「マタイによる福音書」の学びへの招待

私たちの教会は、日曜の二回の礼拝の他に、土曜日に弟子訓練としての学びと、教会のための祈り会を持っています。新しい信者のための学びとして「第一ヨハネ」の学びを行ないました。永遠の命をすでに受け取っているのだという救いの確信のために必要な学びでした。それから「ローマ人への学び」です。これはもちろん、「信仰によってのみ救われる」という福音の核心を伝える書物です。この学びを通して、一人の姉妹に、確かに救いが自分のものになったという強い確信が与えられました。

それから「使徒の働き」の学びを始めました。信じて間もない人が何人もいる中で、初めに触れる教会がロゴス・クリスチャン・フェローシップなのですが、教会の模範を見てほしいと思って、使徒の働きの中にある初代教会の様子を紹介しようと思いました。

そしてついに、「マタイによる福音書」を今週土曜日から学びます。二つの目的があります。一つは、信仰の対象であるイエス・キリストご自身を知ることです。地上におられた時の主の生涯を福音書は克明に記しています。

もう一つは、律法と預言書、すなわち旧約聖書の実現としてのイエス・キリストを知ることです。私たちの礼拝における聖書の学びは、創世記から現在、申命記まで来ました。これら律法の実現がまさにメシヤ自身であられます。そして使徒の働きの終盤は、パウロがエルサレムから始まり、異邦人ではなくユダヤ人に対して語っており、そこで「私は、イスラエルの望みのために鎖につながっています。」という証言を繰り返しています。イスラエルに反対する言葉ではなく、むしろイスラエルを完成する言葉を携えている、という主張です。ですから旧約聖書を学ぶ者にとって、福音書、特にマタイによる福音書は、イエスこそがその律法と預言の成就であることをまざまざと見ることができます。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」

あるキリスト教弁証論者が、「聖書にある四つの大事な書物」として、創世記、黙示録、そしてダニエル書とマタイ伝を挙げました。創世記と黙示録はそれぞれ人間の歴史の始まりと終わりを示し、ダニエル書はイスラエルが一時的に神のご計画の中心から退かれた「異邦人の時代」を鳥瞰的に示しています。そしてマタイ伝は、旧約時代から新約時代に移る繋ぎになっています。

マタイによる福音書は、聖書預言における神の計画を知るのにも必ず必要な書物です。神は、アダムが罪を犯した時以来、ご自分の支配、すなわち御国を回復する情熱を持っておられます。そのためアブラハムを選ばれ、そしてダビデを王として油を注がれる(=任命する)ことによって、ダビデの子からメシヤを出し、そのメシヤによる御国を立てることを決められました。その到来の宣言がマタイによる福音書であり、さらにイスラエルがそれを拒み、御国が遠のいたことを示し、けれどもメシヤの支配が続くことを、復活によって証明されたことを示しています。

詳しいことは、日本語では「これからの世界情勢と聖書の預言」(高木慶太・芦田拓也著 いのちのことば社)が良い文献です。(本書の改定新版の唯一の不満は、第一章で、イスラエルの建国と中東戦争の概略が記されていますが、第一版で高木慶太氏が書き記されたのと異なり、アラブ側の誤った主張を取り入れていることです。けれども、大きな流れとしてはしっかりと書かれています。)そして拙書「聖書預言の旅」(リバイバル出版社)をご参照ください。

英語の文献としては、John Walvoordの”Matthew Thy Kingdom Come(マタイ 御国を来たらせ給え)”が良いでしょう。オンラインでも読めます。

ぜひ、新しい学びにいらしてください!

基本的な日時と場所
毎週土曜日午後2時から 足立区こども家庭支援センター 別館
※たまに行なわない時、別の場所になるときがあるので、いらっしゃる前に教会のカレンダーでお確かめください。

恵比寿バイブルタディのお知らせ(4月4日)

ついに4月に入りましたね。外に出ると、つぼみを付けている桜の木を見てその命を思い感動を受けました。

今週の学びのお知らせです。

日時:4月4日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第一18章以降
(次回の予定は、4月18日になります)

ダビデの生涯に入っています、ゴリヤテとの戦いは、まさに神の国と人間の国の衝突です。私たちは主の御名という武器を持っており、対する人間は物理的な力を持っています。次回は、ダビデにつくヨナタンから始まり、ダビデに脅威を抱くサウルの話です。

明日(4月1日)のLCF礼拝

明日の礼拝のお知らせです。

足立区勤労福祉会館」第五洋室

11:00 午前礼拝 申命記20章19-20節 「実を結べない木」
13:30 午後礼拝 申命記20-21章 (聖餐式があります)

そして、特別に比嘉ヨシュアさんという兄弟が証しをしてくださいます。彼は沖縄生まれ、沖縄育ちで、祖父母が琉球語を母語にしておられるということで、ご自身も聞いて理解することができます。現在、カルバリーチャペル聖書学校(沖縄宜野湾)のインターンをしておられて、短期的に東京の聖書学校での奉仕のためにいらしています。どうか、異文化の中にいきるキリストにある兄弟に主がどのように働かれたか、お楽しみにしてください。

