詩篇17−21篇 「敵への勝利」


アウトライン


1A 正しい訴え 17
   1B 公正な裁き 1−5
   2B 貪欲な敵 6−12
   3B この世の人々 13−15
2A わが力 18
   1B 敵の敗退 1−28
      1C 砦 1−3
      2C 嵐 4−19
      3C 報い 20−28
   2B 敵の服従 29−50
      1C 戦いの力 29−45
      2C 油注がれた者 46−50
3A 主への恐れ 19
   1B 天における御声 1−6
   2B 純粋な御言葉 7−11
   3B 罪への対処 12−14
4A 王の救い 20
   1B 王の成功 1−5
   2B 御名への誇り 6−9
5A 王の喜び 21
   1B かなえられる願い 1−2
   2B 祝福 3−6
   3B 敵の滅亡 7−13

本文

 詩篇17篇を開いてください。今日は、17篇から21篇まで学んでみたいと思います。今日のメッセージ題は「敵への勝利」です。前回の学びでは、ダビデが敵に追われている最中に書かれた詩歌が多かったです。けれども今回の学びでは、ダビデがサウルの手から逃れて、彼の死後、統一イスラエルの王として君臨するまでに書かれた詩歌が多く出てきます。敵から救い出され、そして敵に勝利する詩です。

1A 正しい訴え 17
17 ダビデの祈り

 再び、ダビデによって書かれた詩です。彼の祈りを詩にしました。

1B 公正な裁き 1−5
17:1 主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。

 主に祈りを聞いていただくために、三回お願いしています。初めは「聞いてください」、次に「耳に留めてください」、そして「耳に入れてください」です。より切実になっています。そして何を聞いていただきたいかと言いますと、「正しい訴え」「叫び」そして「欺きではない祈り」です。今、ダビデは主に公平さを求める祈りをささげています。

17:2 私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。

 おそらくこの祈りは、サウルに追われているとき、ダビデがサウルに害を与えようとしているという謂れのない非難を受けていたときに、ささげられたものでしょう。サウルの陣営と、私とを測りにかけてくださいと神様にお願いしているのです。

17:3a あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。

 夜、静まったときに、ダビデは一人で主に祈りました。自分が受けている非難は、本当に心当たりのないものかどうか、主に調べていただいたようです。自分が知らないうちに犯している過ちがあるかもしれません。それらを調べていただいたのです。

17:3b私は、口のあやまちをしまいと心がけました。17:4 人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。17:5 私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。

 ダビデは、三つの部分で自分を吟味しました。一つは「」です。口のあやまちを犯していなかったか主に尋ねました。次に、「行ない」です。自分は、何か行動するとき主の御言葉によって行なっていました。そして、自分の「歩み」です。どの道を歩いていたのか、悪者と歩調を合わせるようなことはしていなかったか、調べましたが、それもありませんでした。

2B 貪欲な敵 6−12
17:6 神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。

 再び、主に聞いていただけるようお願いしています。彼は「呼び求め」ました。私たちはとかく、祈りのときにかしこまって、きれいな言葉を並べなければいけないと考えますが、「呼び求める」とは、ちょうど子供がおなかを空かせたとき、「お母さん、おなか空いたよ。」とお母さんを呼ぶようなものです。「主よ、助けてください。」の一言でいいのです。神に対して心を広げた祈りが必要です。

17:7 あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。

 ちょうどけんかを吹っかけられて、相手よりもっと強い頼りになる人のところに逃げていく姿を描いています。「右の手」というのは、権威と力の手です。

17:8 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。

 この言葉を聞いたら、ユダヤ人なら「モーセが言った言葉だ」と思い出すことができる人が多いと思います。神の律法を慕っていたダビデなら、間違いなくその言葉を考えていたことでしょう。イスラエルが荒野の旅をしているとき主が彼らを守られたことを、モーセは申命記3210節と11節で、次のように形容しています。「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。」主が、弱い私たちをこのようなかたちで守ってくださいます。

