ルツ記1−2章 「愛による献身」

アウトライン

1A ルツの忠誠 1
   1B 連続する不幸 1−5
   2B 忠誠を超えた献身 6−18
   3B マラとなりたいナオミ 19−22
2A ボアズの愛の手 2
   1B 「図らずも」 1−7
   2B 懇ろな言葉 8−16
   3B 近親者 17−23

本文

 ルツ記を開いてください。ここはたった四章しかありませんが、実に内容の豊富なわくわくする書物です。ここには、旧約聖書の中で数多く出てくる、とても大切な言葉「ヘセド」が出て来ます。日本語では「恵み」と訳されたりしますが、今日のメッセージ題にした「愛による献身」と言ったらよいでしょうか。単なる決まり事として行っていく以上のことを、相手を慕い、愛するがゆえにもっと多くのことを行っていくという真実な愛を意味しています。

 そしてルツ記には、「贖い」というとても大切な言葉も出て来ます。訳においては「買い戻す」と書かれていますが、後にボアズがエリメレクの畑を買い戻します。そこには美しい、神の壮大な贖いの計画を映し出しています。この二つ、真実な愛と贖いという主題が織り込まれた内容です。

1A ルツの忠誠 1
1B 連続する不幸 1−5
1:1 さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

 ルツ記の舞台です。「さばきつかさが治めていたころ」とありますが、これが士師たちのことです。そして「ユダのベツレヘム」にエリメレクの家族がいたことが書かれています。私たちは士師記の最後の学びで、ユダのベツレヘムが二度も出てきたことを知っていますね。ベツレヘムに滞在していたレビ人が、エフライムの山地に住んでいたミカのところで祭司となりました。そしてダン族が来て、今度はダン族の祭司となりました。彼はベツレヘム出身ではなく、むしろベツレヘムから追い出されたのかもしれないと思われ、彼は方々を歩き回っていた自称祭司であったと話しました。

 そしてもう一つは、エフライムの山地にいたレビ人が、ユダのベツレヘムのそばめを持っていたという話です。そのそばめは、ベニヤミン領のギブアで陵辱されて死に絶えました。これら二つの出来事が起こったのと同じところにエリメレクの家族が住んでいたことを覚えていましょう。ルツ記は最後にユダからダビデに至る系図を書き記しています。ダビデが生まれ育ったベツレヘムをこのような形で紹介しているのです。そして、ダビデがここで生まれたということは、ダビデの子であるメシヤがここで誕生することを指し示していました。先祖となるダビデ自身がキリストを表す型になりますが、ここのルツ記においてもルツの近親者であるボアズがキリストの型となっていきます。

 そしてここで、士師の時代に飢饉があったことを伝えています。そしてベツレヘムからモアブに移住したのですが、モアブがどのような民でどのような国であるかは、私たちはこれまでしっかりと学んできました。アブラハムの甥ロトがソドムの町の滅びから逃れましたが、未婚の娘二人の心はソドムと同じでした。子孫を残さなければいけない、けれども自分たち以外に全ての人は滅んでしまったと思い、それで何と父親を酔わせて寝かせて、彼と寝ることによって子を宿したのです。姉から生まれたのがモアブで妹娘から生まれたのがアモンです。

 そしてモアブは、モーセたちがイスラエルの民を死海の東から北上させ、ヨルダン川を渡ることによって約束の地に導きたかったのですが、モアブの国を通過したいと思ったところそれを拒みました。さらに、バラムを雇ってイスラエルを呪おうとさえしました。ゆえに神はモーセによって、彼らをご自分の集会に十代先の子孫であってもモアブ人を入れてはいけないと言われていました(申命23:34)。ですから彼らがモアブの地に行ったというのは、昔アブラハムが飢饉のためにエジプトに下ったのと同じように、信仰的な後退を表していました。けれども、その失敗の中においても憐れみを示し、いや憐れみ以上の麗しい恵みを示してくださったというのが、これからの話です。

1:2 その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、

 「エフラテ」はベツレヘムの旧名です。「緑」を表す言葉です。

1:3 ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。1:4 ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。1:5 しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

