箴言20−22章前半 「判断をくらます物」

アウトライン

1A 強い酒 20
2A 争い好きな女 21
3A 富について 22:1−16

本文

 箴言20章を開いてください。今日は20章から2216節までを学びます。ここでのテーマは、「判断をくらます物」です。

1A 強い酒 20
20:1 ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。

 この20章から、箴言に新しい話題が出ています。お酒の問題です。クリスチャンの間でも、酒についていろいろな意見があります。ある人は、「聖書は酔いしれることを禁じているだけで、酒を飲むこと自体は罪ではない。」と教えます。またある人は、「どこまでが酔いしれることなのか、その境界線を引くことはできない。酒をいっさい飲まないことが神のみこころだ。」と教えます。果たして何が正しい意見なのでしょうか?

 この後にも何回か酒についての格言が出てきますが、ここでは聖書の中に出てくる「ぶどう酒」の定義について話したいと思います。ここに「強い酒」と出ていますね。これが当時の酒について理解する鍵です。聖書の時代に、「ぶどう酒」あるいは「ワイン」という言葉を使うとき、ぶどう汁全般を指します。つまり現在の「グレープジュース」も、ぶどう酒の一つとして数えられていたのです。

 酒ぶねにぶどうの実が放り込まれて、それを押しつぶして出てくる新鮮な汁は、「良いぶどう酒」つまり良質のぶどう酒でした。カナの婚礼のときに、イエス様が水から変えられたぶどう酒を、披露宴の幹事の人が、「良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。(ヨハネ2:10」と言いましたが、それはまだほとんど発酵していない、採りたてのぶどう汁のことを意味していました。

 そしてパウロがテモテに、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。(1テモテ5:23」と言いましたが、当時だけでなく現在でもイスラエルでは、風邪を引いたとき等にグレープジュースを飲むことを勧めます。滋養のためです。イスラエル人の医者は、風邪のときにアルコール飲料を勧めたりしません。レストランでも、またナイトクラブでさえ、ワインと同じ瓶で出てくるものがありますが、ワインではなくグレープジュースです。

 そして、ぶどう汁が七日経つと、また別の壷または皮袋に入れます。この時に、「新しいぶどう酒」と呼ばれました。40日間以内のぶどう酒は、「注ぎのささげもの」として主へのささげ物の一つとして使用しました。その後にその発酵の速度が速くなり、ささげ物としては用いません。そして、過越の祭りのときに用いられたぶどう酒は、三分の一を水で薄めました。発酵されたアルコール飲料ではないように、念を入れていたのです。

 もっとも長く保管されたぶどう酒は当時せいぜい3年間でした。その後はみな破棄しました。「古いぶどう酒」と呼ばれているものは、少なくても一年間は経っているものです。

 このように「ぶどう酒」と呼んでいるものは、現在のワインの定義と異なります。ここ箴言30章1節に出てくる「強い酒」は、いわゆる現在の「ワイン」の範疇に入ります。したがって、「聖書では酔いしれてはいけないとだけ書かれているだけで、酒自体を禁じてはいけない。」という意見は通用しません。現在定義されている「酒」は、アルコール飲料のことを指しているからです。

 アルコールが人々に、どのような悪い影響を与えるのか、箴言で多く語られています。もちろん新約聖書にも語られています。「酩酊」とか「酔いしれる」とか、アルコールがもたらす結果について書いてあります。ここでは、「あざける者」「騒ぐ者」とあります。箴言で数多く戒められている、あざけりを酒はもたらす、ということです。

 どうでしょうか?正直に酒を飲んだ後のことを考えてください。私たちは聖霊に満たされれば、喜びと笑いがもたらされます。けれども同じようにストレス発散のために酒を飲むときに、聖霊と同じような喜びと笑いがもたらされるでしょうか?いいえ、かえって嘲りです。笑っているのですが、悪口や罵倒、また人に迷惑をかける行為をします。

20:2 王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。

 バビロンの王ネブカデネザルのことを思い出してください。自分の夢を言い当てなかったために、知者たちをみな滅ぼそうとしました。メディヤ人の王ダリヨスも、自分の部下を怒って獅子の穴に投げ入れましたし、ペルシヤの王アハシュエロスも、ハマンを怒って、ハマン自身が作った杭にかけるように命じました。