行動しながら学ぼう! その2

(「その1」からの続き)

このロゴス・ミニストリーを始めたのは1997年のこと。聖書の学びから教会礼拝ができることを願って行なったのですが、初めに集いに来られたのは私たち夫婦を除いて二名でした。そして新しい人々が来たり出て行ったりし、ついに2010年末に聖書全巻を教え終わりましたが、初めにいらっしゃった二名のうち一名だけでした。ネットで数多くの人が聴いてらっしゃることは承知しておりますが、実際に定期的に来ていた人は一名だけだったのです。

私はスクール・オブ・ミニストリーで、牧者チャック・スミスご本人も含めて、数多くの牧者・聖書教師から学び、そしてカルバリーチャペル・コスタメサの中で奉仕もしました。だから97年に帰国して開拓しようと思ったときは、習った原則通りに行なえば必ずその原則が作用すると思っていました。けれども全然・・・だったのです。

デービッド・グジックさんが言われるように、「学校は人を奉仕者にすることはできない」のです。

私は実際に、その学校に行く前に教会で奉仕をしていました。説教の奉仕をしていました。そしてカルバリーチャペルで大切な原則を学んでそれを生かしたいと思っていました。けれども、そのようにはいきませんでした。原則を働かせるのは自分ではなく、へりくだり、忠実に主に仕えている中で、主が行なってくださることだからです。

私が何気なく立ち上げたホームページで、そして一応録音しておくか、と思って始めた音声ファイルを掲載していったのですが、それが数多くの人に聴いて、読んでいただき、これを使った学びの集まりがいくつもできて、そして今は聖書学校でも使われるようになりました。それから、2005年から2010年まで第三国で宣教活動をし、改めて教会開拓の志をもって帰ってきたのですが、集まってきたのはこのサイトを聞いている人が多く、そうでなくても初めから聖書の学びに意欲のある人々です。

やはり、学校が私を奉仕者に認めるのではなく、神がそうしてくださるのです。「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者です・・・(1テサロニケ2:4)」

たしかに知識としては教室の中で溜めることはできるのですが、実際に体を動かして始めてみなければ、その知識は機能しないことを知りました。そして機能して次の新しい理解が与えられ、それで次の一歩を踏み出すことができる、という経験の連続でした。ですから、スポルジョンが「二年間の実質的な説教の経験」という意味がよく分かります。行動に既に移している人のうちにこそ、その原則が働きえるのです。

ロゴス・ミニストリーは、初めは聖書の教えと子供への伝道で始まり、次に海外宣教、そして教会開拓へと発展しましたが、大きな飛躍は海外宣教でした。宣教については話にたくさん聞いていましたが、やはり外国に行って生活して奉仕の働きをすると、これまで見えなかったものがはっきりと見えてきました。御霊の働きというのは、神の恵みの業であること。私がその働きにほんの少しでも貢献することができないこと。そして人々の間に住むことの大切さを知り、改めて聖書を読むと、主イエス様ご自身が宣教師の先駆者であられたことを悟りました。言語はもちろんのこと、その人たちといっしょに生きることを知りました。物が無いところに御霊が働かれることも知りました。

そして教会開拓などできるのかと思い悩み、ずっと祈り、ヤコブが天使と格闘するような祈りをささげていましたが、思い切って日本に戻ってみました。すると、以前は「牧者ほど苦しみの多く、試練やストレスの多い働きはない、惨めなものだ」という否定的な思いがあったのですが、意外に楽しいものであることが分かってきました。なぜなら、この働きも上から与えられる賜物によるものだ、ということが分かったからです。「自分自身からふりしぼって羊を愛し、養わなければいけないのか、イエス様のようにはなれない!」と恐れていたのですが、自然に、これまで知らなかった感情が沸いてきました。「いつも思って、祈って、そして御言葉で養う」という愛情が、なぜか生まれるのです!ちょうど赤ちゃんがお母さんのお腹で確認できたときの親の情のようなものでしょうか、愛そのものが、自分ではなく御霊が与えられた賜物であることを知りました。

そして私が、このサイトを利用されて聖書を学んでおられる方、またその他、学んでおられる方にお願いしたいことがあります。

巷にはいろいろ学ぶ機会があります。学ぶことはすばらしいことです。聞いて、ノートにメモを書き、それで理解しようという努力することはすばらしいことです。けれども、実際の奉仕の務めをする方向に進んでください。例えば、教会学校で子供たちに教える。伝道しようとしている人と一対一の聖書の学びをしてみる。夫婦や家族で礼拝の時間を持ってみる。路傍で伝道トラクトを配ってみる。ホームレスへの奉仕の働きに参加してみる。・・・別に教えるだけが奉仕ではありません。会計をしている人もいるでしょう、礼拝賛美の奉仕もあるでしょう。人をもてなし、自分の家を開放することも立派な奉仕です。

