福音の政治化

これまでも、当ブログでこの話題についていろいろ書いたことがありますが、再び、あるところで書いた文章をこちらにも掲載したいと思います。(一部、元の文章から編集します。)

<政治的保守主義とキリスト教>

政治的保守主義とキリスト教(カナイノゾム研究室)

日本の教会において、政治的に「保守」という立場を取る人が少ない。そして、保守というと、すぐに軍部が支配する全体主義に後戻りすると思う傾向があります。さらに、真実なキリスト者ではないという発言まで聞きます。これは明らかに暴言です。世界中に政治的に保守主義を取っていながら、立派なキリスト者は無数にいます。

厳密に聖書を見つめるならばシェア元記事にあるように、聖書における政治思想はむしろ「保守的」です。いや、私の意見では、もっとはっきりと言うならば「体制的」であると思います。使徒ペテロが、「人の立てた制度に従いなさい。」と言いました。

なぜなら、例えば、共産主義国において、反共の思想(右)は「反体制」になりますが、キリスト者はその政権を神が立てたものとみなし、反体制運動を起こしません。思想的にはむろん、信仰上、共産主義を受け入れませんが、それと政治的行動を起こすこととはまた別です。

キリスト者は、自分の置かれている国の指導者を敬い、その人のために祈り、執り成します。それが人々から偶像視されている王であってもです。しかし自らは拝まない。神をむしろ畏れます。しかし、神を畏れるがゆえに、王を敬います。 続きを読む 福音の政治化

カルバリー20代キャンプ「社会に仕える」

カルバリーチャペル20代キャンプを、19‐20日で終えました。主を愛する若い兄弟姉妹に囲まれて、とても充実した時を持ちました。キャンプでは、メッセージの他にディスカッション、Y兄弟の証し、ゲームなどもありました。

テーマは、「社会に仕える」でありますが、以前、ブログ記事にした内容に沿ったものです。

「働くことの意味」ロイド・ジョンズ著

①「主に従うように」ペテロ第一2章11‐25節(音声 ・ 原稿

②「勇気をもって」ダニエル書1章(音声 ・ 原稿

③「神をあがめる王」ダニエル2‐4章(音声 ・ 原稿

自己同一性の否定

以前から「リベラルの価値観が暴走し、人々の自由を奪い取っている」ということを話させていただいていますが、日本では実感が薄いかもしれません、けれども、人々の心を蝕んでいることは確かです。

Video: Can this 5’9″ white guy be a 6’5″ Chinese woman?(ビデオ:180㌢の白人男性が198㌢の中国人女性になれるのか?)

本場の欧米では、価値観の混乱によって、信じられないことが起こっています。この記事は、社会実験として、白人の男性が、大学のキャンパスで質問していくものです。動画もありますので、ご覧になるとよいでしょう。

私たち日本人は、「同性愛が自然のものではないでしょう?」という感覚が以前はあったのですが、今は、マスコミの情報によって、また政府や行政も平等という名の下で、その権利を拡充する方向に進んでいっているので、あまり違和感を抱かなくなってきていることでしょう。 続きを読む 自己同一性の否定

「国家主義」について問う

昨日、「舟の右側」2017年3月号をキリスト教書店で購入しました。ここの表紙に大きく紹介されている三つの記事に興味を持ったからです。一つは、「ミッション・スクールの使命に生きる」ということで、元KGK主事の安藤理恵子玉川聖学院学院長の証しです。私が大学生の時、KGKに関わっていた時に、安藤主事もおられたので、その記事を読み、懐かしく思い出しました。

そして、二つの特別寄稿があります。これが大きな目当てでした。一つは、「『沈黙』をヨシュア記の視点から読む」(牧師 高橋秀典氏)であり、フェイスブックで当映画についての批評や感想を、たくさん互いに分かち合い、有意義でした。すでに、ブログにてこの記事の元となっている説教の要約を紹介させていただいています。⇒「『恐れ』を恐れよ

もう一つの寄稿について議論したいと思います。「国家と国家主義 「教会と国家」を聖書から見る(1)」(牧師 水草修治氏)です。最近、フェイスブックのページにてご本人と意見交換をさせていただきました。次の論考に似た内容になっております。

聖書から見た「教会と国家」PDF

自分の「国の見方」の変遷

上の論考、また雑誌の記事を読み、自分が聖書から読む国家観と似ていると思いました。特に、かつて自分が「聖書預言の旅」を書いた時に、天皇制の問題にも言及したように、以前は同じような国家観を持っていました。説教の中でも、折に触れて、国家主義に対する危機意識に言及していました。 続きを読む 「国家主義」について問う

東アジア青年キリスト者大会2017年報告

香港における、ThreeTogetherFacebook公開ページ非公開ページ)の2月21‐23日の大会から無事に戻ってきました。これまで以上に、豊かに祝福された集会でした。とても深い兄弟姉妹間の交わり、若者たちの三国をまたがる証し、韓国キリスト教の始まりが日中発祥であること、また香港市内にある他宗教の施設(私たちのグループは、イスラムのモスク)にいった宣教師疑似体験が、とても貴重でした。

そしてこの大会の醍醐味、三か国語での同時礼拝賛美、互いの国のための祈りがあります。

とりあえず、プログラムに沿って、音声やPPTをアップさせていただきます。(リンクされている部分をクリックしてください。) 続きを読む 東アジア青年キリスト者大会2017年報告

