詩篇119篇1−88節 「主の言葉」

アウトライン

1A アレフ 全き心 1−8
2A ベス 清め 9−16
3A ギメル 地の旅人 17−24
4A ダレス 悲しみ 25−32
5A ヘ 仰せの道 33−40
6A ワウ 人への証し 41−48
7A ザイン 慰め 49−56
8A ヘス 主がすべて 57−64
9A テス 苦しみの教訓 65−72
10A ヨード 希望 73−80
11A カフ 人生のトンネル 81−89

本文

 詩篇119篇をお開きください。今日は聖書の中でもっとも長い章である詩篇119篇を学びます。ここでの主題は、もちろん「神の御言葉」です。神の「ことば」「教え」「さばき」「仰せ」「戒め」など、神の御言葉についての言葉が、ほとんどの節に登場します。出てこないのは三つの節しかないと言われています。

 そして詩篇の中には、アクロスティック(acrostic)と呼ばれるものがありますが、119篇はその代表です。それぞれの段落の語頭の文字が、アレフ、ベス、ギメル・・・とヘブル語のアルファベットの順番になっています。ユダヤ人の子どもは、この詩篇を丸ごと覚えるそうですが、段落の語頭がアルファベットの順になっているので、その分覚えやすいのです。

 それぞれの段落が、神のみことばについて何を主題にしているか考えながら読んでみましょう。

1A アレフ 全き心 1−8
 初めは、「アレフ」です。

119:1 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。119:2 幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。

 初めの主題は、「全き道」です。主の道を全うする、完全に果たすことです。イエス様は、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48」と言われました。またコリント第二7章1節には、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」とあります。

 これは「完璧になりなさい」ということではありません。聖書が言っているように、罪を犯さない者は一人もなく(1列王8:46)、罪がないと言ったらそれは偽りだからです(1ヨハネ1:8)。けれどもここの2節にあるように、「心を尽くす」という言葉に「全うする」の意味があります。二心ではなく、一心に主にお仕えして、みことばを守り行なっていくという意味です。

 私たちが、片方は世の中に足を突っ込んで、もう片方が神さまのほうを向いていることがよくあります。神様の世界も楽しいけれども、世の中の楽しみも味わいたいと願います。けれども、私たちが良く知っているのは、そのような二心でいると、神様の世界も楽しめないし、世の中も楽しめないのです。

119:3 まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。119:4 あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。119:5 どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

 「堅くする」という言葉は英訳の聖書では"diligent"になっています。「勤勉」と訳すことができるでしょう。あるいは、「しっかり取り組む」と言ってもいいでしょうか。主の御言葉は、しっかりと取り組まなければいけない類のものです。何となく、薄べったく、聖書の言葉を読んだり聞いたりしていたのであれば、御言葉がその人の心の中に宿ることはありません。

119:6 そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。119:7 あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。

 ご聖霊が、御言葉を通して私たちの罪を明らかにして、私たちが悔い改め再び神に立ち返るようにしてくださいます。私たちが、自分たちの罪が明らかにされることを嫌がるなら、また、自分のやり方を変えることを嫌がるなら、御言葉を聞くことは苦痛以外の何物でもありません。

 聖書とは何かを説明している箇所がありますよね。テモテ第二3章16節です。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」まず教えがあります。そしてその教えによって誤りが明らかにされます。それが戒めです。そしてその誤りを正します。それが矯正です。そしてその教えにしたがって歩みます。それが義の訓練です。自分が、神のやり方にしたがって、変わるのです。

119:8 私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。

 主の御言葉に留まることによって、私たちは多くの実を結ぶと、ヨハネの福音書にあります。

2A ベス 清め 9−16
 次はベスです。ここは御言葉と清めに関する箇所です。

119:9 どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

 清く保つことができる方法が明確に書いてありますね。御言葉に従って、それを守ることです。私たちが清く自分を保つための方法がいろいろ提案されます。どうすれば怒りを抑えることができるのか、どうすれば嘘をつく悪い癖を直すことができるのか。それは、御言葉です。

