ゼカリヤ書1−4章 「エルサレムをねたむ愛」

アウトライン

1A 国々への怒り 1−2
   1B 散らされているユダ 1
      1C 先祖の行ないからの悔い改め 1−6
      2C 谷底におられる主 7−17
      3C 四つの角と四つの職人 18−21
   2B シオンに住まれる主 2
      1C 火の城壁 1−5
      2C バビロンからの避難 6−13
2A 二人の証人 3−4
   1B 大祭司ヨシュア 3
      1C 礼服の着衣 1−5
      2C 一つの若枝 6−10
   2B ゼルバベルの手 4
      1C 御霊による建築 1−10
      2C 油注がれた者 11−14

本文

 ゼカリヤ書を開いてください、今日は1章から4章までを学びます。今日のメッセージ題は、「エルサレムをねたむ愛」です。

 前回のハガイ書の学びで学んだように、預言者ゼカリヤはハガイと共に、バビロンからの帰還民がエルサレムで神殿を再建している所で、彼らを主の御言葉によって励ました人物です。もう一度、その歴史的事実を記録しているエズラ記の箇所をお読みします。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。(5:1-2

 ハガイは、宮の建設ではなく自分の家を建てていることを指摘し、悔い改めを呼びかけましたが、ゼカリヤは主に、工事を再開した人々に対する大いなる慰めを預言しました。その違いは、預言を行なった時期に拠ります。ハガイに預言によって、彼らはダリヨス王第二年の第六の月の二十四日に仕事に取りかかりました(ハガイ1:15)。そして第七の二十一日に第二の預言を行なっています。ゼカリヤは、その直後、第八の月に預言を行なっています(1:1)。そしてハガイは第九の二十四日に第三の預言を行なっていますが、ゼカリヤは第十一の二十四日、つまり、ちょうど二ヵ月後に行なっています(1:7)。ハガイによる、人々を突き動かすような短いメッセージの後に、実際に行動に移した人々を認め、慰め、励ます幻を見せたのです。

 ゼカリヤという名前の意味は、「ヤハウェは覚えられる」です。確かに主は、工事を行なっている民に対して、「わたしはあなたがたを覚えている」と慰めてくださいました。

 ゼカリヤ書は主に、二つの部分に分かれます。前半は、1章から6章までの「幻」の部分です。ゼカリヤは合計、八つの幻を見ています。一夜にこれをすべて見たようです。そして7章から14章までが通常の、言葉による預言です。読み進めたら、とても黙示録に似ていることに気づくでしょう。いや、黙示録がゼカリヤ書の幻に似ていると言った方が正しいですね。そしてゼカリヤ書には、メシヤに関する預言がふんだんにあります。終わりの日の再臨についての預言はもちろんのこと、初臨についての預言も満載です。その内容の豊富さに比べると、聖書読者の間であまり知られていない書物です。

1A 国々への怒り 1−2
1B 散らされているユダ 1
1C 先祖の行ないからの悔い改め 1−6
1:1 ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。

 時は紀元前520年の10月から11月にかけての預言です。先ほど話しましたようにハガイの第二の預言の一ヶ月後に預言を行なっています。

 そしてゼカリヤは祭司の子であることが、その系図から分かります。「イドの子ベレクヤの子」です。ネヘミヤ記12章に帰還民の系図がありますが、祭司の一族の中に「イド族ではゼカリヤ(12:16」とあります。ですから、ちょうどエレミヤやエゼキエルのように祭司であり、かつ預言者であった人です。幻を読んでいくと、なるほど祭司の子らしい発言が出てきます。

 そして特に若い人には知っていただきたいのは、ゼデキヤが若者であったことです。2章4節で、御使いがゼデキヤのことを「あの若者に」と言っています。ある人はハガイはかなり歳を取っていたのではないかと言います。つまり、おじいさんと若者のコンビで預言を行なっていた可能性があります。主の働きには、歳の差は関係ないことが分かりますね。

1:2 主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。1:3 あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。・・万軍の主の御告げ。・・そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。1:4 あなたがたの先祖たちのようであってはならない。先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ。」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。・・主の御告げ。・・1:5 あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。1:6 しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた。」と。