 権力というものは、このように力のあるものです。神は権力をこのように王や国、社会に与えておられます。

20:3 争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。

 「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ13:18」とパウロは教えました。争いを引き起こすのは、肉に属しているからだと言っているところもありますね。「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。(1コリント3:3」霊的に良い栄養が与えられていないと、争いを引き起こしたがります。ねたみを抱きます。

20:4 なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。

 いわゆる「蟻とキリギリス」の教訓です。ただイスラエルでは、秋の収穫だけでなく、麦など春の収穫があります。それは冬に耕して準備しないといけません。寒いからといって外に出ない、という怠け心が出てきてしまうわけです。

20:5 人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。

 箴言の中では、言葉についての格言がたくさんあります。そしてその言葉は、人の心の深いところから出てくるものであると定義しています。ここでもそうです。別の訳では、「心」ではなくて「霊」と訳しています。第一コリント2章に、「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。(11節)」とあります。霊から、あらゆる英知が湧き出るのです。

 私たちはとかく、自分の周囲で起こっている問題について、その外側の要因を考えます。社会問題であれば制度的なもの、例えば「学校の教育が悪い」とか。夫婦の問題であれば、「夫婦間のコミュニケーション」であるとか。けれども外側の小手先のことでは解決しません。心の奥深い部分、霊の部分で知恵が欠けているために起こっている問題なのです。だから御言葉が必要だし、主との霊にある交わりが必要なのです。

20:6 多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。

 自分が助けを必要としている時、困っている時、「何々をしてあげましょう。」と言ってくれる人たちがいます。その中で実際に行なってくれる人、また継続的に助けてくれる人がどれだけいるでしょうか?

 大事なのは、口にしていることではなく、実際に行なっているかどうか、忠実かどうか、です。「なすべきことをしただけです。(ルカ17:10」と言えるようなしもべになりましょう。

20:7 正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。

 正しい行ないは、その場限りのものだけでなく、その後にも祝福を与えます。その筆頭は主イエス・キリストご自身です。主がただ一度行なわれた、十字架に至るまでの義の行ないによって、キリストを信じる者がみな義の賜物を受け、永遠の命を受けることができています(ローマ5:18)。

20:8 さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。

 上にいる者は神から権威が与えられています。それゆえ、悪をふるい分ける能力が与えられています(ローマ13:1)。

20:9 だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。」と言うことができよう。

 聖書の中でこれは非常に大切な教えです。人間は堕落している、考えることは悪であるという前提です。性悪説と性善説のどちらをキリスト教は信じているかとよく聞かれますが、間違いなく性悪説です。

 ソロモンは、神殿の建設が完成した後で、神殿を奉献する時に祈りをささげました。その時の主な願いは、「罪を赦してください」というものでした。そしてその中で彼は、「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」と付け加えています(1列王8:46)。

 だからこそ、ソロモンは箴言の中で主に自分の道をゆだねよ、結果は主がもたらす、と何度も何度も自分に頼らないようにすることを教えているのです。主を恐れて悪から離れよ、と教えます。自分に対する信頼をこれっぽっちも残さないでいなさい、と教えているのです。

20:10 異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。

 ビジネスのとき、商取引のときごまかしてはいけない。公正でいなさい、という教えです。

20:11 幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。

 「だれが罪をきよめたと言えるのだろうか。」という教えは、幼子にも通用します。子供にも罪があります。子供を観察すれば、大人と同じようにプライド、高慢があります。大人と同じように嘘をつきます。大人と同じように不品行の罪を犯します。そして自分の悪事を隠そうとすることも、大人と同じです。

20:12 聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。

 これは物理的な耳、目のことも意味しますが、霊的な耳、霊的な目のことも意味します。神の声を聞くことも、また神からの幻を見ることも、どちらも主が人間に与えてくださいました。生まれながらの人は霊的に死んでいるので聞くことも見ることもできませんが、御霊によって新生した人はその能力が回復されます。

20:13 眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる。

 朝起きるのが辛いことがたくさんありますね。でもその辛さも実は祝福なんです。「パンに飽き足りる」という約束がここにあります。

20:14 買う者は「悪い、悪い。」と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。

 人間の不思議な心理です。購買するときの駆け引きにおいてだけでなく、食べず嫌いなどにも見ることができる心理です。一度食べたらおいしいからどんどん食べるのに、それまではその食べ物について、いろいろ食べない理由を付けます。

20:15 金があり、多くの真珠があっても、知識のくちびるが宝の器。

 金で動いてはいけない、ということです。悲しいかな、教会やキリスト教団体でさえ、霊的な知識ではなく金で動く場合があります。だれが一番献金したかで、その団体に影響力を行使してみたりします。

