オバデヤ書 「エドム根性」

1A 高慢の後の破滅 1−9
2A 災難を喜ぶ暴虐 10−14
3A 主の復讐 15−21

本文

 オバデヤ書を開いてください。オバデヤ書は旧約聖書の中でもっとも短い書物です。けれども、これまで他の預言書において数多く預言されていた「エドム」に対する預言であり、「エドム」に対して神が大きな関心を寄せていることが分かります。私たちも「エドム」を学ぶことにより、人間にある悪い気質に気づきたいと思います。私はこれを「エドム根性」と名づけたいですが、エドムを学んで人間、そして自分自身を学んでみたいと思います。

1A 高慢の後の破滅 1−9
1:1 オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

 預言者「オバデヤ」でありますが、同じ名前の人物は聖書に何人か出てきます。けれども、おそらく誰も同一人物ではないでしょう。彼についてはここ一節しかありません。

 エドムに対して使者が国々送られます。そして国々がエドムに立ち向かうように仕向けます。これらの使者を送ったのは、他でもない主ご自身です。エドムに対する預言はエレミヤ書を筆頭にし、詩編、エゼキエル書、そして前回の学びアモス書では、イスラエルの敵の代表格としてエドムが出てきました。特にエレミヤ書49章では、オバデヤがエレミヤ書を見たのか、あるいはエレミヤがオバデヤ書を見たのか分かりませんが、どちらかがどちらかを引用している部分が数多くあります。そして等しく、エドムとその首都であったボツラが永遠の滅びを受けるということ、そしてエドムがイスラエルに対する高慢と執拗な憎しみのゆえに、彼らがその報いを受けることで共通しています。

 エドムを知るためには、その父祖であるエサウを知らなければなりません。実にイスラエルとの確執は、その二人の父祖が母リベカの胎内にいたときから始まりました。ヤコブが弟であるのに、長子の権利を彼が受けます。エサウはその権利をエサウに売り払い、そして後で後悔して、ヤコブに殺意を抱きます。彼が長子の権利を売った時に、一杯のレンズ豆の煮物と引き換えだったのですが、それは赤色をしていました。それでヘブル語で「アドム」という赤色を指す言葉から彼の子孫が「エドム」と名づけられました。

 旧約聖書のヘブル語には掛け言葉が多いですが、例えば、エゼキエル書35章でエドムの地であるセイルの山に対する神の裁きの言葉で、「わたしは必ずおまえを血に渡す、血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。(6節)」とあります。この血とエドムの発音が似ているから、ヘブル語で読むと掛け言葉になっています。そして興味深いことに、セイルの地は赤色で輝いています。ヨルダンの南部がエドムの地ですが、そこは「ペトラ」に代表される、鉄分の入った赤色の岩で輝いています。

 そして現在の世界遺産にもなっている「ペトラ」が聖書の名称では「ボツラ」でありますが、もう一つエドムには「テマン」という大きな都市がありました。ペトラから少し東にあったと言われています。そこは学術都市としての誇りを持っていました。「テマン」はエサウの息子エリファズの子の名前から来ています。覚えていますか、苦しんでいるヨブを訪問した友人の一人が、「テマン人エリファズ(ヨブ2:11」でした。彼は知恵のある人であると自負していましたが、それはテマン出身だからです。

 そしてエドムは、創世記36章を見ますと大きな国になりました。けれども彼には、コンプレックス、劣等感がありました。兄弟ヤコブの子孫イスラエルに対して、劣等感がありました。実はそれぞれの父祖が民族の気質を代表しているのですが、イスラエルはヤコブが神の使いと格闘して、それでようやく神からの祝福を受けることができたように、彼らは自分たちの力を取られるという痛い思いをして、それでようやく真の救いを受けることができます。残された民がへりくだり、救いを求めるので、主が助けてくださいます。

 けれどもエサウは、自分の長子の権利を奪われたことへのくやしさと憎しみ、そして弟の国のほうが強くなるという預言に恨みを覚えて、それを意図的に、故意に拒むようになりました。主は、荒野の旅をするモーセたちに対して、「エドムに立ち向かうな。エドムの地はあなたがたに与えていない。そして彼は兄弟なのだから、三代目のエドム人は集会に加えるようにしなさい。」と命じられていました(申命2:4523:78)。しかしエドムは一切モーセらに自国領土を通過させることを許さず、戦争も辞さない態勢で対峙しました。

 その後のエドム史は、イスラエルよりも弱くなり、けれどもイスラエルに敵対する歴史でありました。サウルはエドム人と戦い(1サムエル14:47)、ダビデも戦い(2サムエル8:1314)、ソロモンも制圧していました(1列王1:1622)。