 今、ダビデは必死です。人から中傷の言葉を受けたときに、人はそう強くいられるものではないことを以前、お話しました。彼は必死に主に祈りを聞いていただけるようお願いしています。そして、必死に、はたして自分に非があったのか調べています。そして、自分の弱い部分を主が、ご自分の瞳のようにして守ってくださるようにお願いしています。

17:9 私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。17:10 彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。17:11 彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。17:12 彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。

 ダビデは言葉だけでなく、実際に物理的な危害に直面していました。命をねらわれていました。ここに書かれているように、サウルの陣営に包囲されたこともありました。

3B この世の人々 13−15
17:13 主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。17:14 主よ。人々から、あなたの御手で。相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。

 ダビデは、この世の人について説明しています。先に「鈍い心、高慢」という言葉を使っていましたが、神に対してまったく無関心、無感覚な人。平気で神を無視する人として描いていました。そして、ここでは「相続分がこの世のいのちである」と言っています。

 ダビデがここで言っているように、この世の命はもちろん神からの賜物です。地上にあるものは、すべて神から与えられています。しかし、この世の人はこの命しか知らないのです。だから、何を食べるか、何を着るか、どこに住むかということだけしか関心事ではなく、この地上での生涯が終わった後どうなるのか、またこの世そのものが終わるときにどうするのか、ということについては全く無頓着なのです。

 けれども、イエス様は「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:24」と言われました。初めの「自分のいのち」というのは、この世における命です。そして「それを失い」の「それ」が指しているのは、後の世のいのちです。キリスト者のこの世での命は、主が言われるように「失う」ものです。「失う」というのは殉教するだけの意味ではなく、自分を捨てる、自分のあり方を否んでいくことに他なりません。パウロが、「もはや私が生きているのではなく、キリストが生きておられて、神の御子を信じる信仰によっている。(ガラテヤ2:20参照)」と言ったのは、そういうことです。

17:15 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。

 信仰者は、天におられる神の御顔を仰ぎ見ながら行きます。そして、目覚めるとき、すなわち死んでよみがえるとき、主の御姿を見て満ち足りることになります。コリント第一13章には、私たちは、今は鏡にぼんやりと映るものを見ているが、その時には顔と顔を合わせて見ることになる、とあります(12節)。そしてヨハネの第一の手紙には、「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(1ヨハネ3:2」とあります。それでパウロは、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:2」と言いました。

2A わが力 18
18 指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った

 この詩篇18篇は、サムエル記第二22章にも登場します。少しの違いはありますが、ほとんど同じです。そこにはダビデの生涯の最後のほうに編集されていますが、ここに書かれてあるとおりサウルの手から主が彼を救い出された日に歌ったものです。

1B 敵の敗退 1−28
1C 砦 1−3
18:1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

 または、「私は、あなたを愛します」と訳すこともできます。主を慕い、愛している理由は、主が自分にとって力になってくださったからです。次に、主がどのような形で力となってくださったかをダビデは描いています。

18:2 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

 まずダビデは、「わが」という言葉をすべての形容の前に付けているのに注目してください。彼にとって主は、個人的に関わってくださった方なのです。私たちにとって、主イエス様は個人的な方になっているでしょうか?

 初めに彼は「」と言っています。あるいは「岩山」と言ってもいいでしょう。イスラエルに行くと、なぜ聖書の中にこうも頻繁に岩が出てくるのか理解できます。地中海性の乾燥した気候の中で、イスラエルは岩だらけです。彼らには見慣れた岩ですが、だからこそ神がそれだけ身近な存在であることを証ししているのでしょう。神が自分を支え、強く、堅い存在として、「岩」と呼んでいます。

 そして「わが砦」です。自分が戦いの中にいるときに、自分を守る周囲の環境です。主ご自身がその環境になってくださった、ということです。そして「救い主」です。これは罪からの救いという霊的な意味だけでなく、戦いの中で負けないで勝つことができたという意味での「救い」です。そして「身を避けるわが岩」とありますが、先ほどの巌は岩山という意味ですが、こちらは「崖」の意味も含まれるヘブル語です。崖の下のところに行って、自分の身を隠すという意味で「わが岩」と言っています。

