1A 神との交わりの回復 51
1B 罪の清め 1−9
1C 罪の除去 1−2
2C 罪の認識 3−4
4C 内なる罪 5−9
2B 心の喜び 10−19
1C 救いの確信 10−13
2C 砕かれた心 14−17
3C エルサレムの平和 18−19
2A 敵からの救い 52−55
1B 偽りの礼拝者 52
1C 舌という不義の道具 1−4
2C まことの礼拝 5−9
2B 神を認めない愚か者 53
1C 腐敗 1−3
2C 神の民への迫害 4−6
3B 見知らぬ者 54
1C 救いの祈り 1−3
2C 救いの確信 4−7
4B 友からの攻撃 55
1C 内なる悶え 1−8
1D 祈り 1−3
2D 逃避への願い 4−8
2C 敵の様子 9−15
1D 町の中の暴虐 9−11
2D 友の裏切り 12−15
3C 祈りへの答え 16−23
1D 平和の回復 16−21
2D 主への信頼 22−23
本文
詩篇51篇を開いてください、今日は51篇から55篇までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「自分の敵」です。
1A 神との交わりの回復 51
ここの詩篇ではいろいろなダビデの敵が出てきます。ダビデがサウルから逃げている時に、彼が主の幕屋に来たことをサウルに告げ口したドエグが出てきます。また、彼が隠れているところをサウルに告げ口したジフの人々、そして自分を裏切りアブシャロムについたアヒトフェルが出てきます。いろいろな敵がいて、その敵が滅ぼされて自分を救ってほしいという祈りをダビデは捧げていますが、最初の51篇では自分自身が神の敵となったこと、つまり自分が罪を神に対したことを悔いています。
51 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
皆さん覚えていますね。ダビデがバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、それからバテ・シェバの夫ウリヤを殺した殺人の罪を犯した後の出来事です。友人でもある預言者ナタンは、彼にたとえ話によって、ダビデの罪を指摘しました。ダビデはすぐに、「私は主に対して罪を犯しました。」と告白しました。その時の告白の祈りがここに書かれています。
ダビデの生涯を大雑把に区分するなら、この出来事を頂点にして前半部分が上がり調子の生涯であり、この出来事の後半部分が下がり調子の生涯に区分できます。彼の人生の最盛期において、彼は罪を犯しました。ですから、ここで読む詩篇は、これまで神を知らなかった者が罪の悔い改めをしている祈りではなく、すでに神を知って、神を愛している者が、罪を犯したときの祈りであります。
ここの祈りを読めば、私たちが罪を犯した時に失ってしまう大切な財産に気づきます。それは、神との親しい交わりです。これまでの彼の詩篇を読めば分かるとおり、彼がもっとも望んでいたのは、主の宮で神の麗しさを眺めることです。罪を犯したために、神がともにおられるという臨在の喜び、楽しみがなくなってしまいました。そこからの回復を願う祈りです。
1B 罪の清め 1−9
1C 罪の除去 1−2
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
ダビデは、罪を犯したらどうなるかをここで表現しています。それは、「汚(けが)れ」です。擦っても漂白剤に浸しても、なかなかきれいにならないこびりついた汚(よご)れがあります。同じように、自分が犯した罪によって自分が汚れてしまったことをここで言い表しています。罪を犯した人なら、だれでも知っています。あの惨めな思いです。あの汚れた思いです。どんなに忘れよう、考えないようにしようと努力しても消えることのない罪責感です。
ダビデはそれを「ぬぐい去ってください」「全く洗い去」ってくださいと願っています。「ぬぐい去る」の言葉は、「擦って、汚れた跡が消えるようにしてください」という意味です。痕跡がなくなって、認めることができないぐらいまで、きれいにしてくださいという祈りです。
2C 罪の認識 3−4
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
とても大切な告白をダビデはしています。一つは、「罪が自分の目の前にある」ということです。周囲の環境のせいにするのではなくて、すべての責任は自分にあることを認めることです。
次に彼は、「ただあなたに、罪を犯した」と言っています。実際はどうでしょうか、彼はいろいろな人に迷惑をかけました。まずバテ・シェバから始まり、次にウリヤを殺す罪を犯しました。そして周囲の者に深い心の傷を与えました。しかしダビデは、「ただ、あなたに私は罪を犯しました」と言ったのです。他の人たちに害を及ぼしても、これらの人たちをすべて造られ、「姦淫してはならない」「人を殺してはならない」という掟を作られた神がおられます。この方に対して人は罪を犯します。
そしてダビデは、裁きについて「正しく、きよい」と認めています。彼は神の裁きを受けても良い、と神の主権を受け入れています。私たちのどこかに「自分は罪が赦されて当然だ」という思いがないでしょうか。罪の赦しは、一方的な神の憐れみによるものなのに、罪の赦しの約束に慣れているためにそれを一つの特権であるかのように誤解することが、私たちにはあります。しかし、当然なのは、罪に定められて刑罰を受ける方なのです。
4C 内なる罪 5−9
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
生まれた時から、いや母の胎内にいる時から、彼は自分が罪ある者であることを認めています。彼はこれまで正しい人間だったのに、たまたまバテ・シェバを見て、情欲を抱いて姦淫の罪を犯したと思いませんでした。そうではなく、母の子宮の中で、胎児でいるときからすでに罪を持っていたと認めていたのです。自分の罪の性質から罪を犯しました。
そこで彼は、「心の奥に知恵を教えてください」と祈っています。単なる表面的な罪の行為ではなく、自分の内にある罪、自分の内に働いている罪の原理から自分を解放する知識を与えてください、という祈りです。