 自分が弱い部分、誘惑を受ける部分について、たくさん祈ることも必要でしょう。けれども、本質的には、その誘惑に抵抗する力は御言葉にあります。主ご自身が、「こう書いてある」と言われて、悪魔の誘惑を退けられました。

119:10 私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。119:11 あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。

 心に蓄えることがいかに大切でしょうか。御言葉は頭で整理するものではなく、心の中に宿すものです。先ほどの、「堅く保つ」あるいは「しっかり取り組む」に関わってきます。私たちが、自分の肉の弱さに打ち勝つことができないとき、それは、神の御言葉がまだ心の深いところに浸透していないからと言うことができます。頭の中で聖書の言葉を振り回しても、そこには力がありません。霊の部分おいて、御言葉に裏打ちされた力をもって抵抗するとき、打ち勝つことができます。

119:12 主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。119:13 私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。

 御言葉によって清めの力を経験すれば、ここにあるように自分の口から賛美が出てきます。そして他の人にも神の御言葉について語りたいと願うようになります。

119:14 私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。119:15 私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。119:16 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

 神様の言葉が実に慕わしいものになってきます。

3A ギメル 地の旅人 17−24
 次は「ギメル」です。ここでは私たちがこの地上において、旅人であることが書かれています。

119:17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

 エペソにいる信者たちに対してパウロが、「心の目がはっきりと見えるようになる」ことを祈っていますね(1:18)。神がキリストにあって、どれだけ豊かにあしらってくださっているのか、どれだけ奇しいことを行なってくださっているのか、それらを、神を知るための知恵と啓示の御霊によって、悟ることができるように、と祈っています。

119:19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。

 17,18節でいのった祈りは、自分が地上で旅人だから、という事に基づいています。地上にあるもの、目に見えるものによって、私たちが霊的財産、天の資産が見えなくなってしまうことがあります。ちょうど何日も曇りが続いて憂鬱な気分になるのと同じです。だから、神の御言葉にある希望が隠されないように、とここで祈っているのです。

 アブラハム、イサク、ヤコブの旅のことについて、ヘブル人への手紙には、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(11:13」とあります。ペテロの手紙第一にも、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。(1:17」とあります。私たちはここに属していないのです。旅をしているときの不便は、皆さんご存知だと思います。また外国の地に住んでいる方々は、もっとこのことの意味がお分かりだと思います。たとえ日本の国でも、私たちが御霊によって新たに生まれたなら、もうそこは自分の国ではなくなるのです。

 そこで次のような呻きになります。

119:20 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。

 もし神に捕えられていないのであれば、このような呻きを経験することはありません。この地上での暮らしに満足できず、後に来る神の国を切に待ち望まざるを得なくなるのです。

119:21 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。119:22 どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。

 主は、私たちを愛するがゆえに、私たちが罪の中で滅びる事を由とされないがゆえに、鞭を使われる時があります。しかし、それは後に平和の実を結ぶ幸いへと導きます。

119:23 たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。

 この地上で力を持っているのは、もちろん国の指導者などの権力者です。私たちは、この地上で生きている間、いろいろな世の制度と違う行動を取らなければいけませんが、時に国の方針と異なる方法を選ばなければいけないときがあります。

 聖書にもそのような記述がたくさんあります。ヘブル人から生まれてくる男の赤ちゃんをみな殺せと命じたパロの意向に反して、助産婦たちは赤ちゃんを生かしました。イスラエル人のスパイをかくまったラハブがいます。そして、世界の超大国の権力者ネブカデネザルに対して、公然と彼の命令に背いた、ダニエルの三人の友人がいます。

119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

 この地上における生活をしていて、私たちの相談相手になってくれるのは、神の御言葉です。

4A ダレス 悲しみ 25−32
 次はダレス、悲しみの中にいるときの御言葉です。私たちがこの地上で旅人であれば、また悲しみも多くなります。罪によって呪われているがゆえに起こる不幸があります。そのことを歌っている箇所です。

119:25 私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。

 ちりに伏している」とは、死にかけている、ということです。

119:26 私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

 自分のことをはっきりと主に告げたら、主が答えてくださった、ということです。主に自分の思いをはっきりという必要があります。

119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。119:28 私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。