これらをただお試しのように行なってみるのではなく、しっかりと行なってください。自分の気分でやめたり、また始めたりするのではなく、最後まで行なってください。神は忠実な者を認めてくださいます。忠実に仕えていくからこそ、初めて見えてくる神の世界があります。

このように実行に移さないと、いつも学ぶだけで、それ以上の霊的成長は望めません。祈ることを学ぶよりも、実際に祈ることが祈りについて知ることができます。伝道について学ぶよりも、実際に伝道することが伝道とは何かを知る最短の方法です。知恵は行動と共に働き、知恵は知性の理解ではなく体得そのものだからです。

聖会も徳を高めるでしょう。私も楽しみにしている集会があり、それは毎年恒例のカリフォルニアである宣教会議です。そこで数多くの霊的な益を得てきました。けれども、そこで聞いた、神から与えられたチャレンジに対して応答することが大事です。応答して、現場で具体的に実行に移して、初めて神の意図されている目的を果たすことができます。

奉仕をしていくうちに、不足を感じると思います。その不足感こそが、次の教育を受ける下備えになるのです!その時に教会の牧師に相談してみてください。指導を仰いでください。祈りを要請してください。奉仕の働きのために人を整えるのが、まさに牧者が立てられた存在目的なのです。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、・・・(エペソ4:11-12)」

そして、聖書学校や神学校がある人には必要かもしれません。つまり、これらの機関は終わりに来るのであり、その反対ではないのです。私は奉仕の働きの始まりに学校に行ったのですが、結局、神はそこで学んだことを、働きをしている今になって思い起こさせてくださり、学習させてくださっています。

行いながら学んでいく」・・・これを忘れないでください!

行動しながら学ぼう! その1

カルバリーチャペルのサイトが最近、大きな更新をしています。いろいろな牧者のブログと映像につながるようになっています。

www.calvarychapel.com
昨日新たに掲載されたもので、非常にうなずき、面白いとおもった記事が次です。

“Doing Something” by David Guzik(「何かをしている」デービッド・グジック)

意訳をしてみました。
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最近、スポルジョンの有名な「牧会入門」をまた読み始めましたが、その「はじめに」のところに以前見ていなかったものに気づきました。本書は、スポルジョンの有名な牧者大学の男性たちに行なったメッセージの集成ですが、この大学は数百人の、イエス様を愛し、神の働きのために聖書を説き明かす人たちを生み出してきました。その始めの言葉に、牧者大学に受け入れられる生徒がどのような人かを、スポルジョンが自分の考えを話している言葉が次です。

「この機関は、説教者を作り上げるための人は受け入れません。少なくとも二年間、いくらか説教において成功している兄弟たちに、さらなる教育の助けになるために設立されています。」

つまり、牧者大学は、(ある程度の成功をもって)説教を少なくとも二年間行っていなければ受け入れなかったのです。「説教者に作り上げる」ことはできないことをその大学は知っていました。ただ、その働きに召され、その働きに傾いており、そして既に行なっている人しか助けられないことを知っていました。

聖書大学や牧者訓練校における、新たな方針としてこのことを推奨しているわけではないのですが、スポルジョンが何を言わんとしているのかは理解できます。多くの人が、神に仕えるという本当の意味が曖昧になったっまあで、神の働きのための何らかの勉強を追及しようとしている、ということです。

ここに私が思っている教訓があります。もし、神に用いられたいと願うのであれば、何かを行なって忙しくなりなさい、ということです。牧者あるいは教師になりたければ、定期的に教えることに忙しくなってください。子供や青年を教えてください。あなたの若さ、気まぐれや未熟さに寛容になってくれる小さな集まりを見つけてください、そして教え始めるのです。そうした集まりを見つけられないなら、作り出してみてください。作り出せないのなら、自分で聖書の学びの準備をして、家のペットや植物に教えてください。

そうすることによって、自分の心と思いに大切な概念を建て上げることができます。それは、何よりも、あなたが教えることや宣べ伝えることは、神のためであり、神が聞かれるものであることです。そして、あなたの奉仕において神を敬うためである、ということです。牧者また教師であればどのような人も、教え伝えることはそれを受け取る聴衆がいるから重要だ、と思いがちです。聞いている人が多ければ、また影響のある人々であれば、それだけ良い、準備されたメッセージが必要であると思ってしまいます。けれども、私たちが行うことは、神が常に聴く者であることを忘れてはいけません。パウロがコロサイ3章23節で言ったことを思い出してください。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)」これは生活全般(「何をするにも」とあるように)に当てはまることですが、特に、神が下さった機会であればどんな教えることも、宣べ伝えることにも当てはまります。

私はヨーロッパで、六ヶ月近く、毎週日曜日、空の部屋で説教をした牧師を知っています。彼は忠実に準備し、教えました。神がこのような不自然なことを行うように呼ばれていると信じながら。この経験によって、彼はより優れた牧者、指導者、そして教師となり、毎週来る人々に仕えています。

