礼拝賛美奉仕者は誰か?

礼拝賛美の心構えのようなことを書きます。

私が、ある、牧者や宣教者たちの集まる聖会に参加しました。そこで、大声を挙げ、両手を挙げて主を賛美する人々の声で満ちあふれました。それはある教会で行われたのですが、次の日曜日の礼拝で、全く同じ礼拝賛美チームが導いていました。けれども、後で会衆の何人かから、その賛美チームによる賛美がいかに心から主に向かって歌えなくなったかなど、不満を私に話しました。私はそこで、一言尋ねました。「この前の聖会で全く同じ賛美チームで、似たような賛美の歌で導いたんですけれども、みんな大声で歌っていましたよ。」

実際にそうだったのです。私も同じように声を挙げて神さまを賛美しようとしていたのですが、礼拝では私の声が大きくて周りの人々がちゃんと歌っていない感じなのが伝わってきました。その賛美チームの導き方よりも「礼拝者」の姿勢が違うからだということを、その聖会と日曜礼拝における違いで見ました。

「音楽」+「人々」=「コンサート」という方程式

何が問題なのか?私がこれまで疑問に思っていたことを書かせていただきますが、それは「礼拝」を他の「音楽」と混同しているため、と言えます。人々が集まり、楽器や歌で音楽が奏でられている所では、そこが「音楽コンサート」となるという考えが、ほとんど条件反射的に、私たちの中に埋め込まれているためであると考えます。

コンサートにおいては、演奏者また歌手が、その音楽と歌を「聴かせる」ということが主体であり、来ている人々は「聴衆」となっています。聴かせるものであり、聴きに行き、また舞台に上がっている人々の身振り、手ぶりのパフォーマンス、その音響や視覚効果を楽しむためのものになっています。特に現代音楽においては、舞台にいる人々の演技を見に行くことが目的になっているからです。

しかし、教会においては全く異なります。教会における礼拝賛美は、天における会衆賛美を地上で前味のようにして実践する場であります。 続きを読む 礼拝賛美奉仕者は誰か?

イスラエル人、アラブ人、パレスチナ人に向かう主の情熱

ずっとご紹介しようと思っていた映画があります。以前、「第三神殿」というビデオを紹介しましたが、同じ韓国人の金ジョンチョル監督が、筋金入りの証し集のドキュメンタリーを作成しています。

①「回復」:イスラエルのユダヤ人たちが、イエスを信じるが、同時に不信者のユダヤ人からの迫害を受けている、福音に敵対する聖地、しかし霊的に回復しつつある聖地の報告。

こちらで全編を視聴することができます。) 続きを読む イスラエル人、アラブ人、パレスチナ人に向かう主の情熱

神学を神学できる人(ディスペンセーション主義の例から)

これまで、本ブログではこの神学について二つの記事を書きました。

ディスペンセーション主義について

ディスペンセーション主義の落とし穴

けれども、次にお勧めする、精度の高いブログがあります。(一番下の記事から上に順番に読まれるとよいでしょう。)

「balienのブログ」(ディスペンセーション主義のカテゴリー)

この記事を書いた兄弟と一度だけお会いしたことがありますが、神学者でもなければ、牧師でもありません。しかし、彼には賜物があります。いや、牧師や神学者でさえ見失っている大切なものを彼は持っています。それは何かといいますと、「神学を学ぶ態度と姿勢が正しい」ということです。他の記事に書かれてあることをご紹介します。

会場の雰囲気──学ぶ側の姿勢続きを読む 神学を神学できる人(ディスペンセーション主義の例から)

距離を置きたいような神学論議

私は、これまで、警戒しているというか、適当に距離を置いて見ている神学議論があります。その一例が、こちらの神学者のブログ記事です。こんな文言があります。「オープン神論では、全能の神は世界に対するご自分の支配を自発的に制限し、被造物が自由意志をもって自分の行動を選択できるようにされたと考えます。」(引用元)つまり、「神は支配者」という真理に制限をかけているのです。私は正直、このような発言に怒りさえ抱くことがあります。聖書が明言している真理について、人間の論理や感情でそれをばっさりと否定していくように見える文言が多いからです。