 そして、「わが神」と言っていますね。神って、当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、「神」というのは名前ではありません。いわゆる「神頼み」と私たち日本人が使っているときの「神」に近い意味があるかもしれません。自分が命をかけて拠り頼んでいる存在です。自分を突き動かす存在です。自分の人生を動かす情熱と言ってもいいかもしれません。だから「主がわが神」といっているのは、アブラハム、イサク、ヤコブに現われてくださったヤハウェが、自分の中心であるとダビデは告白しています。

 そして「わが盾」ですが、自分を攻撃から守ってくれる存在です。そして「救いの角」とありますが、角は力と権威を象徴します。敵から救われるだけでなく、自分に権威と力を与えてくださった方です。そして「やぐら」とありますが、敵を高所から見下ろすための高台であり、主がダビデを王としてくださり、諸国の民を従わせるとき、主はダビデにとって、やぐらとなってくださいました。

18:3 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

 再び「呼び求める」という言葉が出てきました。主を呼ぶ必要があります。

2C 嵐 4−19
18:4 死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。18:5 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。

 ダビデは絶体絶命の危機の中にいます。

18:6 私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。

 前にも話しましたが、主は天に着座されている方です。宮の中におられる方です。天地が滅んでも、永遠に残っている空間においてすべてを支配しておられます。そこで、主は祈りを聞いてくださいます。

18:7 すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。18:8 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。

 ダビデが絶体絶命の危機にあって、そこで主を呼び求めたら、地震がありました。そして、火山活動がありました。

18:9 主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。

 覚えていますか、シナイ山において主がイスラエルのところに降りてこられたとき、黒雲と雷と、角笛の音とかがあって、周りが暗くなりました。似たような状況になりました。

18:10 主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。18:11 主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。

 地震、火山活動の次に、嵐がやってきました。

18:12 御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。18:13 主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。

 嵐の中で、稲妻、雷、そして雹が降ってきました。

18:14 主は、矢を放って彼らを散らし、すさまじいいなずまで彼らをかき乱された。18:15 こうして、水の底が現われ、地の基があらわにされた。主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。

 かつて紅海が分かれたように、水の底まで見えるほど激しい風が吹きました。

18:16 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。18:17 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

 そうですね敵は自分よりも強いです。私たちは自分が苦しい立場にいるときに、自分で敵に対抗しようとします。けれども、私たちはなかなか主に拠り頼もうとしません。「ああ、このくらいだったら、まあ自分でも何とか対処できるよ。」と考えてしまうのです。けれども、敵は私たちを食い尽くそうと徘徊しています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(1ペテロ5:8

 だから、私たちは主に救いを求めるのです。「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4

18:18 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

 自分が苦境の中にいるときに限って、敵は自分に攻撃をしかけてきます。しかしダビデは、主が自分を支えてくださっていることを感じ取っていました。

18:19 主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

 ダビデは、洞窟など隠れて逃げていましたが、主が助けてくださって広いところを歩くことができるようになりました。

 そして「主が私を喜びとされたから」とダビデは言っていますが、それは何でしょうか?次を見てください。

3C 報い 20−28
18:20 主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。

 彼は、主の救いを、自分の義、自分の手のきよさの報い、償いであると言っています。私はここを読んで、初めとまどいました。ここまで大胆に言えるものなのか、ダビデも負い目はなかったのか?と思いました。

 ここで、彼がこの歌をうたったとき、サウルが死んで、サウルの残党もいなくなったようなとき、統一イスラエルの王として君臨する頃であったことを思い出してください。彼が、バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤを殺し、さらに自分の息子たちの間で陵辱、殺人、そして父への反逆がある前にうたった歌です。彼が生涯の後期に歌ったものには、神からの罪の赦しと憐れみを請うものになっています。

 事実、王になるときまでの彼は、いくつかの過ちは犯したものの、基本的に主にしっかりととどまりつづけた生涯を送りました。サウルや他の敵に襲われていましたが、そのような攻撃を受けるような悪事は働いていないことを、彼は宣言できたのです。