 ゼカリヤの初めの預言は、悔い改めの呼びかけです。「わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」です。これはちょうど、ハガイを通して主が呼びかけられた悔い改めと同じことです。彼らは、バビロンがエルサレムを破壊する前の先祖たちが行なっていた悪によって、災いがくだったことをよく知っていました。そして悔い改めも行ないました。けれども、帰還して、神殿工事を行なってから、周囲の住民によって阻止されて、十数年も工事を中断しているうちに、世の中のことのほうが楽しくなってきていたのです。それで主は、先祖たちが行なったことと同じことを行なっているではないか、と叱責しておられます。

 ここで興味深いのは、「預言者たちは永遠に生きているだろうか。」という問いかけです。もちろん死にました。エレミヤもエゼキエルも死んでいます。けれども、彼らが語った言葉は、今生きている彼らの時代ですべて経験していたのです。預言者の死によって預言が廃れることはなかった、ということです。これは現代に生きている私たちも肝に銘じなければいけないことです。「聖書の預言が、神の言葉が、現代の私たちには関係のないことだ。これはその時代の書物であって、哲学的、道徳的には益になりこそすれ、当時の社会に対して語られたものだ。」という考えは通用しないのだ、ということです。今も、その預言が成就しつつある時代に私たちは生きています。

 そして次から、八つの幻が始まります。主がとてつもない慰めをもって、イスラエルに強く語られます。けれども、その慰めはここ2節から6節までにある、悔い改めの御言葉に応答した者たちだけにある約束です。エレミヤ書において、「災いばかりを預言して、幸いを預言しない。」とエルサレムの人々はエレミヤをそしりました。悔い改めることなくして、平安や幸いは存在しないのです。

2C 谷底におられる主 7−17
1:7 ダリヨスの第二年のシェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。

 時は「第十一の月の二十四日」で、ハガイの第三、第四の預言のちょうど二ヵ月後です。第一の幻は、「谷底で馬に乗られている方」です。

1:8 夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。1:9 私が、「主よ。これらは何ですか。」と尋ねると、私と話していた御使いが、「これらが何か、あなたに示そう。」と私に言った。1:10 ミルトスの木の間に立っていた人が答えて言った。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされたものだ。」1:11 すると、これらは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えて言った。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。」1:12 主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」

 ゼカリヤ書では、天使の活動が活発です。ダニエル書10章や12章で、ダニエルに話しかけている天使が誰で、誰に話しかけているのかあまり分からない部分がありましたが、同じようにゼカリヤ書でも誰が誰に話しかけているのか、注意深く見ないといけません。

 ここでの中心人物はもちろん、「赤い馬に乗っている人」です。そしてその後ろに赤、栗毛、そして白い馬に乗っている天使がいます。谷底にあるミルトスの木の間に立っておられます。そしてゼカリヤのそばにいる天使もいます。11節を読むと、赤い馬に乗っている方は主の使いご本人であることが分かります。主(ヤハウェ)の使いは、ほとんどの場合、受肉前のキリストです。マリヤが聖霊によってみごもったイエス様の前に、イエス様がおられなかったのでは決してありません。永遠の昔から、父なる神とともにおられました(ヨハネ1:1)。

 三頭の馬に乗った天使たちは、主の使いに対して、自分たちが巡察した結果を述べています。それは「全地は安らかで、穏やかでした」というものです。これは悪い知らせでした。なぜなら、ユダヤ人は捕囚の民となって呪いを受けているのに、世間はいたって平穏だったということです。このことにしたがって主がねたみと怒りを覚えられるのが、一連の幻の内容です。

 後に、これらの馬は諸国を駆け巡って、諸国と戦う姿を読みます(6章)。1章は、その前にユダヤ人が異邦人たちによって虐げられている姿を表しています。イスラエルの中に「ミルトスの木」は豊富にありますが、今、この木が異邦の国の中にいるイスラエルを象徴的に表しています。確かに、全地は安らかで平穏でしょう。けれども、ユダヤ人たちは自分たちの土地を失い、また帰還したと言っても、ペルシヤの支配の中で生きており圧迫を受けています。

 そしてここは「谷底」です。イスラエルが、異邦の国々の中で低い地位に着いていることを示しています。けれども、その真ん中に赤い馬に乗っておられる方、すなわち、イエス・キリストご自身がおられるのです。主は、へりくだった者たち、低くされた者たちの間にいてくださいます!