しかし、先日、ある牧師さんとよい交わりができました。結局、私たち日本人キリスト者(特に牧師のような教職者)は、「欧米の神学、欧米のキリスト教ばかりに目を向けている」というもっと前提になっている問題があるとのご指摘。プロテスタントの宗教改革以降存在している落とし穴があります。例えば、この記事において、

1.神は全能である。
2.神は善である。
3.世界には悪が存在する。

ということについて、問いかけをしています。しかし、その大前提に「一貫した合理性、前提から結論までつなげる論理をほしがっている」飢え渇きがあるのです。それで、従来の、全ての事象に対して神を第一原因に結びつけていくカルビン的な世界観なのか、それともそれをオープンにするべきかという二者択一の議論をしているのです。 続きを読む 距離を置きたいような神学論議

カルバリーチャペル日本五月カンファレンス2016

例年5月に行われる、カルバリーチャペル日本カンファレンスが5月3‐4日に行われ、とても祝福されました。テーマは、「神が愛されたから」であります。

そしてなんと、主催しているカルバリー国分寺の人々が、カンファレンスのサイトを立ち上げてくださいました。

http://www.ccjconference.org/
Calvary Chapel Japan Conference

今回の分も、また過去のカンファレンスのメッセージも聞くことができます。

※私は、今年は「イスラエルを愛する」という題名で分科会を担当しました。

原稿 ・ 音声

関連記事:「日本カルバリーチャペル・カンファレンス」「日本カルバリーチャペル・カンファレンス2014年」「2015カルバリーチャペル日本カンファレンス

聖書学びサイト「いのちのみことば」

このブログのリンク先には、伝道や聖書の学びにとって良質と思われるサイトをリンクしていますが、今日、新たにリンクを加えました。

「いのちのみことば」

thru-the-bible-with-j-vernon-mcgeeとてもシンプルに作られていますが、内容はとてつもないものです。THRU THE BIBLE(聖書通読)という、聖書全巻の講解の内容を日本語に訳して提供しており、その説教者はJ.バーノン・マギー牧師であり、彼の単純な聖書講解説教のスタイルは、カルバリーチャペルのチャック・スミスに大きな影響を与えています。今でも、いろいろなキリスト教放送局が流し続け、カルバリーチャペルのラジオ局KWVEでも流しています。

全てを調べていませんが、このサイトから創世記から黙示録までの聖書講解を日本語で、全て聴き、また読むことができるようになっています。サイトを開けば「今日の番組」が前面に出てきますが、「聖句によって検索」のところで、聖書の書物と章を選ぶことができます。そこから、自分の読みたい箇所を探せばいいです。

ロゴス・ミニストリーを使って聖書の学びをしておられる方は、さらに大きな恵みにあずかることができるでしょう。

イスラエルから流れる神の愛

クリスチャン・シオニズムに対する誤解」、そして前々投稿「「平和活動」対「キリストの平和」」と前投稿「「パレスチナ人クリスチャン」の異論と希望の証し」の続きです。

「検問所会議」のまとめ

検問所におけるキリスト」会議について、これまでの内容とかなり重なりますが、まとめみたいと思います。

先週は、かなり悶々とした時間を過ごしました。とても苦しくなり、なぜそうなのかはっきりしたことが分からずに悩んでいましたが、ようやく分かりました。それは、とても単純な真理です。「神はこよなくイスラエルを愛され、その愛をキリストにあって異邦人にも押し流してくださった。」という流れを否定されたからです。神が一方的に、ご自分の憐れみによってイスラエルを選ばれたからこそ、キリストにあって私も一方的に神の憐れみを受けて、愛され、選ばれているのだという、このつながりがあるわけで、イスラエルへの神の選びを否定したら、自分たちにも愛がなくなってしまう、ということです。