私たちも、心の奥深くに主の知恵が与えられることを祈る必要があります。パウロは、ローマ人への手紙8章2節で、「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」と言いました。私たちが罪を犯さないように、日々努力してもまた罪を犯してしまいます。そうではなく、誰でもキリスト・イエスの内にいるなら、罪と死の原理から解放する命の御霊の原理が働いていることを知ることが必要です。
51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
ヒソプは壁や岩などに生える、シソ科の植物です。モーセの律法の中に、過越の祭りでほふった子羊の血をヒソプの束によって、戸の鴨居と門柱につけるように命じられています(出エジプト12:22)。そしてレビ記にもヒソプの言及があります。らい病人が癒されたときに行なう清めの儀式で使います。湧き水を入れた器の上で小鳥をほふります。そしてその血が混じった水にヒソプを入れて、それをらい病人に振り掛けます。血によって、また水によって清められる時に、ヒソプを使います。
「雪よりも白くなりましょう」という言葉は、イザヤ書にも出てきますね。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(1:18)」主が清めてくだされば、雪よりも白くなることができます。
51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
自分が清められたいと願っている理由は、楽しみと喜びを取り戻したいからです。
2B 心の喜び 10−19
1C 救いの確信 10−13
51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
ダビデが取り戻したかった楽しみと喜びは、救いの喜びです。この世にあるものを楽しむ喜びではなく、自分が罪から救われたことに対する喜びです。私たちが罪を犯すとき、何がなくなるかというとこの喜びです。罪から救われたことによって、私たちは喜んでいるにも関わらず、まだ罪のとどまっているならこれほど惨めなことはありません。ペテロは、「自分の吐いた物に戻る」犬とたとえています(2ペテロ2:22)。
だからダビデは、自分の心が清められて、自分の霊がゆるがないものになるようにと祈っています。そして聖霊が取り上げられないように祈っています。私たちが神と交わるときは、神の聖霊と自分の霊が一つになって交わります。
そして救いの喜びが取り戻された結果、主に喜んで仕えることができるように祈っています。私たちが罪を犯していながら、教会で奉仕するときほど惨めなことはありません。奉仕は、罪から解放された喜びの霊に支えられているからです。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
救いの喜びを得たら、主にお仕えするだけでなく、他の人たちに伝道することができます。ダビデは主に仕え、主の道を他の人たちに伝えていた者でした。けれども罪を犯してしまいました。だから、もう一度立ち直りたい、もう一度立ち直って、主の道を伝えたいと願っているのです。
2C 砕かれた心 14−17
51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
「血の罪」とは、ウリヤを殺した罪のことでしょう。
51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
罪が清められたら、奉仕をして、伝道するだけでなく、大きな声で主を賛美したい、賛美の歌をうたいたいとダビデは願っています。奉仕、伝道、賛美というクリスチャンの活動のすべては、自分が罪から救われた、罪が清められたという喜びから出ています。
51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
とても大切な箇所ですね。動物の犠牲は、すべて自分の心の状態を裏打ちしたものでなければいけませんでした。自分の心の状態を儀式の形に表すべきものだったのです。だから、自分の心が神に対してかたくなになっているままで、罪を犯しているままで、いけにえを捧げても神はそれを喜ばれません。喜ばれるのは、砕かれた魂、悔いた心です。
3C エルサレムの平和 18−19
51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。
ダビデはおそらく、自分が犯した罪によってエルサレムに異変が起こることを予期していたのでしょう。ナタンはダビデの罪を明らかにしたとき、ダビデの家の中で起こることを預言しました。ダビデの家から剣が離れず、ダビデの妻たちがダビデの友によって陵辱されると預言しました。エルサレムが荒らされます。
けれども、アブシャロムもアヒトフェルも死んだ後に、ダビデはエルサレムに戻ることができました。エルサレムに平穏が取り戻され、いけにえの儀式も再開しました。ダビデのこの祈りは神に聞かれたのです。
2A 敵からの救い 52−55
1B 偽りの礼拝者 52
52 指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに
覚えていますか、サウルがダビデに殺意を抱いていることがはっきりした時、ダビデが逃亡生活を始めました。彼はまず、祭司アヒメレクの家に行きました。そして、糧食と剣を分け与えてもらいました。その時ダビデは一切、自分がサウルから逃げていることをアヒメレクに伝えていません。その時、主の天幕のところにエドム人ドエグがいました。ドエグがこの会話を聞いていました。
サウルはダビデを追っていました。そして家来たちに、ダビデのことについて情報を提供しないことを責めました。その時にダビデのことを告げたのがドエグです。
サウルはアヒメレクとその家族全員を呼び寄せて、アヒメレクが謀反に加担していると責めました。アヒメレクは何のことだか分かりません。それでサウルは、祭司たちを殺せと近衛兵たちに命じました。けれども、誰も殺そうとしません。当たり前です。だれが、主に油注がれた祭司たちを殺せるでしょうか?けれども、そのような一かけらの良心もない、無慈悲な男がドエグでした。ドエグはアヒメレクに手をかけ、祭司たち85人を殺しました。そして祭司の町ノブにいる者全員を、女も子供も、家畜までみな殺しました。
