詩篇30−34篇 「主をほめよ」


アウトライン

1A つかの間の怒り 30
   1B 引き上げてくださる方 1−3
   2B 恩寵による栄え 4−7
   3B 絶えないほめ歌 8−12
2A 御手の中に 31
   1B 敵の手から守る方 1−8
      1C 主の力によって 1−4
      2C 主の真実によって 5−8
   2B 偽りのくちびる 9−18
      1C 苦しむ心身 9−13
      2C 祈り 14−18
   3B 恵みによる救い 19−24
3A 罪の赦し 32
   1B 罪の告白 1−5
   2B 救いの囲い 6−11
4A 主への歌 33
   1B 賛美への招き 1−3
   2B 主の言葉 1−12
      1C 天地創造 4−8
      2C 国々への計画 9−12
   3B 目を注がれる方 13−22
      1C 人の子らに 13−17
      2C 主を恐れる者たちに 18−22
5A 主のすばらしさ 34
   1B 主への賛美 1−10
      1C 救い 1−7
      2C 満たし 8−10
   2B 主への恐れ 11−22
      1C 悪の拒否 11−14
      2C 向けられる主の目 15−22

本文

 詩篇30篇を開いてください、今日は30篇から34篇までを学びます。今日のメッセージ題は、「主をほめよ」です。前回学んだのは、苦しみの中にある自分が主にあって支えられるように願う、待ち望む祈りが主でしたが、今日学ぶところは、救い出された状況から主をほめたたえる詩歌が中心となっています。そして、「主をほめよ」と、他の人たちも主をほめたたえるように呼びかけています。その理由を考えながら読んでいきましょう。

1A つかの間の怒り 30
ダビデの賛歌。家をささげる歌

 「」とは、神殿のことです。ダビデは自分の手で家を建てることはしなかったし、できませんでした。主が、彼の手が戦いの血で汚れているからだ、と言われています。けれども、彼が息子ソロモンのために、材料を集め、神殿礼拝の組織立てはしたことを思い出してください。彼はちょうどモーセのように、約束のものは見なかったけれども、約束のための備えを後継者以上に行なった人物です。

 彼は神殿の敷地を選ぶにあたって、不思議な神のあわれみと導きで、その場所を選びました。それは、彼が罪を犯して、その罪の赦しのためにいけにえをささげるために購入した土地だったということです。サムエル記第二の最後の章、24章にそのことが書かれています。

 ダビデの国は、主によって非常に大きくなり、強くなりました。そこで彼は、自分の国にどれだけイスラエル人がいるのか確かめたいと思って、側近に住民登録をイスラエル人にさせるように命じました。主は、イスラエルを星の数のように、海の砂のようにふやされることを約束しておられるのに、その無尽蔵の祝福を自分の栄誉として自分の手中の中に収めたい、という欲望がダビデの内にあったのです。

 けれども、彼は良心が咎められました。そのとき預言者ガドが来て、この罪に対する懲らしめとして、三つの災いのうちのどれかを選べ、と言いました。七年間のききんか、三ヶ月、敵に追いまわされるのがいいか、それとも三日間、疫病があるのがいいか、です。ダビデは、「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。(2サムエル24:14」と言いました。

 それで疫病が下りました。七万人のイスラエル人が死にました。ダビデは、泣いてあわれみを請いました。自分が罪を犯して、この羊の群れは何も悪いことをしていません、どうか私と私の一家に下してください、と言いました。そこで主が、エルサレムに住んでいるエブス人アウラナの打ち場に行って、祭壇を築きなさいと命じられました。

 それでアウラナから購入したのが、後の神殿の敷地です。ダビデが罪を犯して、けれども主があわれんでくださり、イスラエル人を滅ぼすのをおやめになるなだめの供え物がささげられたところです。

