詩篇35−37篇 「悪の問題」


アウトライン

1A 救いの祈り 35
   1B 代わりに戦われる主 1−10
      1C 敵の辱め 1−8
      2C 自分より強い者 9−10
   2B 悪の報い 11−18
      1C 暴虐な証人 11−16
      2C 大きな会衆での賛美 17−18
   3B 災いの喜び 19−28
      1C 嘲りの声 19−26
      2C 義の喜び 27−28
2A 御恵みへの想い 36
   1B 悪者の企み 1−4
   2B 主のすばらしさ 5−9
   3B 傾注への祈り 10−12
3A 主に任せる選択 37
   1B 悪への苛立ち 1−9
   2B 悪者の断滅 10−40
      1C 豊かな繁栄 10−22
         1D 正しい者への敵対 10−15
         2D 満ち足りる日々 16−22
      2C 確かな道 23−36
         1D 主の守り 23−29
         2D 教えの堅持 30−36
      3C 全き人 37−40

本文

 詩篇35篇を開いてください、今日は35篇から37編までを学びます。ここでのテーマは「悪の問題」です。353637の三つの詩篇はそれぞれ、私たちが日々目にしている悪の問題に対して、適切な祈りの方法を提供しています。

1A 救いの祈り 35
 ダビデによる

 この詩篇は、ダビデがサウルに追われている時、あるいは、ダビデの人生の後年に数々の敵からの反乱を経験した時に書かれたものではないか、と言われています。背景には、自分には対処できない、圧倒的な敵の勢力が自分を追い迫っていることがあります。私たちクリスチャンには、この圧倒的な勢力を感じる時がよくあります。もともと、使徒ヨハネは、「全世界は悪い者の支配下にある(1ヨハネ5:19」と言っていますから、私たちの周りは敵だらけです。

 そこで私たちは、神の大能の力によって強められて、神の武具を身に着け、敵の勢力に対してしっかりと戦うことを命じられています。エペソ書6章には、暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対する格闘である、と書いてあります。ダビデが圧倒的な敵の勢力の中にいて、どのような祈りをささげたのかを見ていきたいと思います。

1B 代わりに戦われる主 1−10
1C 敵の辱め 1−8
35:1 主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。35:2 盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。35:3a 槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。

 彼は初めに「争う」こと、次に「戦う」ことを話しています。争うのは、競争という言葉があるように、対抗することを意味します。戦うのは、さらに相手を打ち負かすことを意味します。同じように、初めに対抗するため、防御の武具である盾と大盾を手に取ってください、と祈っています。次に槍を放つことによって相手と戦ってくださることを祈っています。

35:3b私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ。」と。

 ダビデは、自分の魂に語りかけられることを非常に願っていました。ある時は、自分が落胆しそうになっている時、神の代わりに自分が、以前与えられた神の約束を自分自身に語りかけたこともあります。それだけ、魂への語りかけが必要であることを認識していました。

 私たちが、自分の魂への神の語りかけをどれだけ願っているでしょうか。語りかけがあって、初めて私たちはあらゆる行動、決断をすることができます。また、語りかけがあって初めて、強められ、意気消沈していても元気になることができます。

 4節から、神様が敵に戦ってくださることによって、敵が敗退することを願う祈りになっています。

35:4a 私のいのちを求める者どもが恥を見、卑しめられますように。

 実際にダビデの命を求めていた人々がたくさんいました。けれどもクリスチャンに対しても、命を狙っている存在がいます。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(1ペテロ5:8」悪魔ですね。

35:4b私のわざわいを図る者が退き、はずかしめを受けますように。35:5 彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使いに押しのけさせてください。

 風の前の籾殻とは、脱穀をする時に当時の農夫が、穀物を打ち場で打って、それを空に舞い上げて、籾殻だけを風で吹き飛ばしていることを言っています。

35:6 彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、主の使いに彼らを追わせてください。

 主の使い、あるいはヤハウェの使いですが、聖書の中にイスラエルのために戦ってくださる方として登場します。ヨシュアが敵陣に向かうときに抜き身の剣を持っておられる方が主の使いでした。「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。(ヨシュア5:14」と言われました。