18:21 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。18:22 主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。18:23 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

 「主の道」それは、主が通られた道であり、主の弟子たちがこの方についていった道でもあり、主に従う者たちの道です。そして、「主のすべてのさばき」とは、神の御言葉のことです。彼はいつも、御言葉を自分の前に持ってきていました。ヤコブの手紙の中にも、御言葉を聞いて忘れるのではなく、実行する者になりなさい、と書いてありますね。それから、彼は主の前にいることを意識していました。主が前におられるのに、罪を犯すことはできません。この臨在が、罪から自分の身を守る方法です。

18:24 主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。

 このようにダビデは、主にある良心をきよく保って生きていました。

18:25 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、18:26 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

 これと似た表現が、主の山上の垂訓の中で出てきます。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7」とあります。また、「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という主の祈りもあります。他の人たちに対する私たちの態度、姿勢が、主との関係に深く関わっています。主との交わりを持っている者は、主が光の中におられるように自分も光の中にいなければいけません(1ヨハネ参照)。

18:27 あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。

 聖書全体の中に、またこの詩篇の中にも何度も、悩む者を救われ、高ぶる者を低くされるという神の原則が書かれています。

18:28 あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。

 暗闇にいるときも、主が光となられます。

2B 敵の服従 29−50
1C 戦いの力 29−45
18:29 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

 ダビデは戦いの最中、神の力を感じていました。ゴリヤテとの戦いのときのダビデの姿は、すぐに思い出せるかと思います。川辺にあった平たい石を取って、ゴリヤテに投げつけたら、彼のこめかみのところに当たって、彼は倒れてしまいました。それはみな、主が戦うための力を与えてくださったからです。

18:30 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

 主を再びほめたたえています。すべては相対であると考える相対主義、また自分のうちにだけ真理がある、という実存主義がはびこるこの世の中で、「主の道こそが完全」と信じることができます。また神のみことばは、人間のへつらいの言葉とは違って純粋であることは、前回学びました。また、先にも出てきたように私たちを守る盾となってくださっています。

18:31 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。18:32 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。

 他の神々と呼ばれているものではなく、「この神」です。私たちもこういう証しを持っているでしょうか?他の神々を信じている人たちの間で、主イエス・キリストの神こそが私たちの力であり、道を完全にしてくださっているという証しです。


18:33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

 ダビデが隠れていた、死海に面するところにあるオアシス、エン・ゲディには、アイペックスというヤギの一種を見ることができます。これは、崖っぷちでもどこでも登っていって、垂直になっているところでも平気で立っています。ダビデも、人が到底立てないようなところに立つことができましたが、主がその力を与えてくださいました。

18:34 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。

 弓を引くときにも、神が彼に力を与えてくださいました。私たちも、霊の戦いにおいて神が力を与えてくださることが約束されています。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10

18:35 こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

 「あなたの謙遜」とは、興味深い表現ですが真実です。主は全知全能の力強い神ですが、この方がへりくだって私たちに近づいてきてくださったことによって、私たちは変わることができました。「わたしは優しく、へりくだっている」と言われた主のみもとにいるときに、私たちは強められます。

18:36 あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。

 先ほどの「広い所」と同じです。大またで歩くことができる平坦なところを歩いています。

18:37 私は、敵を追って、これに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。18:38 私が彼らを打ち砕いたため、彼らは立つことができず、私の足もとに倒れました。18:39 あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。18:40 また、敵が私に背を見せるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼしました。

 これまでのダビデに対する主の御業は、戦いの中の守りにおけるものでありましたが、ここからは攻撃における神の助けについて書かれています。例えば、アマレク人を倒したときは、明らかに主によるものでした。アマレク人に自分の町を滅ぼされて、妻や子供、家畜を奪われたとき、ダビデは主によって奮い立って急いでアマレク人の後を追いました。そして無事にすべてを奪還しました。