 そこで、この詩歌は、ダビデがその時期、自分が一時的に神から懲らしめを受けたことを歌っています。懲らしめは一時的であり、主の恵みは変わらないことを歌っています。

1B 引き上げてくださる方 1−3
30:1 主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

 ダビデは、主からの懲らしめとして、敵に追いまわされるのではなく、疫病を願い、主は疫病を送られました。確かに敵を喜ばせることを、主はなさいませんでした。

30:2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

 懲らしめとしての疫病も、途中で収まりました。

 すべての病が、罪によるものではありませんが、罪を犯したことによって病に至る場合はあります。主が、屋根からつり降ろされて来た中風の人に対して、「子よ。あなたの罪は赦されました。(マルコ2:5」と言われました。それからこの人の病を主は治されましたが、罪の赦しによってもたらされる解放は、精神だけでなく肉体にももたらされます。

30:3 主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。

 前回も学びましたが、「よみ」「」というのは死んだ後の世界、特に悪者たちが住むところとして旧約聖書では描かれています。罪を犯すことによる報酬は死ですが、その危険から主は私を引き上げてくださった、と言っています。

2B 恩寵による栄え 4−7
30:4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。

 聖なる御名、つまり、あらゆる汚れから分離された神がおられて、この方の所有の民として聖め別たれた聖徒たちがいます。賛美と感謝は、このような聖なる関係の中で行なわれます。

30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 私たちに与えられる懲らしめは一時的であることを知ることは大事です。子をしつける親が、お仕置きを何日も、何週間も行なわないのと同じです。ヘブル人への手紙にこう書いてあります。「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:10-11

 そして今読んだ箇所にもあるとおり、懲らしめの目的は真の安らぎと喜びをもたらすためのものです。偽の平安ではありません。傷を受けているのに「大丈夫だ」と言うような気休めの慰めではなく、傷をいやすような実質的な平安です。だから、夕暮れに涙が宿っても、朝明けに喜びの叫びがあるような実際的な変化をもたらします。

30:6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」30:7 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。

 ダビデは晩年、栄えていました。「私はゆるがされない。」と自負していましたが、実は主のご恩寵のうちに成り立っているものであることを、今回の懲らしめによって知りました。

3B 絶えないほめ歌 8−12
30:8 主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。30:9 私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

 旧約聖書において、復活の教えは明確に示されていません。ダビデがここで地上のいのちが絶たれたら、賛美が途絶えると言っています。しかし私たちは、死後すぐに天の中に入り、主をほめたたえること、さらに復活して主をとこしえにほめたたえることを知っています。

30:10 聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

 神の懲らしめによって嘆き、また荒布をまとったのですが、それが踊りと喜びに変えられました。嘆きや痛みを通過して、その後に訪れる喜びです。

 私が以前、クリスチャンによる過越の祭りの食事に参加したときのことでした。そこに、パン(といっても、種なしパンでクラッカーのようなもの。マッツァ。)があり、ピンク色をしたものを中に挟んで食べてくださいという指示がありました。同じテーブルの仲間はパンを取らなかったのですが、それは私がそのピンク色のものが、何であるかはっきりと分かっていなかったからです。それは、ホーシュラディッシュ、西洋わさびでした。食べた私は、鼻がつ〜んとなって、わざびをたくさん取って食べてしまったときと同じ状態に陥りました。

 それからもう一つ、今度は、りんごをすったものとナッツが混ざっているものをパンに挟んで食べてください、という指示がありました。あまりにも辛くて死にそうになっていたのですが、それを食べると、辛味がその程よい甘さによってなくなってしまったのです。それは、イスラエル人たちがエジプトの中で苦役の中で辛酸を舐めたけれども、その後の主の救いによって、甘い経験に変えられたことを意味すると教えられました。

 ダビデが、ここで表現しているのはそのようなものです。私たちが痛みの中を通っても、主はその痛みをそのままご自分の平安へと変えてくださいます。悲しんでもそれをそのまま喜びへと変えてくださいます。

30:12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

 ダビデは、主をほめたたえることが、主ご自身が望んでおられることをよく知っていました。主があわれみ、恵みを与えてくださるのは、その恵みの業によってご自分の栄光が現われるためです。エペソ書1章6節に、「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」とあります。

 私たちが存在するのは、主がほめたたえられるためです。永遠に行なうものは、主への礼拝と賛美です。だから、このことに自分をささげることが大事です。

2A 御手の中に 31
 次の詩篇は再び、アブシャロムたちによってダビデが追い詰められたとき、特に言葉による中傷・誹謗によってダビデが焦燥・疲弊しているところから助け出されたときの詩歌です。