 その結果、カナン人などの先住民は混乱に陥って、次々と敗退していきました。モーセはそのことを預言してこう言いました。「わたし(主)は、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。(出エジプト23:27-28」恐れて、慌てふためいて、退散していくことを、ダビデは自分の敵に対しても祈っているのです。

35:7 まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。

 敵は、敵自身の手に陥るように戦うだけでなく、罠に引っかかって自滅してくれることを願っていました。これが敵の手法です。敵は、私たちが自分たちで罪に引き寄せられ、自分たちで罪を犯すように、あらゆる誘惑の罠を仕掛けています。

35:8 思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、滅びの中に彼が落ち込みますように。

 詩篇の中に何度も出てくる祈りであり、約束でもありますが、自分が仕掛けた罠に自分自身が引っかかります。エステル記に登場する、ユダヤ人の敵ハマンが、モルデカイを吊るそうと思って立てた柱に、自分自身が吊るされました。それと同じように、自分が蒔いた種を自分自身で刈り取るという原理を、神様はこの世界に設けておられます。

2C 自分より強い者 9−10
 そして次は、神への賛美です。

35:9 こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。

 主にある喜び、主の救いの中にある楽しみです。確かに敵が滅ぶことは喜びでしょう。けれどもそれ以上に、主ご自身が喜びであり、主とともにいることができるようになった、その御救いの業のほうが楽しみです。

 ルカによる福音書の中に、悪霊を追い出すことができたことを大喜びで主に報告しに戻ってきた弟子たちの姿が描かれています。イエス様も一緒に喜ばれました。けれども、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(10:20」天に名が書き記されているということは、天のエルサレムにおいて、永遠に主の中に住むことを意味します。

35:10 私のすべての骨は言いましょう。「主よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」

 「すべての骨」とは、全身に、体の隅々から主への賛美が湧き上がっている姿のことです。

 そして、自分よりも「強い者から救い出」されたことを喜んでいます。自分よりも圧倒的に強い敵の勢力から救われました。このことを知るのは大事です。私たちの敵は、私たちより力があるのです。だから、私たちが戦えば必ず負けます。だから、ダビデのように主が戦ってくださることを祈るのです。使徒ヨハネは、「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4」と言いました。主が、悪魔よりも力がある方です。

2B 悪の報い 11−18
 次に、敵からの救いの祈りを再開します。

1C 暴虐な証人 11−16
35:11 暴虐な証人どもが立ち私の知らないことを私に問う。

 「暴虐」は、「不当」とも訳せるし「悪意のある」とも訳せます。自分に身に覚えのないことを、行ったこととして証言台に立っている者たちの姿をダビデは描いています。

 これは、主がユダヤ人の法廷で裁かれた時の預言になっています。イエスを死刑にするために、イエスに対する偽証をした者が多くいた、と福音書に書かれています(マルコ14:5556参照)。

35:12 彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。

 クリスチャンは、悪に対して善で報いるように命じられていますが、彼らはその反対です。善にかえて悪で報いています。皆さんの経験で、このような経験はないでしょうか?ある人に、あれだけ心を尽くして良くしてあげたのに、その人から悪意ある噂が流れたりすることです。

35:13 しかし、私は・・、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。35:14 私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。

 愛は人のした悪を思わない、不正を喜ばない、と聖書には書かれています(1コリント13:5-6)。自分に悪いことをした人が、たとえば病気にかかって死にそうになっているとき、私たちは喜んでいいでしょうか?いいえ、むしろダビデがここで行っているように、かえって共に悲しみ、共に苦しみます。

