詩篇60−64篇 「事欠く時に」

アウトライン

1A 神による働き 60
   1B 自分たちを拒む神 1−4
   2B 神が愛する者 5−8
   3B 神の導き 9−12
2A 高い所の信仰 61
   1B 強いやぐら 1−4
   2B 王の相続地 5−8
3A 沈黙による救い 62
   1B 一人への攻撃 1−4
   2B 避け所の神 5−8
   3B むなしい権力 9−12
4A 溢れる賛美 63
   1B 荒野での待ち焦がれ 1−3
   2B 髄に満ち足りる魂 4−8
   3B 敵の滅び 9−11
5A 苦い言葉の矢 64
   1B 舌の剣 1−4
   2B 不正のたくらみ 5−6
   3B おのれの矢 7−10

本文

 詩篇60篇を開いてください。今日は60篇から64篇まで学んでみたいと思います。今日のメッセージの題は「事欠く時」です。ヤコブの手紙で、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。(5:13」という勧めがあります。非常に単純な勧めですが、これから読むダビデの祈りは、具体的に、いろいろな状況の中でどうやって祈っているのか、置かれている苦しみ、苦境、圧迫、必要からどうやって神に祈りをささげているのか見ていきます。

1A 神による働き 60
60 指揮者のために。「さとしは、ゆりの花。」の調べに合わせて。教えのためのダビデのミクタム。ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに

 サムエル記第二8章を開いてください。ダビデがイスラエルの王となり、周囲の諸国との戦いに勝利することによって、その支配の範囲が広がっている時のことです。3節から読みます。「ダビデは、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来たとき、彼を打った。ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を打った。ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。(36節)」このように、ダビデがイスラエルの北にいるアラム(すなわちシリヤ)と戦って、勝利を収めたことが書かれています。

 ところがそのときに南からエドムがやってきて、ユダを攻めてきたようです。8章13節から読みます。「ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰って来たとき、彼は名をあげた。彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。(1314節)」結局、ダビデはエドムに勝利することができましたが、シリヤと戦っているときに不意打ちにあったように、エドムに自分の陣地ユダを攻められたのですから、彼のショックはそうとう酷かったに違いありません。その時にいのった祈りがこの詩篇だと考えられます。

1B 自分たちを拒む神 1−4
60:1 神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。

 ダビデはいつも、心正直です。自分が感じたことをそのまま主に表現しています。シリヤと戦って、主が勝利を与えてくださったと信じています。なのに、勝利をしている間にエドムに打たれてしまったのですから、主が何をお考えになっているのか分かりません。あたかも、主が自分たちを拒み、顔を背けられたと感じたのです。

60:2 あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。

 地震があったのでしょうか、それとも象徴的に自分たちの住んでいる地が割れるような思いをしていたからなのでしょうか。どちらにしても、彼の心が引き裂かれるような状態を表しています。

60:3 あなたは、御民に苦難をなめさせられました。よろめかす酒を、私たちに飲ませられました。60:4 あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。セラ

 この「弓にかえて、旗をひらめかせる」というのは、主が私たちを戦いに負けさせ、降参するようにされた、という意味であると思われます。降参の旗をひらめかせる、という意味です。

 このようにダビデは、自分の今の気持ちを主に正直に申し上げています。突然の方向転換、自分が主にあって前進しているのに、まったくそれを否定するかのような別の動きが出てくるとき、私たちもダビデと同じような気持ちになると思います。

 霊の戦いの中で、このような方向転換は断続的に私たちに迫られます。ある分野について敵を打ちのめしたと思ったら、別の分野で敵の攻撃が開始されます。次から次へと問題が出てくる。その時に私たちはどうするでしょうか?「もう、これはみこころではない。あきらめよう。」と考えるでしょうか?ダビデは違いました。彼は、自分の意見が正しかろうと間違っていようと、今の気持ちを主に言い表したのです。これが大事です。

2B 神が愛する者 5−8
60:5 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。

 「あなたの愛する者」とは自分自身、ダビデのことです。これが大事です。使徒ヨハネも、福音書を書いたとき自分のことを、「イエスが愛された弟子(ヨハネ21:20等)」と書きました。自分が主に愛されているという確信の中で、ダビデは主に不満を言い表したのです。

60:6 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。60:7 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。60:8 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」