 不幸が続きました。エリメレクが死にました。その後マフロンとキルヨンはそれぞれ、オルパとルツをめとりました。「マフロン」は「病気がち」という意味合いがあります。そして「キルヨン」は「やつれる」という意味があります。どちらも体が弱かったのでしょうか、なんとこの息子二人も死んでしまいました。モアブ人の娘をめとったのですが、彼女が子を生む前に死んでしまったのです。

 このような状態になって、もし皆さんがナオミだったらいかがでしょうか?ナオミは後に、「自分のことをナオミと呼ばずにマラと呼んでくれ。」と言っています。ナオミは「快い」という意味ですがマラは「苦い」という意味です。彼女は、第一にモアブに行ったということが神の目から望ましいことではなかったし、そして当時、子孫が与えられず死んでいくというのは、とてつもない恥です。母子家庭に対する福祉制度はもちろんありませんから、経済的な困窮に見舞われます。不幸から不幸の連続です。彼女のように、主が私を辛く当った、と感じても仕方がないでしょう。

 けれども次から出てくる話によれば、ナオミには尊い財産がありました。それは、「血縁を超えた絆」があったことです。嫁のオルパとルツは、ナオミに対して姑としての義務を果たしただけでなく、それ以上尽くしてくれていました。この真実な愛がこの辛い体験を名前のとおり、快い結果をもたらすのです。

2B 忠誠を超えた献身 6−18
1:6 そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。1:7 そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。

 ついにベツレヘムに収穫が与えられ始めました。「ベツレヘム」の名の意味は「パンの家」ですから、その名にふさわしく神が回復してくださいました。それでナオミは帰ろうとしています。

1:8 そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、1:9 あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

 身支度を整えていたナオミですが、オルパとルツのことを考えるとここで離れなければいけないことを思いました。それは彼女たちにはベツレヘムで子を宿すということはほとんど不可能に近いと分かっていたからです。そこで「自分の母の家へ帰りなさい」と言っています。これは極めて不自然な表現で、通常なら「自分の父の家へ帰りなさい」というはずです。これはおそらく、二人ともモアブ人として生きることをやめ、エリメレクの家、イスラエルの民に自分たちが嫁いだのだという強い思いが与えられていたからだと考えられます。父の家に戻るのであれば、彼女たちはモアブ人の娘になるからです。

 そして、「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように」と言っています。彼女たちの福利を考えるとこれが最も幸せなことです。女性にとって、特に昔は夫がいなければ女として生きられないというのは、精神的なこと以上に物理的なことであります。そういうものがない現代においても、女性であれば皆が同じことを思うのではないでしょうか?女性が求めるのは安心や保証です。自分を守ってくれる存在、養ってくれる存在を本能的に求めます。普段はキャリア・ウーマンとして働いている人であっても、ふと、だれか自分のそばにいてくれる人はいないかと思うことがあるでしょう。神がそのように女を造られたからです。

 このような現実的なことをナオミは話していますが、ナオミの発言には彼女がイスラエルの神に対する信仰をしっかりと持っていて、嫁にも影響を与えていたことが分かります。「主があなたがたに恵みを賜わり」そして、「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言っています。モアブの地にいても、エリメレクの家はモアブの民とその宗教に同化していませんでした。ヤハウェなる神、イスラエルの神がおられ、モアブは一時滞在のところであることを知っていたのです。

 そしてルツ記で鍵の言葉となる「ヘセド」がここに出て来ます。「恵みを賜わり」という言葉です。彼女たちはそれぞれの夫に尽くしました。それだけでなく、夫亡き後も姑に尽くしました。そのことに応じて、主もあなたがたに真実をもって尽くしてくださるように、と祈願の言葉を述べています。私たちは、「愛」の意味を知る必要があります。それが単なる感情ではない、ということが一つです。それは感情を越えたところの、堅い結びつき、あるいは契約に基づくものです。状況が悪くなっても、自分に有利な条件がなくなっても、なおのこと尽くしていく慈しみです。