35:15 だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。

 言葉の攻撃です。これは昔だけでなく、今、顕著に現れている問題です。言葉が先行する時代に私たちは入りました。新聞、ラジオ、テレビなどのマスコミの情報化が近代に入って行われました。その言葉によって、人々が不正に苦しみを受けているのを正す役目を果たすはずでしたが、かえって一方的な、断片的な情報によって人々を苦しめる道具になってしまいました。

 そして現代、インターネットによって、その匿名性によって、この悪が増大しています。現実の世界で生きている人々は、血と肉を持っていて、その日々を一生懸命生きているのに、ダビデのように、苦しんでいる人々と共に苦しみを分かち合う人たちもいるのに、その仮想の世界から、人々の心、魂に突き刺す火の矢が飛んできます。

 終わりの時は、このような言葉の暴力が極みに達する時代でもあります。反キリストは、いろいろな名前が付けられていますが、その一つが「大きなことを語る口(ダニエル7:8」です。神や天に住む者たちに対して、反キリストは罵り、汚しごとを言います。神の裁きを受けている人々も、同じように汚しごとを言います(黙示13:6,16:9)。

35:16 私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。

 あざける者たちに取り囲まれています。再び、主が受けられた苦しみの預言になっています。

2C 大きな会衆での賛美 17−18
35:17 わが主よ。いつまでながめておられるのですか。どうか私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを若い獅子から、奪い返してください。

 彼は魂を、ただ一つのものであると言っています。イエス様は、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(マタイ16:26」と言われました。

35:18 私は大きな会衆の中で、あなたに感謝し、強い人々の間で、あなたを賛美します。

 ダビデは悪意に満ちた、罵りと嘲りの声に取り囲まれているのですが、そうではなく、多くの同じ思いを持った人々に取り囲まれて、そこで神を感謝して、賛美したいと告白しています。

3B 災いの喜び 19−28
 そしてダビデは、再び敵からの救いの祈りをささげています。

1C 嘲りの声 19−26
35:19 偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。

 「目くばせ」は、お互いに、いっしょに喜んでいる姿です。ダビデが倒れていること、ダビデに災いがふりかかっていることを喜んでいるのです。

35:20 彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。

 私たちは、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18」と命じられています。またテモテに対してパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。(1テモテ2:1-2」と言いました。平和を保ち、静かな一生を過ごすように命じています。その目的は、続けて「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4」と言っています。神の救いがあらゆる人に伝えられるためには、平安で、落ち着いた生活が必要なのです。

 ところが、罪の性質を宿している人間の肉は、これに我慢できません。高慢になり、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑いが生じて、言葉の争いをしたりすると同じテモテへの手紙で、パウロは述べています(1テモテ6:4)。

35:21 彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ。」と言います。

 災いを喜ぶ、嘲りの言葉です。

35:22a 主よ。あなたはそれをご覧になったのです。

 嘲る者たちは、ダビデが倒れている姿を見たぞ、と言っているのですが、主はその嘲る者たちをご覧になっておられます。自分は傍観者のように振舞っていますが、実はもっと上で自分を傍観している方がおられるのです。

35:22b黙っていないでください。

 黙っていないでください、何か語ってください、という願いは、前にも出てきましたね、彼は主が語ってくださることを祈っています。主が語られると、どうなるかご存知ですか?世界の全軍隊が滅ぼされます。主が地上に再び来られるとき、世界の軍隊がイスラエルにいます。彼らは主に戦いを挑むのですが、主はご自分の口から出る剣によって彼らをことごとく滅ぼされます(黙示19:15)。だから、主からの言葉をダビデは切に求めました。

35:22cわが主よ。私から遠く離れないでください。

 ダビデが次に求めたのは、主のご臨在です。神からの言葉と、ご臨在です。

35:23 奮い立ってください。目をさましてください。私のさばきのために。わが神、わが主よ。私の訴えのために。

 主からの弁護を願っています。

35:24 あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。

 そして神の義をダビデは求めています。ですから、神からの言葉、ご臨在、そして神の正義が私たちにとっても切に求めるものです。

35:25 彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは。われわれの望みどおりだ。」と。また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ。」と。35:26 私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。