指揮者のために。ダビデの賛歌

1B 敵の手から守る方 1−8
1C 主の力によって 1−4
31:1 主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。

 前回の学びでも話しましたが、ダビデは、アブシャロムから救い出されることを願うとき、自分の正しさではなく、神のあわれみを請いました。それは、彼自身の罪が遠因となって、これらのことが起こっているのを知っていたからです。この節では、自分の義ではなく、主の義によって助け出されることを願っています。

 私たちが神の前に出ることができるのは、同じように、私たちの正しさ、義ではなく、神ご自身の義です。キリストにあって、私たちが神の前に出るとき、神はキリストの義によって私たちを見てくださいます。神が見てくださるのは、私たちの罪のためにキリストが死んでくださったという義です。罪に対しては死、という律法を全うしてくださったキリストの義です。ダビデと同じように、この義によって私たちは救われます。

31:2 私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。31:3a あなたこそ、私の巌、私のとりでです。

 私を擁護してくださる、岩、とりで、巌となってください、と祈っています。これは大事ですね、私たちが言葉によって攻撃を受けたとき、何とかして自分で擁護する、あるいは他の人たちに擁護してもらうことを願います。しかしダビデは、「あなたこそ、私の巌、とりでです。」と主こそが擁護してくださる方であると宣言しています。

 ある人がこういいました。「私たちが自分を擁護すると、主はそのままにされる。」と。主が擁護してくださるのと、自分が擁護するのとどちらが力強いかは、一目瞭然ですね。ダビデは主を弁護者として立てたのです。

31:2bあなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。

 再び、自分ではなく神に、救われる根拠を求めています。エゼキエル書36章に、イスラエルが約束の地に戻ってきて、その地が回復される預言が書かれています。主は彼らが、いかに神の御名を汚したかをお語りになった後に、それでも彼らを連れ戻すのは、わたしの名のためであると告げられています。「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。・・神である主の御告げ。・・ 36:23

 主がダビデをお選びになった、その主の名のゆえに、私を導き、伴ってくださいと祈っています。

31:4 私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。

 「ひそかに張られた網」とは、言葉によってダビデを貶める企みのことです。

2C 主の真実によって 5−8
31:5 私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。

 これは、主が十字架の上で死なれるときに最後に発せられた言葉です。「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46」とあります。

 何が起こっても主に任せます、という態度を取るときに私たちに落ち着きがやって来ます。実際に主は、十字架上で死なれるときだけでなく、ゲッセマネの園での祈りから父なる神にご自分をゆだねておられました。途方もない痛み、罵りなど精神的苦痛、そして霊的な父なる神との断絶を味わわれましたが、その苦しみから逃げ出そうという迷いはいっさいありませんでした。「ただわたしの願うとおりではなく、あなたのみこころのままにしてください。」という祈りがあったからです。

31:6 私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。

 ここの「偶像」は、嘘とも訳すことができます。主の真実と、彼らの言葉による攻撃にあるむなしさとを比較、対比しているのです。この方により頼むことのほうがはるかに益である、なぜなら主は真実な方だからだ、ということです。

31:7 あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

 主は、個人的に私たちの悩み、苦しみを知っておられます。イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦役に服しているとき、主はモーセに「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト3:7」と言われました。個人的にその痛みを感じ取ってくださっています。

31:8 あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。

 逃げたり隠れたりする所ではなく、堂々と歩ける広い所に立たせてくださいました。

2B 偽りのくちびる 9−18
1C 苦しむ心身 9−13
31:9 私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。31:10aまことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。

 今、言葉の攻撃を受けている最中の祈りに戻っています。ここで精神的な領域で起こった出来事が、肉体にも影響を与えていることを伺うことがでいます。目が衰えている、というのは、実際に心理的ストレスで視力が落ちることが分かっています。悲しみという精神的なストレスで、寿命も縮まっています。魂と肉体は密接に結びついています。