1:13 すると主は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。

 主の使いである方が、万軍の主つまり父なる神に、「七十年経ったのに、なぜエルサレムとユダの町々は呪いを受けたままなのですか。」と問いかけられましたが、御父の答えが、「良いことば、慰めのことば」でした。この「良い」は、英語の"good"に相当するヘブル語「トブ(tov)」です。英語ですと、"That's good!"というと、「実に良いねえ」というような、旨みのある、快い意味合いを持つ言葉になります。ヘブル語も同じです、快く、味わいがあり、幸せな言葉だ、ということです。

1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。1:15 しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。』

 ここが、ゼカリヤ書にある神の熱情です。「エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した」です。主にとっては、シオンは自分の娘であり、また、愛する自分の妻でもあります。自分の愛する女性が、他の男たちになぶりものにされている姿を見たら、あなたはどういう感情を抱くでしょうか?ものすごい激しい憤りをもって、その男どもを打ち叩くでしょう。その感情です。

 諸国の民が「安逸をむさぼっている」とありますが、これがユダヤ人など、奴隷や弱者を虐げている上に成り立っていたバビロンが与える平和でありました。確かに平穏であったでしょう。けれども、主が望まれているのは、この平穏より戦いです。

 主が与えられる平安は安逸とは程遠いものです。平穏がかき乱されると、人々は嫌がります。けれども、イザヤ書の学びでたくさん習いましたが、正義のない平和など平和でも何でもありません。主はむしろ、剣をもって分裂をもたらし、真の平和を与えるべく介入されます。私たちが今、心の中や生活の中で持っている平穏は、果たして主から来たものでしょうか?それとも、かえって主に反対しているものでしょうか?

 次に、主は「少ししか怒らなかった。けれども、彼らはほしいままに悪事を行なった。」とあります。主は、アッシリヤやバビロンなど、諸国の民を裁きの器としてイスラエルやユダを裁かれました。けれども、預言書の中に一貫して表れていた真理は、「その器として用いられていた異邦人たちが、主によってではなく、自分たちで勝った。」と思っていたことです。

 主が、バビロンによってエルサレムを滅ぼすと言われる時、それはあくまでも主が、ご自分がエルサレムを守っておられるその盾を少し引き上げられることによって、その隙間にバビロンが入ってくることができるようにされただけです。その限られた破壊について、もし主が少しでもご自分の手を伸ばせば、バビロンはエルサレムに指一本触れることはできませんでした。このように、すべての権威や力は、主から来ます。そのことを知らずに、異邦人は自分たちがやったと誇らしげにかたり、だから彼らを自分たちの思いのままにすることができるのだ、と錯覚するのです。

 私たちも物事が滞りなく進んでいる時、気をつけなければいけません。自分は何者かであるようなうぬぼれを持たないように、心を守るべきです。もし主が、物事が順調に進むようにしておられなければ、たった一歩も前に進み出ることはできないのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5」と言われた通りです。

1:16 それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。・・万軍の主の御告げ。・・測りなわはエルサレムの上に張られる。』1:17 もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」

 エルサレムの町が建て直されるのは、はらわたからにじみ出てくるような、神の深い憐れみによるものです。同じように、罪によってめちゃくちゃになって、悪魔やこの世の思うままにされている人を見れば、その人をお造りになられた神は、激しい熱情をもって、憐れみをもって建て直したいと願われています。

3C 四つの角と四つの職人 18−21
1:18 私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。1:19 私が、私と話していた御使いに、「これらは何ですか。」と尋ねると、彼は私に言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ。」1:20 そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。1:21 私が、「この者たちは、何をしに来たのですか。」と尋ねると、主はこう仰せられた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ。この者たちは、これらの角を恐れさせ、また、ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来たのだ。」

 第二の夜の幻は、四つの角とその角を加工する四人の職人です。聖書で「角」は権威や力を表します。これらは、御使いによると「ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角」だということです。したがって、これはダニエル書に出てくる四つの世界帝国に匹敵するのではないかと考えられます、つまり、バビロン、ペルシヤ、ギリシヤ、そしてローマです。