 そしてもう一つ、愛は要求されている以上のことを行ないます。新約聖書には、「キリストの律法」あるいは、「愛による律法の成就」という言葉が使われています。もはや、義務として与えられたことを行なうのではなく、それ以上のことを施す源泉と力が愛です。しばしば、什一献金について質問を受けます。旧約聖書には書いているが、新約には書いていないではないか?という質問です。実はマタイ2323節に、イエス様が怠ってはいけないと言われているのですが、新約聖書には「喜んで与える者を主は愛される」とあります。それは什一以上のものを捧げることです。私たちは「恵み」を考えるときに、律法を行なわなくて良いのだと思うのですが、そうではなく律法で言われていること以上のことを、しかも律法とは別に行おうとする、さらに高尚なものであります。

1:10 ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」1:11 しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。1:12 帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、1:13 それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」

 ナオミは、モーセの律法について知識を持っていました。私たちが既に学んだ申命記にある掟です。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。(申命記25:5-6」したがって、オルパとルツはナオミから出てくる息子を待たねばならない、ということです。けれどもナオミは年を取っています。仮にたった今、結婚できたとしても、子を生み、その子が育って成長するまで二人は待たなければならない、ということです。つまり、ベツレヘムに行ってしまっては、ほとんど何の期待もできない、ということになります。

1:14 彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。1:15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」

 この時点で、ルツはモアブ人の家に帰ったところで何の咎めも受けません。むしろ、ナオミについていくほうがおかしいと言うものです。

1:16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。1:17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」1:18 ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。

 彼女は堅い決心の中で、ナオミといっしょに行くことにしていました。そしてその決心の中には、ナオミの民を自分の民とする、そしてナオミの神を自分の神とするという、極めて人格的な、意図的な関係を結んでいます。午前礼拝で学びましたが、私たちが周りの状況に合わせて生きる人生を選んでいるのか、それとも自分自身が神とキリストにつながる決心をしたのか、で大きくその後の人生が変わります。周りの状況に合わせていくなら、自分の人生も周りの流れと共に主体性もなく、むなしく流れていくことでしょう。けれども、何者にもましてキリストとの愛の関係を選び取っていくなら、状況に左右されない、いや状況が自分とキリストとの関係を強くしていくために、むしろ有利に動いていくのです。

 イエス様は群集に対して、このような主体的な関係の中に入ることを呼びかけられました。「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:25-27」家族の関係さえも、いや自分自身がどうなっても、イエス様との関係が存在するなら何でも構わない、という姿勢です。

 彼女は、この時点で回心しています。イスラエルの神が自分の神であり、イスラエルの民が自分の民であり、そしてヤハウェの名を使って決意を表明しています。これはかつてのラハブもそうでしたが、信仰の大きな一歩です。私たちキリスト者は今、ルツのようなことをする必要はありません。すなわち、イスラエルの神への改宗をしなくてもよいです。なぜなら、イエス・キリストがユダヤ人と異邦人を分け隔てする律法を破棄してくださり、異邦人のままでそのままイスラエルの神に近づくようにしてくださったからです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。(エペソ2:1415

3B マラとなりたいナオミ 19−22
1:19 それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。1:20 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。1:21 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」

 モアブの野からベツレヘムまでは、長い距離ではありませんが、高地からアラバ、つまりヨルダン渓谷へと急斜面を下り、さらにユダの山地を上っていく、難儀な旅だったでしょう。

 そこで待っていたのは、町中の騒ぎでした。ナオミのことは人々の噂の的だったでしょう。そして先ほど説明しましたように、「快い」という意味のナオミは、自分を「苦い」という意味のマラに変えてくれ、と言っています。全能者が自分を卑しくし、つらいめに会わせたからと言っています。私は、彼女のこの言葉に信仰と不信仰の二つを見ます。信仰的なのは、すべてのこと主から来たものであることを認めたことです。多くの人が不利なことを起こると、悪魔のせいにしたり、他人のせいにしたりしますが、そのような場合はありますが、究極的には神がそうされたのです。ゆえに、ナオミには神に対する苦悶はあっても他者に対して不平を鳴らしませんでした。

