1A 勝利と祝福 144
まず詩篇の144篇と145篇ですが、この二つはダビデの最後の詩篇138篇からの詩篇の最後になります。前回読んだところは、彼が苦しみの中で主に叫び求めているところですが、最後の二篇は勝利と賛美で終わっています。
1B 砦なる主 1−4
144:1 ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。
地中海性気候下のイスラエルには、岩がたくさんあります。日本で田舎に行けば私たちが目にするのは緑の木々ですが、イスラエルでは黄褐色の岩です。彼らにとって岩は、私たち日本人以上に身近でよく目にする存在です。そこでダビデは、「わが岩である主」と主を呼んでいます。堅く、安定した存在、強い存在です。
そして彼は、自分の手と指を主が鍛えてくださると言っていますが、戦いが主によって行なわれることを話しています。ダビデの三勇士エルアザルという人は、「自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した(2サムエル23:10)」とあります。自分はしっかりと、主がくださったものをしっかりと握りしめているとき、主が勝利を収めてくださいます。
144:2 主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。
自分のリーダーシップの下に民が服することは、自分でできることではありません。主が行なってくださらなければ、人々を率いることはできないという意識です。
144:3 主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。144:4 人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。
他の詩篇の箇所では、天の月や星を見るときに、人は何者なのでしょう、とダビデが言っています。私も最近、飛行機に乗り、不思議な気分になりました。雲の動きが一つ一つ見えます。その上には青空が限りなく広がっています。この一つ一つを動かしておられるのは、私たちの主イエス・キリストです。そして飛行機に乗っている私がいます。何と小さな存在なのだろうと思いました。
ですから人間は息のようであり、日々は過ぎ去る影のようでありますが、それでも主は私たちに心を留めておられます。
2B 外国人の手 5−11
144:5 主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。144:6 いなずまを放って、彼らを散らし、あなたの矢を放って、彼らをかき乱してください。144:7 いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また外国人の手から、私を解き放し、救い出してください。
主がかつてシナイ山に降りてこられた時に、稲妻や煙をもって降りて来られました。同じように今この戦いの時に、主が降りてきて下さるようお願いしています。実際、イスラエルが戦いに勝つ時、主は天候を変化させて、敵を錯乱させることがありました(例:士師4−5章 デボラ)。
144:8 彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。144:9 神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。144:10 神は王たちに救いを与え、神のしもべダビデを、悪の剣から解き放されます。
戦いに際して、敵前で主への賛美を歌います。ユダの王ヨシャパテが、アモン人、モアブ人、セイルの山の住民の大軍が押し寄せてきた時、彼は軍隊の先頭に聖歌隊を配備させました。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と歌わせたら、主が伏兵を設けて、その大軍を激しく打ち負かされました(2歴代20:20−22)。
使徒行伝にも、ピリピで迫害を受けたパウロとシラスが、牢獄で主に賛美と祈りをささげていたことが書かれています(使徒16:25)。戦いの時における祈りと賛美です。
144:11 私を、外国人の手から解き放し、救い出してください。彼らの口はうそを言い、その右の手は偽りの右の手です。
外国人との戦いは、嘘との戦いでもありました。それは、まことの神を知らないことの嘘であり、神を知っている自分たちとの戦いです。私たちの霊の戦いも、策略を持つ悪魔との戦いであり、真理の帯を締めて戦わないといけません(エペソ6:11,14)。
3B 繁栄する御民 12−15
144:12 私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。
戦いに勝った後には、平和が訪れます。以前も学びましたが、ヘブル語のシャローム、平和の概念には繁栄の意味もあります。ダビデが周囲の敵と戦って王国が確立してから、ソロモン時代にその栄華が頂点に達しました。
144:13 私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。144:14 私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。
財産が豊かにされる約束ですが、財産の前に自分の娘たち、息子たちがしっかりと育つこと、家族が祝福されることが優先されています。ヨブ記のヨブも神に祝福されていましたが、そこにも家族の祝福があって、それから財産の祝福でした。財産を持つために家庭を崩壊させている事が多い中、本当に大切なのは何かを知る必要があります。
144:15 幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。
ダビデは少し言い換えています。物質的に祝福される民は幸いですが、その源は、「主をおのれの神としている」ところから出ています。この個人的な関係から、すべての命、祝福が流れ出ます。私たちが神をほめたたえ、礼拝していること、これが一番になっているとき、その他の生活面における流れが変わってきます。
2A ダビデの頌栄
ダビデによる最後の詩歌です。頌栄になっています。
1B 奇しい御業 1−7
