝いと一つになっています。種なしパンの祝いが七日続きますので、その間、毎日主に捧げます。

28:26 初穂の日、すなわち七週の祭りに新しい穀物のささげ物を主にささげるとき、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。28:27 あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。28:28 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。28:29 七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。28:30 あなたがたの贖いのためには、雄やぎ一頭とする。28:31 あなたがたは、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物のほかに、これらのものと・・これらは傷のないものでなければならない。・・それらにつく注ぎのささげ物とをささげなければならない。

 「七週の祭り」とは五旬節のことです。こうして春の祭りの捧げ物がありました。

2B 秋の祭り 29
 29章は秋の祭りです。

1C 新年と贖罪日 1−11
29:1 第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。29:2 あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなさい。29:3 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。29:4 七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。29:5 あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。29:6 これらは、定めによる新月祭の全焼のいけにえとその穀物のささげ物、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物、および、それにつく注ぎのささげ物、すなわち、なだめのかおりとしての主への火によるささげ物以外のものである。

 ラッパを吹き鳴らす日です。これは第七の月の一日に行なわれます。そうすると新月の祭りもあります。新月の祭りのいけにえとは別途に、新月の祭りに加えてラッパを吹き鳴らす日のためのいけにえを捧げます。さらに常供のいけにえも絶やしてはいけません。

 分かりますか、ここで私は自分の思いにある日本人的な宗教観が浮き彫りにされました。「年に一度、お賽銭を投げ入れればそれで一年間の祈願は果たされる。」という思いです。どこかに礼拝というのは、他人任せ、丸投げという意識があるのです。けれども、天においても、そして天に引き上げられる前に、この地上においても、躍動的に自分が主ご自身のものであることをこのように表明していくのです。

29:7 この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。29:8 あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。これらはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。29:9 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。29:10 七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。29:11 罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは贖いのための罪のためのいけにえと、常供の全焼のいけにえ、それにつく穀物のささげ物と、これらにつく注ぎのささげ物以外のものである。

 贖罪日における捧げ物です。

2C 仮庵祭 12−40
 そして主は、仮庵の祭りにおける教えを長く行なわれます。

29:12 第七月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝いなさい。29:13 あなたがたは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物として、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛十三頭、雄羊二頭、一歳の雄の子羊十四頭をささげなさい。これらは傷のないものでなければならない。29:14 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛十三頭のため、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊二頭のため、雄羊一頭につき十分の二エパ、29:15 子羊十四頭のため、子羊一頭につき十分の一エパとする。29:16 罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。

 全焼のいけにえの数が一気に増えます。雄牛十三頭です。そしてこれは第一日目です。二日目が17節以降、三日目が20節、四日目、五日目、六日目、七日目までいちいち書き記しておられます。仮庵の祭りは他の祭りと異なり、最終的ないけにえであり、最終的なお祝いだからです。そして興味深いのは、雄牛の数が一日ごとに一頭ずつ減っていくことです。一日目は十三頭でしたが、二日目は十二頭、そして七日目に七頭になります。そして35節、八日目は「きよめの集会」を開きます。この時には、いけにえは贖罪日と同じように「雄牛一頭、雄羊一頭、子羊七頭」になります。性質が「きよめの集会」で、贖罪日と似ているからでしょう。

 仮庵の祭りというのは、荒野の旅をしている時に神が守ってくださったことを祝うものです。八日目は無事に約束の地に着くことを記念するものですが、レビ記23章の時の学びを思い出してください。例祭はメシヤの到来を予表していることを学びました。そして仮庵の祭りは、キリストが地上に戻って、神の国を建てられ、千年間、統治をすることを表していることを学びました。

 千年王国というのは、その中身がどうなっているのか、想像するのが難しいところです。というのは、完全な場所であるようで不完全な部分がある、ということです。キリストが絶対君主になっているので、悪がはびこることはもはやありません。正義と平和が満ちあふれます。環境はエデンの園のように回復します。ところが黙示録20章を読むと、千年期の最後に悪魔が底知れぬ所から解き放たれて、人々を惑わします。そして海辺の砂のようにエルサレムを取り囲むとあります(20:8)。そのような完全な環境の中にいたにも関わらず、なお反逆する者がそれだけ大勢出てくる、ということです。