そしてアヒメレクの息子の一人エブヤタルが、命かながら逃げてきて起こったことの一切をダビデに伝えたのです。
1C 舌という不義の道具 1−4
52:1 なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。52:2 欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。さながら鋭い刃物のようだ。52:3 おまえは、善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ52:4 欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。
これがドエグに対するダビデの言葉です。ドエグの告げ口の舌が、破滅をもたらしたと言っています。舌にはこれだけの力があります。「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。(3:5-6)」とヤコブの手紙に書かれています。
そしてドエグの舌は欺きの舌であるとダビデは言っています。これはなぜでしょうか。告げ口したその内容には嘘はありませんでした。彼の欺きとは、心では悪を計りながら、祭司がいる主の幕屋のところに来ていたことです。祭司たちをことごとく切り殺すほど残忍でありながら、表向きは主を礼拝しているような格好をしていたことです。彼がサウルに語った言葉というよりも、彼の生活そのものが嘘でした。アヒメレクの名誉を傷つけ、実際に命まで奪い取るようなその態度、生き方が欺きそのものだったのです。
2C まことの礼拝 5−9
52:5 それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。セラ
ドエグに対する神の速やかな裁きを宣言しています。
52:6 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。52:7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」
この笑いは、「ばあか!ざまあ見ろ。」というような笑いではありません。「恐れ、笑う」とありますね。主への恐れをともなった笑いです。
同じように主ご自身が笑っておられる箇所が詩篇の中にあります。第二篇です。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。(1-4節)」全知全能の神に対して、最新兵器であろうとも戦いを挑むこと自体が馬鹿げています。だから、主はあざ笑っておられます。
私たちがこの世で起こっていることについて、このような余裕のある見方をしなければいけません。どんなに国々が立ち騒いでも、どんなに悪者がはびこっても、すべて主の御手の中で起こっていることであり、主が裁きを怠りなくされます。このことを知っていれば、私たちはこの世で起こっていることをうらやんだり、ねたんだりすることはなくなります。
52:8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
ダビデは祈りの中で、ドエグのことを考えるのを止めました。そうではなく、自分は神の家のそばにあるオリーブの木のことを考えました。主の恵みのことを考えたのです。私たちの周りでいろいろなことが起こっても、神の家のこと、恵みのことは忘れないようにしましょう。すべてのことを主に任せて、主の慈しみと恵みを考えることにしましょう。
52:9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。
ダビデは、逃亡生活を続けている中で、祈りの中で、再び主を礼拝し、神の民とともに主を賛美する日を確信しました。
2B 神を認めない愚か者 53
53 指揮者のために。「マハラテ」の調べに合わせて。ダビデのマスキール
この詩篇は詩篇第十四篇と同じ内容になっています。けれども再びこの箇所に書かれているのは、ふさわしいことだと思います。今読んだドエグのことについて、また次のジフ人のことについて、よく物語っている詩篇だと思うからです。
1C 腐敗 1−3
53:1 愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。53:2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。53:3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。
人間が腐敗している理由が、ここに書かれています。それは、「神がいない」と言い張っているところにあります。神への恐れがないために、善を行なっていないと言っています。
多くの人が神の存在を信じるのは難しいと言います。けれどもローマ人への手紙1章には、「神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。(19節)」と書いてあります。木や石でできたものを神としてあがめることのほうが、知的に困難です。けれどもそれが出来て、まことの天地創造の神をあがめることができないのは知的な問題ではなく、霊的な問題なのです。
ヨハネ3章にこう書かれています。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(3:19-20)」自分の都合でどうにでもなる偶像ではなく、聖い正しい神を受け入れるなら、おのずと自分の悪い行ないを改めなければいけません。それが嫌だから、神を受け入れません。
2C 神の民への迫害 4−6
53:4 不法を行なう者らは知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない。
ここでは、神の民に迫害を加える者について書いてあります。迫害について考えなければいけないのは、ヨハネ15章19節の主の御言葉「世はあなたを憎む」です。世の中の体制がどのようなものであれ、霊的に、世界は「世」と「神の国」の二つしかありません。