145 ダビデの賛美145:1 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。145:2 日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。145:3 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。
ダビデの生涯を見、彼が記した詩歌を読めば、その至る着く最終地点はこの崇拝であったことは容易に察することができます。彼はただただ、主を崇めるしかできなくなりました。
パウロも、イスラエルの心をかたくなにし、異邦人をあわれみ、それからイスラエルを救われるという神のご計画について書いた時に、その知恵と知識の深さに圧倒されました。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)」
私たちが神様について考えるとき、必ずこのような頌栄に至ります。一見矛盾したように見えることを神様が行なわれていることがあります。けれども、そこで探求する手を引っ込めることなく、慎重に論理を辿っていくなら、そこに主の深い知恵にぶつかります。そして圧倒されるのです。
145:4 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。145:5 私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。145:6 人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。145:7 人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。
繰り広げられる神様の御業、そこに私たちは驚き、そして賛美します。私たちが聖書朗読の学びをしていますが、それは知識的欲求を満たし、肥やすためにあるのではなく、ただただ主がすばらしいことに感心し、主をほめたたえる礼拝と賛美へと向かわしめるためです。また、実際の信仰生活の中でもそうでしょう。「主がこんなことをしてくださった。」という神の証しです。
2B 王国の栄光 8−16
145:8 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。145:9 主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。145:10 主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。
主の慈しみと、その慈しみに感謝する聖徒の姿です。
145:11 彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。145:12 こうして人の子らに、主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。145:13 あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。
私たち信仰者の大きな関心の一つは、この王国です。神の御国です。私たちは、神の子供になっただけでなく、神の相続人になりました。御国を相続する者となりました。このことを積極的に自分の信仰の中に受け入れているでしょうか?
もちろん、私たちがイエス様を自分の王として崇めていれば、霊的な御国の中に今、入ることができます。そして、賛美をし、礼拝をしているなら、御国の前味をあじわうことができます。けれども、これらはあくまで前味です。私たちが望んでいるのは、その全部、栄光の望みです。
145:14 主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。145:15 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。145:16 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。
ダビデの詩篇、また他の聖書箇所でもそうですが、彼の詩篇には、神の偉大さが語られた後で、このように貧しくされた者、低められている者を神が顧みてくださる約束が書かれています。これが御国の麗しさです。心の貧しい者は幸いである、悲しんでいる者は幸いである、柔和な者は幸いである・・・人に知られない形で、人から認められることないけれども、この栄光に富んだ御国に入ることができるのです。
3B 近くあられる主 17−21
145:17 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。145:18 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。145:19 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。145:20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。
私たちについて、三つの呼ばれ方をしています。一つは、主を呼び求める者です。約束は、「主は近くあられる」です。私たちが主を呼ぶとき、主は近くにいてくださいます。自分で悩んだり、自分でもがいたり、自分で行動していくことはないでしょうか?主を呼び求めてください。
二つ目は、「主を恐れる者」です。人ではなく主を恐れる時に、私たちは人からの脅迫を受けます。迫害を受けます。または暗黙に圧力をかけられます。しかし、そのような時の約束は、「彼らの叫びを聞いて、救われる」です。主は救ってくださいます。ダニエルの友人三人のように、です。
そして三つ目は、「主を愛する者」です。約束は、「守られる」です。有名な、神がすべてのものを益としてください、というローマ8章28節の言葉には、重要な条件が書かれています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(8:28)」神を愛しておらず神を憎んでいるなら、主が私たちを守る義務はありません。これらのすばらしい約束は、私たちが主を愛しているという前提に基づいています。
145:21 私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。
これでダビデの賛美は終わりました。
3A 助けなる神 146
次からの最後の5篇は、「ハレル詩篇」と呼ばれます。最初と最後が「ハレルヤ」になっているのでそう呼ばれています。