31:10b私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。

 ダビデがかつて犯した罪、咎も思い起こされています。

31:11 私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。

 自分が信頼していた議官アヒトフェルが、アブシャロムにつきました。さらに多くの知人、友人、親友が自分から離れていったのでしょう。これが一番辛いですね、自分に最も近しい人が離れていってしまったのです。

31:12 私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。

 ダビデが長年苦労して成し遂げた数々の業績は人の心から忘れられてしまった、と感じました。人の心から忘れられるのは、本当に早いです。昨日までテレビで話題にされていた人が、大きな別にニュースによってほとんど忘れられた存在になっています。

31:13 私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。

 誹謗・中傷がついに殺意に変わり、彼を殺す計画を企てるに至りました。

2C 祈り 14−18
31:14 しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

 ダビデは、自分の酷い状況を語りましたが、ここで「しかし」と言って、大きく舵を取っています。「あなたこそ私の神です」というのは、あなたこそ、私のすべてを明け渡し、頼ってよい方という意味です。

31:15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。

 先ほどは、自分の霊を主の御手にゆだねると祈りましたが、ここでは自分の時をゆだねています。主が助けてくださる、けれども主がよしと思われた時に私を助けてくださる、と、助けてくださるタイミングを主にゆだねたのです。

 私たちは早く解決したいと思ってしまいます。けれども、時があります。それを待ちます。

31:16 御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。

 地上における中傷の嵐の中で、天からの恵みの太陽を浴びたいと願いました。

31:17 主よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪者をはずかしめてください。彼らをよみで静まらせてください。31:18 偽りのくちびるを封じてください。それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。

 祈りが切実になっています。そして祈りが聞かれます。

3B 恵みによる救い 19−24
31:19 あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。

 神のいつくしみは特権ですね。主を恐れる人、主に身を避ける人に蓄え、備えられている資源です。同じことが、コリント第一2章9節にもあります。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

31:20 あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。

 主の中に身を避けると、中傷の場から避難することができます。

31:21 ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。31:22 私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。

 あわてて言ってしまうこと、私にはよくあります。ペテロが、変貌されたイエス様とモーセとエリヤの姿を見たときに、それぞれに幕屋を造ります、とあわてて言いました。主の前であわてるのは、良くないことです。

31:23 すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。

 これだけすばらしことをしてくださった主を、あなたがたも愛しなさい、と呼びかけています。

31:24 雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。

 これだけ主は真実な方であるのだから、主を待ち望みなさい。心を強くしていなさい、と言っています。

3A 罪の赦し 32

ダビデのマスキール

マスキール」は「教え」という意味です。

非常に有名な詩歌です。ダビデがウリヤの妻バテ・シェバを彼から奪い取った時のことです。彼はウリヤを殺した後、未亡人になったバテ・シェバを自分の妻に迎えました。しばらくして預言者ナタンがやってそれを明らかにしました。ダビデは、「私は主に罪を犯しました。」と叫びました。するとナタンはすぐに、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」といいました。罪を隠していて、それに苦悩していたが、罪を言い表したら罪の赦しがすぐに与えられたことをたたえる歌です。

1B 罪の告白 1−5
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

 詩篇一篇の言葉も「幸いなことよ」で始まりました。またイエス様の山上の垂訓も「幸いなことよ」で始まります。

 「そむき」と「罪」の二つの言葉をダビデは使っていますが、これらは意味合いが少し違います。背きは「咎」という言葉としても使われますが、主に与えられた明らかな命令に故意に逆らうことを意味します。そして往々にして、他者に物理的な危害を与えます。

 罪の元々の意味は「的をはずす」です。神という基準、神が求めておられる的をはずしてしまったという意味です。ですからもっと内面的なもの、その人と神との関係を表すときに使われる言葉です。

 ローマ人への手紙7章にて、パウロが自分の苦悩について話しました。自分がしたいと思うことを行なわず、憎んでいることを行なっている。どうしてこんなことをしているのか、わからないという告白です。クリスチャンであればだれでも経験されていると思います。御霊に導かれて生活しているのに、ある時に、肉に反応してそのまま行動してしまった、というときです。

