箴言17−19章 「堅固なやぐら」

アウトライン

1A 心をためされる主 17
2A 主の名 18
3A いのちに至る主の恐れ 19

本文

 箴言17章を開いてください、今日は19章まで学んでみたいと思います。今日のメッセージ題は、「堅固なやぐら」です。

1A 心をためされる主 17
17:1 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

 前回も出てきましたね、1517節に「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」とありました。

 ここの「ごちそうと争い」は、直訳では「争いのいけにえ」とあります。和解のいけにえは、一部は祭壇にささげ火で焼きますが、残りは自分が食べます。その分け前がたくさんあることは、その家が財政的に豊かであることを意味します。神にささげる行為であるいけにえでさえもが富を図る材料になり、そして争いの種になることがあったのです。

17:2 思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、その兄弟たちの間にあって、資産の分け前を受け継ぐ。

 山上の垂訓にあるように、御国を受け継ぐ人々は心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者など、主にあって思慮のある者たちです。そして主は、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。(マタイ25:29」と言われました。今、持っていると思っている者たちは、知恵を持っていなければ最終的に取り上げられます。そして、知恵を持っている者たちが、それらのものをすべて管理するようになります。

17:3 銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。

 これも前回学びました。16章2節です。「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。」です。試練によって、私たちは自分の信仰の真価が表れます(1ペテロ1:7)。

17:4 悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。

 私たちが、人の心を傷つけるような言葉に耳を傾けていないか気をつけるべきです。

17:5 貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。

 私たちが貧しい人、落ちぶれたように見える人を見るとき、思い出さなければいけないのは、「その人は神によって造られた尊い存在だ。」ということです。ヤコブの手紙で、教会の人たちが貧しい人たちを差別していると責められています(2章)。

 そして「人の災害を喜ぶ」ことについてですが、教会の中でもこれを行ないます。地震や津波などの災害があると決まって、「あそこでは教会が少ないから」など、その災いについての原因探しをします。

 けれども、人の災害を見るとき大切なのは、自分自身が神のさばきを受けるかもしれないという健全な恐れを抱くことです。イエス様は、人に襲った災いを他人事のように見ているその態度について戒められたことがあります。ローマ総督ピラトが、ガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちに混ぜたということを、イエス様に伝えた人たちがいます。

 そこで主が言われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:2-5

17:6 孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。

 「生めよ、ふえよ」と命じられた神は、老人に孫という喜びを与えてくださいます。また自分の子らがよくやっている姿を見せてくださいます。

17:7 すぐれたことばは、しれ者にふさわしくない。偽りのくちびるは、高貴な人にはなおさらふさわしくない。17:8 わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。

 ここ17章から19章には、わいろについての格言があります。格言にはその善悪についての種類もありますが、ここにあるように善悪ではなく現実に起こっていることとして有体の述べているものもあります。ここでは、賄賂によって自分のしたいことがことごとく成し遂げられるという現実が書かれています。

17:9 そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる。

 教会の中に、鬼の首根っこをつかんだかのように、同じ仲間の失敗や罪を指摘する人がいます。確かに、指摘しなければいけません。けれども、私たち自身の心の動機を確かめながら、その作業に入らなければいけません。つまり、その人が悔い改めて神に立ち返ってくれることを願っているかどうか、です。ガラテヤ書に「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(6:2」とあります。そして兄弟が立ち上がったのでれば、その後はことさらにその罪を言わず、覆う必要があります。

17:10 悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。

 福音書において、パリサイ人、律法学者らが、主から何度も戒めや叱責を受けたにも関わらず、いつまでも悔い改めず、最後に主を十字架につけてしまいました。何度言っても分からない、という体験をしたことがあるかと思いますが、人の心とはそのようなものです。出エジプト記のパロも、そうでしたね。ついに主は彼の心をかたくなにされました。

 だから箴言には、悟りを得よ、知恵を得よ、という命令がたくさんあるのです。箴言が言っている知恵とは、小手先の入れ知恵ではなく、自分自身変えることのできない心を、その深い部分を御霊によって変えていただくことです。心さえきちんとしていれば、一度、責められたらすべて理解することができます。

17:11 ただ逆らうことだけを求める悪人には、残忍な使者が送られる。17:12 愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ。