 ソロモンが死んでから彼らは反逆の姿勢を見せ始めます。列王記では、イスラエルの王ヨラムとユダの王ヨシャパテがエドムと共にモアブに対して戦っています(2列王3)。けれども、エドムはヨシャパテに対して、アモン人とモアブ人と共に戦っています(2歴代20)。そしてヨシャパテの息子ヨラムが王の時に、彼らは独立を獲得しました(2列王8:2022)。けれどもユダの王アマツヤは、エドム人一万人を打ち殺し、エドムの町セラを打ち倒しました(2列王14:7)。けれどもアハズが王の時にエドムはユダを攻撃しました(2歴代28:17)。

 けれどもユダがついにバビロンによって滅ぼされる時が来ます。この時に彼らが行ったことが、神の目に触れました。詩篇137篇は、バビロン捕囚の中でシオンを想う悲しみの歌ですが、その中でこの詩篇の作者は、「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも。』と言ったエドムの子らを思い出してください。(7節)」と歌っています。彼らはユダと同盟を結びバビロンに対抗していたのですが、バビロンがエルサレムを破壊すると自分たちもそれに加担したという裏切り、そして憎しみを露わにしたのです。

 これが神の怒りを招きました。もちろん、その行動一つだけでなくエドムが持っている神に対する態度、姿勢が神を怒らせているのですが、エドムは北イスラエルが倒れた後、アッシリヤの攻撃を受けており、そしてエルサレムが倒れた後、バビロンはヨルダン川の東の地域、すなわちアモン、モアブ、エドム全域に攻め入りました。エドムはユダの人々は捕え移された後にそこに入り込み、自分たちの土地だと言って喜んでいたのです。それでバビロンが懲罰としてエドムを攻めたのです。

 それからギリシヤも、その地域を攻めました。そしてついに、アラブ系のナバテヤ人がエドムをボツラから追い出し、ボツラあるいはペトラはナバテヤ人の都市となりました。エドムはユダヤ地方に移り住みましたが、ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノスが彼らを強制的に割礼を受けさせて、ユダヤ教に改宗させました。ギリシヤ時代には彼らは「イドマヤ人」と呼ばれます。そしてその末裔がヘロデです。

 そしてユダヤ反乱が紀元66年に起こりましたが、イドマヤ人もローマ反逆に加担しました。そのためティトスがイドマヤ人も一掃すべく動き出して、ごくわずかな者だけが逃げ切ることができました。けれども既に民族としては、そこで死に絶えています。これがエドムの歴史であり、ここでエドムを攻める「国々」とは、アッシリヤ、バビロン、ハスモン朝、そしてローマまでの彼らを攻めた国々であります。

1:2 見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

 今、説明しましたように、エドム人は数々の戦いの中で非常に小さい者、蔑まれた者となっていきました。

1:3 あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。1:4 あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。・・主の御告げ。・・

 エドムの問題は初めに「高慢」でした。エドム人の劣等感は本質的には高慢です。劣等感と高慢は表裏一体というのは、信仰を持っていない人でもよく知っていることだと思いますが、彼らの高慢は、神に対する恨みから始まっています。自分ではなくヤコブを神が選ばれた、ということに対して恨み、それを受け入れることができず、その計画に反逆するようになったのです。

 歴史に「もし」という仮定はないし、まして神の歴史には存在しないのですが、もし仮にエドム人が悔い改めて、自分が今置かれている身を甘んじて認めたのであれば、神はエドムを豊かに祝福されたと思います。ヤコブの兄だということだけで、主は彼らと争ってはならない、セイルはエドムに与えた、三代目には集会に加えよ、と命じられたのです。

 私たちが今置かれている状況に、本質的なところで、御霊によって満足しているのであれば大丈夫でしょう。けれども、どこかで休みを得ていない、内側で戦っている、ましてや恨めしく思っているのであれば、それが劣等感を呼び起こし、そして機会さえ与えられれば優越感を味わいたいと貪っているのです。

 具体的には、歴史の中ではエドム人は、「ボツラ」という自然の要塞が与えられていました。今、ペトラに行けば、かつてナバテア人が建てた、バラ色に輝くあでやかな都市を今でも見ることができます。まさに「あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいと」するような地形です。

 そこは世界貿易の要衝となっていた地点であり、商人であったナバテア人が莫大な富を得ていて、それでその都市を建てることができました。エドム人の遺跡が発掘されていることは聞いたことはないですが、おそらくエドム人もその軍事面、経済面で優位に立っている所で自己満足をしていたのでしょう。けれども、神はどんなに高い所にいようとも一気に低くすることがおできになる方です。

1:5 盗人があなたのところに来れば、夜、荒らす者が来れば、あなたは荒らされ、彼らは気のすむまで盗まないだろうか。ぶどうを収穫する者があなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。1:6 ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される。