20:16 他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。

 連帯保証人になることがいかに危険に満ちたことかは、以前習いました。最悪の事態を考慮して対策を練りなさい、という教えです。

20:17 だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。

 瞬間だけの喜び、ということです。他のすべての罪について言えるでしょう。罪をするときまではその快楽を保証しますが、罪を犯した直後にとんでもないことをしたことに気づきます。

20:18 相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。

 以前も何か大きな事業を行なうときに、密議をこらす必要のあることに言及しました(15:22参照)。

20:19 歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。くちびるを開く者とは交わるな。

 人の悪いことを言っている人は、あなたの大事な秘密も他の人に話しています。だからそのような人は避けたほうがいいです。

20:20 自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える。

 両親を呪う者に対する呪いが、モーセの律法に書かれています(申命記27:16)。

20:21 初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。

 箴言は一貫して、自分の勤労の実こそが自分を満足させることを教えています。だまして得た利益だけでなく、正当な相続財産であっても同じことです。

20:22 「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。

 「復讐はわたしのすることである。(ローマ12:19」と主は言われます。だから主を待ち望みます。ダビデがその模範です。彼は、自分に対して悪を行なうサウルに決して手をかけることはしませんでした。ナバルを打ち倒そうしましたが、その妻アビガイルが知恵をもって制しました。その後、ナバルは死にました。

20:23 異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。欺きのはかりはよくない。20:24 人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。

 自分で定めると思っている人が非常に多いです。また自分の道を理解していると思っている人があまりにも多いです。そのために日本では、鬱になる人が増えています。主に任せることを覚えなければいけません。

20:25 軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。

 主が、「誓ってはならない」と言われた根拠がここにあります。考え直すのであれば、始めから言わなければ良かったのです。イエス様は、ご自分についてくる群集に対して、塔を建てるときに費用を計算するでしょう、ということを言われました。基礎だけ築いただけで完成できなかったら、他の人たちはあざ笑うだろう、と言われました(ルカ14:2830)。

 塩気のない塩、信仰のない信仰者・・・矛盾する表現ですが実際にいます。そのような塩だったら塩がないほうがましだし、また不信者であるほうがましなのです。一度決心したことを貫徹しないことの結果です。

20:26 知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。

 悪を行なった者に対しては権威からの制裁がある、ということです。

20:27 人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。

 先ほど人の霊の深さについて学びましたが、霊と息の間には密接な関係があります。実際、主が人にご自分の息を吹きかけられて、人は生きる者となりましたが、その息は主の霊でした(創世2:7)。人の霊の中で起こっていることが息となり、それが言葉として発せられます。ですから言葉は人の人格そのものであり、その人の霊の表現なのです。

 ギリシヤ語には言葉は二つありますが、一つはロゴスです。書かれた言葉です。もう一つはレーマであり、語られる言葉です。ロマ書10章では、信仰は私たちの心と口に存在し、心で信じて口で告白するから救われる、と教えています。そして信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての言葉である、と言っているのです。

20:28 恵みとまこととは王を守る。彼は恵みによって王位をささえる。

 恵みとまことに満ちておられる方は誰でしょうか?ヨハネ伝1章14節によると、神の独り子イエス・キリストです。

20:29 若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。

 多くの活動している事柄で良い評判を得ていることが、若者にとっての力です。その後、活動は多くできなくなりますが、その白髪には威厳があります。

20:30 打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。

 「口で言えば分かる」という考えが、人権重視というお題目で語られます。けれども、知恵がない人にはどんなに語っても無理なのです。懲らしめが必要であることをここは教えています。

2A 争い好きな女 21
21:1 王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。

 これまでソロモンは、王が大きな権力を持っていることを語っていました。悪を行なう者を車輪で引き回す、とまで言っています。それだけ偉大な王であっても、実は主の手の中で流れる水のようだと言っているのです。

 ダニエル書を読んでください。そこには、世界の超大国の王が主の手の中でまさに水のように流れている様を読むことができます。そして、ルカによる福音書2章によると、ローマ皇帝アウグストが全住民に住民登録をせよという勅令を出しました。出生地に全住民が戻れと命じているのですが、さぞかしアウグストは自分の権力を誇ったことでしょう。