私が、個人主義的な信仰から世界に向かう御国の幻を広げたきっかけは、イスラエルへの祈りがあり、それから世界宣教がつながっていることがあります。聖霊はエルサレムにいる弟子たちに注がれ、シオンに王が来られたという良い知らせから、地の果てにまで神の救いが及ぶという宣教の情熱は、イザヤ書によって預言されていました。その幻は、主に聖書通読から得られたものですが、ジョエル・ローゼンバーグという、聖書預言に基づく小説を書いている人の講演や著書の影響は大きいです。彼は”Epicenter(震央)”という神の幻を頂いており、神はイスラエルを中心にして世界を動かされているが、その周囲の国々にその祝福は広がっているという重荷があります。それでJoshua Fundという団体を設立しました。それはイスラエルのならず、パレスチナ人、周囲のアラブ人に及ぶ広範囲な、霊的、物質的支援を行なっているところです。 続きを読む イスラエルから流れる神の愛

「パレスチナ人クリスチャン」の異論と希望の証し

前投稿「「平和活動」対「キリストの平和」」の続きです。

「不条理」の中で「平和と希望」を保つ兄弟

実際に西岸に住んでいる、生のパレスチナ人の兄弟がいます。その人は、6年前にガザから西岸に移り住みました。ガザでは、クリスチャンということで圧迫を受けていました。そして、イスラエルを憎む教育を受けていましたが、今は思いを改めています。けれども、西岸は大きな刑務所のようであり、移動の自由が分離壁や、検問所によって制限されています。エルサレムに行く一日許可を得て、学校に行くための許可証を得ようとしていますが、面談について音沙汰がなし。さらに、最新の投稿ではイスラエル軍から、「あなたはガザから来たので西岸においては違法だから、自治政府からの許可を得なさい。」と言われたそうです。もう複雑で滅茶苦茶ですね。ちなみに、この兄弟のためにイスラエルにいる、ユダヤ人信者やクリスチャンが祈ってあげています。 続きを読む 「パレスチナ人クリスチャン」の異論と希望の証し

「平和活動」対「キリストの平和」

この頃、「平和」についての話題の記事が多くなっていますが、このことは、キリスト者に関わるいろいろな平和や和解の働きに関わっているので、強く考えさせられています。次の言葉の紹介から始めましょう。

多くの人が平和活動に対して強く躊躇する理由の一つは、平和活動家自身が求めている平和を、その人たちの中に見出せないことにあるのです。しばしば目に映るものは、恐れと怒りを抱く人が、自分たちの抵抗の緊急性を他人に説得しようとする姿だけです。悲劇なのは平和活動家がもたらそうとしている平和よりも、戦いを挑んでいる悪魔の姿しか見えないことです」(「平和への道」(ヘンリ・ナウエン著)92ページ

次のビデオは、パレスチナの町ベイト・ジャラという所で、分離フェンスに反対している、クリスチャンのグループが撮ったものです。

Non-Violent Resistance met with Lethal Force in Beit Jala from Stephen Sizer on Vimeo.

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「親パレスチナ」の人に言いたい事

「パレスチナがイスラエルに”占領”されている」「ユダヤ人国家としてパレスチナ人を”隔離”し、”民族浄化”を目論んでいる。」「パレスチナ人は”分離壁”によって、移動の自由も奪われ、経済的にも”搾取”されている。」「イスラエル軍と入植者の”暴力”に苦しめられている。」

このような話を聞いて、「反イスラエル」「反シオニズム」という「反感」、酷くなると「敵愾心」になりこそすれ、パレスチナを愛し、親しむという思いは出てくるのでしょうか?「親パレスチナ」ならば、イスラエルを抜きにしても、なおのこと親しみと愛着を感じる、パレスチナの良さ、その誇るべきことを伝えるべきなのではないでしょうか?そして、そのような誇りを伝えることが、「平和」へ手助けになるのではないかと、という疑問を抱いています。

私自身の”親”パレスチナ旅行記をここにご紹介します。

ヘブロン旅行記

ラマラ・ナブルス旅行記

ベツレヘム旅行記

エリコ旅行記

ここでの経験から私は二つ、自分の”親”パレスチナの立場を紹介します。 続きを読む 「親パレスチナ」の人に言いたい事