 そして不信仰というのは、私自身は彼女を責めることはできませんが、神がどれだけ慈しみ深い方であるのか、そのご計画の全貌を知らないということです。もしかしたら、ルツ記はナオミが主人公かもしれません。彼女が嫁ルツを通して、この辛さを通ってとてつもない慰めと癒しを受けるからです。この辛さと苦さを通らなければ、むしろその慰めの豊かさを知る事はないでしょう。私たちに与えられる辛さというのは、恨めしい傷として残るのではなく、とてつもない勢いで噴出す癒しの泉となってあふれ出すのです。

1:22 こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。

 著者は、ルツを「モアブの女」というように強調しています。これはとても大切ですね、モアブの女であるにも関わらず、これからイスラエルの神の守りと養い、そして豊かな報いを受けます。ここの神がユダヤ人だけの神ではなく、異邦人にも恵みを施してくださる方であることが分かります。私たちがどんなに疎外感を抱いたとしても、主はその場に豊かな恵みを注いでくださるのです。

 そして時は「大麦の刈り入れの始まったころ」とあります。覚えておくとよいでしょう、これはまさに過越の祭りの三日目に行なわれる初穂の祭りのあたりことです。大麦の初穂を主に捧げます。ですから時は四月頃です。

2A ボアズの愛の手 2
1B 「図らずも」 1−7
2:1 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。2:3 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。

 落穂拾いをルツがしにいきます。これはイスラエルに神が与えられた律法にある、貧しい者たちについての命令です。「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ19:9-10」これが、言わば弱者や貧しい者への救済措置であり、福祉制度でありました。ルツは、姑ナオミをこのような形で養っていこうとしていたのです。

 そして、ルツは何も知らずにいったところが、たまたまエリメレクの親戚のボアズの畑だったのです。2章の鍵となる言葉は3節にある「はからずも」でしょう。彼女が図ったのではなく、主が彼女をそこに導いてくださったのです。ここに、主の導きの秘訣があります。ルツのように、神との人格的関係、個人的な関係を第一とするとき、神は同じように個々の生活に人格的に関わってくださいます。漫然と生きている人には、漠然としか神のことが分かりません。自分の心を神に広げれば広げるだけ、神はその報いとしてご自身のことを現してくださるのです。

2:4 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。

 ボアズは、働いている者たちに霊的にも影響を与えていました。なんとすばらしい労働環境でしょうか?雇用者が主にあって祝福し、被雇用者が同じく主にあって雇用者を祝福しています。

2:5 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」2:6 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。2:7 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」

 ルツの特徴は、勤勉であったことです。ボアズは後に彼女のことを「真実(3:10」という言葉を使ってほめています。ルツのナオミに対する思いは偽りではなく真実であった、ということです。そして他のイスラエル人の女たちはナオミに対して、「あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁(4:15」とルツのことをほめました。真実な愛、ヘセドが今、休みもなく立ち働いているところに表れています。愛は、このように労苦するものです(1テサロニケ1:3)。骨折れるほど労苦するものです(ローマ16:12)。

2B 懇ろな言葉 8−16
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。2:9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」

 ボアズは、ここでルツのことを気遣っています。一つは安全です。この時代のイスラエルが堕落していたことを思い出してください。まさにベツレヘムの女が、ベニヤミンの地で陵辱され、殺されたのですから、落ち穂拾いしているときに酷い目に遭うかもしれません。もう一つは、養いです。喉が渇いたら水がめがあるから、そこから飲みなさいと言っています。井戸から汲み上げるのは、とても力の要ることなので、若者が汲んだときにそれを飲みなさい、と言っています。ボアズは人というものを知っています。女が弱い器であることをよく知っています。

2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」2:11 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。2:12 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」2:13 彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」