神は教育の機会や機関をすばらしく用いられますが、既に何か行なっている人の生活においてそれが最善の形で機能するのではないかと思います。
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いかがでしょうか?家のペットにでも、植物にでも教えなさい、というのは「ええ、ちょっと!(笑)」と思いましたが、実際に、空の部屋で六ヶ月も説教を続けたというその牧師さんはすごいです。私がスクール・オブ・ミニストリーでしばしば聞いたのは、「聴衆が五人でも千人でも変わりなく、忠実に教えていきなさい。」というものでしたが、全然いないというのは正直、私も経験したことがありません。(さすがにペットや植物には説教したことはないですが、ICレコーダーだけを前にして行ったことはあります!でも、やはり人が聴くのだから、というのが前提でした。)

けれども、言わんとしていることは分かります。私も教会礼拝での説教はもちろんのこと、司式、公の祈りや、特に聖餐式の時には、そこにいる人々に対してしているというよりも、主の前で、主を代表して行なっているのだという意識になっているからです。

次に私自身のこと、それから他の皆さんに分かち合いたいことをお話したいと思います。

(「その2」に続く)

LCF活動内容(3月24,25日)

明日と明後日のLCF活動場所のお知らせです!

3月24日(土)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て支援室1」
  14:00 聖書の学び会(使徒の働き27章)
  16:00 祈り会

3月25日(日)場所:足立区こども家庭支援センター 別館三階 「子育て支援室2」
  11:00 午前礼拝 申命記18章14-22節 「私のようなひとりの預言者」
  13:30 午後礼拝 申命記12-15章

<お知らせ>
午後礼拝の開始時間を午後1時半に変更しました。

「反対」の中にある福音宣教(2) - 過激なキリスト教への招き

(「「反対」の中にある福音宣教(1) - 金日成とキリスト教」の続き)

なぜここまで説明したのかと言いますと、これは福音宣教に深く関わることだからです。主は不思議にも、悪魔をご自分の栄光のために用いられました。神に反逆する悪魔とその手下どもが行なうことを、そのままご自分の計画の中に取り込まれます。最大の御業はもちろん十字架です。神の子を殺す、という最大の犯罪を、全人類の贖いという究極の、永遠の御心とされたのです。

キリスト者に強硬に反対し、迫害した使徒パウロは、「とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ。」とイエス様から言われました(使徒26:14)。「とげのついた棒」とは牛のくびきにつける突き棒であり、若い牛がくびきをいやがって足蹴りをすると、突き棒で痛くなるようにしているものです。サウロは、ステパノの証言を聞いていました。それが突き棒になっていました。そして彼はついに、復活のイエスに出会って突くのを止め、降伏したのです。

数年前のカルバリーチャペル宣教会議にて、Jay Smithと言う人が来ました。私は彼の宣教方法とその生き様に感動しました。ロンドンの広場で、イスラム教の過激派と論戦をすることによって福音を伝えています。彼はこういいます。「イスラム過激派に福音を伝えるには、同じように過激なキリスト教で応じるべき。(”The only way to deal with this radical form of Islam,” he asserts, “is with an equally radical form of Christianity.”)」彼は宣教会議でこう話しました、「私は過激派の彼らが大好きです。私たちの聖書を持ってきて、たくさん下線を引き、ポストイットを貼り、矛盾だと感じていることを論じてくるのです。私が彼らのその熱意に敬意を表します。」

彼はキリスト教の神学校でイスラム教を専攻し、イスラム教の教義については精通していました。けれども「文化」を知らなかった、と言います。イスラムの国やムスリムの共同体にいて、長年かけてこのことを学びました。そして過激派ムスリムをキリストに導くには、気に触るようなことを避けるのではなく、むしろ反対に、自分が信じていることに強い確信をもって語らなければ伝わらない、と確信するに至りました。(以上、記事Unapologetic Apologistから)

私たちはこれが必要なのです。第一に、「伝道対象相手を知ること」です。そのためには言語はもちろんのこと、その文化や生活習慣、社会体制、その他諸々のものを体得し、体感しなければなりません。イエス様は神の身分であられたにも関わらず、肉体を取られて、人々の間に住まわれました(ヨハネ1:14)。この方こそが宣教の先駆者であり模範であられます。そして第二に、御言葉に精通していることです。そして本当にそれを信じていることです。ある無神論者がこう言いました。