 神は、エサウが根こそぎその財宝が奪われることを、盗人とぶどうを収穫する者と比較をされています。盗人でさえ、ごっそりと家の中の全ての物をふつうは盗むわけではありません。そしてぶどうの収穫も、律法に定められている通り全て摘み取ってはいけません(申命24:21)。けれども、エドムが滅ぼされる時は根こそぎ取られていきます。

1:7 あなたの同盟者がみな、あなたを欺き、あなたを国境まで送り返し、あなたの親しい友があなたを征服し、あなたのパンを食べていた者が、あなたの足の下にわなをしかける。それでも彼はそれを悟らない。

 エドムを敵が攻めた時に、エドムの同盟者であったとされる者たちがその敵にエドムを明け渡します。明け渡すだけではなく、その略奪に加担します。その同盟者らは、エドムの富によって自分たちも利益を得ていたようです。「パンを食べていた」とあります。けれども、彼らが助けや守りになるのではなく、むしろエドムを裏切るのです。

 そしてそのような同盟でしかないことにエドム自身は気づいていません。「それを悟らない」とあります。私たちが高慢の内に築いたと思っている仲間は、本当の仲間ではありません。私たちは高慢になると、本当の友を見失います。自分に都合の悪いことをはっきり言う友、密かに愛するよりもあからさまに責める友(箴言27:2)は、私たちは気に入りません。けれどもそのような友こそ、私たちが苦しみの時に共にいてくれるのです。けれどもエドムのように自分が高慢になっていると、今の同盟者がすぐに裏切るであろうことを気づくことができないのです。

1:8 その日には、・・主の御告げ。・・わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。1:9 テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる。虐殺によって、エサウの山から、ひとり残らず絶やされよう。

 先ほど話したように「テマン」は知恵のある町として知られていました。それにも関わらず、彼らはこの破滅については無知でした。知恵の初めは何ですか?「主を恐れる」ことですね(箴言9:10)。どんなに知識を持っていても、主を恐れる所から来る知恵を持っていなければ、何をしても無駄です。

2A 災難を喜ぶ暴虐 10−14
1:10 あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。

 エドムの問題は、高慢の次に「ヤコブへの暴虐」でした。神は、ヤコブが「あなたの兄弟」であると強調されています。同じイサクから生まれた者であったにも関わらず、彼らはそれに相応しい憐れみや助けを与えませんでした。

 私たちは自然の情で与えられたものに違反するとき、神からの裁きを受けます。マルコによる福音書で世の終わりについて、「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。(13:3」と主が言われました。そして信仰者に対しても、「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。(1テモテ5:8」と使徒パウロが言いました。

 そして私たちは霊的な兄弟との結びつきを切るのであれば深刻な状態に陥ります。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。(1ヨハネ3:14

 そして、ここは霊的にアブラハムの子孫とされた私たちだけでなく、肉のイスラエルに対してもそうなのです。主がアブラハムに対して「あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世12:3」と言われたことは、私たちは聖書を信じている者として、避けるべき知恵として受け入れるべきであります。事実、聖書だけでなく歴史を通じてユダヤ人を呪った民族、国、個人は呪いを受けています。

 これまで預言書において、何度も何度も私たちはこの神の言葉を読みました。またか、と思うほど、神は繰り返しアブラハムに与えられた原則を、当初のイスラエルの周囲の諸国に当てはめておられるのです。ここに通読することの大切さ、順番に聖書を学んでいくことの大切さがあります。神の全体のご計画を余すところなく伝えたとパウロは言いましたが(使徒20:27)、近視眼的に一部の御言葉だけを読むと、使徒ペテロが警告したように歪曲してしまうのです(2ペテロ3:16)。

1:11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。1:12 あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。1:13 彼らのわざわいの日に、あなたは、私の民の門に、はいるな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。1:14 そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

 非常に具体的になっていますね。これはバビロンがエルサレムを破壊したとき、エドムが取った行動です。エルサレムの町、その城壁の門のところで彼らは知らぬ顔をしていました。彼らが残虐な形で殺されている時に何の憐れみも示しませんでした。むしろ、彼らが滅んでいく様を喜び、そして中にある略奪品に手を出していました。そして逃げる道をも妨げています。生き残った者たちをバビロンに手渡しています。

 私たちは憐れみを閉ざさないこと、たとえ自分の敵であってもその不幸を喜ばないことが大切です。愛は、「不正を喜ばずに真理を喜びます。(1コリント13:6」とありますが、これを、災いを喜ばないで、真実を喜ぶと訳すこともできます。自分の敵に災いが下ったら、それを自分の恨みを発散させて喜ぶのではなく、神の復讐のことを思って、かえって神を恐れるのです。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』(ローマ12:19

3A 主の復讐 15−21
 そして何よりも、復讐することは神のみが行われることです。人を裁くものは、裁かれます。復讐する者は、その怒りと自分自身の身に招きます。そこで次を読んでみましょう。