 けれども、それぞれの角は、次に出てくる職人によって、その職人の思うままに削られ、細工されてしまいます。どんなに強い角であっても、職人の手にかかれば頭をもたげることができません。これらはつまり、ユダを散らした国を打ち滅ぼす国です。バビロンを倒したのは、どこの国でしょうか?ペルシヤですね。そしてペルシヤを倒したのはギリシヤ、ギリシヤを倒したのはローマです。つまり職人は、ペルシヤ、ギリシヤ、そしてローマです。では、ローマを倒すのは何の国でしょうか?ダニエル書によると、人手によらず切り出された石、つまりメシヤご自身であり、その神の国であります。したがって、四人の職人は、「ペルシヤ、ギリシヤ、ローマ、そして神の国」です。

 つまり、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマは、自分が職人でありながら、また他の職人によって削られてしまう角でもあるのです。神が、その前の国が高慢になってさらにユダヤ人を虐げることのないように、彼らを職人として用いられたのですが、自分たちがイスラエルの地を支配するやまた高慢になって、自分たちの思うままにふるまうと、他の職人を主が呼ばれるということです。これが、先ほど話した、「裁きの器自身が、神の怒りを買う」という原則であります。

2B シオンに住まれる主 2
1C 火の城壁 1−5
2:1 私が目を上げて見ると、なんと、ひとりの人がいて、その手に一本の測り綱があった。2:2 私がその人に、「あなたはどこへ行かれるのですか。」と尋ねると、彼は答えた。「エルサレムを測りに行く。その幅と長さがどれほどあるかを見るために。」2:3 私と話していた御使いが出て行くと、すぐ、もうひとりの御使いが、彼に会うために出て行った。2:4 そして彼に言った。「走って行って、あの若者にこう告げなさい。『エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。2:5 しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。・・主の御告げ。・・わたしがその中の栄光となる。』

 第三の夜の幻は、「エルサレムを測る、測り綱」でした。聖書には、神殿について測り綱が数多く出てきます。エゼキエル書40章以降にある御国の神殿も、測り竿と紐を持っていた人がいましたし、黙示録11章でも、「外庭は測るな」という命令がありました。エルサレムの町や神殿を測るのは、それが誰の所有になっているのかを明確に示すためです。神が聖なるものとされた所をはっきりとさせ、聖なるものと俗なるものを区別するためであります(エゼキエル42:20)。

 そして天使は測りに言ったのですが、ゼカリヤのそばにいる天使に対して、ゼカリヤにここには城壁がないことを告げなさい、と言っています。なぜなら、あまりにも多くの人と家畜がいるために、あふれ出てしまうからだ、ということです。エルサレムはこのようになることは、他の預言箇所にも存在します(例:エゼキエル36:38)。

 そして城壁がなくても、「わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。」と主は言われます。まさに、主による「ファイアー・ウォール」です。ゼカリヤにとっては、ものすごい約束です。ただでさえ、周囲の敵に取り囲まれて苦しい思いをしていたのに、城壁のない町など想像すらできない状態でした。

 けれども、物理的な壁よりも、この目に見えない壁のほうが強力であることは、エリシャの預言によって実証済みです。エリシャの家をシリヤ軍が取り囲んだ時、しもべはもう自分たちは滅びるしかないと嘆きました。その時エリシャは、「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈りました。すると目が開かれて、なんと包囲していたシリヤ軍を、さらに火の馬と戦車が取り巻いていたのです(2列王6:17)!使徒パウロは、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(2コリント10:4」と言いました。

2C バビロンからの避難 6−13
2:6 さあ、さあ。北の国から逃げよ。・・主の御告げ。・・天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。・・主の御告げ。・・2:7 さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。2:8 主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。2:9 見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。