 ルツは驚きました。自分が外国人であり、ボアズのはしためでもありません。なぜ懇ろに話しかけてくれるのか、あまりにも不思議です。それはボアズが、彼女のしたことをすべて聞いていたからです。そしてボアズが主の御名によって祝福しました。「あなたがその翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神」と言っています。彼はよく知っていたのです。彼女に今、もっとも必要なのは保証でした。隠れるところでした。翼の下にいてかくまわれる雛のようになりたいことでした。それをイスラエルの神、主に求めにきたとボアズは的確に把握していました。

 ボアズはこのように言いましたが、まさにボアズ自身が主なる神によって心動かされ、彼を通して主ご自身の守りと養い、また弱さの理解を行なっています。ボアズの言動に表れているのは、まさに主ご自身です。私たちもそうでありたいものです。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13」私たちは第三者的に、主が他の人に働かれることを願うだけではなく、御霊に促されて、主の御心をその人に対して行っていきます。そのことによって、神の恵みを受けたその人が、神ご自身を見ることができるのです。

 ルツは、あらゆる保証を犠牲にしてベツレヘムにまでやってきましたが、ボアズを通してそれを補うに余りある保証を得ました。私たちは、何かを犠牲にするとそれを失うと思いがちです。主に自分を捧げることは、すべてを失うと思いがちです。けれども、主は永遠のいのちという報いだけではなく、この地上においても失われたものを補なって報いてくださいます。「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。(マルコ10:29-30

2:14 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。

 ボアズはこれをすでに計算済みで、ルツに与えたものと思われます。つまり彼は、ルツだけでなくやもめのナオミにも気遣っているのです。多く与えれば、その残りをナオミにルツが持っていってあげることができます。

2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。2:16 それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」

 ボアズは、彼女の尊厳に、女性としての尊厳に気を使っていました。わざと穂を拾い集めるように振り落としなさいとまで言っています。であれば、初めから彼女に穂を分け与えてあげればよいのですが、彼はそうしません。それは、彼女に恥をかかせないためです。彼女が働く報酬として得たものとして、姑のナオミにそれを持っていかせねばなりません。ナオミに対して彼女をさらによく見せてあげようとする心遣いです。

3B 近親者 17−23
 ここまで見ると、ボアズはまさに女性にとっては理想的な男性であります。前回読んだ、ベツレヘムのそばめのレビ人の夫とは正反対の人物です。けれども、これが理想的な男性という話だけで終わらせたら、ルツ記にある神のメッセージの半分しか受け取れないでしょう。

2:17 こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。2:18 彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。2:19 しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました。」と言った。2:20 ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

 一エパ、すなわち23リットルの大麦、そして残った炒り麦は、落ち穂拾いとしてはあり余る報酬です。そして彼女は再び、「ヘセド」という言葉を使いました。「御恵みを惜しまれない主」の「御恵み」がヘセドです。生きた者にも主はあり余る恵みを施してくださいます。そして死んだ後も主はその恵みを永遠のいのちという形で恵んでくださいます。

 そしてそのような主へのほめ言葉をナオミが発したのは、他でもないボアズが「近親者」であり、「買い戻しの権利」のある親類だからです。近親者をヘブル語でゴエルと言います。そして「買い戻しの権利」については、私たちはすでに律法で学びました。レビ記25章です。「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。(23-25節)」イスラエルに土地を与えた主は、貧しいからという理由でそれを失うことが決してあってはならないという意思から、兄弟が万一土地を売ってしまったら、近親者が買い戻さなければならないと定めていたのです。

 そしてルツ記4章にて、実際にボアズがエリメレクの土地を買い戻します。そして、買い戻しと共にエリメレクの名を残すために、ルツを自分の妻とします。そのことについては次回、34章を学ぶときにじっくり見ていきます。今ここで話したいのは、ボアズとルツの間にある関係は、イエス・キリストと私たち教会の関係を表している、ということです。売られたものを買い戻すという行為は、他の言葉で「贖い」と言います。代価を払って、他者に渡されてしまったものを取り戻す行為です。イエス・キリストが、罪に売り渡された私たちをご自分の命という代価によって神の所有にするために買い戻してくださいました。