1:15 主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。1:16 あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。

 「主の日」ですから終わりの日におけることです。ここではエドムだけでなく、エルサレムを我が物にするすべての国々に対して、主が報いられることを話しています。ゼカリヤ書14章によると、エルサレムがすべての国によって荒らされます。ヨエル書においても、イスラエルの地に対して諸国が行ったに対して、主が裁かれます。ここで国々が「飲み続け、飲んだり、すすったり」するとありますが、これは神の怒りの杯を飲むということです(黙示14:10参照)。彼らがエルサレムに対して与えたのと同じ苦しみを、彼らが受けるということです。

 出エジプト記にある律法で、「目には目を。歯には歯を。」という言葉があります。それは復讐してもよいという言葉ではなく、正しい判決の基準です。この基準をもって神が、世の終わりに各人を裁かれるのです。

1:17 しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。

 山上の垂訓において、八つの幸いについて主が語られた時、それは御国とこの世の逆転のことを教えられました。貧しい者は幸いである。けれども今富んだ者は災いである。悲しむ者は幸いである。けれども今、笑っている者は災いである。イスラエルの逃れた者たちは、残された者たちです。彼らは大患難の中で多くの苦しみを受け、主の前にへりくだり、救いを求めた者たちです。その彼らがエルサレムの至福にあずかる第一の者たちになります。

 私たちが御国の市民として生きるには、この報いを信じて生きなければいけません。御国の幻を常に携えていてください。神の国と世は対立するのです。だから、この世においては心が貧しくされるのです。罪に悲しまなければいけないのです。柔和になって復讐してはいけないのです。義に飢え渇かなければいけないのです。弱くされた者たち、貧しくされた者たちが御国において大いなる報いを受けます。

 そしてエルサレムは「聖なる地」となります。聖なる者だけが入ることができるのがシオンです。ダビデは、誰が聖なる山に住むのでしょうか、という祈りを捧げています。詩篇15篇ですが、そこにこうあります。「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。(詩篇2-5節)」まず、私たち自身がこの聖い生活に自分を投じてみましょう。そして、このような構成員によって成る御国を慕い求めましょう。

1:18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる、と主は告げられた。

 イスラエルがかえって、エドムの地を占領することになります。彼らが終わりの日に戦うときに、主が共におられてエドムの地を焼き尽くされます。そしてエドム人は全滅します。

1:19 ネゲブの人々はエサウの山を、低地の人々はペリシテ人の国を占領する。また彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。1:20 イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。

 これはエドムだけでなく他の地に対してもイスラエル人が占領する預言です。イスラエル南部のネゲブの人たちはエサウを占領します。低地、これはシェフェラと呼ばれるところで、ユダ山地の南部と地中海沿岸の間にある地域ですが、しばしばペリシテ人の攻撃を受けていました。そこの人々はその地中海沿岸に移住していたペリシテ人を占領します。そしてエフライムとサマリヤの地域、今の西岸地域ですが、そこを彼らは奪還します。

1:20 イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。

 「ツァレファテ」はレバノンにある町です。イスラエルの地は当初所有していた所だけでなく、北は遠くユーフラテス河畔地域まで支配します。そして南はエジプトの川まで支配します。「セファラデ」がどこであるかは、意見が分かれています。今のユダヤ人で、長いことスペインや北アフリカの地域にいたユダヤ人のことを「セファラディ系ユダヤ人」と言いますが、そこでスペインではないかという人たちがいます。またある人は小アジヤのサルディスではないか、という人もいます。

 いずれにしても、捕囚の民がかえって他の地域を支配するようになる、ということです。

1:21 救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主のものとなる。

 「救う者」とは、かつての士師のような存在の人々です。イスラエルが圧制の中にいた時に、そこから救助する人々がイスラエル人の中から主が起こしてくださいます。そしてエサウの山をも打ち砕く救助者が現れて、そして彼らはシオンの山に上り、主を崇めます。

 そして、最後は「王権は主のものとなる」です。なぜ、エドムを主が裁かれるのでしょうか?なぜイスラエルがエドムに対して圧倒的な勝利と、破壊を行うのでしょうか?これはみな、「王権が主のものとなる」ためであります。すべてが人ではなく、主に栄光が与えられるためです。支配が人間の手から神の手に移るためです。すべては神のものとなるためです。

 私たちは、この神の支配の中に今、生きているでしょうか?私たちが手を出すとき、私たちが復讐をするとき、そこに神の栄光は現れません。むしろ、そのように裁く者たちを裁くことによってご自分の栄光を現されます。私たちがへりくだって、弱い者となるときに、主はご自分の栄光のゆえに大きな報いを来たるべき世に用意してくださるのです。