俺は今までずっと、伝道しない人なんて尊敬しないと言ってきた。全然尊敬できないね。もしあんたが、天国や地獄があると信じているなら、また、地獄に行ったり、永遠のいのちを持てなくなったりすることがあると、本当に信じているなら、いかなる場合でも伝道するはずだろう。伝道すると社会ではやりにくくなるとか、相手は「俺に構わないで、信仰は自分だけのものにしてくれよ」なんて言う無神論者だとかいった理由で、伝道しないのなら、それはおかしい。永遠のいのちがあることを知っていながら、それを伝えないのは、その人を憎んでいるのと同じことだ。どれくらいの憎しみを持てば、伝えないでおれるのかな。例えば、トラックが前方から走って来て君をひきそうになる。俺なら、君がひかれる前にタックルして、君を助けるよ。伝道するかどうかは、トラックにひかれそうになっている人を助けるかどうかよりも、もっと重大なことだろう。
Penn Jillette gets a gift of a Bible(Youtube)
ブログ記事「福音って「いいね!」 福音を「シェアする」」から)

福音伝道は、伝道プログラムを学習するような単なる技法ではなく、体と体がぶつかり合うような熱意なのです。

(後記:エジプト人のコプト神父ザカリア・ボトロス氏も同じような、イスラム教徒への直球宣教を行なっています。日本語による報告記事はこちらから。)

私たちはみな宣教者

では、今の私たちはどうすればよいのか?「ジーザス・フリーク(イエス気違い)」になってください。キリストの愛でいっぱいに満たされ、この方をいつもほめたたえ、この方に霊をもって熱心に仕えてください。

次に、御言葉をしっかり学んでください。御言葉を教えるのは牧師がすることという丸投げはいけないのです。キリストの弟子になり、牧者が教えていることを今度は自分自身が教えることができるようにする、ということを目標としてください。時には神学校や聖書学校が必要になることもあるかもしれませんが、それよりも、自分が御言葉を十分に教えられる奉仕者とならなければいけないのだ、ということを大前提に持っていてください。

そして次に、伝道対象である人々の中に住んでください。「自分」というものを捨てて、虚心になりその人たちの生き方や考え方を知って、自分自身もそれを身に付けてください。そうすれば、心からその人たちのことを愛せるようになります。他の人にはさげすむようなこと、嫌悪するようなことも、自分自身は愛着心を持つことができます。あるジャングル奥地の宣教師はこう言いました。「私たちは最高に幸せです。子供たちも最高の教育を受けています。昆虫が好きなのですが、ここは生きた博物館だからです。」

パウロはギリシヤ人にはギリシヤ人のようになり、ユダヤ人にはユダヤ人のようになりましたが、その根底にあるのは「全ての人の奴隷になる」ということでした(1コリント9:19-23)。それは迎合ではなく、自分を低めることです。自分を低めるときに、周りの人は始めて自分のうちにキリストを見る事ができるようになります。

「反対」の中にある福音宣教(1) - 金日成とキリスト教

ある人のツイッター記事に、「北朝鮮の金日成の母親はクリスチャンで、祖父は牧師だったとWikipediaに書かれているが、これって本当なのか」という記事がありました。

確かに、今の北朝鮮体制を見ればとうてい、その創始者の母がクリスチャン、そしてキリスト教家系であったことを想像するのは難しいでしょう。けれども、韓国の人々や朝鮮半島のキリスト教をある程度知っている人には、良く知られている歴史です。その母「康盤石(カン・パンソク)」のウィキペディア記事の一部を紹介したいと思います。

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生涯
朝鮮平安南道大同郡でキリスト教長老会牧師の康敦煜の二女として誕生し、使徒「ペテロ(岩)」の名に因み、女性の名としては珍しい「盤石」という名がつけられた。本人もキリスト教徒であったという。1908年、17歳の時に金亨稷と結婚し、1912年に成柱(後の金日成)を生んだ。1919年に夫が祖国光復会事件に巻き込まれると、1920年に、金日成を連れて南満洲(中国東北部)に移住した。金亨稷の死後は息子の金日成を女手一つで育てたが、1932年に40歳で死去した。

家族
父:康敦煜(カン・ドンウク、강돈욱)(1871年2月3日 – 1943年11月14日)プロテスタント長老派の牧師
母:(ウィ・ドンシン、위돈신)
兄:康晋錫(カン・ジンソク、강진석)(1890年1月19日 – 1942年11月12日)長老派の牧師、白山武士団を組織
兄:康用錫(カン・ヨンソク、강용석)
弟:(カン・リョンソク、강룡석)
再従叔:康良煜(カン・リャンウク、강량욱)(1904年12月7日 – 1983年1月9日)長老派の牧師、北朝鮮臨時人民委員会委員長(日本の中央大学を卒業)
良煜の妻:(ソン・ソクジョン、송석정)平安南道肅川郡の出身
良煜の二男:康永燮(カン・ヨンソプ)朝鮮基督教連盟の中央委員長、共和国最高人民会議の常任委員会委員

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こちらの記事にも同じことが書かれています。
キリスト教を弾圧した金日成も手術前に祈り - 父母は敬虔なクリスチャンだったが徹底した宗教弾圧

名前はの「パンソク」は、「我が岩なる主」というような言い回しの「岩」として朝鮮語聖書では数多く出て来ますので、韓国人であれば名前だけ聞いて「この人クリスチャンだよね」と容易に想像できます。彼女は、単なるちょっと教会に通っていたクリスチャンではなく、極めて熱心な信者であったと言われています。