 これは、未だバビロンの地にいるユダヤ人たちに対する励ましであり、また同時に警告です。七十年の捕囚の期間が終わりました。かつてエレミヤが預言したように、彼らは家を建て、商売をし、比較的平穏に暮らしていました(29:57)。捕囚といえども、既に定着してしまったユダヤ人にとって、エルサレムに戻ることは面倒くさいことでもあり、苦痛ですらあったでしょう。事実、そこには困難と苦労が待っていたのです。当初、約五万人のユダヤ人しかエルサレムに戻りませんでした。

 けれども、主はシオンこそ安全であり、バビロンは滅びるとおっしゃられているのです。だから、そこから逃げろ、ということです。むろん、ゼカリヤが預言した当時、既にバビロンは滅び、そこはペルシヤでした。けれども、もっと大事なのは霊的な側面であり、主がおられる所にこそ安全があり、自由があるということです。終わりの日に、大バビロンが滅んで、天にいる者たちが大喜びすることが黙示録18章で預言されています。私たちの今の安定した生活と、主に促された使命を果たす道とで、どちらが安全なのかは一目瞭然ですね 

 そして主は、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と言われました。瞳は体の中で最も敏感な所の一つです。少しでも障害物がそこに触れれば、全身を使ってそれを守ろうとします。イスラエルの民がわたしにとって、そのようなものだ、と主は言われます。

 主はアブラハムに対して、「あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世12:3」と言われました。聖書で終始一貫して、神の所有の民とされたイスラエルに触れた者はみな、とてつもない裁きを受けました。エジプトのパロはその典型的な人物です。彼はナイル川に男の子を投げ入れよ、と命じましたが、結局、自分自身と軍隊が紅海の水の中で溺れ死んだのです。

 この原則をよく知っていた人々は、エジプトにいた助産婦、またエリコの町にいたラハブです。助産婦たちは、ヘブル人の赤ん坊を守ったために、主がその家を栄えさせてくださいました。ラハブは、イスラエルの間者をかくまったので、その家族の命は救われ、イスラエルの民に加えられ、そしてラハブは、なんと、イエス・キリストの祖先にまでなりました。「神の瞳に触れてはならない。」という恐れを抱いていたからです。

 そして、バビロンはユダヤ人に仕えられていましたが、ここに約束されている通り、今度はバビロンがユダヤ人に仕えます。イザヤ書142節に、「イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。」とあります。御国では、神の民が支配をしますが、支配されることはありません。

 これは教会も同じであり、「キリストとともに、千年の間王となる。(黙示20:6」という約束があります。ですから私たちは、この世の支配者のように自分を偉くしてはなりません。キリスト者に与えられている命令は、「だれに対しても自由だけれども、すべての人の奴隷」になることです(1コリント9:19)。愛をもって人々に仕えることです。そして夫婦関係、家族関係、職場関係、また国との関係において服従する姿勢で臨むことです。仕える人が天の御国において偉大な者とされます(マタイ20:2528)。

2:10 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。・・主の御告げ。・・2:11 その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。2:12 主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」2:13 すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。

 主がシオンの只中におられるという、至福の約束です。私たちは今、霊的に、目で見えない形で主を礼拝していますが、後の世では、物理的に、目と目を合わせて拝することができるのです!ゼパニヤ書に、胸が張り裂けんばかりの大きな歌声が聞こえてきそうな預言がありました。「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。(3:1415

 そして、この喜びはイスラエルの民だけでなく、すべての民に及びます。主は、多くの国々もご自分の民として迎え入れてくださいます。今、イエス・キリストの者とされた異邦人たち、そして大患難を通過して、イエス様によって羊として選り分けを受けた人々がそれです(マタイ25:3140)。彼らが、主がおられるシオンの山に参上する姿がイザヤ書とミカ書に預言されています(イザヤ2:23、ミカ4:12)。

 ですから、主は、ユダヤ人の神だけではなく、すべての肉なる者の神なのです。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。」と書いてあるのは、それが理由です。どうでしょうか?自分の意見、自分の感情、自分の意志を置いて、神の前に出たことはあるでしょうか?そして、主は「聖なる住まい」から来られます。つまり、天から来られる、ということです。イエス様が天から来られる時、あらゆる国々の民がこの方の栄光の姿を見ます(マタイ24:30)。

