科学はキリスト教を否定する?

 数多くの人が、宗教は科学が発達した現代社会においては非合理的で信じることはできない、と言います。あるいは、科学的知識が聖書の記述、特に奇跡や世界の創造を信じるのを困難にするという思いです。

 このことについては数多くの専門的サイトや書籍があり、最後に代表的なものをご紹介したいと思いますが、ここではもっと一般の人で、日本人が抱くであろう疑問にお答えしたいと思います。


自然科学はキリスト教と共に発展した

 私が求道を始めた時に、科学と聖書記述に矛盾を抱かず乗り越えられた理由の一つは、近代科学史があります。現代の自然科学の土台は、その支柱はすべてキリスト者によって始まっているという事実です。しかも、自分の信仰と切り離して追及したのではなく、「天地万物を造られた神がおられるのであれば、自然や宇宙には秩序があるはずだ。」という確固とした信仰があったので、それが膨大な研究の動機付けにさえなっていました。

 ガリレイ、ケプラー、コペルニクス、ニュートン、パスカル、そしてキリスト者ではないですが、アインシュタイインも有神論者でした。ニュートンは、自然科学の書籍よりも神学や聖書釈義の書籍のほうを多く書き記している程です。

 そしてもう一つは、現代の科学者の間でも、その専門性が高ければ高いほど、「科学とは検証可能なものであり、絶対真理ではない」というわきまえを持っています。むしろ、信仰というのは科学とは別の次元の、科学を超えたところに存在するので、信仰と矛盾するものではないことを知っています。

 「神」という存在は、科学によっては証明することはできません。けれども、肯定はできませんが、否定することもできないのです。科学は物事の事象がどのように成り立っているのかを説明することはできますが、その事象がなぜできたのか(理由)またどうしてできたのか(目的)を解明することはできません。それをわきまえずに、神など要らないという人生の生き方そのものまで決定付ける時に、その人は科学万能主義あるいは科学信仰に陥っていて、それは、もはや科学ではなくなっているのです。

「困った時の神頼み」ではあまりにも頼りない

 そして三つ目に、日本の人たちの多くは、「神」という人間存在に関わる領域については、それがどんなに非合理的であっても藁にもすがる思いで信じている、ということです。「困った時の神頼み」がそれです。平素は、不思議なことや、驚くべきことが起こっても、徹底的に無神論を貫く人も、自分の生死に関わることになると「神様!」と声を上げるのです。では、その「神様」が本当に存在するのか?ということについては、考えていません。人間の自己存在については、実に不確かなところに立っているのです。

 本当の無神論を貫いている人の最後は悲惨です。有名な仏哲学者のヴォルテールについて、その最期を見届けた看護婦はこう言いました。「ヴォルテール博士は無神論者で、神などいない、魂もない、地獄もないと言っていましたが、いよいよ死が迫ると、彼は死後のことを思いもだえ苦しみだしました。その死にざまは何かにすがりたいと、空をかきむしり、それはひどいものでした。それ以来、私は無神論者だけは看護するまいと心に決めたのです。」

 そして本当に無神論を貫いている国家も悲惨です。旧ソ連、カンボジアのポルポト、今の北朝鮮、そして中国など、その非人間性と残虐性、人権意識の決定的な欠如、環境意識が皆無であることなど、おぞましいものがあります。それは人間も動物も、単なる物質の塊にしか過ぎない唯物論によるのであり、目に見えない価値観、神の領域を排除すると人は暗闇へと突入するのです。

 けれども普通の日本人は、そこまで無神論を貫いているわけではありません。けれども「いわしの頭も信心から」では、あまりにも自分の人生を委ねるのに物足りないのではないでしょうか?

 実は、哲学の隆盛を極めたギリシヤ社会でも、そこの人々は日本人と同じでした。ギリシヤ人は物事の成り立ちを求めて徹底的に論理を詰めていきましたが、それとは裏腹に道端にはあちこちにギリシヤ神話に基づく偶像がありました。そこで福音宣教者であるパウロは、アテネのアレオパゴスにてこう話しました。

そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒の働き17:22-27

 天と地、そして人を造られた神がおられるのだ、ということです。そして、神はそのことを証明するために、イエスを死者の中からよみがえらせた、と言いました。

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(同30-31節)

 天地万物を造られた神が存在することを、ご自分の独り子イエスをよみがえらせたことにより、確かに「わたしは生きている」と宣言されているのです。そして、その証拠を突きつけているかぎり、誰一人裁きを免れることはできません。今、「私の人生は自分で生きてきた。私は自分を信じるのであり、神などいない。」としてきた態度を悔い改めて、確かにこの方が生きていることを認める時に、その裁きから救われるのです。

進化論については?