 けれども「そむきの罪」は、もっと計画的です。神さまのおきてを知りながら公然とその定めに逆らうことです。この違いについて、イエス様がしもべのたとえを使って話されました。「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:45-48」知っているか知らずにいたかの違いです。

 ダビデの罪は、計画的でした。バテ・シェバを自分のところに招き入れて、彼女と寝ました。彼女が妊娠したことをダビデに伝えたら、彼は夫ウリヤを自分の宮殿に招きました。そして妻のところに行って一夜を過ごしなさい、といったのです。夫婦関係を持てば、生まれてくる子がウリヤとの間の子であるとごまかせると考えたのです。

 けれどもウリヤはまじめで、誠実な戦士でした。他のみなが戦っているときに私だけが妻のところに行くことはできない、と行って家には帰らなかったのです。そこでダビデは、次の日も彼を食事に招いて、酒に酔わせました。それから家に帰るようにいいましたが、ウリヤは言うことを聞きませんでした。

 そこでダビデは、必ずペリシテ人の手にかかるような最前線にウリヤを置いて、彼を殺す企てをしたのです。それでウリヤは死にました。これらはみな、計画的、主が言われたことに公然とそむく罪でした。

 その咎が赦された、罪がおおわれた、ということをダビデはここで歌っています。

32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

 この言葉は、ローマ人への手紙4章で引用されています。行ないではなく、信仰によって義と認められることを論じているパウロが、ここのダビデの言葉を引用しました。「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』(6-8節)」本当に幸せですね、自分を神がご覧になられるとき、自分が犯した罪のすべてが帳消しにされていて、白紙の状態なのです!

 そしてダビデは、「心に欺きのないその人」とあります。これは、隠し事のない、透明な人、と言い換えることもできます。罪を犯したら人はそれを隠そうとします。そうして心の中に「欺き」ができます。

 ダビデは、他人の妻と寝たという罪を隠すために、あらゆることを行ないました。初めに罪を認めて、明かしてしまえばこんな悲劇は起こらなかったのですが、けれども隠そうとしました。それでウリヤを殺すという罪まで犯しましたが、これも他の人々には殺人ではなく戦闘の中で死んだようにされていましたから、彼はさらに欺いたのです。しかもダビデは、自分の部下が死んで、その未亡人を妻に取るということで、生活の糧を失ったかわいそうな女の人を助ける素晴らしい人だ、という虚構まで作り上げることができたのです。

 ダビデは、このような欺きがない人は本当に幸せである、と言っています。その理由を彼の実体験から次に述べています。

32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

 完全に罪を覆い隠すことができたとしても、自分の良心まで覆い隠すことはできません。本当に神に選ばれた人であれば、御霊によって新生の経験をしている人であれば、ご聖霊が私たちの良心によって、罪を犯した人を苦しめることをなさいます。

 詩篇1篇にある、水路のそばに植わった木のような状態とは裏腹に、夏のひでりでかわききったようになっていました。

32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

 箴言に「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(28:13」とあります。隠すことで非常に苦しんだダビデは、告白して本当に安堵したことでしょう。

 さらに彼は、すぐに罪の赦しの宣言を受けました。ナタンがすぐに、「主もあなたの罪を見過ごしてくださった。」と宣言しました。ヨハネ第一1章9節に、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とありますが、それは罪を言い表した後すぐに与えられます。

 神は私たちをあわれみ、すぐに罪を赦したいと願われています。けれどもそのためには、主の前にへりくだり、自分が罪を犯したことを告白しなければいけません。それをしないばかりに自分の体の中で苦しみ悶えているしかないのです。

2B 救いの囲い 6−11
 ダビデは、この自分の経験に基づいて、聖徒すべてに神の救いについて語ります。

32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。

 罪の赦しの祈りを、「あなたのお会いできる間に」行なうとダビデは言っています。主にお会いできる間、主が私たちに迫って、悔い改めを呼びかけておられる間があります。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」と預言者イザヤは言いました。使徒パウロも、「今は恵みの時、今は救いの日。(2コリント6:2」と言いました。自分の罪が示されても、「いいや、あとで神さまから赦してもらうから」と罪を犯し続けたら、罪を赦していただく時を失ってしまうかもしれません。