 悲しみの時に私たちが必要なのは、自分を支えてくれる神の真理です。御言葉です。理解できないことが起こるとき、ある人が言いましたが、「理解できるところに戻る」ことです。例えば、誰かが交通事故で死にました。なぜ神がそれをお許しになったのか理解することはできません。けれども、神が良い方で、憐れみに富み、最善の計画を持っておられることは知っています。知っているところに戻るのです。

119:29 私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。119:30 私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。119:31 私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。

 悲しいことが起こって、偽りを信じる人がたくさんいます。誰かが死んで、こんなことをする神はひどい方だ、私は信じない、という結論を出します。そのような偽りを信じないで、真理の道を選び取り、神のさとしを堅く守る、という決意です。

119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

 私たちが主の言われるところを走っていれば、心が広くされます。パウロが、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:14」と言った時、彼の心は広くなっていました。同じ手紙の中に、「つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ1:18」とあります。主の仰せの中を走っている人たちを見ると、気持ちがいいです。心が限りなく神様のビジョンの中で広がっており、小さなことは神様にすべて任せているからです。

5A ヘ 仰せの道 33−40
 次は「ヘ」です。

119:33 主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。119:34 私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。119:35 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。

 ここに三段階があります。最初は「教えてください」です。次に「悟りを与えてください」です。そして最後に、「道を踏み行かせてください」です。まず、私たちが神の教えを聞き、それからその教えを理解し、そしてその理解にしたがって生活します。

119:36 私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。119:37 むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。

 私たちが神様の仰せの道を踏み行く時に、それることのないようにという祈りです。一つ目は不正の利得です。そしてもう一つが、むなしいものです。

 私たちには、むなしいものにかえって好奇心を抱く傾向があります。エデンの園で起こった時のことを思い出してください。そこに実を結ぶ木がどれだけあったのか知りませんが、数知れずあったと思います。その中のたった一本の木からの実を取って食べてはならない、というものだったのです。十万本あったとしたら、99999本は自由に食べてよかったのです。なのに、その一本に好奇心をよせ、惑わされました。

 悪魔は、私たちに今すぐの実現と満足を約束します。「これを食べたら、神のように賢くなるよ」とエバに吹き込みました。また荒野にいるイエス様に対して、「これらの世界の栄華をすべてあなに与えよう」と誘いました。今すぐに手に入るよ、という誘いかけです。けれども、その誘いに乗ったら、すぐに空しさが襲ってくる事を私たちは知っています。悪魔の約束は果たされず、かえって、空しさと恥と罪責感と傷だけが残ります。

 そこで、「むなしいものを見ないように、私の目をそらせてください」という祈りがあるのです。そして「目」という体の器官も非常に大切です。主は、「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。(マタイ6:22-23」と言われましたが、私たちが目で見るものによって、私たちが全身で行なうことが決定されます。ヨハネ第一には、この世とは、目の欲、肉の欲、そして暮らし向きの自慢だとあります(2:16)。ですから、「目をそらす」行為が必要です。

119:38 あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、あなたを恐れるようにしてください。119:39 私が恐れているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。119:40 このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。どうかあなたの義によって、私を生かしてください。

 主のみことばどおりに、物事が起こるようにしてください、という祈りです。確かに主がだめだと言ってその通りに行なったら、惨めな思いになった。そのような失敗や教訓を通して、主をさらに恐れるようになります。

6A ワウ 人への証し 41−48
 次は「ワウ」です。

119:41 主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。

 神様の御言葉には、「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。(ローマ10:12-13」みことばどおりに、主の恵みと救いがもたらされます。

119:42 こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。119:43 私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。

 この世では、私たちはそしりを受けます。神の仰せをそのまま信じている人に対して、いかに偏狭で古臭く、そしていかに危険であるかを話します。けれども、その時に正しく弁明することができるように、と祈ります。また、恐れたり恥ずかしがったりして、自分の口から真理の言葉がなくなることがないように、と祈っています。

119:44 こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。119:45 そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。