2A 二人の証人 3−4
 そして第四の幻が3章に、第五の幻が4章にあります。これは一組になっている幻であり、神殿再建を指揮する二人の指導者、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルに対するものです。まず大祭司ヨシュアが出てきます。

1B 大祭司ヨシュア 3
1C 礼服の着衣 1−5
3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。3:2 主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」3:5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。

 大祭司という務めにふさわしい幻です。「主の前にどのようにして立つことができるのか」という、霊的な根本問題を表している内容です。ここは、いわば裁判の法廷です。裁判官は神ご自身です。そして被告人はヨシュアです。告発人として、サタンが立っています。黙示録にサタンが「兄弟たちの告発者(12:10」であるとありますね。そして弁護人が主の使い、つまりイエス・キリストです。ヨハネ第一2章1節には、こうあります。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

 ヨシュアが汚れた服を着ているというのが、ここでの大事な点です。これは、民の代表として、イスラエル民全体の汚れを表していました。この「よごれた」のヘブル語は「肥溜め」であります。単に汚れたのではない、肥溜めの中に漬かっていた、ものすごく汚い服を身にまとっていたのです。これがエルサレムの神殿を破壊せしめる汚れた行為でありました。

 この点をサタンは告発しているわけです。そしてサタンの告発は、根拠があるのです。確かにヨシュアは訴えられるにふさわしい事を行なったのです。けれども、主は、むしろサタンを咎めておられます。それは、第一に、主がエルサレムを選ばれたからです。主の選びは、エルサレムが汚れに満ちているからといって無効になるものではないのです。ローマ1129節にあるように、「神の賜物と召命は変わることがありません。

 これは、キリスト者に対しても同じなのです。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4」私たちがどんなに失敗しようとも、もし神が私たちをキリストにあって選んでおられるなら、立ち返らないままで滅んでいくことは断じてありません!この部分をサタンは責め立てます。けれども、その選びにはキリストの血が注ぎかけられています。「キリストに従うように、またその血を注ぎかけを受けるように選ばれた(1ペテロ1:2」とあります。ですからサタンは私たちに、少しも触れることができないのです!

 第二に、「これは、火から取り出した燃えさしではないか。」という理由があります。これは、試練の火の中からかろうじて生き残った、という意味です(アモス4:11参照)。ヨシュアらは、すでにバビロン捕囚という激しい試練を通ってきました。そして終わりの日には、イスラエル人は「ヤコブの苦難」とも呼ばれている大きな患難の中で救いにあずかります(エレミヤ30:57)。したがって、神が彼らを救わないということは断じてないのです。

 そして主の使いは、ヨシュアの服を着替えさせておられますね。新しく身につけたのは、大祭司の装束です。出エジプト記28章に出てくる、12の宝石が埋め込まれている胸当て、金の枠でできた肩当て、紫、青色、緋色、白の撚糸によってできたエポデなど、主の栄光と美が表れている、すばらしい装束です。祭司の子であるゼデキヤは思わず、「きよいターバンをかぶらせなければなりません。」と叫んでいます。これで、ヨシュアはまったく清いものにされました。

 すばらしい、神の義認の御業です。神は、ご自分が人を正しい、また罪人であると判断されるとき、しばしば着物として語られます。私たちの内実はそうでなくても、キリストの御業という着物を身につけることによって、キリストにあって正しいとみなしてくださいます。これが、すばらしい「信仰による義」の真理です。

 私たちの性質は、肥溜めのように汚れています。たとえ自分が正しいと思っていることさえも、実は神の前では汚れています。「私たちの義は、不潔な着物のようです。(64:6」とイザヤ書にあります。ここも同じように、女性の生理によって汚れた布を表しており、単なる汚れではありません!けれども、そこから主は救い出してくださいます。ヨシュアの装束のように、実に美しく、清らかな着物を身につけさせてくださるのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18」これは、雪よりも白い衣です!