 ボアズがルツに目を留めた一連の行為には、イエス・キリストが私たちに目を留めておられる姿が表れています。すべてのものよりも、自分が慣れたものよりも、何にもましてイエス・キリストを自分の主として決心した人には必ず見捨てることなく、御恵みをもって報いてくださいます。まず、イエス・キリストが私たちの近親者となってくださいました。神の身分であるにも関わらず、人となって私たちに近づいてくださったのです。近い存在となってくださいました。

 そしてルツではなく、ボアズのほうから彼女に話しかけています。ここには神の恵みが表れています。私たちが神を愛したのではなく、まず神が私たちを愛して、キリストを罪の供え物にしてくださいました。そして、ルツは外国人なのに、またはしためでもなかったのに、ねんごろに語りかけました。私たちも同じ、神から離れた外国人でした。日本人であれば、創造主、イエス・キリストという存在はほど遠い存在でしたが、恵みをもって臨んでくださいました。

 そしてイエス様は、私たちの安全となり、養いとなってくださいました。主こそが私たちの避け所です。イエス様は、律法学者が弟子たちに詰め寄ってくれば、弟子たちに代わって彼らに語られました。彼らを守られたのです。そして養ってくださいます。それは、私たちが働かなくてよいということではありません。ルツは勤勉でした。同じように私たちは働きますが、必要をボアズのように主は満たしてくださいます。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19

 そしてボアズは、ルツが落穂拾いしているのを、わざと穂が落ちるように手配しましたが、これこそ恵みの業です。私たちは、自分たちが一生懸命頑張っているから、神の祝福を得ていると勘違いしています。いいえ、全く違います!私たちが主に仕えることができるように、むしろあえて良きものを予め備えてくださっているのです。そしてルツがその労働について、ナオミの前で実際よりもさらに多くのことを行なったかのようになりましたが、神の恵みも同じことをします。私たちがしていることは、やるべきことをしたに過ぎません。けれども、神はそれを何十倍にもして、それを良くやった業であるとみなして、報いてくださるのです。

 どうか、一つの罠に陥らないでください。それは、「自分が行ったこと、行なわなかったことでくよくよする。」ことです。一つのことが起こった、また起こらなかったことについて、それを自分たちの行為に拠るものだとしないことです。確かに、自分が蒔いたものを刈り取ります。けれども、神はご自分でご自分のことを行われたいのです!私たちの不足に関わらず、神はご自分の真実を私たちに表したいと願っておられます。私たちに関わらず神が祝福してくださることを、「恵み」と呼びます。

2:21 モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない。』と私におっしゃいました。」2:22 ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。」2:23 それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。

 大麦の刈り入れの次は小麦です。これも覚えておいてください、大麦の初穂は過越の祭りの三日目の初穂の祭りですが、それから五十日後は五旬節です。その日には小麦の初穂を主に捧げます。ですから、二ヶ月はそこで落ち穂を集めていたことになります。

 士師記の最後の部分を先週学び、そして今ルツ記の前半部分を読みました。どちらも士師の時代のあとがきとなる逸話です。士師の時代は、「めいめいが、自分の目に正しいと思われることを行なった。」ということが特徴で、神の民であるはずのイスラエルが、その律法をことごとくなおがしろにした姿を見ました。ところが今は、神によって集会に出てはならないとまで言われたモアブ人が、反対に神の律法の中に入っていきました。ダン族は、イスラエルの北にいって偶像を立てて拝んでいましたが、モアブ人であるルツは、その民の信じるケモシュを捨てて、まことのイスラエルの神をあがめています。

 イエス様はこう言われました。「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マルコ10:31」神の恵みの前では、価値のない、不足だらけの者が祝福の中心に来ます。そして、持っていると思われていた者たちが失います。なぜなら、すべての者が自分を誇ることなく、ただ神だけをあがめるようにするためです。この方にすべてを明け渡してみましょう。ゆだねてみましょう。自分の行ないや、これまでのあり方、また自分の罪を捨てて、この方に従う決意を、ルツと同じようにしてみましょう。

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