18:41 彼らが叫んでも、救う者はなかった。主に叫んでも、答えはなかった。18:42 私は、彼らを風の前のちりのように、打ち砕き、道のどろのように除き去った。

 彼らは神との契約の中にいません。取り繕って神の名前を呼んでも、個人的な関係がないですからその呼びかけは無意味です。

18:43 あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらに任ぜられました。私の知らなかった民が私に仕えます。18:44 彼らは、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。外国人らは、私におもねります。18:45 外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。

 敵から救い出され、さらに敵を追ってゆき、彼らを倒したダビデは、最後に周囲の国々を従わせることができるようになりました。ダビデとソロモンのときのイスラエル王国は、周辺の諸国に貢物を持ってこさせるほど強くなっていました。

2C 油注がれた者 46−50
18:46 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。18:47 この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。18:48 神は、私の敵から私を助け出される方。まことに、あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。

 この歌を終えようとして、彼はこれまでの戦いと戦いにおける勝利の思い出をまとめています。

18:49 それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。

 周辺の諸国が自分に従うなかで、彼はイスラエルの中だけでなく国々に対しても、主の御名をほめたたえました。彼は自分の信仰を内向きにせず、外に言い広めたのです。

 しばしば新約の時代になってから初めて、神は異邦人に対する救いの道を開かれたと言われますが、ここに書かれているとおり旧約の時代からすでに、その予兆はあったのです。イスラエルはイスラエルだけで神の祝福を楽しむのではなく、世界に対する光、神の証人として立てられていたのです。

 この神の心を知らずに自分たちだけで救われようと考えていたのが、主が地上におられたときのユダヤ人であったし、さらに現代のユダヤ教でもあります。私たちクリスチャンも、周囲の人たちのことを考えなければ、周りの人たちに働きかけなければ、同じ過ちを繰り返してしまいます。

18:50 主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。

 ダビデとそのすえ、というのは、もちろん自分からメシヤが出てくることを彼が予見して言っていることです。彼は神殿を建てたいことを主に申し上げたときに、自分は建てられないがあなたの子が建てる、と約束してくださいました。そして世継ぎの子の国はとこしえに立つとの約束を受けて、自分からメシヤが出てくることを彼は知っていたのです。

 ダビデの国は、ダビデが王でありながら彼自身が主を王としてあがめていたので、神が統治する国を反映したものでした。ダビデのすえが王となられたとき、同じように神のみに栄光が与えられる国になります。

3A 主への恐れ 19
19 指揮者のために。ダビデの賛歌

1B 天における御声 1−6
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。19:4a しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。

 天体、また昼の太陽の運行を見るときに、すばらしさにだれも驚かないではいられません。物理的には何も聞こえません。しかし、神が存在について、天体は大声で叫んでいます。ローマ人への手紙で、福音の宣教の言葉は聞こえなかったという問いに対して、パウロは、「むろん、そうではありません。」と言って、「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てにまで届いた。(10:18」と、ここの詩篇の言葉を引用しています。だから言い訳はできない、ともパウロは言っています。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:20

 今年の初め行なわれた宣教会議で、ゲストスピーカーにアマゾンのジャングルで宣教を長年行なってきた老夫婦が、ゲストスピーカーとして話しました。彼は非常に興味深いことを話していました。それは、未開地に住む彼らも実は、イエスという名前を知らないだけで、救われるための啓示はほとんど与えられている、というものでした。

 まず、自然に囲まれて彼らは生きているので、まことの神は創造主であることを知っていることを彼は知りました。創造主のための祭壇があったほどだそうです。そして、善悪の判断や良心も与えられていました。魔女の助言による人殺しが、誰からも咎められることなく行なわれていますが、だれも見ていないところで人を殺した人が、良心の呵責で苦しんでいた、という話です。さらに、救いについても、完全な犠牲があって、身代わりがあって成り立つことも知っていたそうです。ノアの時代の洪水の言い伝えも、しっかり残っています。

 現代社会は、神は人間が造り出したものであり、罪意識とか善悪の判断とかも、文明の発達、教育によって定められるとか、古代の無知な人間のものであるという考えは成り立ちません。