 イスラエルの各地、すなわちシェケム、スコテ、ギルアデ、マナセ、エフライム、そしてユダ、これらはみな主がダビデに喜んで与える、と約束してくださっています。そして、モアブ、エドム、ペリシテは、主はことごとく踏みつけることを約束してくださっています。エドムに対しては、「履物を投げつけよう」とまで言われています。主のみこころは、イスラエル北部における勝利だけでなく、南部に対する勝利にまで及んでいたのです。今はエドムに攻められていますが、ダビデの国はもっともっと大きく、広がっていくことを主は望んでおられたのです。

 ローマ人への手紙8章にて、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31節)」とあります。そしてそれは、「キリストにある、神の愛から私たちを引き離すことはできない。(39節参照)」という確信に基づいています。敵の攻撃があるということは、逆を返すと主がもっとご自分の支配の範囲を広げたいと願われているしるしです。私たちは祈り、そして攻め上らなければいけません。
3B 神の導き 9−12
60:9 だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。

 サムエル記第二8章によると、ダビデが戦ったとあります。歴代誌第一1812節によると、アブシャイ(すなわちアビシャイ)がエドムを打ち殺したとあります。そして列王記第一11章やここ詩篇60篇によると、ヨアブが打ち殺したことが書かれています。結局、主要な人々全員がエドムと戦ったのですが、ダビデはただ戦いに出て行けばいいと考えていなかったのです。

60:10 神よ。あなたご自身が私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。60:11 どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。60:12 神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。

 神がともに戦ってくださることが分からなければ、自分がエドムに行っても、ヨアブが初めにエドムのところに行っても、まったく意味がないことを彼は知っていました。「神によって、私たちは力ある働きをします。」とダビデは言っています。

 イエス様は言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5」このくらいのことだったら自分にもできる、と思ってしまうことが私たちには無いでしょうか。また、ピリピ人へのパウロの書簡には、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(4:13」とあります。自分で勝手にできないと思い込んで、主のみこころを求めるのを止めてしまうことはないでしょうか。神によって、力ある働きをすることができます。

2A 高い所の信仰 61
61 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデによる

 61篇はおそらく、ダビデがアブシャロムの反逆から逃れて、ヨルダン川のほうに逃げていった時にいのった祈りであると考えられます。エルサレムはアブシャロムに乗っ取られました。これから自分はどうなっていくのだろうと悩んでいるときに祈りました。

1B 強いやぐら 1−4
61:1 神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。61:2 私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

 ここの「心が衰え果てる」という言葉は英語だと、overwhelmedつまり「圧倒される」という言葉が使われています。私たちが今、自分の目で見ている状況に圧倒される時があると思います。自分ではもうどうすることもできない状況に取り囲まれている時、どう祈ればいいでしょうか?

 ダビデは、「私の及びがたいほどの高い岩の上に、私を導いてください」と祈っています。自分の力が尽き果ててしまったとき、自分の上にいる存在、主ご自身に自分を導いてください、と祈っています。パウロが宣教の中でこのような体験をしました。コリント人への手紙第二1章8節から読みます。「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(8-9節)」自分ではなく神により頼む者になるため、いのちも危うくなるような圧迫を受けた、と彼は言っています。

 私たちは、自分たちで何とかして自分を救おうと、あらゆる努力をします。けれども自分で自分を救おうとするその手を引っ込めないかぎり、私たちは神の救いを経験することはありません。主は、自分の及びがたいほどの高い岩です。この方に導かれるために、私たちは窮地に立たされることもあります。

61:3 まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。61:4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。セラ

 主のみが、自分にとっての保障です。

2B 王の相続地 5−8
 このようにダビデが祈った後で、主が彼に見せてくださったものは何でしょうか?次の5節以降に書かれています。

61:5 まことに、神よ。あなたは私の誓いを聞き入れ、御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。

 彼が見たものは、地を受け継ぐ、つまり彼が無事にエルサレムに戻ってきて、イスラエルを統治する王にまで回復する約束を見ました。

61:6 どうか王のいのちを延ばし、その齢を代々に至らせてください。61:7 彼が、神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。恵みとまこととを彼に授け、彼を保つようにしてください。

 ダビデは自分が長生きする約束を見ました。また、ダビデの王位は受け継がれていく約束を見ました。ナタンを通しての主の約束は、次の通りでした。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。(2サムエル7:12-13

61:8 こうして、私は、あなたの御名を、とこしえまでもほめ歌い、私の誓いを日ごとに果たしましょう。

 「とこしえまでも」とあります。つまり地上のダビデ王朝だけでなく、永遠の神の御国も彼は見ていました。

 私たちが、この地上での生活で圧迫されるとき、問題で圧倒されるとき、私たちが主にあって見ることができるものは、神の御国です。天における神の栄光であり、また至福の千年王国です。使徒ヨハネがパトモス島に流刑になったとき、彼が見たものはあのすばらしいイエス・キリストの啓示でした。そしてパウロがほとんど殺されかけたときに見たものは、第三の天でした。