かつて私は、「今一番、世界が見ないもの その1」の記事の中で、マスコミが描き出す国々の姿が一面的であることを書きました。日本の北朝鮮報道は反体制のものが多く、興味深いことに拉致事件を契機に日本国民に反北朝鮮意識が浸透したように思われます。私自身は、北朝鮮国内で起こっている惨状はもっともっと報道すべきだと思っており、「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」の記事に書きましたように、日本の対北朝鮮経済制裁は全面的に支持しています。

けれども同時に、その一面だけ伝えているのでは偏っています。北朝鮮現政権打倒を強硬に推し進める脱北者でさえ、それは政治や人権意識から来る主張であり、決して郷土愛を失っているわけではなく、むしろ戻りたいと願っており(「映画「クロッシング」日本公開」参照)、日本の反北朝鮮報道にも驚いている程で、ある脱北者は「そんなに酷くないよ」と言いました。朝鮮中央放送ばかりが日本のお茶の間に流れていますから、「マンセー」と両手を挙げている人々が北朝鮮人だという印象を抱いていますが、彼らにも和やかな家庭生活があって、文化・社会・スポーツがあり、私たちと同じように時事についても考えているのです。

北朝鮮はOpen Doorsではここ何年も、世界で最も信仰の自由が蹂躙されている世界一の国として登場しますから、キリスト教とは程遠いと感じられるかもしれませんが、いやむしろ近いからこそ蹂躙しているというほうが正確です。

朝鮮半島の福音宣教の本拠地は、かつて平壌にありました。

韓国リバイバルのルーツは1907年の平壌リバイバルにあります。今の北朝鮮の平壌で大リバイバルが起こりました。でも1910年から始まった日本による植民地支配で、神社参拝をさせられるようになり、リバイバルの火は消えていきました。その後、1950年に朝鮮戦争が起きて、北のクリスチャンたちが大勢、南に逃げてきました。そして彼らが韓国全土に教会をつくったのです。朝鮮戦争休戦(1953年)後には、多くの家族が北と南で分断されましたから、神様に叫ぶしかない状態が生まれ、そこから韓国のリバイバルが始まっていったのです。
私は1953年の生まれですから、物心ついたときには既にリバイバルが始まっていました。国のあちこちに祈祷院がつくられ、リバイバル聖会が開かれれば、月曜日夜から土曜日朝まで、一日3回の聖会がずっと続きました。激しい涙の祈りがあり、何人ものリバイバリストが、ものすごい情熱で真っ直ぐに御言葉を語っていました。
(リバイバル新聞記事より引用「韓国と日本が一つになって世界宣教を とりなし手 文惠仁さん」)

このように、霊的復興が朝鮮半島で起こっている中で日本が植民地支配をしたために、日帝に対抗する独立運動がキリスト教にも反響しました(参照ウィキペディア記事「韓国のキリスト教 近代」)。神社参拝の強要というのがその大きな要因となったのです。その独立運動の中で共産主義革命が入り込んで、それで金日成という人物が出てきたのです。

その後、朝鮮は光復(朝鮮では日本の敗戦日をこう呼びます)を迎えました。けれども、日本もそうでしたが既に冷戦は始まっていました。日本の中には共産党が戦時中にすでに入り込んでおり、反共を国是とする日本は彼らを主要な対象として取り締まっていました。日本列島でさえソ連と米国の間で分断されるとも言われていたのですが、朝鮮半島はまさに自由・民主主義陣営と共産主義陣営との間で国内分断が起こっていたのです。

元々、共産主義はユダヤ人かつキリスト教徒であった両親から生まれたマルクスが創始者です。そのユートピア社会はまさに神の国の幻と酷似しており、けれども進化論思想の影響もあり、「人は善」そして「無神論」に基づく、まさに異端ならず「異型」を作り上げました。マルクス自身、十代の時はキリストを愛しているという文章を残している程で、共通項が数多くあるのです。

そこで朝鮮戦争が勃発しました。朝鮮半島北部にいる信者は一斉に南に逃げました。現在、韓国にある伝統的な大きな教会は北朝鮮をルーツとしています。けれどももちろんそこにいた信者たちも数多くおり、現在、そこには地下教会があると言われています。

これが北朝鮮の金日成体制とキリスト教のつながりです。ある人は、金日成が「父なる神」、金正日が「子なるキリスト」そして主体思想が「聖霊」という、キリスト教の三位一体を投影していると言っていました。頭を挿げ替えれば、そのままキリストの体になるような側面を持っています。

大韓航空機爆破犯の元死刑囚、金賢姫さんはこう言っています。

「『あなたが信奉する共産主義を捨てて信仰をもつのは非常に大変と思いますが、どうして信じる決心ができたのですか』と質問した時、金賢姫さんはこう答えてくれました。『それは簡単です。頭では金日成を捨て、イエス・キリストを受け入れたのです。首から下は同じです』と。その回答は明快でした」(信仰者として出会えて夢のよう--横田早紀江さん 金賢姫さんと会見