19:4b神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。

 太陽の軌跡についての描写です。

19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。

 世界中を太陽光線が覆います。

 このように、自然の中に私たちは神の栄光を見ることができます。これを自然啓示と巷では呼ばれています。神さまのこのような、ご自分に現し方に対して私たちがきちんと応答しなければ、次の神の救い、贖いについてのご計画も分からなくなります。しばしば人間的な良い話を聞いて、例えば人の犠牲的な献身であるとか、キリスト教の一面を表しているにしか過ぎない話とか、聖書の話であっても放蕩息子のたとえ話にある父親の愛であるとか、人間中心のメッセージは、本当の福音を伝えていることにはならないのです。

 自然界における創造主の栄光を認めることによって、初めて神の贖いも理解できます。ヨハネによる福音書1章冒頭に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とありますが、それがあって初めて14節の、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と続きます。

2B 純粋な御言葉 7−11
 神は、自然のほかに聖書という書かれた文字を通してご自分を示しておられます。

19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

 細かく見ていきましょう。初めの「主のみおしえ」は非常に良い訳です。ここのヘブル語は「トーラ」で、律法のことです。律法というと、何か法律のように無味乾燥したもののように聞こえますが、元々の意味は「教え」です。その次の「主のあかし」は、主の証言、主がご自分の知恵と知識の中で正しいと宣言されている事柄です。それから「主の戒め」とありますが、「定め」とも言い換えることができるもので、神の権威によって定められていることです。そして、「主の仰せ」というのは「命令」のことです。

 そして御言葉による影響についても観察したいと思います。主のみおしえは「たましいを生き返らせ」ます。御言葉を通して、私たちは初めて神の聖さや正しさを知ることができ、自分の罪をはっきりと知ることができます。それで、キリストの十字架が律法の要求を満たすものであり、自分の罪の罰を代わりに受けてくださったものであることを知ることができます。だから、たましいを生き返らせます。

 そして、主のあかしが「わきまえのない者を賢くする」とありますが、知恵を持つことができます。単なる知識ではなく、悪から離れて善を行なうときに必要な知恵が与えられます。さらに、神の定めが人の心を喜ばせるとありますが、どうでしょうか御言葉を聞くことが喜びになっていないでしょうか、新しく生まれた人たちは。そして主の仰せ、命令によって、私たちは霊的な目が開かれます。これまで見えてこなかったものが見えてくるようになります。

19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

 主への恐れは悪から離れるものであると、箴言に書いてあります。汚れは滅びます。ヨハネは第一の手紙の中で、「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(2:17」と言いました。

 そして主のさばきについてですが、黙示録には「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。(16:7」と天の住人が証言しているところがあります。数々の地上に下る災いが、真実で正しいと言っているのです。すべてのことが知らされて、永遠の見地から物事を見ることができる天において、神の真実と正しさを確認することができます。

19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

 この世における慕わしいものを二つ上げています。純金と蜂蜜です。どんなに慕わしくても、神の御言葉と神を恐れることが、もっと好ましいという告白です。

19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。

 みことばを守れば、いのちと幸いを見出すことが申命記の中でたくさん書かれています。新約の時代に生きている私たちも同じです。みことばには神の知恵と知識がすべて詰まれています。この中に生きれば報いは大きいです。

3B 罪への対処 12−14
 こうして自然の中における神の栄光と、神の御言葉にある神の正しさを見てきましたが、その神の基準にしたがって自分を見るときに、罪から離れたいと願うようになります。次にダビデは、罪から離れることができるようにという祈りをささげています。

19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

 ダビデがここで話しているのは、知らずに犯した罪のことです。私たちは、霊的に鈍くなっていて、罪を罪と認められないものがたくさんあります。気づいていないところで犯している罪があります。神さまとの交わりに罪が妨げになってほしくないと願っているダビデは、知らずに犯している罪に対しても、その赦しを願っています。

 詩篇139篇では、自分で自分の心が分からなくなっているのを認めてダビデが次の祈りをささげています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24節)」主に調べていただく祈りです。聖霊が私たちに自分の心の内を示してくださり、そして自分の道ではなく、主の道に導かれるように祈っています。