 子を奪われた雌熊、ものすごく獰猛になっていますね。それよりも、愚かさにふけっている愚かな者のほうが、警戒して、避けたほうがいいということです。

17:13 善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない。

 クリスチャンの倫理はこの反対です。悪に対して善で報います(ローマ12:12)。

17:14 争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。

 問題というのは、引き起こったらもうどうすることもできません。問題が起こる前に対処しなければいけません。

 私が通っている教会に、以前、精神病にかかっている女性がいました。彼女の言動によって、多くの姉妹が影響を受けました。そこで牧師は、その女性が同じことを言ったら、すぐに私のところに連れて来るように、と、その女性を含め姉妹たちを集めて強く指示しました。(私は男性ですが牧師の英語を通訳したのでその場にいたのですが、結局彼女が同じことを言ったとき、牧師の言いつけを守ったのは私だけでした!)事前の、しっかりとした対処が必要です。

17:15 悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。

 イザヤ書に、このような言葉があります。「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。(5:20

 教会が混乱すると、この過ちを犯してしまいます。コリントにある教会で、近親相姦をしている人がいたのですが、教会の人たちは自分たちが寛大であるという自負を持って、そのままその人を受け入れていました。パウロは、追い出しなさい、と命じました。けれどもパウロ個人を非難した人たちがいます。悪いものを悪いとすること、これも愛の表れです。愛は不義を喜びません(1コリント13:6)。

17:16 愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。これはいったいどうしたことか。

 魔術師シモンは、使徒ペテロとヨハネのところにお金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。(使徒8:19」とお願いしました。このシモンに対してペテロは、「あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。(使徒8:23」と答えています。心の中をきれいにすることが知恵です。

17:17 友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

 全くその通りですね。苦しみを受けているときに、自分の友達が本当に友達なのかどうかの真価が試されます。

17:18 思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる。

 前にも出てきました、連帯保証に対する戒めです。

17:19 そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。

 「自分の門を高くする」というのは興味深い比喩です。私たちは、とかく言葉数が少なかったり、強い意見を言わないような人は柔和だと感じますが、実は自分の心の門を非常に高くしていることがあります。その人のために何かしてあげよう、助言をしようと思っても、「近づいたら、ただじゃおかないぞ。」という無言の脅迫が聞こえてきそうです。心の牙城を崩すことが、周りの人と平和に暮らすことができる一歩です。

17:20 心の曲がった者は幸いを見つけない。偽りを口にする者はわざわいに陥る。17:21 愚かな者を生む者には悲しみがあり、しれ者の父には喜びがない。17:22 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。17:23 悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。

 先ほどは賄賂の現実を話しましたが、ここでは賄賂の善悪の判断をしています。もちろん悪いことです。裁判官または上に立つ人が、賄賂によってその判断を変えてしまいます。

 賄賂でなくても、私たちは「あの人にはいろいろ良くしてもらったから」という人間関係によって、神様がどう思っていらっしゃるかという霊的判断を鈍らせてしまうことがあります。

17:24 悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。

 なぜ人は、愚かなことをするのでしょうか?ここに答えがあります、「目を地の果てに注ぐ」からです。言い換えると、自分の目の前にあることをしっかりと行なっていないからです。

 知恵というのは目の前にあります。これまで学んできたように、通りの角で叫んでいるぐらい、私たちのそばにあります。ヤコブ書1章に、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(5節)」という約束がありますが、私はこの「知恵の欠けた」というのを、これまで「判断ができない」ことだと理解していました。

 けれども、最近聞いた説教の中でこんな話がありました。「何かをしようとするとき、本当にそれが神に正しいことなのか、神が喜ばれることなのか、ちょっと祈ってみてください。」自分では悪いことだとよく分かっていることなのに、それをしてしまうのが誘惑に陥ることであり、罪を犯すことです。肉の弱さです。つまり知恵というのは、知的、精神的に理解することではなく、知っていることを実行する力であることを知りました。私たちが主に願うなら、主は、実際に悪から離れる力、知恵を与えてくださいます。

 私たちが何をすればよいかわらかないときがあります。例えば私は、ある問題のある教会の姉妹のことを考えています。彼女にはっきり過ちを指摘すべきなのかどうなのか迷います。けれども、それよりもっと身近なことがあります。それは私自身の心です。「その姉妹を、真実な愛で愛しているのだろうか?」教会とって厄介だと思っているから指摘しようとしているのか、それともその姉妹自身の霊的状態のことを思いやって、指摘しようとしているのか、の違いです。知恵は彼女にどう対処すればよいかに存在しているのではなく、もっと近いところ、つまり私自身の心の動機の中にあったのです。