 では、生物が神の創造によってではなく、偶然の突然変異によって進化したと説明する進化論はどうするのですか?という質問をされる人がいるかもしれません。けれども、生物の起源について、本当に実証ができているのでしょうか?実は、進化論の第一線で働いている人々は、「・・・と考えられている」と言っているだけで、実証しえない理論であることをよく知っています。けれども、高校の教科書やテレビ番組においては、それを分かりやすくするために断定的に伝えており、聞く者にとっては、もうそれが実証された学問であるかのように考えます。

 もともと「生物の起源」または「宇宙の誕生」というのは、実証され得ないということで仮説にはなりえても科学理論にはなりません。完全に説明を与えるためには、哲学あるいは神学の解釈が必要になるのです。

 先ほどの科学史の話に戻りますが、進化論の生みの親であったダーウィンは「種の起源」で、「自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じる」と主張しました。ところがこの考えは、聖書の天地創造の記述をかなり意識して立てた理論であることは、次の箇所を読むと分かります。

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。(創世記1:12

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。(創世記1:21

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。(創世記1:24

 馬から生まれるものは馬、りんごの種から出来るのはりんごの実と、ごくごく当たり前の自然の法則を聖書記述は神がそうしてくださったと言っているのですが、そうではない説明ができると理屈付けしたのが、ダーウィンの元々の発想だったのです。(注:交配によって品種改良をする時の変異は、あくまでも一つの種の中で行われており、上の聖書記述はそれを否定しているのではありません。)

 ダーウィンも、キリスト者の家庭で生まれ、生涯に渡って聖書に対する信仰を持ちつつも、途中で離れたという経歴の持ち主なのです。(参照)決して、純粋な自然観察の結果、浮かんできた発想ではありません。

 私たち東洋人には「輪廻転生」という思想があります。ある種から別の種に移り変わることは当たり前だと思っていました。「畜生」という罵り語も、元々は、「こんな悪いことをしていると生まれ変わった時、家畜になる。」という意味合いで使われていたものです。言わば、進化論は「キリスト教に対抗して、東洋思想を一部導入して生命の説明を試みた」という哲学であるとも言えます。

 つまり「どのようにして、この世界が成り立っているのか」という問いは、ひいては「自分がどうして生きているのか」という自己存在に関わる問いになり、それは宗教をもってしか解答できない、ということです。そして、科学はキリスト教の信仰を補完することはありえても、対立することはありません。ぜひ、真理の探求を続けてください。


参考資料

「科学者とキリスト教」 渡辺正雄
近代科学がキリスト教と共に発展したことを詳述しています。

「科学者は神を信じられるか」 ジョン・ポーキング
理論物理学者であり、英国国教会の司祭になった著者による、科学とキリスト教信仰の相補関係の説明です。

記事 「キリスト教と科学を対立概念とするな」
聖書にある奇跡の記述について説明しています。

クリエーション・リサーチ
聖書記述に基づいて自然界の成り立ちを説明している「創造論」のサイトです。

「創造か、進化か?」
進化論と聖書の創造の違いを短くまとめた、わかりやすい文章です。

「「大発見」の思考法」 文藝春秋
iPS細胞の発見者、山中伸弥氏と、ノーベル物理学賞受賞者、益川敏英氏の対談です。一部を引用します。(186-188頁)

益川 そういう話(注:アメリカでは約半分が進化論を信じていない)を聞くと日本人は、「進化論」を信じないなんて怖いな、と思うかもしれませんが、実は、「進化論」を信じるのも、ある意味では怖いことなんですよね。
田中 はい。なぜなら、「進化論」はまだ誰にも証明されていないからです。なぜか日本人は、人間はみんな猿から進化したと信じていますが、証明はされていない。
益川 ちなみに最近は、「進化論」と言うと怒られちゃう。今やれっきとした学問なのだから、「進化論」ではなく「進化学」と呼ぶべきだ、と。
 それはさておき、「ヒトは猿から進化したのか、それとも神が作ったのか」と訊かれれば、日本人はなんとなく「猿から進化した」というほうを信じますが、それは何の根拠もないわけです。
山中 そのうち、ダーウィンの「進化論」は間違いだった、ということになるかもしれません。
益川 ダーウィンの「進化論」では、個体に生じるランダムな突然変異によって生物は進化した、とされていますが、京都学派の文化人類学者、今西錦司先生は、「種は進化に対して主体性を持っている」という説を展開しました。つまり、生物は「変わろう」と思った時に変わった、主体的に変わったのだというのです。まだダーウィンの「進化論」は実証されていませんから、まだどちらが勝つのかわからない。
・・・
益川 自然界には、「進化論」のようにまだ証明されていない理論や、解明されていない謎が多い。「科学万能の世の中」などと言われますが、我々人類は、もっと謙虚にそれらの謎に向き合わなければいけないと思いますね。
(ちなみに本書において、益川氏は自らを「積極的無宗教」とし、山中氏も特定の宗教を持っていません。)

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