ルツ記1−2章 「ルツの決意」


アウトライン

1A 神々からの決別 1
   1B 夫の喪失 1−5
   2B 家との離別 6−18
     1C 不確かな将来 6−14
     2C 私の民、私の神 15−18
   3B 未知の地への到着 19−22
2A まことの主への奉仕 2
   1B 主の導き 1−7
     1C 神への従順 1−3
     2C 状況への働きかけ 4−7
   2B 主の慰め 8−16
     1C ことば 8−13
     2C 状況 14−16
   3B 主の備え 17−23

本文

 今日と次回の二回に渡ってルツ記を学びます。ルツ記全体にメッセージ題をつけるなら、「キリストの愛に包まれて」というのがいいでしょう。ルツの生涯をとおして、私たちがキリストの愛の中に導かれていくことについて学ぶことができます。愛、という言葉は世間でもよく使いますが、私たちはこの意味をよく知っていません。ルツの生きざまを通して、本当の愛とは何か、そして、本当の神との愛の関係は何かについて学べます。

 今日は、前半部分の1章と2章を読みます。ここでのテーマは、「ルツの決意」です。愛の関係に入るのは決意が必要です。神に従う決意、神に仕える決意です。

1A 神々からの決別 1
1B 夫の喪失 1−5
 さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。

 ルツ記は、さばきつかさが治めいたころ、つまり、士師記の時代にありました。士師記に記されているイスラエルの歴史は、暗黒時代でした。みなが勝手に自分のしたいことを行ない、イスラエルは偶像を拝んでいました。そのような中で、この物語が起こったことを考えますと、ルツやナオミ、そしてボアズが行なったことは、暗やみの中の光のような存在です。みなは悪を行なっています。しかし、彼らは神を第一とし、主のみに仕え、神との慕わしい交わりの中に入れられました。

 それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。

 ルツ記が起こった場所は、ここに書かれているように、ベツレヘムとモアブの地であります。ベツレヘムは、エルサレムの南西10キロぐらい離れたところにある町です。そして、モアブ人の土地ですが、死海の東側の地域です。モアブ人の父祖は、アブラハムの甥であるロトでした。けれども、その妻は、なんと自分の娘でした。近親相姦の間に生まれたのがモアブでした。ソドムとゴモラが火で焼かれてなくなってしまったあと、二人の娘が、父親ロトが酔って眠っているときに寝て、子を宿したのです。モアブからの子孫であるモアブ人は、イスラエルの敵となりました。また、モアブ人はケモシュという偶像を拝んでいました。これは、バアルと同じような偶像です。火で熱せられたそのケモシュに、赤ちゃんをいけにえとして乗せて、礼拝したのです。

 ですから、ベツレヘム出のエリメレクがモアブの地に行くということは、必ずしも良い決断ではありません。けれども、イスラエルの地にききんがあった、とあります。エリメレクは、家族を支えるために、モアブに住むことを決意しました。

 けれども、この家族に、悲しむべき出来事が連続して起こります。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。

 夫のエリメレクは死んでしまいました。

 ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。

 二人の息子は、モアブ人を嫁として迎えました。

 
しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

 なんと二人の息子も死んでしまいました。こうして、ナオミはたったひとり残されてしまったのです。ここで私たちが考えなければいけないのは、昔は福祉制度などなかったということです。母子家庭への保護は当然ありません。夫がいなくなるということは、自分が食べられなくなるというのと同義語でした。ですから、ナオミにとって、これは私たちが考える以上の深い悲しみと痛みであったのです。

2B 家との離別 6−18
 そこでナオミは、残された二人の嫁に対して、自分たちの家に戻るように促します。

1C 不確かな将来 6−14
 そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。

 ききんが終わったようです。ききんが終わったのは、「主がご自分の民を顧み」られたからだ、とありますね。ルツ記を読んでいるときに注目していただきたいのは、「主が何々をしてくださった」という言い回しです。すべて自分の身に起こることに対して、それは、主から来ていることを認めました。

 そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。

 ナオミは、ユダの地に戻る引っ越しの準備をするまで、二人の嫁を連れて行こうと思っていました。けれども、今、よくよく考えてみて、彼女たちを連れて行くのは、彼女たちにとって良くないと判断しました。

 そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

 ナオミは、二人がよく自分の夫としゅうと、しゅうとめについて来てくれたことを、ねぎらっています。「主が、あなたがたに恵みを賜わりますように」と祈りました。そして、ナオミは、彼女たちが実家に戻って、モアブの地で夫を探すことができるようにと祈っています。「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように。」と言いました。この平和とは、安心して、安全にという意味です。夫がいてくれることは、女にとって安心できることです。ほっとできることです。自分の避け所であり、盾であり、頼れる存在です。ですから、その支え所をなくしてしまうことは、大変辛いことなのです。

 ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」

 ルツもオルパも、姑であるナオミをとても愛していました。だから、ナオミのところにいたかったのです。

 しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」

 ナオミは、今、イスラエルの民の律法について話しています。オルパとルツがナオミに付いて来てベツレヘムに住むのであれば、彼女たちは、申命記25章にある、嫂婚(そうこん)というおきてを守らなければいけません。嫂婚とは、死んだ者の兄弟が、そのやもめと結婚して、死んだ者の名を残すことを言います。申命記25章5節に、このように書いてあります。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。(申命記25:5」彼女たちの夫であるマフロンとキルヨンは死にました。ですから、彼らの弟がオルパとルツと結婚する必要があります。けれども、もちろん弟はいません。そこでナオミがこれから子を宿して、その子が、彼女たちと結婚しなければいけないことになります。けれども、そんなことは無理でしょう。今、夫を持って息子たちを産んだとしても、彼らが成人になるまで待とうというのですか、とナオミは言っているのです。

 ここから二人の娘、オルパとルツの行く先が分かれます。彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。

 ナオミの強い説得で、オルパは自分の母の家に帰っていきました。けれどもルツはすがりついたのです。けれども、ルツがナオミに付いて行ったら、不安なことだらけです。夫がいない。そして、全く新しい土地で、外国人として暮らさなければいけない。こんなに不安定なのに、ルツはなおもナオミにすがりついていました。

2D 私の民、私の神 15−18
 そこでナオミは言います。ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」

 ナオミは、自分の民であるモアブ人のところへ、またモアブ人の神であるケモシュのところへ帰りなさい、と言っています。弟嫁も帰って行ったのだから、あなたも帰りなさい、と言っています。ルツには、大きな門が開かれています。努力しなても心配なく暮らすことができる、モアブの地、またモアブの宗教がありました。しかしルツは言います。

 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」

 ここが、今日の学びの最も大切な箇所です。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」というルツの言葉です。 ルツは、ここで大きな決断をしました。今まで住みなれて来た、モアブの地、モアブの民、そしてモアブの神との別れを告げたのです。ルツは、マフロンの妻になってから、イスラエルの神について、天地を創造されたまことの神について聞いていたことでしょう。そして、この神がいかに、エジプトからイスラエルを救い出されて、約束の地に導かれていたことも聞いていたかもしれません。イスラエル人の家族の中にいて、まことの生ける神の知識を持っていたと思います。けれども、今、自分を守ってくれていた夫がいなくなりました。自分の支えである夫がいなくなって、彼女は、自分の支えとしてモアブ人たちの中に、モアブ人の宗教に戻ることはいくらでもできたのです。しかし、ルツは、自ら進んで、イスラエルの神と個人的な関係を持つことを決意したのです。自分の支えとなる周りの環境や文化などよりも、神との個人的な関係を持つことのほうを彼女は優先させたのです。

 このような関係を、私たちはイエス・キリストに対して持たなければいけません。自分が持っているもの、自分が置かれている場所、自分の友達、今まで固く信じてきた価値観、それらのものを、主イエス・キリストのために捨て去らなければいけないときがあります。確かに自分は、これまでイエスさまの話しを聞いたことはあるかもしれません。友だちにクリスチャンがいる。教会にも行ったことがあるかもしれません。そして、牧師が語る福音を聞いているかもしれません。神さまは自分を愛しており、自分の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった、という福音です。

 けれども、自分の家には両親がいる。そこには仏壇があって、守らなければいけない先祖の墓がある。この時期になれば、盆踊りがあります。子どもがいれば七五三、年末はお寺へ、そして正月は初詣です。このように慣れ親しんできた宗教や習慣があります。また、自分の仕事仲間や友達、恋人がいるかもしれません。そのような人たちのことが気になるかもしれません。けれども、イエスさまを通して現わされた神さまの愛に応えるには、これらのものを捨てて、イエスさまに従う決心が必要なのです。ルツがナオミから反対されてもルツはしがみついたように、たとえ、他の人から反対されても、イエスさまにしがみつきたいと思うでしょうか。イエスさまは、自分のためにいのちを捨てるほど愛してくださいました。その愛をもっとも大切なものとしたいでしょうか。聖書が語る愛は、ガールフレンドを変えるように、とっかえひっかえ変えることができるような安価なものではありません。たとえ状況が不利な状態でも、それでも愛するような深い関係です。