ですから、北朝鮮の方々は暖かいです、純粋で素直です。そして共同体意識をとても大切にします。朝鮮学校も「政治」として日本では議論されていますが、それは少し残念なことです。そこには暖かい家族のような雰囲気があると言われています。金正日が死亡したときも、極めて冷静で、平素と何ら変わらない学校風景だったと言われています。そして日本は韓国人のための韓国学校もあるのですが、圧倒的に、歴史的に在日朝鮮人の学校は言語教育と民族教育においてしっかりしています。「在日朝鮮語」という本来の韓国語や朝鮮語と異なるジャンルも確立している程です。ですから総連を政治的に見るだけでは可愛そうです。そこには生身の私たちと同じ感情と思考を持たれている、そしてキリスト者にとってはキリストが死なれた程の、神に愛された人々がいるのです。

韓国にあるカルト教会

先ほど引用したリバイバル新聞記事には、インタビューに答えている韓国の信者の方がこう韓国キリスト教会の課題を述べています。

苦難の歴史の中で、神様の前に叫ぶ祈りは与えられたのですが、それが個人的な懇願にとどまってしまったように思います。これは、キリスト教以前に韓国に存在したシャーマニズム的宗教の影響があり、祈る対象が変わっただけだとの見方もできます。神様の御心に従って生きるというよりも、現世利益を求め、人生がうまくいくために神様を求める信仰です。そして、熱心さがそのままその人の信仰の評価になってしまうという傾向があって、神様に切実に熱望すれば祝福が臨むという、自分の努力で神様の祝福を獲得できるという考えが広まりました。聖書は、神の主権が最も大切だと言っていますよね。

韓国には統一協会が一番有名ですが、異端やカルトがものすごく沢山あります。今、プロテスタント教会が減退している中で、異端やカルトへの大移動が起こっているとも言われています。その根底にあるのが、上にあるような懸念です。そのような素地を半島にはあるので、金日成体制は純粋なスターリン式社会主義ではなく、独特な宗教性が多分に含まれています。そして朝鮮王朝から続く独裁体制も色濃く残っているでしょう。

(「「反対」の中にある福音宣教(2) - 過激なキリスト教への招き」に続く)

「当事者」になろう! その2

その1からの続き)

「地を支配せよ」と命じられた神

私たち人間はある意味ですべてが政治家です。神のかたちに造られた人は「地を支配せよ」と命じられました。被造物の事象に積極的に、創造的に関わるのが、神が人に与えられた本来の姿です。したがって、自分が当事者であることを忘れることは、その元来の姿からの堕落を表しています。

「なぜ神はこんなことをするのだ・・・」と、あたかも自分自身が神の世界の外にいるかのように神の言葉や行動に疑問を呈するところから一歩出て、まさに自分の生活と人生の真中に神の御手があることを認めるところから真の信仰は始まります。そこには綺麗事はなく泥臭さがあるのです。自分自身が、あのむごい十字架刑の加担者であることを認めること、しかも実生活、日常生活の中で認めることが、キリスト者になる道です。自分について全責任を取る、つまり、泥だらけになるわけです。

最近、著名なクリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシー氏が来日して、3・11の一年目に合わせて来日しました。彼の講演の中身は、私は心から同意・同感しますが、今、お話していることに関連する言葉は、次のものです。

「祈りというものは、私の意思で何がしたいかということを神様にお願いするというよりも、神様の御心の中に私をどのように置くことができるかということを知ることのために行うものです。『神様、今日あなたは何をなさるのでしょうか?その働きの中に、私を加えて下さい』という祈りをすることが必要です」
http://www.christiantoday.co.jp/article/4282.html

ヤンシー氏は、「痛んだ時に神様はどこにいるのか?」という問いは、「痛んだ時に教会はどこにあるのか?」という問いに置き換えられるとし、「教会の支援活動を通して東北の人々は神を見ていた」と指摘。「宮城県を訪問し、教会が本当に傷んだ人々のため仕えているのを見た。世界中から支援のため訪れたボランティアの姿も見た。教会が与えられた仕事をしている時、周囲の人々は『神様はどこにいるのか?』と尋ねてこない。彼らの姿を通して、神を見ているからです。」
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=356

神の御心の中の当事者になろう

震災後、一週間も経たぬ時に、「なぜ神はこのように人々を多く殺されたのか?」という質問をある人から受け取りました。私は、「神は主権の中でこのことを許されただけでなく、その苦しみの只中にいて共に悲しみ、泣いておられる。」と答えました。すると、「なぜ主権の中でそれを許されたのか?もし許すのでなければ、悲しまないですむではないか?」という質問でした。その次の回答は、上のフィリップ・ヤンシーの講演全体に書かれていると思いますが、私はこう答えました。