 このように人の災いを楽しみ、喜ぶ者たちがいます。ダビデは最後に三度目の賛美をささげます。災いではなく、平和を喜び楽しむ世界の中での賛美です。

2C 義の喜び 27−28
35:27 私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。

 パウロは教会をキリストのからだと言い、一部が苦しめばともに苦しみ、そして一部が尊ばれればともに喜ぶ、と言っています(1コリント12:26)。そこには、妬みはありません。

35:28 私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。

 ダビデが口にするのは、神の義と神の誉れです。悪者の災いとは大違いです。

2A 御恵みへの想い 36

 そこで次の詩篇に移ります。36篇では、神のすばらしさ、神の恵みが宣言されています。

36 指揮者のために。主のしもべ、ダビデによる

1B 悪者の企み 1−4
36:1 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

 悪者の姿です。人は、悪を行なう時に神のほうを向くことはできません。だから、語るのはいつも自分自身です。非常に孤独ですね、神との交わりはなく、自分自身の中でいつも会話が展開しています。

36:2 彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

 この訳だと、悪者が自分の咎を憎んでいるという意味になってしまい、前後関係、また聖書全体の教えと違ってきます。口語訳では、こうなっています。「彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、みずからその目でおもねる。」自分の悪のインパクト、その影響、酷さがわからないようにするために、自分のやっていることを「大丈夫だよ、すばらしいことなんだよ。」とおもねる、ということです。自分で偽って、自分を慰めます。

 実際には罪を犯すと、主に愛されている者なら、骨が燃えるような熱さ、からからに乾いた心、深い傷を内側に感じます。その現実から目を逸らすために、自分自身におもね、へつらうのです。

36:3a 彼の口のことばは、不法と欺きだ。

 心で形成された悪意は、言葉として外に出てきます。

36:3b彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

 ダビデの息子ソロモンが書いた箴言に、知恵について多くが語られています。それは、主を恐れることであり、悪から離れることである、と定義づけられています。悪から離れ、そして善を行なうことを悪者は放棄しています。

36:4 彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。

 寝床は夢や幻を見るところです。ヨセフやダニエルは、夢や幻の中で主に語られました。ペテロも、異邦人の救いについて幻の中で語られました。けれども悪者は、そのような自分の意識が完全に眠っていない、その状態の中で悪事を図ります。

 そして彼は、よくない道に堅く立っています。どんなに神から警告を受けても、その道から決して離れようとしない意固地さです。

 こうやって悪事を図る者の姿を見ましたが、次に一気に焦点が別のところに移ります。

2B 主のすばらしさ 5−9
36:5a 主よ。

 主ご自身をダビデは見ています。私たちは、自分の内側を見たら絶望します。周りを見たら失望します。しかし、主には希望があります。

35:5bあなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。36:6 あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。

 神様のご性質が列挙されていますが、どの性質が一番高いところにありますか?「恵み」ですね。恵みは天にまで及んでいます。真実は雲のところまで、そして義は山のところまで、さばきは一番低いところ、深い海のところまであります。

 モーセが主の御姿を見たいと願ったとき、主はその後ろ姿だけお見せになりました。モーセを通り過ぎるとき、ご自分の次の名を宣言されました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:6-7」神の本質が恵みであり、神は恵みに満ちておられる方です。

 エペソ書1章には、神がキリスト・イエスにあって、天にあるあらゆる霊的祝福を注いでくださったことが書かれていて、私たちがキリストのうちに選ばれ、神の子どもにさせられたことが書かれていて、それは恵みの栄光が、ほめたたえられるためだ、と書かれています。そして2章には、罪過と罪の中で死んでいた私たちを、神はキリストとともに生かしてくださり、実に、キリストとともに天の所に座らせてくださっている、と書いてあります。天にまで及ぶ恵みです。