ラオデキヤの教会から学ぶこと

東十条バイブルスタディ:黙示録3章14‐22節(音声 ・ 原稿

ついに終わった、黙示録の七つの教会!一つずつの教会に対するイエス様への言葉を、みっちり当時の歴史や遺跡を眺めながら見てきたので、ものすごく時間がかかりました。もちろん、線路は続くよ、どこまでも~で、次回は4章、「その後に起こること」を見ていきます。

所感:「神の賜物だけを求め、神ご自身を退ける時代

ラオデキヤの教会についての学び、深かった。現代社会に空気のように蔓延している最大の危機を取り扱っています。それは、「神とイエス様がなくても、神とイエス様と同じように自分たちで間に合っている」ということ。しかも、それが教会にある。つまり、「イエス様を必要としない、”間に合っています”教会」という究極の相矛盾した状態です。 続きを読む ラオデキヤの教会から学ぶこと

聖書預言ニュース、おすすめサイト

いや驚きました、しっかりした聖書預言ニュースのサイトを二つ見つけました。

聖書の終末預言「時のしるし」

終わりの日(誰も真面目に調べない終末論、聖書預言の考察)

聖書の読み解き方が、自分ととてもよく似ています。終末論も同じ所に立っていると思われます。最近は、フェイスブックなどで情報を集め、そこでアップしているのですが、ここまでしっかり追っていないので、とても助かります。

終末の預言は、私たちをキリスト者として整えます。目を覚まして祈り、用意すること。主の事柄に忙しくしていること。清めること。試練の時の希望となること。そして機会をとらえて、福音を熱心に伝えること。なんてったって、愛してやまないイエス様が来られるのですから!

そして聖書預言のアップデートとしては、以前からご紹介している二つのサイトも、こちらに再度ご紹介します。

DIVINE US

伝道者「高原剛一郎」氏の講演、東住吉キリスト集会 HCA

考古学が明らかにする聖書の真実

次の記事をフェイスブックで紹介したところ、日本語訳がほしいとのリクエストがありましたので、要約だけ書きますね。

「史実に存在していないと聖書を批評する歴史家が黙る、三つの発見」
(Three Things Historians Said Didn’t Exist – Until They Did)

歴史家や考古学者は、聖書外の文献資料がないという理由で、聖書に書かれてある人物や国、民族の存在を否定するのですが、実際に考古学の発掘でその存在が証明されている、という例を列挙しています。

ダニエル書5章のベルシャツァル

歴史家は、バビロニア帝国のナボニドスが最後の王であり、殺されたのではなく、囚人として連れて行かれたのであり、聖書のみがベルシャツァルを書き記している、としていた。

しかし、1854年「ナボニドゥスの円筒形碑文」を発見した。下の文章が書かれている。

「私ナボニドゥス、バビロンの王について、その神性に対する罪から我を救い給いますように。私に永きにわたる人生を贈り物として授け給いますように。そしてベルシャザル、私の一番上の息子については、あなたの偉大な神性への畏敬の念を彼の心に注ぎ給いますように。そして彼が宗教的な過ちを犯しませんように。彼が豊かな人生で満たされますように。」

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「働くことの意味」ロイド・ジョンズ著

働くことの意味―エペソ6・5-9講解

今日一日、D.M.ロイドジョンズ著によるこの本を一気に読みました。来月、カルバリーチャペルの若者に、20代対象のキャンプに招かれていて、テーマが「社会に仕える」になっているからです。ダニエル書にある、ダニエルがバビロン政府の役人として主に仕えたところから話そうと思っているのですが、しっかりとした聖書観を持っている説教者ロイド・ジョンズから、基本的な、健全な労働の知識を得たいと思いました。

結論から話しますと、労働というのはとても分かり易く、簡単に考えると、「主に仕える」に尽きるということです。それが奴隷のような位置にいても、主人のような地位にいても、全く差別なく、主を畏れかしこみ、キリストに対して従うように従う、ということ。教会における自分の立ち位置と、社会における霊的な立ち位置は全く同じだということです。

思えば、去年の20代キャンプは結婚について話したのですが、同じことを話したような気がします。キリストと教会の関係がそのまま夫婦関係に当てはまるのだから、難しく考える必要はないし、複雑にして思い煩いを増やしてはいけない、ということだったと思います。

第一章の「神のもの」においては、奴隷に対してパウロが勧めを成しているけれども、その「奴隷制度」そのもののを変えようとしていないこと、むしろ、その社会制度の中にいながら、主と自分との関係を考えていくこと、であります。 続きを読む 「働くことの意味」ロイド・ジョンズ著

宗教改革五百年:福音宣教のパラダイムシフト

以下のページは、ゴードン・コンウェル神学校の中にある研究所が発表した、「プロテスタントの五百年」というものです。クリックしますと、PDFファイルで図表として、1517年以後のプロテスタント教会の世界的趨勢の変化を見ることができます。

昨日まで、私は小説・映画の「沈黙」に集中して、そこにある「泥沼論」に対する反論をしていました。とても嫌なことわざで、「日本は宣教師の墓場」があります。カトリックによる宣教以後、四百年が経っているのに、キリスト者の人口は新旧教合わせて1パーセントしかいない、というものがあります。日本は、だからキリスト教が根付かない泥沼なのだ、というのが、ロドリゴを棄教せしめるために使われた、背教宣教師フェレイラが語った言葉です。彼の言葉は、今の状況を見るとそのように見えるのかもしれません。

アフリカとアジアがキリスト教の中心地 続きを読む 宗教改革五百年:福音宣教のパラダイムシフト