これらの詩篇は、ユダヤ人がエルサレムに帰還して、神殿を再建し、城壁を再建した、エズラ記、ネヘミヤ記の頃に書かれたものではないかと言われています。ユダヤ人たちは、城壁の奉献式の時、聖歌隊を組み、城壁の上を歩かせ、シンバルや十弦の琴、立琴などを奏でて、主を賛美しながら喜びました(ネヘミヤ12章)。主にある最終的な回復の喜びがここに書かれています。
1B 救いのない人間 1−4
146:1 ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。146:2 私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。146:3 君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。146:4 その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。
ここに出てくる「君主」は、おそらくペルシヤの王たちを意識しているのでしょう。主の霊がクロス王を奮い立たせて、ユダヤ人がエルサレムに戻り、神殿を再建するように命令しました。しかし、実際に工事に着手すると、周囲の住民の脅しに遭い、政治的工作も行なわれて、アルタシャスタ王は工事中止の命令を出しました。その後、ハガイとゼカリヤが来て、主の叱責の言葉と励ましの預言を告げました。彼らは奮い立ち、住民の反対にも関わらず工事を続けたところ、ダリヨス王の時に工事再開の許可が出たのです。
主は、クロス王を用いました。けれども力はクロス王にはありません。クロス王が布告をしても、その力は反対勢力の政治的力でかき消されてしまいました。そして工事再開の許可が出ました。これは、ダリヨス王が奮い立って行なったのではなく、ハガイとゼカリヤによる主の預言がユダヤ人たちを奮い立たせて、反対にあっても神を見上げたからに他なりません。すべてを動かす力は、主ご自身にあります。
2B とこしえの真実 5−10
146:5 幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。
君主たちに頼ることに対比して、ヤコブの神を助けとすることの幸いを書いています。ヤコブの生涯でヤコブを助けてくださった神、この神に望みを置くことが幸いです。
146:6a 主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。
私たちが、どのような神に祈っているかをよく意識する必要があります。神を呼びかけるとき、園神が天と地と海とその中のいっさいを造った方であることを意識します。そうすれば、その後の祈りが変わります。私たちが自分の理解の中で可能だと思われることを祈るのではなく、主の知恵と力の中で行なわれるのではないかと思われることを、祈るようになります。
146:6bとこしえまでも真実を守り、146:7 しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。146:8 主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、146:9 主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。
ユダヤ人が長年のこと苦しみの中にいたけれども、助け出されました。主は真実な方であり、苦しんでいる人を助けることがおできになる方です。
146:10 主は、とこしえまでも統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々にいます。ハレルヤ。
今、シオンの町にいる彼らは、シオンから統治される主をほめたたえています。
4A 主の備え 147
1B 主の英知 1−6
147:1 ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。147:2 主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。
彼らはエルサレムに帰還して、その城壁を完成しました。これらをみな、主の御業としてほめたたえています。
147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
今、長年の迫害と反対で心が打ち砕かれた人、心の傷を負っている人が癒されます。
147:4 主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。147:5 われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。
この箇所に触れたので、一度、銀河系についての情報をインターネットで調べました。まさに無数の星です。これらすべてに名をつけておられるのです。その英知は確かに測りがたいです。
147:6 主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。
再び、心貧しい者に心を留められ、悪者を引き降ろされます。
2B 天からの恵み 7−11
147:7 感謝をもって主に歌え。立琴でわれらの神にほめ歌を歌え。147:8 神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、147:9 獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。
神が天から恵みを与えられます。初めは雲、それから雨、それから地上、それから草木、それから獣です。烏の子にまで、神の恩恵から外れることはりません。
147:10 神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。147:11 主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。
再び出てきました、ああ、なんと大切な真理でしょうか!私たちがテレビをつければ、また新聞を読めば、そこに出てくる社会問題について議論がされています。それらはすべて、政府や政治がこの問題についてどう取り組むべきかについて語られています。そして国際情勢になれば、軍事力が語られます。今、騒がれている核問題も、すべて軍事均衡の問題です