32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ

 罪に苛まされていたときは、神の怒りの声、人々の非難の声、あらゆる自分を責める声が聞こえていたと思います。けれども、今、罪を赦していただいたら、救いの歓声が自分を取り囲んでいます。自分が罪から救われた、という声を聞くには、罪を言い表し、それを捨てていないと聞こえません。

32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

 ダビデと他の聖徒たちの声に応答して、主ご自身が語りかけておられます。悟り、理解を与えて、正しい道を教えよう。そのために助言、アドバイスをあげよう、と言われます。

32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

 無理やり引っ張らないと来ない、ということです。私たちが主が言われていることに自主的に従わないなら、半強制的に引っ張ることしか主はできなくなります。懲らしめを与えなければ帰って来ないのであればそうされます。そういう関係って悲しいですよね、ちょうど悟りのない馬や騾馬のようです。

32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

 その通りです、悪者には心痛が増えます。けれども主に信頼する者は、恵みに浴することができます。

32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

 喜ぶことができるのは、正しい人、心の直ぐな人です。罪を言い表して、心を清めていただいた人たちです。

4A 主への歌 33
 それでは33篇に入ります。

1B 賛美への招き 1−3
33:1 正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。

 第33篇は、主への賛美そのものになっています。今、32篇のところで読んだように、賛美に招かれているのは正しい者たち、また心の直ぐな人たちです。私たちが心がまっすぐになっていないで心から賛美は湧き上がってきません。

33:2 立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

 この立琴は、古代イスラエルにて用いられていた琴で西洋楽器のハープとは異なります。手で持ち歩くことができます。
 http://www.bible-history.com/sketches/ancient/ancient-harp.html を参照)

33:3 新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。

 新しい歌です。主によって取り扱われたとき、その新しい体験から出てくる歌です。

2B 主の言葉 1−12
1C 天地創造 4−8
33:4 まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。

 主のみことばが正しいから、主をほめたたえよと呼びかけていました。御言葉が主への賛美の理由となっています。礼拝などで祈りと賛美をたくさんした後に、「もう恵まれたから、みことばの解き明かしは少なくてよい。」というようなことを言う牧師がいます。けれども、ここの詩篇では逆のことを言っています。主のみことばが正しく、ことごとく真実だから主を賛美しています。

33:5 主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。

 正義・公正と恵みは切っても切り離せない関係にあります。恵みは、受けるに値しない祝福を受けることですが、正義がなければ、人は神の正義にしたがって裁かれなければいけない、という前提がなければ、あらゆる祝福を恵みと言うことはできません。

33:6 主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。

 みことばの中には神の正義があるだけでなく、創造の力があります。創世記1章を読むと、天地創造はみな、主から出た口の言葉によったことがわかります。

33:7 主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。

 海と陸の区別です。

33:8 全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。

 主のみことばによる創造の働きは、もちろん一部の地域だけでなく世界全域に関わることです。だから詩篇の著者はここで、「世界の住むものよ。みな、主の前におののけ。」と世界中に呼びかけているのです。

2C 国々への計画 9−12
 けれども、世界の国々が創造主を認めているわけではありません。むしろ多くの国々は、偶像を造ってそれを自分の神としてあがめています。そこで次に、主を認めない国々に対しても、力を行使される神の御姿が書かれています。

33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

 イザヤ書に、「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(55:11」とあります。

33:10 主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。

 それぞれの国々が、自分たちの思惑にしたがって国全体の舵取りをしています。いや、しているように見えます。けれども私たちが驚くのは、いっさい神を認めていない国の指導者さえもが、実は神の手で操られているにしか過ぎないという事実です。彼らが神に反抗して行なっていると思われる事柄が、実は神のみこころを成し遂げることがたくさんあります。

 ですから私たちは、神のご計画全体を知ることがとても大切になります。創世記から黙示録までに貫かれている神のご計画をです。実は、神は永遠のご計画を立てておられ、人間の歴史は初めから立てられたご計画を展開させているに過ぎないのです。