17:25 愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。17:26 正しい人に罰金を科し、高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、どちらもよくない。

 これも悪を善とし、善を悪とすることの過ちです。

17:27 自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。

 これと同じ内容の箴言はすでにたくさんありました。けれども次に興味深い内容があります。

17:28 愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。

 口数が少なければ知恵をもてるんだな、という短絡的な考えをしてはいけないよ、という戒めです。よく考えているから言葉数が少ないのであって、単に黙っていればいい、という意味ではありません。

2A 主の名 18
18:1 おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。

 教会は、互いに仕える関係を持つことができるところです。自分のことを絶えず明かしていかなければいけないところです。世間で言われる、アカウンタビリティー、説明責任が必要なところです。自分が私的生活で罪を犯していたら、教会で集まるのが辛くなります。なぜなら、共に集まっているところにキリストがおられ、自分がキリストの前に裸にされるからです。

 ですから自分を他の兄弟姉妹から引き離すのは危険です。ここに書いてあるとおり、己を他の人から閉ざすと自分の欲望のままに求めていくようになります。

18:2 愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。

 賢い者は、自分の意見ではなく主の意見、主が何と思っていらっしゃるかをまず考えます。

18:3 悪者が来ると、侮りも来る。恥とともに、そしりも来る。18:4 人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。

 言葉は単なる発声の音ではありません。人の命、魂の泉から出てきたものです。

18:5 悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。18:6 愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。18:7 愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。18:8 陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。18:9 自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。

 このような愚か者また愚かさがはびこっている中で、自分が守られるためにはよいかが、次に書いてあります。

18:10 主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。

 主の名の中に走っていきます。主の名前は、非常に興味深いです。特に旧約聖書では、二種類の「主」が出てきます。一つは、アドナイです。これは普通に使用される主の意味であり、主人と僕の関係にある「主人」の意味です。

 けれども日本語の聖書であれば、新改訳では太字の「主」があります。これは、YVWHと子音だけで書いてあり、発音することができません。学者の間で、ヤハウェあるいはエホバという発音ではないかと言われています。

 このヤハウェなる方が、ご自分の名前について尋ねられたことがあります。モーセにお現れになった時のことです。主がモーセをエジプトにいるイスラエルのところに戻りなさい、と命じられました。モーセは、「彼らは、『その神の名は何と言うのか。』と聞くことでしょう。どう答えればいいですか。」と聞きました。主はこう言われました。「わたしは、『わたしはある。』という者である。(出エジプト3:14」わたしはある、非常に不思議な名前です。しかしこれは、あなたの必要になる、という意味があります。あなたの必要が何であろうとも、神がその必要になる、という意味です。

 例えば、アブラハムがイサクをモリヤ山でささげようとしたとき、神はヤハウェ・イルエという方として現れました。それは、「主は備え」あるいは「主は見る」という意味です。全焼の羊のいけにえを携えずにアブラハムは山を登りましたが、主が備えてくださった、ということです。

 そしてモーセは自分の手を上げながら、アマレク人と戦いました。彼が手を上げているときは、イスラエルの人たちはアマレク人に優勢になりました。ついに打ち勝ったとき、主は、「ヤハウェ・ニシ」すなわち「主は旗」と呼ばれました。主が戦ってくださる方になった、ということです。

 ギデオンがミデヤン人と戦うのを恐れていたときは、「ヤハウェ・シャローム(主は平和)」になってくださいました。恐れていたので、平安を与えてくださる方になってくださったのです。エレミヤには、ヤハウェ・ツィケヌー(主は正義)になられました。彼はユダヤ人の反抗、そしてエルサレムの滅亡を預言しなければならなかったからです。エルサレムから捕え移されたエゼキエルには、「主はここにいる(ヤハウェ・シャムマ)」となられました。

 そしてマリヤが身ごもったことを知ったヨセフに対し御使いは、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスと名づけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だからです。(マタイ1:21」イエスという名は、ヘブル語では「ヨシュア」です。これは「イェホシュア」の縮約された形であり、「ヤハウェは救い」という意味です。私たちに必要なのは罪からの救いです。主がその救いそのものになってくださいました。