19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

 「傲慢の罪」これは言い換えると「計画的な罪」と言うことができるでしょう。計画的な犯行、という日本語がありますね。英語ではpresumptionとう言葉が使われています。「ずうずうしさ」「厚かましさ」「無遠慮」と訳せます。

 この罪は故意に犯している罪です。神のみことばによって、また自分に神から与えられた良心によって、はっきりと罪であると示されているのに、それでも犯すところの罪です。そして何かに反応してしまって怒り散らしたり、とか、古い自分を出してしまったりする衝動的なものとは違って、その罪を楽しむためにじっくりと考え、企んで行なう罪です。それから、罪を犯した後の結果があることを知りながら、それでもいいからとにかく行なおうと思う、思い上がりの罪です。

 ダビデは、「それらが私を支配しませんように」と祈っていますが、この類の罪を犯すとその罪が自分を支配していきます。やめられなくなるのです。初めは自分が制御しているつもりなのですが、罪が自分を動かしていくという、がんじがらめになります。

 この種の罪を犯した聖書人物の一人はサウルです。アマレク人を聖絶しなければならず、家畜もみな殺さなければいけないと主に命じられていたのに、王アガグを生けどりにし、最上の羊や牛も生かしておきました。そして厚かましくも、主にいけにえをささげるために残しておいたとサムエルに言いました。

 その結果、彼は王位を奪われました。そしてダビデが王として選ばれました。そして、彼はその後、ダビデに脅威をいだき、彼を殺そうとまで考えました。彼は思い上がりの罪を犯したわけですが、それが彼の残りの生涯を支配していったのです。

 気をつけなければいけません、「主の戒めなんかどうでもいい」という傲慢の罪は、何としても避けなければいけません。

19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

 これを私たちの祈りにしたいと思います。自分が発する言葉において、主に受け入れられるものであるように。また、心の思いが受け入れられたものでありますように。情欲、ねたみ、怒りなどの悪い思いを心の中にとどまらせることがないように、お祈りしましょう。

4A 王の救い 20
20 指揮者のために。ダビデの賛歌

 ここは興味深い詩になっています。ダビデの賛歌となっていますが、前半部分はイスラエル国民が、王であるダビデのために祈っている、とりなしになっています。特にこれから戦いに出て行かなければいけない王のために祈っています。

1B 王の成功 1−5
20:1 苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。

 王が大変なところを通っているとき、そこから抜け出すことができるようにとの祈りです。

20:2 主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。

 王の祈りが答えられるように、という祈りです。

20:3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ

 王の礼拝が受け入れられるように、という祈りです。

 ここで明らかなのは、王もまた民も同じ神を信じているという事実です。王と臣民という階級の差、身分の差、支配者と被支配者という関係があり、しかも自分に対して王は何でもすることができるという主権もあるのに、ともに神を信じているので、そこにおいては平等なのです。神の前で同じところで祈り、けれどもそれぞれ神に与えられた場所で、神の守り、救い、祝福があるように祈っています。

 ガラテヤ書に、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(3:28」とあります。また、コロサイ書にて、奴隷が主人に仕えなければいけないことを教えつつ、主人も天に主がおられることを知って、奴隷に正義と公平を示しなさい、と命じられています(4:1参照)。共にキリストを信じる者たちが働いているというのは幸いですし、ダビデの国のように支配者も国民も主を信じているという国も本当に幸いです。

20:4 主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。

 主を第一にしている者に対する祈りです。主を喜びとしている人は、その願いも主と同じものになっています。だから、このような祈りをささげることができます。

20:5 私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。

 勝利のときに、旗を掲げます。モーセがアマレク人と戦ったときも、勝利したときに「アドナイ・ニシ(主は旗)」呼びました。

2B 御名への誇り 6−9
20:6 今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。

 民の祈りに対する王の返答です。「油注がれた者」とは自分のことです。サムエルが少年ダビデに油を注ぎましたが、それは神がダビデを王として任命されたことを意味します。そして、油注がれた者はメシヤの意味にもなります。