 しかし彼は、神の御言葉を成就させるために使われたにしか過ぎないのです。ナザレの町に住んでいたヨセフは、身重のマリヤを連れて生まれ故郷ベツレヘムに戻りました。そしてベツレヘムで住民登録をしているその時期にイエス様がお生まれになりました。ミカヤ書には、ベツレヘムでメシヤが生まれることが預言されています。

 私たちは、神に選ばれた平凡な市民、力のない人間にしか過ぎません。そして絶対的な権力を持っている国の指導者らの動きを私たちは毎日ニュースで見ています。けれども、私たちが信じる神は、これら力を持つ者たちをご自分の手の中で水のように流れを変えさせておられます。

21:2 人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。

 再び出てきましたね、私たちは自分が正しいと思うから行動しますが、私たちの心の深いところ、そこにある暗い部分に気づいていません。主がその深みを探り出されます。

21:3 正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。

 教会活動をしている私たちには、大きな警告です。祈りをし、聖書を読み、教会の礼拝に参加する私たちが、実際の生活の中で正義と公義を行なっていなければ、私たちの活動は主にとって耐え難いものとなります(イザヤ1:1317参照)。

21:4 高ぶる目とおごる心・・悪者のともしびは罪である。21:5 勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。

 私たちは結果が出ないといらいらします。けれども主の約束は、勤勉であれば必ず利益をもたらす、というものです。善を行なうのに飽いてはなりません(ガラテヤ6:9)。

21:6 偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。

 ビジネスにおいて正直であることは、難しいです。しかしここの御言葉を思い出しましょう。嘘をついて収益が出たところで、それは吹き払われる息のようだ、ということです。吹き払われるだけでなく死に至ります。

21:7 悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。21:8 罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。

 罪を犯している人の答弁は、回りくどいです。まっすぐに話すことができません。また、いろいろな問題についての議論も、非常に複雑です。聖書の中でも同じです。イエス様が離婚をしてもよいかどうか律法学者から問い詰められた時に、「モーセはあなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。(マルコ10:5」と言われました。心をかたくなにするという問題がなければ、モーセは離婚状についての戒めを書く必要はありませんでした。罪の道は曲がりくねりますが、きよい人の行ないはまっすぐです。

21:9 争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。

 ものすごい対比ですね。社交場と屋根の片隅です。でも合計千人の妻とそばめを持っていたソロモンは、この現実を身をもって知っていたのでしょう。

21:10 悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。

 私たちは隣人への接し方で、自分の行ないが試されます。遠くにいる人であれば、いろいろ憐れんだり、良くしてあげようと思うことができます。けれども近くにいる人は、自分の嫌な部分も見えてきます。摩擦もあります。けれどもその人にも親切にすることができるのか、が問われています。

21:11 あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。

 先ほども出てきましたが、わきまえのない者には鞭、というのが箴言の教えです。知識を与えても受け取ることができない人に残されているのは鞭です。

 私たち信者も、一つのことを辛い経験を通して学ぶか、それともただ従順によって学ぶかの選択が与えられています。預言者ヨナのように、主に召しのとおりに動くことを、大魚の腹の中に三日三晩いることによって学びました。けれども本当はそのような辛い経験を通らなくても良いのです。

21:12 正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。

 信仰によって生きる人は、他の人が気づいていないものであっても気づくことがあります。この人は神の目には悪いことをしている、と気づきます。このようなことに気づくと、私たちの心は痛みます。けれどもちょうどアブラハムがソドムとゴモラのために執り成したように、執り成しの祈りをささげましょう。その人が滅ぼされず、救いを得ることができるよう、神があわれんでくださるよう祈りましょう。

21:13 寄るベのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。

 寄るべのない者たちの叫びは、神が聞いておられます(ヤコブ5:4)。だから私たちは、このことについて神に対して責任があるのです。

21:14 ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。

 現実の話ですね。民事裁判は、基本的にこの考えによって行なわれています。和解をし、どちらかが謝罪金を払うとか。怒りを贈り物でなだめるという方式です。

21:15 公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。

 同じ公義なんですが、人によって全く違ったものになります。テサロニケ人への手紙第二1章に、主が来臨されたときに、このようになります。「そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。(7-10節)

21:16 悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。

 死者の霊たちの集会とは、陰府のことです。永遠の火の裁きを待つ人々のところに落ちる、ということです。

21:17 快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。

 再び「ぶどう酒」が出てきました。先ほどは、お酒を飲むと人はあざける、とありましたが。ここではお酒を飲むと貧しくなることが約束されています。またお酒が快楽とともに語られています。