 その謎の鍵は、黙示録にはさらにその次の世界を見せていることにあります。新天新地における、新しいエルサレムです。そこにはもはや悪が一切ありません。最後の審判において、すべての悪が取り除かれているからです。ということは、千年間はほぼ完全な環境であるけれども、悪が残存していることになります。

 諸国の民のうち、最終戦争を生き残った者は復活の体ではなく、生身の体で御国に入ります。教会と患難時に殉教した聖徒たちは復活していますが、そうではない人たちもいるのです。彼ら自身は神を信じているかもしれませんが、その子孫が数多く増え広がります。彼らはアダムから受け継いだ肉体のままです。復活していません。けれども、悪魔が鎖で縛られているので誘惑というものがありません。それで大きな反逆というものをせずに済んでいるのです。けれども、最後に試されます。かつてエデンの園で善悪の知識の木が園の中央にあったように、悪魔の惑わしを受けます。その時に主に従うか、反逆するかの選択が彼らには与えられるのです。どの時代の人にも、ロボットのように自動的に信仰を持つことはなく、必ず選択が与えられています。

 それが、もしかしたら雄牛のいけにえが一頭ずつ減っている理由かもしれません。時を経れば、それだけ献身度も減っていく。七日目は七頭の雄牛を捧げているのですからそれだけでも完全ですが、けれども少しずつ減っていくのは、千年王国にある影のようなものを表しているのかもしれません。

4A 女の誓願 30
30:1 モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。30:2 人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。30:3 もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、30:4 その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。30:5 もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。

 「誓い」についての教えですが、約束の地においていけにえを捧げることにおいて、誓願による捧げ物もあります。そしてその「誓い」は、必ず守らなければいけないというのが、神の命令です。イエス様は、「誓ってはならない」と言われていますが、それは単に誓ってはならないということではなく、誓いにある偽善を問題視されているから言われた言葉です。「誓う」と言っているその言葉に、すでにそれを守らない不安があって、自分に言い聞かせるように誓っている場合が多いからです。それでイエス様は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われました。

 つまり、私たちは心を定めて物事を行い、自分の言ったことに責任を持つ者でなければいけないということです。

 けれども、一つ問題があります。家の中の娘が一つの誓いを立てているけれども、家としては違うことを考えている時に、その二つを両立させることはできません。ですから、娘が立てた誓いは父が無効にすることができます。けれども父は責任を取らなければいけません。誓いを立てた言葉を聞いているのに、それを聞き流しているのであれば、誓いは有効となります。それによって損害が出たとしても、それは父が咎を負うことになります。

30:6 もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、30:7 夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。30:8 もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。

 嫁ぐ前に誓ったことは、新しく夫になった人がその誓いを無効にすることができます。ここでも、新しい家において夫が責任を持つためです。

30:9 やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。

 独り身に戻った女は、その誓いは必ず立ちます。

30:10 もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、30:11 夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。30:12 もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、主は彼女を赦される。30:13 すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。30:14 もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。30:15 もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」30:16 以上は主がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。

 結婚している夫婦内における、妻の誓いについての教えです。父親や、新郎の場合と同じで、夫がその誓いを知ったのならば、それを無効にすること有効のままにするのは夫が責任を持ちます。

 ここに流れている考えはもちろん、「男が女のかしらである」というものです。使徒パウロがこう話しました。「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(1コリント11:3」これは、もちろん女が男に従属しなければいけないとか、女が男より劣っているということを話しているのではありません。同じパウロは、「ユダヤ人もなくギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28」と言いました。女性も主イエス・キリストにあって男と対等であり、神に直接キリストにあって結びつくことができます。

 けれども、父なる神と子なるキリストは対等であるにも関わらず、キリストは父なる神に服されています。同じように妻が夫に服従することによって、そして夫はキリストに服従することによって、神にある秩序と平和を保つことができるというものです。

 この言葉を、数多くの人が間違って読んでいます。女が男に従属している、女はただ男の言うことにしたがっていればよい、と考えます。そうではなく「かしら」になるというのは、女が行なっていることについても、最終的に、全責任を夫が取るというものです。エバが蛇に惑わされて、禁断の実を初めに食べたのに、神は、アダムによって罪が世界に入られたとみなされました。アダムが神から直に食べてはならないと聞いているのに、それを守らなかったからです。キリストの前に出るときに、自分自身がすべての咎を負うことが本来の「かしら」の意味なのです。