しかし私たち主を恐れる者は、これらの情報に惑わされてはいけません!本質は、国や軍事力にないのです。主を恐れる心、神が注いでくださる恵みにあるのです。
この心の力は、軍事力よりも力強いのです。人々が救われ、教会が建てられることのほうが、その国や地域を自由にするために交渉する外交官や陸軍、空軍よりもはるかに力を持っています。なぜなら、天にある星のすべてに名をつけておられる方が、ご自分を恐れる人、恵みを待ち望む人を好まれると言われているからです。
3B エルサレムにいる子 12−20
147:12 エルサレムよ。主をほめ歌え。シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。147:13 主は、あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。
ネヘミヤの時代に城壁が完成しました。主がエルサレムの門のかんぬきを強めてくださいました。
147:14 主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。
「地境に平和を置く」とは、周囲の敵に脅かされることなく、安心して農作業ができるという意味です。
147:15 主は地に命令を送られる。そのことばはすみやかに走る。147:16 主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。147:17 主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐ええようか。147:18 主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。
すべての自然現象は、主の御言葉の命令によって起こっています。
147:19 主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。147:20 主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。
おきてとさばきを知っている民は、イスラエルしかいません。またイスラエルに接木された異邦人、教会しかありません。そうでない人は、漠然と、造り主を知っているだけで、主の掟については何も知りません。
ですから私たちは幸せです。主の掟がある、御言葉がある、このようにして天地万物を造り、支配された方が命じられていることを知ることができているのです。
5A 全被造物の賛美 148
次の賛美は、自然界のすべてのもの、全被造物が神を賛美する内容です。その順番に注目してください。天の上から地上へ、地上から生物へと、どんどん天から下降しています。
1B 天から地 1−13
148:1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。148:2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
天において、主の御座があるところにおいて、賛美を促しています。黙示録を読めば、無数の御使いが、神とキリストを賛美し、礼拝をささげている情景を見ることができます。「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』(5:11-12)」
148:3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。148:4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。148:5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。148:6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
天体が主をほめたたえよ、と命じています。無生命体に対して賛美を促すのは変だと思うかもしれませんが、その輝きを見れば、主の声が聞こえるとダビデは詩篇の中で語っています。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(19:1-4)」
148:7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
地も主をほめたたえ、それからさらに下がって、海、しかも海底や淵までもが主をほめたたえることを命令されています。すべて主が造られたものには、主の栄光が現れています。
そして「海の巨獣」とありますが、エジプトを表すラハブという巨獣が聖書には出てきますし、そして竜であろうレビヤタンも出てきます。人間には決して制御できないこれら巨獣を、主はいとも簡単に支配されていることを、ヨブ記の最後にて神はヨブに語られました。
148:8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。
これら私たちに恐れを抱かせる自然現象は、主が強く語ってくださる声です。
148:9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。148:10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
地上にあるすべての小さい生き物に至るまで、賛美を促しておられます。
148:11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。148:12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
最後は人間に対してです。国の王だけではありません。すべての国民です。そして、さばきづかさもです。彼らには神からの権威が与えられています。そして、老若男女みなが主をほめたたえます。
148:13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。
世界にいろいろな名があるけれども、主の御名だけがあがめられる、一つにされることが終わりの時に起こります。「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。(ゼカリヤ14:9)」ああ、この日が待ち遠しいです!