イスラム教の国々や共産主義の国だけでなく、例えば日本ではザビエルがキリスト教を伝来した時以来、キリスト教の歴史で信教の自由が与えられたのは、戦後60年ぐらいしかりません。これだけの期間なのです。そして精神的土壌はいつもキリスト教に対しては敵対的であり、信仰を踏みにじるような圧力がいつかかってもおかしくありません。信教の自由のために移民した人々で成り立つアメリカでさえ、そうです。「リベラル」という仮面をかぶっていますが、本心は反キリスト教です。
53:5 見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ。
終わりの日に、イスラエルの民がどのように救われるかを預言しているものです。エゼキエル38−39章のゴグに対する主の預言は、イスラエルを攻めるゴグとその連合軍は、剣で同士打ちをするようになる、と書かれています(38:21)。そして死体処理のため、7ヶ月を要することが預言されています。
53:6 ああ、イスラエルの救いが、シオンから来るように。神がとりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
この言葉は、バビロンに捕らえ移されたイスラエルの民にとって希望と慰めになりましたが、終わりの時も世界中からユダヤ人がイスラエルに帰還することができるようになります。
3B 見知らぬ者 54
54 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、「ダビデはわれらの所に隠れているではないか。」とサウルに言ったとき
52篇と同じように、54篇はダビデがサウルから逃げている時のことを書いたものです。ダビデがジフの荒野にいたとき、そこの住民がサウルにダビデがいることを報告した時のことです。
1C 救いの祈り 1−3
54:1 神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。
詩篇の詩は、同じことを違う表現で言い直す方法で書かれています。ここでしたら、「御名」と「権威」が同じで、「救い」と「弁護」が同じです。御名に権威があります。ペテロがかつて足なえの男に、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの御名によって、歩きなさい。」と言ったら、足なえはたちまち直りました。そのような力、権威がある御名によって、今、サウルの手から私を救ってくださいと祈っています。
54:2 神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。
詩篇にある祈りのほとんどに言えることですが、祈り始めるときには願いから始まっていますが終わりは賛美で終わっています。この詩篇では6節に、「主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。」とあります。それは祈りの中で主から語られ、確信が与えられるからです。
自分が置かれている状況は何も変わりません。けれども祈りへの神からの答えがあるので、まだ実際に目で見ていなくても確信することができるのです。ヨハネの第一の手紙5章にこう書いてあります。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(14-15節)」これが祈りの醍醐味です。
54:3 見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ
この世にはいろいろな敵がいます。ドエグのように確信的な敵がいます。悪意を初めから持っていて、それをあらゆる偽りとごまかしで成し遂げようとする敵がいます。そして54篇には、見知らぬ者という敵がいます。利害関係は何もなくまったく知らない人なのに、悪意をゆえなく抱くような敵がいます。人間が持っている罪です。ただ悪意を戯れたいという思いが人間にはあります。
2C 救いの確信 4−7
54:4 まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。54:5 神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。54:6 私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。
今、話したように、祈りの中で神からの答えが与えられています。逃亡の身でありながら、自分がエルサレムに戻って、いけにえを捧げることをも主の前に約束しています。完全な救いを確信しているからです。
54:7 神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。
「ながめる」ことができます。ながめることができるほど、余裕が出来ました。先ほどの正しい者の笑いにも言えることですが、私たちはこの世で起こっていることについて傍観者でいることができます。この世とは軽い接触して生きることができます。主がすべてを支配されていることを知ることによって、すべてをゆだねることができるからです。
4B 友からの攻撃 55
55 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール
この詩篇はアブシャロムが反抗して、なおかつイスラエル人の多くの者がアブシャロムになびき、自分の議官であったアヒトフェルがアブシャロムについたことを知った時のダビデの祈りです。これまでの敵と種類を全く異にしています。ドエグもジフ人も、ダビデにしてみれば外の人でした。けれどもアブシャロムもアヒトフェルも自分の近しい仲間です。その苦しみは激しくなります。
1C 内なる悶え 1−8
1D 祈り 1−3
55:1 神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。55:2 私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。55:3 それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。
ダビデの祈りが、うめきと泣きわめきになっています。単なる願いを捧げる静かなものではありません。