 ですから、第二のアダムとなられたキリストは、ご自身は罪を一つも犯されなかったのに、全人類のすべての罪をご自身になすりつけられて贖いを成し遂げられました。ゆえに、この方は信じる者の「かしら」となられたのです。男というのは、キリストの前で、自分の家について、また妻に対して、申し開きをしていく存在です。そのことによって、真に家を治める者となることができます。

 興味深いことに、イスラエルがシナイ山のところから荒野の旅に出発する時にも、夫婦についての掟がありました。妻が他の男と寝たのではないかという疑いがあれば、会見の天幕の地面のちりを入れた苦い水を女が飲んで、それによって害を受けなければ疑いは晴れる、というものです。神はこのように男女の関係、夫婦の関係を、イスラエル共同体の土台として考えておられます。私たち夫婦、男女の関係が崩れれば、国そのものの崩壊にもつながるという強い危機感と使命感を抱くべきです。

5A ミデヤン人への復讐 31
1B 主の復讐 1−24
31:1 主はモーセに告げて仰せられた。31:2 「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」31:3 そこでモーセは民に告げて言った。「あなたがたのうち、男たちは、いくさのために武装しなさい。ミデヤン人を襲って、ミデヤン人に主の復讐をするためである。31:4 イスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送らなければならない。」

 主がモーセの死ぬ前に彼に課した任務は、「ミデヤン人への報い」であります。イスラエルの民をつまずかせたのは、モアブ人の他にミデヤン人がいました。バラムの助言によって女たちを宿営に送り、不品行を行なわせて偶像礼拝を行うように仕向けました。このことに対する復讐をしなさい、ということです。

 ここで大切なのは、彼らの個人的な恨みによって復讐するのではない、ということです。神の所有の民をつまずかせたということで、神ご自身の復讐であることです。主は私たちに復讐をしてはならない、主が復讐をされると言われますが、ここではイスラエルを器として用いて、神の復讐を執行しようとされています。

31:5 それで、イスラエルの分団から部族ごとに千人が割り当てられ、一万二千人がいくさのために武装された。31:6 モーセは部族ごとに千人ずつをいくさに送った。祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送った。

 覚えていますか、神罰をやめさせたのはエルアザルの子ピネハスでした。ミデヤン人の女とイスラエルの男が淫らなことをしているところを剣で刺して殺したのです。それでピネハスが最前線に出ています。そしてピネハスは、聖具とラッパを手に持っています。これが単なる軍事的な戦いではなく、主ご自身の戦い、神聖な戦いであることを表しています。

31:7 彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。31:8 彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。

 覚えていますか、バラムはイスラエルの宿営を見て、それを呪うことはできないと言いながらこう言いました。「私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。(23:10」いかがですか、正しい人のように死ぬことはありませんでした。彼はその時は、良心においてイスラエルを呪ってはいけないと思っていたのに、迷いが生じて不義の報酬を愛し、イスラエルをつまずかせたのです。私たちが今、「私はこのことをしてはいけない。」と思っているのに、そして「私は最後は正しい人が死ぬように死にたい。」と思っているのに、それでもしていることはありませんか。今、正しいことができなければ、正しく終わることはできません。

31:9 イスラエル人はミデヤン人の女、子どもをとりこにし、またその獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、31:10 彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼いた。31:11 そして人も獣も、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、31:12 捕虜や分捕ったもの、略奪したものを携えて、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに来た。31:13 モーセと祭司エルアザルおよびすべての会衆の上に立つ者たちは出て行って宿営の外で彼らを迎えた。31:14 モーセは軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒った。31:15 モーセは彼らに言った。「あなたがたは、女たちをみな、生かしておいたのか。31:16 ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。31:17 今、子どものうち男の子をみな殺せ。男と寝て、男を知っている女もみな殺せ。31:18 男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。

 通常の戦闘であれば、女子供は生かしておきます。なぜなら、女子供が武力をもって戦うことはできないからです。けれども、この事件ではある意味で、女の誘惑は武器よりも強力だったと言えるでしょう。私たちは、これは脅威にはならないということでそのままにしてしまうことがないでしょうか?イエス様は、つまずきについては妥協をしてはいけないことを話されました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29-30