 世の中にはお酒を飲む人があまりにもたくさんいます。そして、お酒は楽しむ、心を和ませ、リラックスさせてくれる嗜好品として受け入れられています。けれども同時に、酒がどれだけ多くの人の人生を狂わせているか、財産を失い、家を失っているかについて語られることはありません。闇の部分だからです。でもこれが現実なのです。お酒を飲むことは知恵のないことなのです。

21:18 悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。

 神の審判は、逆転劇といっても良いでしょう。イエス様が、貧しい者は幸いであり、御国では富む者となることを約束されました。反面、富んでいる人は貧しくなります(ルカ6:25参照)。これがここで書かれていることです。

21:19 争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。

 再び出てきました、ものすごい対比です。荒涼とした荒野を思い浮かべてください。こっちのほうが、うるさい女といるよりましだ、と言っています。

 やはり箴言では、女性の役割が非常に大切であることを教えています。夫婦の中で、家庭の中で、そして社会において、女性の働き如何ですべてが変わります。母の日だけでなく、私たちはいつも妻のこと、母のことを感謝すべきでしょう。

21:20 知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。21:21 正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。21:22 知恵のある者は勇士たちの町に攻め上って、その頼みとするとりでを倒す。

 知恵は要塞をも打ち破る力を持っています。私たちが物理的に不可能だと思っていることに対しても、果敢に信仰によって進み出てください。エリコの町を攻略したヨシュアたちは、ただ主の御声に聞き従い、その通りに行なっただけでした。

21:23 自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。

 言葉の大切さです。

21:24 高ぶった横柄な者・・その名は「あざける者」、彼はいばって、横柄なふるまいをする。21:25 なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。21:26 この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。

 怠け者と欲望は密接に結びついています。自分がやりたいことだけを一日中やっているから、働くことができないのです。

 また、「正しい人は与えて惜しまない」との対比が興味深いです。怠けている人はもらうことばかり考えています。教会の中にそういう者がいるから戒めなさいという命令を、パウロがテサロニケにいる人々やテモテに話しています(2テサロニケ3:614、1テモテ5:1113)。

21:27 悪者のいけにえは忌みきらわれる。悪意をもってささげるときは、なおさらのこと。

 先ほど見たように、正義を行なわないでいけにえだけささげるのは、主に忌み嫌われます。そしてここでは、さらに悪意をもってささげることについて述べています。主へのささげものを、悪い動機でささげることがあります。例えば、自分の献金によって教会で発言権を強めようと考えることなのです。

 聖書の中で悪い動機でささげた人の例として、カインがいます。「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。(1ヨハネ3:12」同じ、いけにえをささげるという行為でも、アベルのは正しくカインのは悪かったのです。これは動機の違いです。

21:28 まやかしの証人は滅びる。しかし、よく聞く者はいつまでも語る。

 私たちは聞き上手になることによって、真に人々の心に残る言葉を語ることができます。

21:29 悪者はあつかましく、正しい者は自分の道をわきまえる。

 慎み深さを持つことの教えです。

21:30 主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。

 口語訳では、「主に向かっては」と訳されています。主に対抗しようとして、いろいろな知恵や英知を働かせても、役に立たないということです。次も読んでみましょう。

21:31 馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。

 いろいろ知恵を働かせて、戦いを主に対して行なう時が定まっていますね。そうです、ハルマゲドンの戦いです。全世界の軍隊がイスラエルに集まってきて、神とキリストに反抗します(詩篇2:13、黙示16:1216等)。けれども、それらの軍隊によって滅ぼされそうになっているイスラエルの残された者、またエルサレムの住民は主によって救われます(ゼカリヤ14:15)。

 これが終わりの時に起こることですが、私たちの生活、人生においても同じことが言えます。私たちの生活は闘いでしょうか?何かにいつまでも対抗している状態でしょうか?しかし真理に対して戦っても、それは役に立ちません。神に降参して、白旗を振るときに私たちに救いが訪れます。

3A 富について 22:1−16
22:1 名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。

 評判を得ること、信頼を得ることは非常に難しいことです。わずかの欠点があると、人々の心は離れていきます。ですから銀や金よりも貴いものなのです。

22:2 富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。

 再び富に関する格言ですが、ここでは主の前では富んだ者も、貧しい者も、みな平等であるということです。ロマ書3章に、「すべての人の口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(19節)」とあります。イエス・キリストは、私たち人間を完全に平等にされます。どんな経済的な背景を持っていても、どんな民族であっても、どんな教育水準であっても、キリストの十字架の前ではみな平らなところに立っているのです。