 ですからルツは、イスラエルの神を「私の神」と呼んで、自分自身の神、個人的な神としました。そして、「私の民」とも呼んでいます。ルツは、自分がイスラエルの民の中にはいることを決心しました。イスラエルの民は、モアブ人と異なり、神のおきてによって生きていた民です。イスラエル社会は、ただ漫然と、自分が集団の中にいることに安堵することができるようなところではありませんでした。ですから、ルツは、神を絶対的な基準とする、ルールのある社会の中で生きていくことになります。私たちも同じです。私たちがイエスさまを信じると、教会という神の家族の中に入れられることになります。そこはキリストがかしらとなっているところであり、一人一人のクリスチャンが、イエスさまを第一にして生きていくところであります。気分が良いときにイエスさまのことを考えて、調子悪いときはどうでもいいや、というような世界ではありません。神を基準とする、しっかりとしたルールがあり、それに従って生きていく責任ある共同体の中に入れられるのです。

 それでは18節をご覧ください。ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。

ナオミはあきらめました。

3B 未知の地への到着 19−22
 そしてナオミとルツは二人で、ベツレヘムの地に行くことになります。それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。

 「ナオミ」という名前は、「快い」という意味です。ナオミは、いま落ち込んでおり、全然喜んでいないので、「苦しむ」つまりマラと呼んでください、と言っています。けれどもルツ記の終わりには、再びナオミと呼ぶにふさわしい彼女の姿が出てきます。

 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。

 これから、二人だけの生活が始まります。ルツにとっては全く新しい生活です。またナオミにとっても、夫のいない新しい生活でありましょう。時は、大麦の刈り入れのはじまったころであり、3月から4月に当たります。

2A まことの主への奉仕 2
1B 主の導き 1−7
1C 神への従順 1−3
 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。

 ナオミに夫の親戚がいました。有力者とありますが、富んでいた、と訳すこともできます。ボアズという人でした。

 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。

 ルツは、ベツレヘムの町に着いてから、すぐに自分が働く場所を探しました。これはすばらしいことです。彼女は、ただナオミといっしょにいたいから付いて来たのではなく、ナオミに仕え、また神に仕えるために付いて来たのです。イスラエルの神について行くという決断をしてから、今度はイスラエルの神に仕えました。そして、ルツが、「落ち穂拾い」をしたいと言っていることに注目してください。律法には、貧しい人や在留異国人が落ち穂を拾うことができるように、すべてを刈り取ってはいけない、というおきてがあります。レビ記の19章です。「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(19:9-10」ルツは、神のおきてをよく知っていて、それに従ってナオミと自分の生計を立てようとしていました。

 ルツは、このように神への奉仕の生活を始めました。すると、次のようなことが起こります。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。

 ここの「はからずも」という言葉が大切です。ルツは、そこがボアズの畑であることを知らずに、そこにいました。けれども、この「はからずも」は、決して偶然の出来事ではなく、ルツが、神に従い、主にお仕えする決断をしたから起こった出来事なのです。主が、ルツの生涯に介入してくださり、主が彼女を導いてくださったのです。信仰者の生活は、神によって導かれる生活です。私たちが、日々、主に仕えて、主の御声を聞きながら歩んでいると、主は次の進むべき道を開いてくださいます。多くの人が、「私に対する、神のご計画はいったい何なのだろう。」と言います。主が自分をどのように導いておられるのかわからない、というのです。そのような人は、まず、今すでに知っていることから初めて見てください。もうすでに、神から、「これこれを行ないなさい。」と言われていることを、きちんと行なっているかどうか確かめてみてください。主は、私たちに一気に、ご自分の計画を見せることはなさいません。ルツのように、一歩一歩、自分がすでに示されている神さまのみこころに従っていくときに、主はその忠実な人を導いてくださるのです。

2C 状況への働きかけ 4−7
 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。

 
ナオミの夫の親戚であるボアズがやって来ました。ボアズも、またボアズの下で働いている人たちも、主によって生きていました。主があなたがたとともにおられますように、そして、主があなたがたを祝福されますように、と声をかけあっています。

 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」ボアズがルツに気づきました。刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」