2B 御民の角 14
最後に、ご自分の民に対して語られます。
148:14 主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。
主は全世界に働きかけられる方ですが、近くにいるのはご自分の聖徒たちです。私たちが持っている特権というのは、これです。主が近くにおられることは、他の神を知らない人は決して味わうことができないものです。日々、主をあがめ、兄弟たちで集まり主を賛美することは特別な祝福なのです。
6A 聖徒らの賛美 149
そして149篇は、聖徒たちがささげる賛美について書いてあります。
1B 新しい歌 1−4
149:1 ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
「新しい歌」です。心から沸き起こる主への歌は、いつも新鮮なものです。
149:2 イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。
「おのれ」「おのれ」と書いてありますね。自分の個人的な神、王です。
149:3 踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。
踊りと楽器をもって賛美します。実際にイスラエルダンスは、軽快な、リズミカルな踊りで、運動にもなるぐらいです。例えば、「マイム・マイム」は、イザヤ書からの言葉で、荒野に水が流れるところを歌っています。
149:4 主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。
再び、貧しい者に対する救いです。
2B 諸刃の剣 5−9
149:5 聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。
寝ている時も歌え、と勧めています。本当にこのように私たちは賛美の霊に充たされているかと思うと、反省せざるを得ません。賛美ではなくテレビ、賛美ではなく読書、頭の中が神ではなく世の中のことになっていることが多いからです。
149:6 彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。149:7 それは国々に復讐し、国民を懲らすため、149:8 また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。
ネヘミヤが城壁を再建しているとき、ユダヤ人たちは周囲の脅しに遭いました。そこでネヘミヤは、片手に工具、もう片方の手には武器を持たせました。
賛美というのは、先ほども観ましたが、戦いでもあります。敵に打ち勝つ為の道具であります。私たちが神に賛美するとき、神のお姿が一人ひとりに明らかにされます。そして私たちが神の御前にひれ伏します。私たちではなく、神のみに栄光が与えられる時、私たちではなく神の御名のみが高く上げられる時、主はご自分の力を現すことがおできになります。その時に敵に打ち勝つことができます。
149:9 また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。
先ほどと同じです。主のさばきがイスラエルにあります。御言葉がイスラエルにあります。
7A 楽器による賛美 150
それでは最後の詩篇になりました。ここは、これまで出てきたハレル詩篇が寄り集まった感じになっています。
150:1 ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。150:2 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。
二つの場所で主をほめたたえます。一つは聖所です。もう一つは御力の大空です。野外礼拝、また私たちが自然を享受して、そこで主をほめたたえることもすばらしいでしょう。
150:3 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。150:4 タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。150:5 音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。
いろいろな楽器が登場しました。角笛は皆さんご存知だと思いますが、羊などの角を使った笛です。かなり甲高い音がします。十弦の琴は今のギターみたいな楽器です。そして立琴は、手で持ち歩くことができるような琴、ハープです。そしてタンバリンです。今のとあまり形は変わりません。それから笛がありますが、フルートに似ています。そしてシンバルです。
お分かりのとおり、主をほめたたえることは騒がしく、歓喜の声であり、感情が高揚するような類いのものです。黙示録にも、天国はこのようになっています。地上の私たちがおとなしすぎるかもしれません。
150:6 息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。
私たちが呼吸しているこの息を、みな主をほめたたえるのに使いなさい、ということです。私たちの息がどんな音を出しているでしょうか?ダニエル書に、バビロンの最後の王ベルシャツァルが、神が造られたその口で、金、銀、木などの偶像を賛美したということで、彼に裁きがくだり、バビロンが滅びました。神が造られた口です。そこから出てくるものは何でしょうか?
これで詩篇が終わりました。ダビデの時代を中心に、神が建てられる国のことがたくさんかかれていました。次回は箴言です。ダビデの息子ソロモンが主に書きました。知恵についての書物です。
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