 救いの恵みもありますが、私たちの生活、また奉仕を支える恵みもあります。福音のために戸が開かれるのも、あらゆる試練に耐えられるのも、一方的な神の働き、神の恵みによるものです。

 そして雲にまで及んでいるのは神の真実です。これは、主が私たちのために約束されたことを必ず実現してくださること、途中であきらめたり、気を変えたり、見捨てたりすることはなさらないことです。

 そして神の義は山にまでそびえていますが、それは信仰によって啓示されているとローマ人への手紙には書かれています。その代表例がアブラハムですが、彼は神の約束を疑うことなく信じた、その信仰によって義と認められました。私たちがいかに神の約束を信じていけるか、その信仰が試されているのです。そこに神の義が現れています。

 そして神の裁きですが、旧約聖書を読むと、海の深いところ、地の底に、罪や死が葬られるところ、陰府があると書かれています。神の裁きは、どんな人にも及び、神の裁きを免れることはできません。死後の世界は、あらゆる死者に神の裁きが及ぶのです。

36:7 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

 これが、私たちがすべきことです、神の恵みの尊さの中で私たちは身を避けます。

36:8 彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。

 神の家、神殿から出てくる豊かさを楽しみます。現在は、私たちの内に住んでおられる聖霊が、私たちに楽しみを与えてくださいます。

36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

 御霊の命、また神の光が私たちに与えられています。このようにすばらしい豊かさの中に憩う特権が私たちに与えられているのですが、私たちはどのような祈りをささげたらよいでしょうか。

3B 傾注への祈り 10−12
36:10 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。

 注がれることです。私たちが恵みの上に、神の義の上に付け加えるものは何もありません、ただ恵みが注がれることを祈ります。

 恵みは神を知る者に、とありますが、恵みは神を個人的に知る、人格的に、親愛をもって知っていくことに関わります。体験的なものです。そして神の義は心の直ぐな人、二心ではなく、まっすぐ神を見る人に与えられるものであり、見ることが中心になります。

36:11 高ぶりの足が私に追いつかず、悪者の手が私を追いやらないようにしてください。

 恵みはへりくだった者にのみ与えられる特権です。私たちはいつの間にか、祝福を自分の功績にしていく傾向があります。申命記に、イスラエルが約束の地に落ち着いて、祝福されても、それが自分の功績であったかのように思わないように気をつけなさい、との警告があります。高ぶって、自分の力、自分の手の力がこの富を築き上げたのだ、と心の中で言わないように気をつけなさい、とあります(8:17)。

 だからダビデは、高ぶりの足が私に追いつくことがないように、いつまでも恵みが注がれているように、と祈っているのです。

36:12 そこでは、不法を行なう者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません。

 これが不法を行なう者の結末です。次の詩篇に、悪者の結末がはっきりと述べられています。

3A 主に任せる選択 37
 私たちに、神のすばらしい恵みが注がれているなら、私たちは悪に対してどのように対処すればよいのでしょうか。37篇はこの質問に答えています。悪に焦点を合わせるな、ということです。

37 ダビデによる

1B 悪への苛立ち 1−9
37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

 ああ、なんとこの戒めが必要なことでしょうか!私たちの周りにある不正を見るときに、私たちはいただたしくなり、頭に来ます。キリスト教会とは関係のない、この世の人たちの悪については、神を知らないのだから仕方がないと思いますが、キリストの御名を口にしているところで、この世と変わらないことが起こっているのを見ると、本当にどうしようか、公然と抗議してやろうか、という思いに駆られます。けれども、そうしてはいけないというのがここの戒めです。

37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

 これは信仰の立場です。目に見えるところに従えば、そのような人は今も平然としています。何も裁かれているようには見えず、繁栄しているかにも見えます。けれども、悪者が草のように枯れてしまうのが事実です。