 創世記12章にあるアブラハムへの祝福の約束を思い出してください、あれは終わりの時に実現します。けれども歴史の初めのときにそれを語られて、どのようにして祝福の約束が実現するのか、展開しているのがこれまでの歴史です。

33:12 幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。

 主のご計画を知って、そのとおりに動くことほど幸いなことはありません。主に反抗して痛手をこうむることはありません。この節で言及されている国は具体的にイスラエルであり、言及されている選びの民はイスラエル人のことです。

 けれども、他の国々に対しても神は同じ思いを持っておられるでしょう。主が帰ってこられて神の国が立てられるときには、全ての国々が主をおのれの神としなければいけません。けれどもそれまでは、それぞれの国が偶像を自分の神としています。イスラエルの周囲の国々はそれぞれの神々を持っていました。そして現代でも多くの国々が偶像を国の中心に据えています。靖国問題しかりですね、国の指導者が国の代表として偶像礼拝をしているわけです。靖国に限らず、伊勢神宮なども多くの政治家が参拝していますが、まことの神、主イエス・キリストの神をあがめてほしいとお祈りします。

3B 目を注がれる方 13−22
1C 人の子らに 13−17
33:13 主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。33:14 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。

 主は国々に対してご計画を持っておられるだけでなく、地上に住むすべての人、一人ひとりの動向を注視しておられます。現在、北朝鮮の核実験が問題になっていますが、米軍の衛星から撮られるミサイル発射台の写真の精巧さには、本当に驚かされます。グーグルの地図も、自分の住んでいる建物まで見えたりして、空高いところから細かいものを見ることができますね。

 主はそれ以上に、私たち一人ひとりを細かく見ておられます。自分が行なっていることは神から隠されている、神は空高いところにいるから自分のしていることは気づかれない、などと私たちは錯覚してしまいます。けれども違うのです。

33:15 主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

 主は人の心の動きまですべてじっくりと見ておられ、それにしたがって彼らを動かしておられます。ダビデがアブシャロムの手から救われた、きっかけとなったのは、アブシャロムのところにダビデからのスパイ、フシャイの助言でした。アブシャロムのところには、アヒトフェルがいました。彼の助言は天才的で、ことごとくその通りになるので、他の人が神のことばを聞くようにして聞いていたと書かれています。

 アブシャロムがどのようにしてダビデを攻めるか相談したとき、アヒトフェルは王に焦点を絞って殺したほうがよいと助言しました。けれどもフシャイが、全軍で臨み、アブシャロム自身が戦いに参加したほうがよいという助言をしました。この「全軍で臨み」「アブシャロム自身が戦う」というところが、アブシャロムのうぬぼれた心をくすぐったのです。彼はアヒトフェルではなくフシャイの助言に従いました。もちろん、結果はアブシャロムがその長い髪の毛が木の枝に絡みつき、木にぶらさがっているアブシャロムをダビデ軍が殺したのです。

 そのアブシャロムがフシャイの助言を採用するところで、こう書いてあります。「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。(2サムエル17:14」主は、こうやって人の細かい心の動きを用いて、ご自分が行なわれようとすることを実行されます。

33:16 王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。33:17 軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。

 これが神を認めない、国の王たちが拠り頼むものでしょう。しかし聖書を読むと、軍勢が少ない人々が戦いで勝利する場面がたくさん出てきます。軍勢どころか、四人の非武装のらい病人が、包囲していたシリヤ軍を追い払ったこともありましたね。勇者だって、ゴリヤテのような強い人が少年ダビデに、石ころ一つで殺されました。軍馬は、エジプト軍のことを思い出します。紅海の中で戦車は沈みました。

2C 主を恐れる者たちに 18−22
33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

 すべての人々に注がれる主の目は、主を恐れる人々にも注がれています。けれども、違った視点で見ておられます。それは、「恵み」を降り注ごうと待っておられる目です。

33:19 彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

 彼らを生かそうとする恵みを降り注がせるために、私たちを見てくださっています。そこで私たちの反応は次のようになります。

33:20 私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

 主を待ち望みます。

33:21 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

 主を喜びます。

33:22 主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。

 繰り返しですが、主を待ち望みます。

5A 主のすばらしさ 34
ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき

 覚えていますか、ダビデがサウルの手から逃げ始めたとき、彼はガテの王アキシュのところに行きました。自分がダビデであることをばれないでほしいと思っていましたが、だれかが、「あれは、イスラエルの勇士ダビデではないか。」と気づいたので、ダビデは非常にあせりました。彼は自分がダビデではないことを装うために、気違いのふりをしたのです。アキシュは、「私のところに気違いを連れてくるな。」と言ったので、その場を離れることができたのです。