31:19 あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に罪の身をきよめなければならない。31:20 衣服、皮製品、やぎの毛で作ったもの、木製品はすべてきよめなければならない。」31:21 祭司エルアザルは戦いに行った軍人たちに言った。「主がモーセに命じられたおしえのおきては次のとおりである。31:22 金、銀、青銅、鉄、すず、鉛、31:23 すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。しかし、それは汚れをきよめる水できよめられなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。31:24 あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後、宿営にはいることができる。」

 覚えていますか、赤い雌牛をいけにえとして捧げたその灰を入れた水を振りかけることによって、死体に触れた者は清められなければいけないと神は命じておられました。今、大量に殺したことによって戦士たちは汚れていたのです。それだけでなく、武具や戦いにおける他の用具も、死体に触れているかもしれません。ゆえに徹底的な清めが必要になっています。

 私たちは汚れに対して、軽々しい態度を取ってしまいがちです。けれども、時間を取って、しっかりと主によって思いと心を清めていただく必要があります。悔恨の時間が必要です。私たちの時代は、即席を求めます。すぐに自分が手に入れたいものを手に入れようとします。けれども、時間によって忍耐と鍛錬が生じるのです。

2B 略奪品 25−54
31:25 主はモーセに次のように言われた。31:26 「あなたと、祭司エルアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、人と家畜で捕虜として分捕ったものの数を調べ、31:27 その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。31:28 いくさに出た戦士たちからは、人や牛やろばや羊を、それぞれ五百に対して一つ、主のためにみつぎとして徴収せよ。31:29 彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。31:30 イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない。」31:31 そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。

 従軍した者と一般の民では、従軍した者に多くの略奪品が与えられます。折半します。それだけでなく、主への貢はその割合が十倍、一般民のほうが大きいです。

31:32 従軍した民が奪った戦利品以外の分捕りものは、羊六十七万五千頭、31:33 牛七万二千頭、31:34 ろば六万一千頭、31:35 人間は男と寝ることを知らない女がみなで三万二千人であった。31:36 この半分がいくさに出た人々への分け前で、羊の数は三十三万七千五百頭。31:37 その羊のうちから主へのみつぎは六百七十五頭。31:38 牛は三万六千頭で、そのうちから主へのみつぎは七十二頭。31:39 ろばは三万五百頭で、そのうちから主へのみつぎは六十一頭。31:40 人間は一万六千人で、そのうちから主へのみつぎは三十二人であった。31:41 モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、そのみつぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。

 ものすごい数量です!

31:42 モーセがいくさに出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエル人のものである半分、31:43 つまり会衆のものである半分は、羊三十三万七千五百頭、31:44 牛三万六千頭、31:45 ろば三万五百頭、31:46 人間は一万六千人であった。31:47 モーセは、このイスラエル人のものである半分から、人間も家畜も、それぞれ五十ごとに一つを取り出し、それらを主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えた。

 折半されて受けたイスラエル人の受けたものです。

31:48 すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、31:49 モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの人員点呼をしました。私たちのうちひとりも欠けておりません。31:50 それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。」

 これもものすごいです。ただ一人もイスラエルは死んでいません!それで、これは主が行なってくださったことであるという感動を受けた軍の指揮官たちが、貴金属品は主におささげしたいと申し出ています。

31:51 モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。31:52 千人の長や百人の長たちが、主に供えた奉納物の金は全部で、一万六千七百五十シェケルであった。200キロです。31:53 従軍した人たちは、戦利品をめいめい自分のものとした。31:54 モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。

 いかがでしょうか?主が復讐を果たされ、その略奪が非常に大きいものになりました。ある意味で、この世界に対する復讐は、世界そのものを略奪すると言って良いでしょう。イエス様が戻ってこられる時に、反キリストと世界の軍隊と戦われますが、その結果、国々は倒れます。そこにあるものはすべて、キリストに捧げられます(イザヤ60章参照)。

 神の裁きには、神の征服と、神の奪還があります。私たちが自分の罪によって失われたものを、主が恵みを注がれる時に、悪魔が奪い去ったものを取り戻してくださいます。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2:13-15」神が初めに人を造られた時に与えられたものを、そして罪によって失われたものを奪還してくださるのが、神のご目的です。ですから、失望しないでください。自分が人生のどこかでボタンを掛け違えてしまったものを、神は整理してくださいます。

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