 そしてこの真理を常に思い起こし、生活の実際の場面で表していきなさい、という勧めがあります。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22-24」新しい服を着ているのだから、それにふさわしく歩みなさい、ということです。

2C 一つの若枝 6−10
3:6 主の使いはヨシュアをさとして言った。3:7 「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。

 主はヨシュアを、大祭司の務めをすることができるよう再任命してくださいます。奉仕の働きで失敗してしまった人たちに対する、慰めの言葉です。真に悔い改めているなら、またの機会があるのです。そして、ヨシュアの役割はそれだけではありません。

3:8 聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。3:9 見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。・・万軍の主の御告げ。・・わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く。3:10 その日には、・・万軍の主の御告げ。・・あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。」

 「若枝」の預言です。これは、イザヤも、エレミヤも、そしてエゼキエルも預言したメシヤの称号です。ユダの王を枝に例えて、それらが火の中で燃やされても、主ご自身がそれを植えて、大きな木とすると約束されました(エゼキエル17:22)。ですから、これは王なるメシヤの預言です。大祭司ヨシュアに対して、王が立てられることを予告しています。

 次回学ぶ6章で、八つの幻の最後のところで、ヨシュアに対して王冠をかむらせています。つまり大祭司が王となる預言であり、これは旧約聖書の中では考えられないことです。王はユダ族であり、祭司はアロンの子孫でなければなりません。けれども、これはメシヤという一人の人によって実現することを、ここの預言は告げているのです。

 そして、ヨシュアの前には石が置いてあります。「」もメシヤに対して使われている称号の一つでありますが、同時に御霊を指し示しています。4章に、これらにある七つの目が、全地を行き巡る主の目であることを教えています(10節)。黙示録5章にはさらに具体的に、「その目は、全世界に遣わされた七つの御霊である。(6節)」とあります。

 そしてすばらしい約束があります。「その国の不義を一日のうちに取り除く」です。主イエス・キリストが再び戻って来られる時、イスラエルの不義は一日のうちに取り除かれます。徐々に取り除かれるのではなく、瞬時に取り除かれます。これが、神が私たちの罪を取り除かれる方法です。まだ消えていない罪が残っているがごとく、さらに贖いをしなければいけないかのように教えるのは偽りであり、異端です。先ほど引用したイザヤ書のように、雪よりも白くなるような清めであり、ヨハネ第一1章7節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。

 そして、木の下における友との語らいの約束がありますが、これは平和と安全を象徴している風景です。神の御国における平和を示しています。ミカ書4章34節を読みます。「主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。」このように、罪と汚れから清められることによって、心の平安だけでなく、将来には国と国との平和まで保障されています!

2B ゼルバベルの手 4
1C 御霊による建築 1−10
4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」

 再び、祭司ゼカリヤにふさわしい幻です。第五の夜の幻は、燭台です。モーセの幕屋、またソロモンの神殿にもあったミノラ、七つの枝のある燭台です。けれども、大きな違いが一つあります。それは、幕屋と神殿においては、ともしび皿に油を注ぐのは祭司の務めであり、絶えず灯しているようにしておかなければならないとの命令があります(出エジプト27:2021等)。けれども、この幻ではその必要はありません。なぜなら、オリーブの木から直接、その油が管を通してそれぞれの鉢に注がれているからです。

4:4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

 この油は、聖霊ご自身を表していました。燭台の光は元々、イスラエルが国々の証しになっていいることを表していました(イザヤ42:6)。そして教会も、七つの燭台の間に主イエス・キリストがおられることを黙示録は1章で書き記しています。この証しとなる光が、人の手によらず、御霊によって灯され続けるというのが、オリーブの木からの油が指し示していたのです。

 ゼルバベルはペルシヤによってユダヤ人を治めるべく任命された総督です。ダビデ家の末裔ですが、ユダヤ人の主権は持っていないので総督になっています。そして、彼が周囲の反対を受けながらも工事を続けさせる決断を行ない、また足りない人材の中で、無尽蔵のように見える仕事の量をこなさなければならないのです。

 それで主はあえて、「権力によらず、能力によらず」と言われました。政治的指導者ですから、この二つがどうしても必要な要素です。周囲から守られる力が必要です。これが新改訳で「権力」と訳されている言葉です。新共同訳では「武力」と訳されています。そして人材が必要ですが、「能力」が必要なのです。けれども主はそのどちらをも否定されて、「わたしの霊によって」と言われるのです。