3A 沈黙による救い 62
62 指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌

 この詩篇も、ダビデがアブシャロムの手から逃れているときに、彼がいのった祈りであると考えられます。ここでのダビデの祈りの焦点は、彼を王位から引きずり落とそうとする、彼に対する力です。

1B 一人への攻撃 1−4
62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。62:2 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

 彼が自分への個人攻撃を受けているときに取った行動は、「黙って、ただ神を待ち望む」でした。自分で自分を守るのではなく、自分に対する攻撃に対抗するのではなく、神を待ち望みます。

62:3 おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。

 ダビデは知っていました。執拗な個人攻撃をする者たちは、非常に危うい、脆いところに立っていることを知っていました。他人を攻撃しているのですが、それは自分自身が間もなく倒れる一つの徴なのです。

62:4 まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ

 アブシャロム、そしてかつての自分の議官であったアヒトフェルが、ダビデを王位から突き落とそうとたくらんでいます。彼らにこびへつらっている多くのイスラエル人もいます。彼らの間では、なめらかな言葉、祝福の言葉が交わされていたことでしょう。しかし心の底にあるのは呪いです。

 ヤコブの手紙にはこう書いてあります。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。(3:14-16」ねたみ、苦みがあるところは必ず、悪霊による混乱が起こります。そして互いに分裂して自滅の道を歩みます。

2B 避け所の神 5−8
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

 自分がより頼むべきものは何か?それをダビデは自分の内側を確認しています。裏を返せば、彼には、他の要素、武力であったり知力であったり、政治力に目移りする誘惑がゼロではなかったのです。全イスラエルがアブシャロムになびいたことが第二サムエル記に書かれていますから、これらの力が強く働いていました。

62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

 神に信頼するときの具体的な行動は、心を神の御前に注ぎ出すことです。先ほど60篇でダビデが主に不満を言い表したときのようにです。私たちが神の前で、悪い意味でおとなしくしていたら、それは神以外の、他の何かに依然として寄りすがっていることを意味します。

3B むなしい権力 9−12
62:9 まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

 主が十字架にかけられるときの、群集のことを思い出してください。「ホサナ」と叫んだ者たちが数日後には「十字架につけろ」と叫んだのです。息より軽いのです。私たちは、大多数の意見が気になります。強い圧力となってのしかかります。しかし、息より軽いことを知るべきです。

62:10 圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。62:11 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

 自分は神の前にいる、か弱い人間です。自分の周りには、数々の力があります。物理的な力、知性の力、政治の力などの力です。けれども、そこに望みをかけるのではなく神に望みを置きます。

62:12 主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

 ダビデは神を力のある方よりも恵みに満ちた方として受け止めていました。もちろん神の力強さを知っていましたが、恵みのことを天にまで及ぶと表現したりしています。

 そして、必ず自分を個人攻撃しているやからは、神によって裁かれることを彼は知っていました。その仕業に応じて、人に報いられることを知っていました。だから我慢どころです。黙って神の救いを待ち望む、その戦いの中にダビデだけでなく、私たちもいるのです。

4A 溢れる賛美 63
63 ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに

 この詩篇も、ダビデがアブシャロムから逃げるために、エルサレムを離れたときに書かれたものと考えられています。ヨルダン川方面に向かいましたが、そこは荒野です。神を礼拝する聖所から離れていて、肉体の渇きだけでなく、魂の渇きを覚えていたときにいのった祈りです。

1B 荒野での待ち焦がれ 1−3
63:1a 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。

 ダビデはよく神のことを、「私の神」と呼びます。これまでの詩篇でも彼が、個人的な、親密な方として祈りをささげていることがわかりましたね。先ほど読んだ61篇でも、ダビデはエドムがユダを攻めてきたことについて、不平を鳴らしていました。けれども、それはイスラエル人が荒野で不平を鳴らしていたのとは正反対で、主が自分を愛してくださっているという絶対的な確信から来ている、ちょうど子供が父親に対してちょっと甘えているような不平です。