そして敵の恨みは激しい怒りになっている、と書かれています。ここまでなぜ人を憎むことができるのか、想像を絶する憎しみを、アヒトフェルを初めダビデに対して抱いています。イスラエルやアメリカを憎むイスラム教徒の顔を見ると、本当に恐ろしくなります。どうしてあそこまで憎しみを抱くことが出来るのか不思議になりますが、実際にそのような激しい憎しみは存在するのです。
2D 逃避への願い 4−8
55:4 私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。55:5 恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。55:6 そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。55:7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。セラ55:8 あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」
ダビデの内に逃避願望が出ました。このような弱さをダビデは身にまとっていました。偉大な信仰者でも、弱くなるときがあります。パウロは、アテネまたコリントでテモテを待っていたとき、「弱く、恐れおののいていた。(1コリント2:3)」と告白しています。激しい迫害と逃亡生活のため、精神的に非常に弱まっていました。
2C 敵の様子 9−15
1D 町の中の暴虐 9−11
55:9 主よ。どうか、彼らのことばを混乱させ、分裂させてください。私はこの町の中に暴虐と争いを見ています。55:10 彼らは昼も夜も、町の城壁の上を歩き回り、町の真中には、罪悪と害毒があります。55:11 破滅は町の真中にあり、虐待と詐欺とは、その市場から離れません。
ダビデの苦しみは、エルサレムの町に暴虐が満ちていたことにもありました。主を礼拝するべきエルサレムの町で、白昼公然とダビデのそばめをアブシャロムは陵辱しました。これをそそのかしたのはアヒトフェルです。
ダビデは、「彼らのことばを混乱させ、分裂させてください」と祈っていますが、この祈りは後で聞かれます。アヒトフェルの助言ではなく、ダビデが遣わしたフシャイの助言をアブシャロムを聞きました。高慢とうぬぼれがあるところには、必ず主は混乱を送りこまれます。
2D 友の裏切り 12−15
55:12 まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。55:13 そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。55:14 私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。
アヒトフェルのことです。仲良くしていた彼がダビデの敵となりました。これが彼を泣きわめくほど苦しめた原因でした。
55:15 死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい。悪が、彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。
生きたまま陰府に下った者には、コラがいます。地が割れて、生きたまま地の中に落ちていきました。コラもアヒトフェルと同じように、権威者に対して反抗した者です。祭司アロンにたてつきましたが、コラはレビ人で幕屋の祭具を運ぶケハテ族でした。アロンの近くにいた人です。
3C 祈りへの答え 16−23
1D 平和の回復 16−21
55:16 私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。55:17 夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。
祈りへの神からの答えが来ています。神が救ってくださるとダビデに語りかけてくださいました。
55:18 主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。55:19 神は聞き、彼らを悩まされる。昔から王座に着いている者をも。セラ 彼らは改めず、彼らは神を恐れない。55:20 彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。55:21 彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。
ダビデの子であられるイエス様も、同じ待遇を受けられました。一番近しい12人の弟子の中から、ご自分を裏切る者が出てきました。イスカリオテのユダです。彼が主に口づけをしました。油よりも滑らかだが、抜き身の剣という状態です。
2D 主への信頼 22−23
55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
最初の部分は、ペテロが自分の第一の手紙の中で引用しています。重荷を主にゆだねれば、主が代わりに心配してくださるという約束です。
55:23 しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。血を流す者と欺く者どもは、おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
自分に敵対する者については、主が対処してくださることをダビデは祈りの中で知りました。自分自身は主に拠り頼むことを決意しました。なんと祈りは力があるのでしょうか。祈りで得するのは、まず自分です。自分が周囲の状況に対して客観的になることができます。主がすべての状況を掌握されていることを、祈りの中で確信することができるからです。状況は何も変わらないかもしれませんが、主が聞いてくださっているということを知った時点で、その願いはかなえられることを確信することができるのです。
メッセージ題は「私の敵」でした。私たちの周囲に、自分の平安を乱すあらゆる敵がいます。けれども私たちは打ち勝つことができます。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」
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