 神様に語られたことはその通りになる、という確信があれば、私たちの歩みは大らかになります。主が死なれた後ユダヤ人を恐れて、戸を閉めていた弟子たちのようではなく、主が言われたとおりに復活してくださったことを知って表に出て行った弟子たちのように、主が言われることはその通りになるのだという確信は、私たちを変えます。

119:46 私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう。

 仮に私たちが首相官邸に連れて行かれ、自分の信仰について説明を求められても、私たちは恥を見ることはない、ということです。主が復活されたこと、そして再びまた来られること。主を今信じれば、救われること、などは、世の論理からすればあまりにも愚かなことです。けれども、実際に御言葉に成るのだと知れば、恥を見ることはありません。

119:47 私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。119:48 私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。

 御言葉に対する愛情表現です。

7A ザイン 慰め 49−56
 次は「ザイン」です。ここでは御言葉がそのとおりになることによって、慰めを得る内容です。

119:49 どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

 主がエペソある教会に対して、「初めの愛から離れてしまった。初めの行ないをしなさい。(黙示2参照)」と言われた時、具体的には、私たちに与えられた神の御言葉があります。それをいつしか忘れてしまった。その信仰を表明したために誰かに馬鹿にされたとか、何かにつまずいて、初めの愛をどこかにおいてしまいました。主が十字架につけられた後の弟子たちがそうでした。

 けれども主は、彼らに御言葉を語られました。創世記から聖書全体にあるキリストに関する事柄を解き明かされました。そうしたらあのエマオの途上にいた弟子の二人の心は燃え上がりました。これが、ここで祈っていることです。「あなたのしもべへのみことばを思い出してください」という祈りです。

 思い出す働きは、ご聖霊がしてくださいます。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(ヨハネ16:13」私たちはいつも、このご聖霊の働きを求めていく必要がありますね。

119:51 高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。119:52 主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、慰めを得ました。

 主のみことばは、そのとおりに成ります。これは単純なことですが、これをあざける人たちがいます。キリスト教会内でもそのような動きがあります。主が再び戻ってきてくださること。これから大患難がやってくること。これらのことを話せば、ブッシュに象徴されるアメリカの宗教右翼、またイスラエル・フリークなどと貶されます。そして教会はどんどん人間中心になっており、この世が提示する平和を信じているようになっています。

 世界がどんなに、聖書がそのまま語っていることと違っているように見えても、聖書のことばはそのとおりになるのです!そのまま信じた者たちは、必ず報いがあります。必ず慰めがあります。「そのまま信じてよかった」という安堵感が必ず与えられます。

119:53 あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕えます。

 御言葉を愛する愛のゆえに、御言葉を捨てる者たちに激しい怒りを覚えます。

119:54 あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました。119:55 主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています。119:56 これこそ、私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。

 どんな所でも、どんな時にもみことばを思い出し、それを歌っています。パウロとシラスのことを思い出します。宣教旅行の地において、むち打たれ、牢に入れられます。夜、彼らは神に祈りつつ賛美の歌を歌っていました(使徒16:25)。

8A ヘス 主がすべて 57−64
 次は「ヘス」です。

119:57 主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました。

 「私は主だけおられればそれで十分だ。主がすべてだ。」という告白を心からすることができるでしょうか?それが、ここの「主は私の受ける分」の意味です。

119:58 私は心を尽くして、あなたに請い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。119:59 私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。119:60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。119:61 悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。

 自分が知らないうちに、いつのまにか、主の道からずれているようなことがあります。けれども、自分の道を顧みて、すぐに、急いでためらわずに、主のさとしのほうへ戻ります。どうでしょうか?私たちが悪や罪のほうに歩いているとき、ご聖霊が私たちに教えてくださいます。その時、ためわらずにその守りの中に自分を走らせればよいのです。

119:62 真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。

 先ほども出てきましたが、夜に主を思い出します。夜寝ている時、一番、神経の緊張が取れ、ゆったりしている状態です。そういう時に、主が慕わしい存在になっているでしょうか?それとも神様との関係が仕事のようになってしまうことはないでしょうか。

119:63 私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。

 主を恐れる人たちと一緒にいることは、すばらしいことですね。マラキ書に、「主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。(3:16」とあります。またテモテへの手紙第二には、「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(2テモテ2:22」とあります。