 私たちは形を気にします。ちょうど自分の娘が悪霊につかれているのを助けてくれと願った、カナン人の女のようにです。彼女は、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。(マタイ15:22」と言いました。「ダビデの子」は、非常にユダヤ的なメシヤを表す称号です。彼女はイエス様に敬意を払ったつもりなのでしょうが、イエス様と心理的な距離を置いています。だからイエス様は彼女に一言もお答えになりませんでした。彼女が形式から、真実の礼拝へと導くために、少しつっぱねたのです。彼女がイエス様のところにひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った時、彼女は自分の心を大きく開き、個人的な主としてイエス様を迎え入れました。だから、まず「あなたは私の神」という心と告白が必要になります。

63:1b水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

 詩篇42篇にも出てきました、自分の魂が生ける神を慕い求めていて、あえいでいる状態です。

 私たちは誰もが、この飢え渇きを持っています。けれどもそれを神以外のもので埋めようと努力しています。自分の趣味、友達・恋愛関係、あるいは自分のキャリアなど、それらを情熱的に慕い求めているその原動力は、実は本当の神を求めている霊的空洞から来ているものです。けれどもまことの神を知らないので、他のもので満たそうとしています。それでも満たされません。いつまでもいつまでも満たされない状態の中で、多くの人が生きています。でも、生ける神に目を向けるなら、完全に満ち足りた状態を経験することができます。

63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

 ダビデが使っている「聖所」という言葉は、必ずしもエルサレムにある契約の箱が安置されているところとは限りません。ここでダビデはユダの荒野にいるのですから、神を仰ぎ見ているのはエルサレムにおいてではないのです。同じように、60篇にて、ダビデがシリヤと戦っているとき、彼が神に祈ったとき、神が「聖所から告げられた。(6節)」と書かれていました。

 これは、天の聖所です。物理的な天と地が滅び去っても、なお残る、神が御座に着いておられるところの聖所です。黙示録4章にこの御座がはっきりと啓示されていますが、そこから主は私たちの祈りを聞いてくださっています。

 この御座は場所に限定されません。ユダの荒野からでも聖所に近づくことができるのです。いつでもどこでも、神との親しい交わりをすることができます。

63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。

 命にも勝るもの、それは神の恵み、あるいはlovingkindness好意、親しみです。自分のために、血を流して自分を買い取ってくださったところの恵みです。神に敵対している罪人のために、御子を死に渡すほどの愛です。この恵み、愛が、自分の命よりも勝るようになるのは当たり前です。

2B 髄に満ち足りる魂 4−8
63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

 今、荒野においてダビデが手を上げて、賛美の歌をうたっているのが想像できますか?彼は、その荒野を自分の礼拝場としました。

 ユダヤ人は、神を礼拝するときにいろいろな身振り、手振りをしますが、両手を上げるのもその一つです。私が若かったとき、保守的な福音派の教会の人と礼拝形式について議論したことがあります。ペンテコステ、カリスマ的な礼拝についての議論でしたが、聖書的でなければいけないという保守派の彼に対して、確かここの箇所を指摘したと思います。両手を上げることは、聖書の中に出てくるのです。

 そしてここでは、祈るときにも両手を上げていることが分かります。賛美をして、そして祈るときに両手を上げています。このような光景は、例えば韓国の教会で熱心に祈りを捧げているときに見かけたことがあります。

63:5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

 脂肪と髄に満ちるとはすごいですね、荒野において、これだけこってりとした主への礼拝、賛美をささげています。

 また、これはモーセの律法を意識したところの表現です。レビ記によると、和解のいけにえをささげるとき、脂肪を祭壇で焼かなければいけない、と主は命じられました。脂肪を焼くことで、その煙が主への香りとして立ち上げると書かれています。

63:6 ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。

 親しい交わりが確立できたので、それがダビデにとって非常に楽しみになりました。親密で、非常に私的な、プライベートな時間のとき、夜、ベットにいるときに主のことを思いました。

63:7 あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。63:8 私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

 か弱いひよこが母親の翼に隠れるように、ダビデは神の翼の中で隠れて、その交わりを楽しみました。そしてダビデは、今、自分を追っている敵のほうを見ます。

3B 敵の滅び 9−11
63:9 しかし、私のいのちを求める者らは滅んでしまい、地の深い所に行くでしょう。

 地の深いところとは、ハデス、地獄のことです。

63:10 彼らは、剣の力に渡され、きつねのえじきとなるのです。

 彼らの肉体は、獣の食料となります。

63:11 しかし王は、神にあって喜び、神にかけて誓う者は、みな誇ります。偽りを言う者の口は封じられるからです。

 今、王座を奪われているダビデですが、自分のことを「王」と呼んでいます。これが神の選びであり、アブシャロムは偽りの王です。「アブシャロム王様、ばんざい」と叫ぶそのイスラエル人たちの偽りの口は封じられる、とダビデは言っています。