20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

 国の王として、この発言はすごいことです。だれでも安全保障のために軍事力が必須であることを知っています。しかしそれらのものには頼らない、とダビデは宣言しています。ダビデの子孫であるヒゼキヤは、この戦いがありました。迫っているアッシリヤに対して、彼はエジプトに使者を送って助けてくれるように頼みましたが、その希望も絶たれました。しかし、主の御使い一人が来て、包囲している18万5千人を一夜のうちに滅ぼしたのです。

20:8 彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

 契約の民とそうではない人々の違いがはっきりと書かれています。神のうちにいるものは、倒れそうになっても立ち上がることができます。そうではない者は、立ち上がっていてもいずれ倒れてしまいます。

20:9 主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。

 民と王が一体化した祈りでした。

5A 王の喜び 21
21 指揮者のために。ダビデの賛歌

 この詩篇は今の20篇の詩篇の続きのようになっています。民の王に対する祈りが聞かれたことを喜んでいる祈りです。

1B かなえられる願い 1−2
21:1 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。21:2 あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

 主の力、救い、また祈りを聞かれる方であるとして、この方をほめたたえています。


 主が良くしてくださったことに対して、主に感謝と賛美をささげることは、非常に簡単なことであるはずなのですが、人はなかなかそのようなことをしません。祈るだけ祈っても、お願いするだけお願いしても、願いが聞かれたら、それだけで満足してしまいます。

 らい病人10人がイエス様のところに来て、いやしていただいた話を思い出してください。彼らは主に祈っていただいて、そして祭司のところに行く途中でらい病がきよめられました。そうしたら、一人が大声で喜んで、帰ってきて主の足もとにひれ伏しました。他の九人は、それまで〜よ、だったのです!でも、私たちもよく犯してしまう過ちです。

2B 祝福 3−6
21:3 あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

 ダビデがアモン人と戦い、イスラエル人はアモン人の王がかむっていた冠を取ってきました。その重さは金一タラント宝石がはめ込まれていた、とあります(2サムエル12:30)。このことについてダビデは言及しているものと考えられます。

21:4 彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。21:5 御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。21:6 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。

 この4節、5節、6節は単純に自分自身のことだけを言っているのではないことに気づきます。「とこしえ」という言葉が出てきます。彼は、おそらくは自分の子孫、つまり神に約束されたメシヤのことを考えているのだと考えられます。世継ぎの子がとこしえに国を治めるとの約束です。

3B 敵の滅亡 7−13
21:7 まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。21:8 あなたの手は、あなたのすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手は、あなたを憎む者どもを見つけ出します。21:9 あなたの御怒りのとき、彼らを、燃える炉のようにされましょう。主は御怒りによって彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くすでしょう。

 この描写はまさに、ハルマゲドンの戦いです。黙示録19章を読めば、王の王、主の主としてイエス様が現われて、国々の軍隊と戦われる場面が出てきます。そして彼ら、特に反キリストと偽預言者は、火と硫黄の池、ゲヘナに投げ込まれることが預言されています。

21:10 あなたは、地の上から、彼らのすえを滅ぼされましょう。また、人の子らの中から、彼らの子孫をも。

 主が再臨されると、国々の民を集められます。そして彼らを選り分けられ、右にいる者たちは神の御国へと招かれて、左にいる者らは地獄へ投げ込まれます。だから国民の単位でさばきが行なわれるので、子孫をも滅ぼされてしまうのです。

21:11 彼らが、あなたに対して悪を企て、たくらみを設けたとしても、彼らには、できません。21:12 あなたは彼らが背を見せるようにし、弓弦を張って彼らの顔をねらわれるでしょう。

 神の国における、メシヤの絶対主権です。鉄の杖で牧すると書かれていますが、千年王国にて悪をたくらんでも、ことごとく罰せられます。

21:13 主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。

 ダビデは民とともに、メシヤの力をほめたたえています。

 次回の学び22篇には、同じくメシヤ詩篇となっています。最後の部分は21篇と同じでメシヤの統治が書かれていますが、その前に通らなければいけない苦難が預言されています。


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