119:64 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。

9A テス 苦しみの教訓 65−72
 次は「テス」です。ここでは私たちが苦しむ時に、教訓を得ることができる内容になっています。

119:65 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。119:66 よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

 苦しみを通ることによって、良い分別と知識が与えられました。苦しみに遭う前は、無関心であった神の御言葉にも聞き入るようになりました。実は苦しみは神から来たものであり、神はとても良い方であることを知りました。

119:68 あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。119:69 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。

 自分が神の御言葉を知った後に、神の御言葉を気にもとめない者たち、あるいは御言葉に反対する者たちが、いろいろなことを自分に言います。「あなたが信じているのは、精神安定剤のようなものだ。精神的に弱くなったから、何かすがるものを求めただけで、元気になったのだからもう捨てればよい。」とか。けれども、自分は神の教えから離れません。

119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 神の教えを学ぶために、どれだけのことが必要でしょうか?自分が心身ともに健康であれば、神の教えなんか要らない、と言うところでしょう。だから、苦しみが必要でした。神の教えを受け入れるのに、別に苦しむ必要はありません。けれども、自分は苦しまなかったら、教えに聞き入ることはなかっただろう、ということです。

119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

 多くの人が金銀を求めますが、みことばは自分にとってそれ以上のものだ、と実感しています。

10A ヨード 希望 73−80
 次は「ヨード」です。ここは希望の箇所です。今現在、御言葉の約束どおりになってないように見えても、それでも御言葉を待ち望むことを描いています。

119:73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。

 主が自分を造られて、自分を形造られました。自分について一番よく知っているのは、主ご自身です。だから主が仰せになることは正しく、知恵と知識に富んでいます。

119:74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。119:75 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。

 ここで詩篇の著者が言っていることは、苦しみや悩みの時になお主を待ち望むことです。自分が怪我をして、入院したとしましょう。けれどもこれが神のご計画の一部であることを知っています。だから、喜んで耐え忍びます。自分の姿を見た兄弟姉妹も、自分の喜んでいる姿を見て、励まされ、喜びます。

 そこで著者は五つの願いを主に申し上げます。

119:76 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。

 第一に、自分に神が恵みを施してくださることです。

119:77 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。

 二つ目は憐れみです。具体的には自分が死なないでいることです。

119:78 どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。

 三つ目は、高ぶる者への辱めです。彼が信じているとおりに、神の御言葉どおりに回復すれば、あざける敵は恥を見ます。それを行なってください、と願っています。

119:79 あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。

 自分が苦しんでいる時は、孤独です。最初は慰めに来てくれる人もいるかもしれませんが、だんだん足が遠ざかります。けれども自分が回復して、主を知る人々が自分の周りに戻ってきます。

119:80 どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。

11A カフ 人生のトンネル 81−89
 それでは今日の最後の部分です、「カフ」です。ここでは「人生のトンネル」と呼べばよろしいでしょうか、人生の中でもっとも暗い時、その一番辛いときのことを描いています。

119:81 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。119:82 私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか。」と言っています。

 「慕って絶え入るばかり」とは、親しみを込めた表現ではありません。窮乏している状態、枯渇している状態です。ちょうど水がなくて死にそうになっている人が、水を求めているような状態です。

119:83 たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。

 「煙の皮袋のように」なるというのは、硬くなることです。煙で蒸すと、皮袋は硬くなります。自分がそのような状態になっていることを表現しています。

119:84 あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。119:85 高ぶる者は私のために穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。

 「穴」は罠をしかけていることです。今、自分が続けざまに迫害を受け、自分が落ちて堕落してしまうように、穴まで用意していると言っています。

119:86 あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。

 迫害者は、神の真理を捨てろと迫ります。それに耐え切れなくなっています。それで、「あなたの仰せはことごとく真実です。どうか助けてください。」と叫んでいるのです。

119:87 彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。119:88 あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。

 迫害の中にいるときの、神への叫びでした。イエス様ご自身が、同じような状況にある教会に対して、このような励ましを与えておられます。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示2:10

 次回は後半部分を学びます。


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