 詩篇73篇に、神殿で賛美を指揮するアサフによる詩歌があります。彼も同じ悩みを持っていました。悪者が栄えているのを見て、自分はむなしく心を清めているのではないか、と疑うようになりました。けれども彼は、神の聖所の中に入り、彼らの最後を悟りました。彼らはまたたくまに滅ぼされるという霊的真実です。

 私たちは、この肉眼で見れば栄えている人々であっても、信仰によって悪者は滅びるという確信を持っていなければいけません。

 では、私たちは悪を見るのではなく、何をすれば良いでしょうか?ダビデは、いくつかの勧めを与えています。

37:3a 主に信頼して善を行なえ。

 主に信頼することです。そして、集中するのは善を行なうことです。悪者に腹を立てる時間があるなら、主のほうに目を向けて、そして自分がしなければいけないと主から示されていることに集中するのです。ガラテヤ6章9節には、「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9」とあります。

37:3b地に住み、誠実を養え。

 二つ目の勧めは、地に住むこと、そして誠実を養うことです。これは先ほど述べました、地上において静かな、落ち着いた生活を営み、着実に人をキリストに導くことを意味します。日本語にも、地に足の付いた生活という言葉がありますが、クリスチャン生活も同じです。仮想の世界で言葉の論争をしているのは、かつてテモテが牧会していたところで、言葉の論争の病気にかかっていた人々と同じです。

37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 三つの目の勧めは、主ご自身を自分の喜びとすることです。私たちは周囲のものを、祝福について喜びを覚えます。確かに主がなしてくださったこと、行なってくださっていることを見るのは、わくわくします。けれども、何が起こっても、あなたに信頼します。あなたがなされることが最善ですから、あなたを喜びます、という態度を取るとき、私たちには揺るぎない平和が与えられます。

 そして、この勧めに伴うすばらしい約束は、主が心の願いをかなえてくださる、ということです。これは、自分のやりたいことを、自分のわがままもすべて神が聞いてくださる、ということではなくて、主を喜びとしている人々の心に、主がご自身の願いを置いてくださることを意味します。主と自分の心が調和している状態です。自分がこれがよいと願ったことは、実は主から来ているという自由な関係です。

37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

 これが四つ目の勧めです。どの道を行けばよいか迷っているとき、この御言葉の約束があります。主にゆだねれば、主がそれを成し遂げてくださいます。信頼が必要ですね。

 そして次にこれらの勧めを守り行なっている人に与えられる約束が書かれています。

37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

 自分で周囲の悪を正そうとしている間は、その悪は正されないでいます。何の変化もありません。けれども、以上の勧めに聞きしたがっているなら、悪ではなく善が、義が明らかにされていきます。主は人の光であって、光はやみの中に輝いていた、やみはこれに打ち勝たなかった、とヨハネ1章にありますが、やみを打ち消すのではなく、光を輝かせます。

37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

 私たちが主を待ち望む立場から離れて、続けて怒り、憤りを続けたら、それは良い結果を生み出さないだけでなく、自分の怒りや憤り自体が悪に化してしまいます。 ダビデの議官アヒトフェルのことを思い出せますか、彼の親子関係をよく眺めると、彼はバテ・シェバの祖父に当たります。彼はおそらく、孫娘の婚姻関係をダビデによってめちゃくちゃにされたことを知ったのでしょう。彼は、アブシャロムの反乱に加わり、アブシャロムの助言者となりました。それだけでなく、ダビデと戦うとき、自分の手で彼を殺すことも考えるほど、ダビデを憎みました。結果から話すと、彼は自殺したのです。悪に腹を立てても、その中にとどまりつづけるなら、その怒り自体が悪になっていくのです。

37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

 10節から、悪が断ち切られることと、正しい者が地を受け継ぐことの対比が書かれています。

2B 悪者の断滅 10−40
1C 豊かな繁栄 10−22
1D 正しい者への敵対 10−15
37:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