「(返答が)手短になってしまい、すみません。なぜかというと、時間がありません。今も、実家が仙台なのでどのように救援物資を運べばよいか悩みつつ、外回りをしていました。仙台に行けるよう、主が戸を開いてくださることを祈りつつ、前に進んでいます。」

疑問を呈することができるのは、言い換えれば、災害を受けていない自分に、時間と余裕があることに他なりません。キリスト者の信仰は、前記事に書かれていた進歩派ジャーナリストのように権力者(ここでは神ご自身)を批判する安全圏にいることはできないのです。むしろ、「この災害において、あなたの御心とお働きの中に私を加えてください。」という祈りになるのです。

そして、「痛んだ時に神はどこにいるのか?」と問うのではなく、「痛んだ時に教会はどこにいるのか?」を問うべきなのです。そして教会がその痛みと共にいるときに、実際に傷んでいる人は「神はどこにいるのか?」と問わないのです。すでに、教会を通して神を見ているからです。

ケネディー大統領の就任演説の有名な文句は次でした。

「私の同胞アメリカの方々、あなたの国があなたに何をしてくれるかを問わないでください、あなたの国のためにあなたに何ができるかを問うてください。世界の市民の方々、アメリカがあなた方のために何をしてくれるのかを問うのでなく、私たちが共に人間の自由のために何ができるかを問うてください。」(And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.)

これは政治的なことだけでなく、霊的にも同じことが言えるのではないでしょうか?

「当事者」になろう! その1

次の記事に目が留まりました。

進歩派ジャーナリストの罪 – 「当事者」の時代

私は上の書物を読んだことがないのですが、書評にまとめられている主張はまったく同感でした。

妻は、マンションの役員会が予算が足りないということをずっと話しているので、自転車が過剰飽和状態になり、駐輪のマナーも悪くなっている駐輪場の年間使用費を引き上げればよいということを提案していますが、他の役員に反対されています。それで彼女がこう言いました。「これじゃ、日本に債務が溜まっていると嘆きながら、消費税率の引き上げに反対しているのと同じことじゃないですか。」

今の日本の政治を見ていて、いや、日本全体の雰囲気が「綺麗事に留まろうとしている」ということを感じます。例えて言うならば、津波によって泥だらけになっている家屋が目の前にあります。自分が手袋をはめて、着ている服を汚して率先して掃除をしなければいけないのに、いつまでも傍観者であり続け、行政が悪い、政治家が悪いといい続けている、と言ったらよいでしょうか?他者を非難することによって自分自身が責任回避をしているわけです。

そして、自分を無菌状態であろうとします。津波で多くの人が死んだことについて、「神はなぜそんなことを許すのか?」と言って、これまでも難病や交通事故などで不幸にして死んでいった人々が大勢いたのに、あたかも人がこれまですべて幸せに長寿で生きてきたかのように話し、以前も中国などの核実験で放射能汚染はあり、その他の化学物質で(タバコも含め)空気も食べ物も汚染されていたのに、「ゼロリスク」などという空想めいたことを話します。もうすでに自分たちの土地や自分自身も汚くなっているのに、他の汚れを見ると「汚された!」と言って騒ぐのです。

「政治」というのは、汚い仕事を率先して引き受ける一面があります。例えば、あるスパイを逮捕し、彼が戦争勃発危機の鍵となる情報を持っているのであれば、被疑者の拷問を禁じる法律があっても、超法規的措置を、法律遵守のぎりぎりの解釈の中で実行に移す、という面があります。このような汚い役をあえて演じて、「いいか、お前たちには責任は取られないからな。俺が後でなんとかするから。」という暗黙のメッセージを送って責任をあえて自ら負っていくのが政治家です。ところが、この頃の政治家は、国民の前で綺麗で優等生であろうとすることを第一とし、マスコミがそのことを追及し、そして国民の多くがそれに追従しているのです。

その2に続く)

(3月21日後記)昨日、瓦礫広域処理問題で、私が過去の阪神大震災における兵庫県の事例を紹介したところ、ある人が私を激しく罵りました。そして、その人は“クリスチャン”であります。読者の方のほとんどがおそらくは冷静であるかと思いますが、原発事故後の、誇張された情報に基づく放射能恐怖は今も継続中で、市民団体、ネット、マスコミによって拡散しています。(広域処理については公式情報と広報を既に環境省がサイトに掲載しています。http://kouikishori.env.go.jp/

そして、ある姉妹が昨日、分かち合ってくださった御言葉を紹介します。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇91:1-3)」

この御言葉を実践しておられるキリスト者の証しが、次で読めます。郡山に留まる牧師夫人と、チェルノブイリ事故以降もその地域に留まり続けたクリスチャンの話です。災害/福島・郡山市の牧師夫人 チェルノブイリ訪問し「郡山に留まる決意」強めおそらく福島の方々は今、他のどんな人よりも、ウクライナの人々から最も大きな慰めを受けられるのではないかと思います(2コリント1:4)。福島の地に主の栄光が輝きますように!