 この詩篇にように、私たちは多くの時間を神との交わりの時間に割き、それから敵との戦いに臨む必要があります。日ごろの戦いに時間を取られて、その必要を主に最後に訴えて・・・ではなく、主を仰ぎ見て、それから敵を見ます。

5A 苦い言葉の矢 64
64 指揮者のために。ダビデの賛歌

 この詩篇も、ダビデがアブシャロムから逃げているところでいのった祈りです。ここでは、人々が語る言葉、相手を傷つける言葉に焦点を当てています。

1B 舌の剣 1−4
64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。

 恐るべき敵、あるいは敵による恐れです。敵はいつも、恐れを武器にして私たちを攻撃します。実際の戦争の中の戦闘でもそうですが、一番の敵は自分の中にある恐れです。恐れを相手の心に注入するために、敵はあらゆることをしていきます。だからダビデは、その恐れから私のいのちを守ってくださいと祈っています。

64:2 悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。

 アヒトフェルがダビデを滅ぼすために、いろいろな謀を企てました。またアブシャロムにつく者たちは、ダビデを倒すべく騒ぎ立てました。それらからかくまってください、と祈っています。

64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

 言葉による攻撃です。「剣のようにとぎすます」とあります。私は剣で刺されたことはありませんからわかりませんが、カッターや包丁で指などを切ったことはあります。切ったときの瞬間はそんなに痛くありませんが、その後、じわじわと痛みが走ります。言葉も同じような痛みをもたらします。聞いている瞬間は、たいしたことがないように感じるかもしれませんが、その言葉がじわじわと自分の心、はらわたをずたずたにします。

 さらに刃物で指などを切ってしまったとき、もしばい菌が入ったら、その後の痛みはさらに激しいものとなります。同じようにここには、「苦いことばの矢」とあります。毒が塗られた矢で刺されるように、心に苦みをもった人が放つ言葉には毒があります。

64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

 攻撃的な言葉を向ける標的は「全き人」です。直ぐな人、と言い換えたらわかるでしょう。主に対して真っ直ぐになっている人、まっすぐに主を求めるその心に矢を放ちます。

 直ぐな人に攻撃をするのは、ちょうどカインがアベルを殺したときと同じです。カインがアベルを殺した理由は、自分がこの世のもの、あるいは人間的な方法で神に近づいているのはだめだということを、アベルのささげ物によって明らかにされたからです。直ぐな人の心によって、自分の二心が暴かれてしまうからです。

2B 不正のたくらみ 5−6
64:5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。

 悪い言葉を言う人たちは、必ずこの過ちを犯しています。だれにも見破られない、つまり神が見ておられることを忘れることです。自分が高いところから心の真ぐな人を見下げて、そして彼らを操作し、それで策略はうまくいったと言います。自分は賢いので、そのような操作ができるのです。しかし、自分の上に神がおられることを忘れてしまっています。

64:6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。

 そうですね、人の内側のものと心は深いです。

3B おのれの矢 7−10
 しかしダビデは、神が見る世界を知っていました。私たちが人間の闇の部分ばかりみるとがっかりしたり、時にねたましくなりますが、神はそのような人々をどう見ておられるのでしょうか。

64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

 すべて、彼ら自身にふりかかるという真理です。「さばくものは、さばかれる。」と主が言われたとおり、自分たちが口で攻撃しているその根拠はすべて自分自身にも当てはまることが、後に明らかにされます。

64:9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。

 主は時に、人をさばかれることによって、さらに福音を広げる働きをされます。アナニヤとサッピラのことを思い出すでしょうか。彼らが倒れた後、教会の中に非常な恐れが生じた、と書かれています。そしてその後に主を信じる者がますますふえていった、ともあります。

64:10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。

 自分で喜ぶのでなく主にあって喜び、自分で守るのではなく、主に身を避けます。これが正しい人であり、直ぐな人々です。

 こうしてダビデの具体的な祈りを見てきました。方向転換を急に迫られたときの祈り、周りの問題で圧倒されそうになっているときの祈り、敵の執拗な攻撃に対して、黙って主を待ち望む祈り、心が渇いているときの祈り、そして今見た、言葉の攻撃を受けているときの祈りです。私たちが苦しいとき、困っているとき、そこに主はおられます。祈りましょう。


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