 このように私たちは、自分に必要になってくださる方の名前を呼びます。そうすれば、それはやぐらのように堅固です。やぐらは、城壁のところに組み込まれており、高い塔になっています。そこから押し寄せてくる敵に矢を放ちます。敵は反撃しようにも、高いところ、石で囲まれている塔の中にいる人を打つことは極めて困難です。だから安全なのです。

 先ほど引用したヤコブ書の箇所と同じ考えです。私たちが誘惑に陥りそうになったとき、肉に反応しそうになったとき、悪い者に取り囲まれて、どうすればよいか分からなくなったとき、主の名を呼びます。そうすれば主が私たちのその場、その場に応じた必要になってくださり、私たちを守ってくださいます。

18:11 富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。

 富んでいる人はとかく、自分の財産が自分を守ってくれると思っています。けれども、主の名が私たちの保障であり、富ではありません。

18:12 人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。18:13 よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。18:14 人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。18:15 悟りのある者の心は知識を得、知恵のある者の耳は知識を求める。18:16 人の贈り物はその人のために道を開き、高貴な人の前にも彼を導く。

 例えば、たくさん政治家に献金した人はその政治家に会うことができます。

18:17 最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。

 裁判というのは、本当に不思議なものです。何を前提にするかで、見えてくる話がどんどん変わっていきます。そして最初に訴える人の話は判断する人の前提になりやすいです。印象づけを行なうことができるからです。

 ですから、私たちは早まった判断をしないように気をつけなければいけません。特に結婚の問題については、双方の話を聞かなければいったい何が起こっているのか知ることさえできません。

18:18 くじは争いをやめさせ、強い者の間を解決する。

 もう一つ、私たちが何かを判断するときに必要なのは、主がそうなされているのだから、という主のみこころです。当時くじは、主のみこころを判断するときに使われていました。例えば使徒行伝1章では、イスカリオテのユダに代わる使徒を選ぶときに、くじを使いました。

 主がなされていることだから、私たちには拒むことはできません、ということを話した人たちが聖書の中では出てきます。例えば、リベカの家族は、アブラハムのしもべの証しを聞いて、リベカをイサクの嫁にすることに何の反対もすることができませんでした(創世24:50)。そして、ペテロが異邦人の家に入ったことについても、ユダヤ人信者らは、コルネリオの家族が聖霊のバプテスマを受けたことを聞いて言い争いを止め、異邦人にも救いを与える主をほめたたえました(使徒11:1718)。

18:19 反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。

 これが事実です、現実です。けれども、そのような兄弟に対して優しく対処しなさいとパウロはテモテに教えています。テモテ第二2章24節です。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。(24-25節)

18:20 人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。18:21 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。18:22 良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。

 妻が自分の人生に与える影響が大きいことを意味しています。

18:23 貧しい者は哀願するが、富む者は荒々しく答える。

 貧富の差の中にある現実です。

18:24 滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。

 友情の深さ・浅さの幅が非常に大きいことを表しています。イエス様が、「あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:14)」と言われたとき、代わりに自分の命を捨てるほどの親密さを意味していました。

3A いのちに至る主の恐れ 19
19:1 貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。19:2 熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。

 私がクリスチャンになってから、いつも気になっていた御言葉です。非常に熱心だったのですが、肝心の信仰の対象であられるイエス・キリストについての知識をもっとほしいと願っていました。何か自分の思いや心が空回りしているとずっと感じていたからです。

 その願いは、渡米してじっくり聖書に取り組むことによって実現しました。ペテロ第二の手紙の最後に、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(3:18」とあります。そしてパウロはユダヤ人についてローマ人への手紙で、「私は、彼らが熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。(10:2」と言いました。ユダヤ人のように、知識がないためにかえってその熱心が主に敵対するという皮肉、悲劇にもなりえるのです。

19:3 人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。

 これはよく起こりますね。自分の愚かさによって引き起こされた災難を、「神が愛ならば、神が善ならば、なんでこんなひどい仕打ちを私にするのか。」と主に責めます。黙示録で、神の怒りの鉢の災いを受けている人々が、悔い改めないでかえって神にけがしごとを言ったことが書かれています(16:9)。