 ここの詩篇は、そのときの苦しみではなく、その場から救い出されたことを本当に喜んで、神に賛美している場面を描いています。

1B 主への賛美 1−10
1C 救い 1−7
34:1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

 あらゆるときに賛美があります。順境のときだけでなく逆境のときもです。パウロとシラスがヨーロッパへ宣教旅行に行ったときのことを思い出してください。彼らはピリピの町で捕えられて、むちで打たれ、牢屋の中に入れられました。真夜中に、彼らは神に祈りつつ賛美の歌をうたっていた、とあります(使徒16:25)。そうすると大地震が起こって、鎖が解けて、看守が自害しようとしたのをパウロが止めて、看守とその家族がイエス様を信じました。

34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

 自分の地位や力ではなく主を誇るときに、貧しい人は喜びます。パウロはガラテヤ書でキリストの十字架だけを誇りとする、と言いましたが、彼が誇ろうと思えば、ヘブライ人であること、パリサイ派であり、律法に関しては非常に厳格に(外側だけですが)守っていたこと、サンヘドリンの議員であったことなど、いくらでも誇れました。けれども、彼が十字架だけしか誇らないと言ったところで、力のない人、弱い人、のけものにされている人もみな共感して、主を喜ぶことができます。

 神の前に立つときに、全ての人は同じところに立っており、みなが同じところで賛美するのです。

34:3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。34:4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。

 「すべての恐怖から」とは、アキシュからの救いのことです。

34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」

 主を仰ぎ見たら彼らは輝いて、彼らの顔を汚されることはありませんでした。

34:6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。34:7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

 主の使い、とは主イエス様であろうと考えられます。

 陣を張る、という働きは、エリシャがシリヤ軍に包囲されていたときもそうですし、ヒゼキヤがアッシリヤ軍に包囲されていたときもそうでした。御使いが軍隊をことごとに滅ぼしました。

2C 満たし 8−10
34:8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

 食べ物のおいしさは、どんなに説明してもまず食べてみなければわかりません。同じように、主のすばらしさはまず味わってみなければわかりません。

34:9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

 何も乏しくなることはないという約束です。すべての必要を神が満たしてくださる、という約束もピリピ書にあります。

2B 主への恐れ 11−22
 賛美の言葉から勧めの言葉になっています。

1C 悪の拒否 11−14
34:11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。34:12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。

 十戒の中で、父と母を敬えという戒めの後に、それを守ることにともなう約束が、いのちと幸せと長生きです。主を恐れることによっても約束されています。

34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。34:14 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。

 主を恐れることの具体的な行動です。口からは悪いものは出さない。悪から離れ善を行なう。そして周囲の人々と平和を求めます。すごく単純な戒めですが、どうでしょうか、私たちがこれらを行なえているでしょうか?

2C 向けられる主の目 15−22
34:15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。34:16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。

 正しい者と悪者の違いは祈りが聞かれるか聞かれないか、です。

 また、悪者は記憶を地から消されるとありますが、聖書に出てきた民族で悪いことを行なってきたアマレク人、エドム人などは、現在存在していない民族となりました。

34:17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

 すばらしいですね、詩篇51篇に、「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(17節)」とありますが、主は砕かれた者のそばにいてくださいます。

34:19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。

 ルカ21章では、「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。(18節)」と約束されています。

 また、この約束、十字架上のイエス様において成就しました。罪人たちのすねはローマ兵によって折られましたが、主はすでに死んでいたのですねを折らないで、そのままの姿で体を引き降ろしました。

34:21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。34:22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

 悪者は罪に定められ、主に信頼する者は罪に定められないという対比です。


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