22:3 利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。

 私たちの罪の性質は、悪に対する奇妙な好奇心を持っています。悪や災いを見たら、それに手を出したいという破壊的な心を持っています。

22:4 謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

 聖書また箴言が教える、二つの尊い特質です。謙遜と主を恐れることです。

22:5 曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。

 いばらは、いつできましたか?アダムが罪を犯した後で、いばらが土から生え出るようになりましたね(創世3:18)。痛みと苦しみをもたらす象徴です。

22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。

 口語訳では「子を」と訳されています。若者よりも若い、子供の時から主の道を教育します。そうしたら年老いても離れない、という約束があります。すばらしい約束ですね。クリスチャンの親は、ぜひ模範によって、そして家庭礼拝の中で主を教えていきましょう。

 教会学校の先生は、その奉仕がいかに栄誉なことかを知りましょう。私は多くの小学生の子たちに聖書を教えました。その子たちがその後、またイエス様に戻っていく姿も見ています。なんとすばらしいことでしょうか!この6節の御言葉のとおりに、主は必ずしてくださいます。

22:7 富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。

 連帯保証人になるなという戒めもありますが、その理由の一つがこれです。お金の貸し借りによって、その人間関係は主人と奴隷の関係になってしまうからです。

22:8 不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。彼の怒りの杖はすたれる。

 不正を働いている者は、真実が明らかにされていくと、脅威を感じて怒ります。終わりの時も、諸国の民が、キリストの現われの前に怒ることが預言されています(黙示11:18)。現在でも、キリスト教的な価値観に対して、政治家や世論が反発しているのを見ます。

22:9 善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るベのない者に与えるから。

 再び施しをすることについての教えです。

22:10 あざける者を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く。けんかも、悪口もやむ。

 教会の戒規の中に、反抗する者を追い出しなさいという命令があります。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。(ローマ16:17」もちろん、自分たちの意見に合わない人をみな追い出せ、という意味ではもちろんありません。しかし、たとえ正論であると主張しても、あざけり、争い、けんか、悪口はキリストの共同体とは相容れないものです。静かに去る、という選択肢もあるのです。

22:11 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。

 私たちはその反対だと思ってしまいます。王に近づくことができるのは、他の者たちを蹴落として悪賢く動く者たちだと思いますが、実は王が信頼する人はその反対の人なのです。

22:12 主の目は知識を見守り、裏切り者のことばをくつがえす。

 真理は必ずその通りになります。それに反する言葉があっても、それを覆す証拠を発見させることもあります。聖書についての考古学がその一つでしょう。聖書記述どおりであることが、考古学の発展とともに明らかにされています。

22:13 なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。

 自分が怠けて出勤しない理由をいろいろ付けるわけです。ライオンが外にいるから、私は働きに出て行けないと。

22:14 他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。

 他国の女は売春婦のことです。聖書は一貫して、不品行、好色に対する神の怒りを啓示しています。

22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。

 子供への体罰の是非が論じられています。非常に難しい問題です。方や甘やかして何の躾もできていないのに、体罰と称する虐待事件が後を絶ちません。

 杖を使うかどうか、これは各人の親が判断すべきことですが、決して忘れてはいけないのは、「愚かさは子どもの心につながれている」という事実です。親が教えない限り、子はその善悪をわきまえ知ることができないのです。なぜ熱いストーブに触ってはいけないのか。なぜ赤信号をわたってはいけないのか。

 私たちは怒りにまかせて、子供をぶっては決していけません。けれども、その愚かさを断ち切るための何かをしなければいけません。ある時には杖でしょう。お尻ぺんぺんですね。他にも方法はあるかと思いますが、決してそのままにしておいてはいけません。

22:16 自分を富まそうと寄るベのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる。

 主は、貧しい人を利用して富を増やそうとする人に、怒りを発せられます。

 今日はここまでにしたいと思います。17節から箴言の形態が少し変わります。これまでは、一節一節が独立した格言になっていました。前の節との関連がない場合がほとんどでした。同じ話題は繰り返し出てくるのですが。けれども次から二節以上の単元になっています。同じ内容が二節以上にわたり書かれています。そしてそれが24章まで続きます。次回はそこを学びます。


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