 「貧しい人」は英語では「柔和な人」と訳されています。主が約束されましたね、柔和な人は地を受け継ぐと。この詩篇から来ています。 そして豊かな繁栄とありますが、豊かな平和とも訳すことができます。単なる繁栄ではなくて、平和に裏打ちされた繁栄です。

37:12 悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。37:13 主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

 詩篇2篇にも書かれていました、神とキリストに歯向かうために国々が相集まるときに、神は天からあざ笑ったことが書かれています。悪者が正しい者に敵対するのは、神があざけられるほど、滑稽なこと、どうしようもないことです。

37:14 悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。37:15 彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。

 35篇で説明しましたが、自分が行なう悪を自分自身が刈り取ることになります。

2D 満ち足りる日々 16−22
37:16 ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。

 見えるところは僅かでも、それは宝石のように貴重なものです。御言葉と心の関係を主が土のたとえで話されていたとき、良い土地に落ちる種は三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせると約束されましたが、それはただ、良い土地に一つの種が落ちるという僅かな出来事によってです。

37:17 なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。37:18 主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。

 悪者の繁栄は一時的ですが、正しい者の相続は永遠に残るものです。正しい者は永遠に価値のあるものに、自分の気力を投入させます。

37:19 彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。

 パウロはテモテにこう言いました。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:6-8」どんなときにも、満足できる秘訣を知っています。

37:20 しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。37:21 悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。

 主は、受けるよりも与えるほうが幸いであることを話されましたが、まさにそのとおりです。情け深くて人に施します。

37:22 主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。

 先ほどから何度も何度も、地を受け継ぐことと、断ち切られることの対比を行なっています。

2C 確かな道 23−36
1D 主の守り 23−29
37:23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

 22節までは、正しい者の平和、繁栄について述べられていましたが、ここから道について述べられています。主が、人の道を確かにしていださいます。

37:24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

 ある人がいいましたが、罪とは泥の中にいとどまることだ、とのことです。泥の中に倒れても、すぐ悔い改めてそこから出るならば、主はその出ようとする手を主は支えてくださいます。

37:25 私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

 ここからこの詩篇は、ダビデの生涯の後年に書かれたものであることが分かります。彼が年老いています。

37:26 その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。37:27 悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。

 先の36篇に、悪者は知恵も得ず善も行わない、とありましたが、ここでは悪を離れて善を行なうことが勧められています。

37:28 まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。37:29 正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。

 主が自分をいつまでも守ってくださる、という約束です。

2D 教えの堅持 30−36
37:30 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。37:31 心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。

 確かにされた道を歩むには、主の御教えが必要です。

37:32 悪者は正しい者を待ち伏せ、彼を殺そうとする。37:33 主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。

 ローマ8章1節に、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とあるように、私たちを見捨てるようなことを主は決してなさいません。

37:34 主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

 こうして正しい者、主を待ち望む者は、道を守ることが勧められています。

37:35 私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野性の木のようにはびこっていた。37:36 だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。

 先に話したように、悪者は一時期は栄えているのです。生い茂る野生の木ののようにはびこっているのです。けれども、彼らは断ち切られます。

3C 全き人 37−40
37:37 全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。37:38 しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。

 悪者を見て、腹を立てるのではなく、全き人、直ぐな人を眺めます。私たちの前には、雲のように神の証人が取り巻いています。一人の生涯を追うだけでも、私たちに大きなチャレンジを与えてくれます。

 そして次は37篇のまとめです。

37:39 正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。

 こうして三篇を見てきました。悪に対して私たちはどう対処していけばよいのでしょうか。一つは、戦いの祈りをすること、敵から救われることを祈ることです。霊の戦いがあることをしっかりと認識することです。二つ目は、神の恵みとそのすばらしさを見ること、そして神のいのちを楽しむことです。そして三つ目は、悪に目を向けず、主にゆだねることでした。


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