 3章においては、神との関係において大切な「信仰による義」について学びました。4章では、神のための働きに必要な「御霊の力」を学ぶことができます。私たちの内に力がないこと、そして私たちの意欲によってもできないこと、これを御霊が行なってくださいます。

 これは個人における、肉との戦いにおいてしかりです。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8:7-9」肉には何の良いものがありません。ただ神に反抗することしかできないのです。けれども御霊が内に住んでおられるなら、肉にはできなくなっていることをしてくださるのです。

 そして、外側の働き、奉仕や伝道などの働きをする時には、「聖霊のバプテスマ」を与えてくださいます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8」使徒の働きには、たった12人の弟子から世界中に福音が伝わる、驚くべき聖霊の働きを見ることができます。私たちは、絶対に力を求めなければいけません。聖霊の力を受けなければ、私たちの働きはゼルバベルのように、途方もない、大変な作業のように思えてしまうからです。

4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

 「大いなる山」とは、権力を表しています。ペルシヤの法令にせよ、周囲の反対にせよ、あらゆる障壁があっても、主はそれを平らにしてくださる、ということです。私たちが何十年も伝道していて、なお福音を信じない人であっても、御霊が働かれたら回心は一瞬の出来事です!

 だからゼルバベルは、「恵みあれ。恵みあれ。」と叫んでいます。御霊が働かれる所には、自分ではない、一方的な神の働きがあります。その麗しさを彼はここで「恵みあれ」と言っているのです。「かしら石」は、もちろん再建する神殿において要となる石のことです。

4:8 ついで私に次のような主のことばがあった。4:9 「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。4:10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」

 ゼルバベルの手で始まった事は、最後にゼルバベルの手によって完成します。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6」とある通りです。大切なのは、「手を離さない」ことです。象徴的に、「下げ振り」を見ておられる主の目があります。建物の工事の測量の時に使う道具ですね。これを主が見てくださっています。だから、最後に完成させることができます。

 大事なのは、この下げ振りを手放さないことです。ここで「その日を小さな事としてさげすんだのか」とありますが、ハガイ書にあったように、ソロモンの神殿の栄華と比べたらあまりにも見た目が悪いものだったからです。そこで私たちは落胆します。「こんなにやっているのに、この位の成果しか上げることができなかった。」と言ってがっかりします。けれども、自分のしていることをやめてはならないのです。どれだけの成果を上げるのかには、私たちは責任がありません。それは主が持ってくださいます。けれども、道具を手放さないことについては私たちに責任があります。

 この小さな道具が、大きな事を行ないます。モーセが数多くの不思議と徴を行なった時、何を使ったのか思い出してください。40年間、何でもない羊飼いとして生きてきた時、使っていた杖です。これが「神の杖」となり、紅海を分けるという御業をも行なうことになったのです。

2C 油注がれた者 11−14
4:11 私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」4:12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」4:13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」

 大祭司ヨシュアに対するのと同じく、主は、ゼルバベルに対しても将来のメシヤの預言を与えてくださっています。オリーブの木は、「ふたりの油そそがれた者だ」とあります。「油注がれた者」のヘブル語はそのまま「メシヤ」です。ヨシュアとゼルバベルの二人が、将来のメシヤを証しする者たちだ、ということです。

 そして終わりの日には具体的に、主の到来の前に二人の証人がエルサレムに立ちます。黙示録11章に書いてあります。彼らが立っていたのは、神殿の前でした。けれども、外側は異邦人に荒らされている偽物の神殿でした。彼らは文字通り、口から火を吹いて預言を行ない、あらゆる災害をもたらす力を持っていました。ダニエル書927節にある最後の七年間の前半部分での出来事です。反キリストがその半ばで現れて、彼らは殺されますが、三日半後に生き返り、天に引き上げられます。この二人が、ゼカリヤ書の「全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。(4節)」という解説があります。

 したがってヨシュアとゼルバベルは、メシヤ性を帯びた尊い働きを神から任されていました。前者が主の前の義を表す者、後者が油注がれた働き、聖霊に満たされた働きを行なう者です。私たちが、どんなに小さいと思われる働き、目に留められない働きだと思っても、主の目は異なることを覚えてください。そうです、「ヤハウェは覚えておられる(=ゼカリヤ)」のです!


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