19:4 財産は多くの友を増し加え、寄るベのない者は、その友からも引き離される。

 お金のあるところに人が集まる、という悲しい現実です。

19:5 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。19:6 高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。

 再び賄賂の現実について言っていますが、興味深いことにイエス様は、人に貸しを作る不正な管理人の例えをお話になりました。その管理人は、自分が首になることを知って、債権を持っている人々にその額を低く書き直してあげました。そして実際に自分が解雇された後で、貸しを作った人々の好意を得て再就職できるかもしれないと考えたのです(ルカ16:19)。

 そこから主は、あなたがたも先のこと、つまり永遠の御国に入ることを考えて貸しを作りなさい、と勧めておられます。主にあって今の財産を使えば、主に貸しを作ることができます。後で「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。(17節)」とあります。貧しい人に自分の財産を使うことは、ちょうど贈り物を主のところに持っていくようなものです。

19:7 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。19:8 思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。

 主からの戒めは、何よりも自分自身を幸せにするためのものです。私たちを抑制したり、縛ったりするものではなく、私たちの幸福のためにあります。

19:9 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。19:10 愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。

 奴隷根性を持ったまま人を支配する地位に着くと、とんでもないことになります。ローマ皇帝ネロは、奴隷出身でした。彼の暴政は目に余るものがあります。共産主義もそうでしょう。農民出身の者が知識階層を支配する。結果は、上に立つ者は腐敗を極め、封建制よりもさらにひどい階層社会を形成します。

 貧しい人が本当の意味で良き指導者になるとき、その人は初めから、貧しい時から自由人でした。その困難な状況にも関わらず、自分の手を動かしてせっせせっせと働きます。富んできても、自分の手で働き、忠実であることについては何ら変わりません。貧しくても富んでいても、財産に左右されない自由な思考を持っているからです。

19:11 人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。

 人を赦すことが光栄なことと考えたことがあるでしょうか?その通り受け止めましょう、赦すことは栄誉あることなのです。

19:12 王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。19:13 愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。19:14 家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。

 妻は自分が努力して得られるものでないことを教えています。一方的に主から与えられる恵みであることを教えています。結婚をするときに、いろいろな注文をつけると結婚できません。もっともらしい条件をつけても、それはあくまでも条件です。私たちが救われるとき、主は私たちに条件をつけて召してくださったのでしょうか?違いますね。主の恵みに頼らなければいけないのです。

19:15 怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。19:16 命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。19:17 寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。

 貧しい人に施しをすることを教えていると同時に、怠惰は人を飢えさせるという教えもあります。施しをするとき、見分ける必要があります。教会の前にたむろしているホームレスの人が、「今日の夕飯のお金がない。」と言ったとして、「じゃあ、いっしょにレストランに行きましょう。」と言うと、「いや、結構です。」と答えることが多いです。ご飯のお金ではなくお酒のお金が欲しかった、という話はよくあります。

 ですから、怠けている人に対しては、施しではなく仕事を探すことを教えなければいけません。

19:18 望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。

 しつける時に、親が自分の怒りに任せてはいけないことを戒めています。次に怒りについての戒めが書かれています。

19:19 激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。

 怒り、憤りは罪です。その反面、怒りではなく愛から出ている忠告や訓戒は、人に知恵を与えます。次をご覧下さい。

19:20 忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。19:22 人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。

 変わらぬ愛、真実の愛です。一時的でなく、いつでも示してくれる親切であり優しさです。

19:23 主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。19:24 なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。

 ものすごい描写ですね。食欲はどんな欲求にもまさると思っていましたが、怠惰だけは違うようですね。確かに私のことを考えると、男ですから(?)自分で料理するのが面倒なときがあります。

19:25 あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる。

 知恵があれば責めるだけでいいですが、そうでない者にはむち打ちをしなければいけない、ということです。

19:26 父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。

 モーセの律法に従えば、反抗する子は石打ちの刑に処せられます。

19:27 わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。

 つねに御言葉を聞き続けなければいけないことを教えています。

19:28 よこしまな証人は、さばきをあざけり、悪者の口は、わざわいをのみこむ。

 つまり証拠をつきつけられて、その悪事が暴かれても、なおも大口を叩いている姿です。けれども、次をご覧下さい。

19:29 さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。

 いくら大口を叩いても、結末はいっしょです。裁きとむちが用意されています。


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