 ルツは、とても勤勉な人でした。

2B 主の慰め 8−16
 そしてボアズは、ルツがモアブの地からやってきたこと、やもめのナオミとやって来たことを聞いて、深い同情を示します。

1C ことば 8−13
 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」

 
ボアズが、ルツに優しく声をかけてあげています。ルツをいやわり、外国人であるがゆえのいやがらせから守られるように取り計らっています。

 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。」

 ボアズは、ルツが通って来た道を深く理解していましたので、このように優しく取り計らってくれています。

 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。

 ボアズは、一連のルツの行動が、たんにナオミに対する愛情ではなく、イスラエルの神、主ご自身へ避け所を求めたことを見ていました。めん鳥が、そのひよこを翼でかばうように、主が彼女をかばってくださるように、と祈っています。

 彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」

 ルツは、自分が、このような取り計らいを受けるに値しない者であることを知っていました。ボアズが雇っているわけでもない娘です。それにモアブ人です。本来なら、追い出されても何も言うことができない立場にいます。けれども、ルツはボアズの特別な計らいと好意にあずかりました。これを、聖書では「恵み」と言います。本当は受けるに値しないことを受けることを恵みと言います。

 このように、大きな決断をしたルツは、すでに、主ご自身の特別な導きと、計らいと、慰めの中に入れられています。けれども、慰めの言葉だけではありません、ボアズは、行動においても、ルツに良くしてくれています。

2C 状況 14−16
 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。

 ボアズは、ルツに食事を与えています。

 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」

 ルツが知らないところでも、ボアズは、ルツに良くしています。たくさん穂が落ちる束の間から拾い集めさせました。そして、わざと穂を抜き落としておきなさいとまで言っています。

 このように、ルツは、ボアズをとおして、主から大きな慰めを受けていました。実は、これが、私たちが主イエス・キリストに従う決心をしたあとに繰り広げられる世界です。私たちが、イエスさまを主として、自分の人生の主として迎えるときに、今まで慣れ親しんできた習慣から離れます。集団の中にいる自分ではなく、神の前に立つ個人として生きます。これは大きな犠牲も払いますが、と同時に、主との深い交わりの中に入れられます。主は私たちに声をかけてくださり、私たちがそれに従い、そして主は、私たちに道を開いてくださり、それからボアズがルツにしたように、慰めて励ましてくださいます。確かにルツは、自分の父母を失ったでしょう。頼りにすることはできない、モアブ人の神々を頼りにすることもできません。けれども、ルツは、主ご自身との個人的な関係、愛し合う関係を勝ち得たのです。これが、イエスさまにお従いすることによる報いであります。

3C 主の備え 17−23
 そして、ルツは一日の仕事を終えました。ナオミがいる家に戻ります。こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。

 ルツは、落ち穂を脱穀しました。当時は、「打ち場」と呼ばれる平らなところで、ある器具を用いて、その穂を打ちます。そうすると、穀物が穂から外れます。そして、今度は、その穀物を、空中にあおって、もみがらを風で吹き飛ばします。

 彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。

 一エパつまり23リットルの大麦と、昼食のときに食べ残した炒り麦をナオミに見せました。

 しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました。」と言った。ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

 この時点で、ナオミとそしてルツは、ボアズが自分たちの親戚のひとりであることを知ります。「買い戻しの権利」とナオミは言っていますが、これはルツ記を理解するときのキーワードになります。その説明は次回、3章を読むときに話したいと思います。

 モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない。』と私におっしゃいました。」ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。」それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。

 小麦の刈り入れは、5月から6月にかけてです。

 こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。

 こうして、ナオミとルツは、生活の糧に事欠くことなく、日々を過ごすことができました。ですから、ルツの決断によって、ボアズによる慰めと取り計らいのみならず、生活の必要までも満たされ続けられたのです。

 こうして見ると、ルツの決断は正しかったと言えます。彼女は、自分のものを失いました。父母を失い、故郷を失い、夫もおらず、ただナオミの信じる神を自分も信じて、付いて来ました。そして、付いて来ただけではなく、イスラエルの神に仕え、従いました。けれども、その結果、神はルツをボアズのところに導いてくださいました。そして、ボアズをとおして、主から慰めをいただき、また必要が備えられたのです。確かに失いました。けれども、ルツは守られました。私たちも同じです。主イエス・キリストを信じるということは、自分のいのちを失うことです。自分のものを失うことです。自分の生きがいを失うことです。しかし、本当に必要なものを得ることができます。それは、イエスさまとの個人的な関係です。ルツが、個人的に神さまの導きを知ることができたように、私たちも、神の前に立つ個人として生きることができます。イエスさまとの交わりを取るか、それとも、集団の中で生きるか、どちらかの選択があります。みなさんは、どちらを選択したいですか。


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