なぜ神が見えないか

私は、Twitterというものがまだよく分かりません。一言一言の序列があるだけに見えてしまうのですが、最近、NHKニュース等をフォローしています。けれども、クリスチャンの間では結構いろいろ知られている人が、カルバリーチャペル西東京の牧師、山東さんです。この前の月曜日に東松島に日帰り旅行をしたのですが、車中で隣の座席になり、ツイッターの威力みたいなものを教わりました。

それで、いろいろ努力をしてはいるのですが、彼のツイートをフォローしている時、昨日でしょうか変な突っ込みがありました。

山東さんの発言

放射能問題も、原発問題も、根本的にはお金と自己保全に群がる罪の問題。 ・・・東北の本当の救援もこの罪からの救い。まったくむつかしくないよ。罪から救うために人として来たイエスを知れば。宗教に救いはない。イエスとの出会いが鍵!

上に対する返信

神を信じれば死んでも死なない永遠の命を与えられるので、放射能なんて気にする必要なくなって万々歳……と言えるでしょうか? まったく異なる次元のことを同一地平で語ると、なんだかそれ自体が馬鹿馬鹿しく思えてしまいます。

私は、「何を勘違いしているんだろうか?」と思いました。案の定、山東さんも「全然違う」と言っていろいろ説明しましたが、ますますぼろくそに言ってきました。

私たちにとっての東北救援旅行には、「次の一歩への強い祈り」があります。それは、現地の人々がまことの救い、天地万物を造られた神に、キリストを通して立ち返ることです。原発の問題の背後にある人間の罪の問題、そして全人類の、東北の被災者も含めて存在している罪の問題は、全く同じ罪の問題であり、イエス様を知ると言うことでは至極簡単なことだ、という話です。

「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ローマ3:19)」

その相手は聖書についてのツイッターを持っています。そして自己紹介には「ノンクリ」と書いています。実に聖書のことについて詳しく知っているのですが、私たちの日本語の文章の全体を読まず、その一部一部をちぎりながら、ことごとく歪曲して批評するのです。こんなに聖書の知識があるのに、たった一文字の聖書の言葉も理解できないなんて、・・・可哀そうになってきます。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)」

山東さんが、おそらくこのことを振り返りながら、ツイッターに長い文章を書き込まれました。

なぜ神が見えないか

なぜ、ある人たちがいくら聖書の福音を聞いてもわからないか一つの原因はここにあります。それは『日本教』にです。日本で生まれた私達は知らず知らずの内に『日本教』が刷り込まれて、神はいないんですよ。でもいる事にしましょう。それによって心や生活が変わるならおるわけで、って、それはいないんですよ。

だから本当に聖書のことを知りたければ、まず聖書の言う通り『天と地を造った神が実際におる』という所からスタートすることが不可欠です。
でも、神が今直面してる経済問題、放射能汚染、大学受験に何かしてくれんですか? 
ま、こころの持ちようというのも大きいでしょうがって・・・。

 違うんです。
聖書のいう神は実際の私達の生活にもろ関わり、介入してくれるのを知らない、体験したことのない人の話で聖書を聞くから、目が閉ざされてるんですよ。

ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には
報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ですね。

いない者をいることにしてなら、まるでサンタクロースといっしょでしょ?

単なるプラシーボ効果ですよ。

聖書の神は実際にいる、ここからスタートしないと見えません。
聖書の神はあなたを愛し、あなたの今日の生活に介入してくださる
これを信じて、単なる気のもちようを遥かに超えた、神を体験してない人が色々なわけのわからない神学で、聖書を語るのですよ。

それも責めません。だって彼らは知らないのですから。
では、知った私達は、洗脳された思い込みの人々ですか?

思い込みでローマ帝国がひっくり返ったり、
思い込みで1948年に1900年間地上から消えていたイスラエルが
復活しますか。

思い込みで、クリスチャンが存在しますか。
(もちろん、多くの宗教レベルの “クリスチャン”の存在も認めますが、
実際に聖霊が下って内に住むという 新生クリスチャンが存在します。)

聖書の神は実際にいる、ここからスタートです。
この神はあなたのことを心より愛しています。
ここからスタートです。

実に愛のある文章ですね。その人はクリスチャンの仲間をかき乱す、狼になりえる人ですが同時に求道者です。忍耐が試されます!

別に東京にいてもらわなくて結構です

以前「感謝の力」という題名でいくつか記事を書きました。

そして、政府や行政についても感謝することについての記事を書いています。

神によって立てられた権威

そして原発事後について感謝の足りない日本の病巣みたいなものを書きました。

「想定外」は私たち皆

それで今日、この私の意見と同じくするようなブログ記事を読みましたので、ご紹介します。

別に東京にいてもらわなくて結構です

東京都江東区にお住まいのかたがたの中に、

「原発事故前の状態に戻してこそ安心する」

と「訴え」るひとがいるということに、驚愕しました。

・・・

銀座や日本橋に近い、利便性の高い江東区を含め、狭い狭い、東京とよばれる小さな平野に、集まりひしめく3000万人の人々。彼らが出すごみ、汚水を、想像を絶する量とスピードで処理するお役所・・・ゴミ処理場に、下水処理場。下水を、信じられないほどきれいな水にして、汚泥を分離して、それも埋立るだけではなくリサイクルする。

我々3000万人の、首都圏住民たちが垂れ流す汚物を、来る日も来る日も。

そんな社会の公共施設を、運営していく、そのことが、どういうことか、一片も考えず、たぶん生まれてから一度も感謝などしたこともなく、安全と安心はタダだと思って生きてこられたのでありましょうね。

いえまさか、「広い東京の、全体の下水処理を、最後に処理しているのは海沿いにある江東区。我々だけに危険がおしつけられている」とでも、おっしゃるのでしょうか?

その言葉、福島第一原発を受け入れてくれていた、福島県の人々に、同じことを言ってみてほしいです。これまで住んでいた家に住めない、避難区域に指定された人々に向かって、都内の、下水汚泥処理建物の中に限られた、そして建物を一歩出れば毎時0・04マイクロシーベルトとなる放射線について、もう一度同じことを言ってごらんなさいと思います。

・・・別に、ムリして、東京に住んでいただかなくてもけっこうです。そうでなくても、東京一極集中で、狭くて混雑しててかなわんのです。

どうぞ、日本の、いえ、世界の、どこへでも、好きなところへお移りください。

月曜日、日帰りで東松島に行ってきました。牛網の避難所は仮設住宅に移った人が多いためがらんとしており、とても寂しい気分になりました。けれども残った数少ない人たちが、「けれども、こうやって一緒に食事作ったりして(共同生活が)楽しいよね。」と笑いながら仰っています。以前はある男性の方が、「これまで日本が嫌いだったが、今回の被害で本当に日本が良い所だと知るようになった。」と言うのです。

このような感謝の心を持つことのできた人々が、これらの良き物が神から来たことを悟る日が来ることを願ってやみません。

ですから、マスコミや外野が、被災者の人たちを可哀そうだと言って政府やその他の関係の人たちを非難していますが、よっぽど現場の人たちは明るく、腐っているのはそうした安全圏にいる私たちの精神なのです。

もちろん被災地の人たちは聖人ではありません。けれどもそれは、多くの人たちが想像するような鬱や自殺ではなく、田舎ならではの縄張り争いだったり、または人間の共同生活につきものの意思伝達における誤解であったりして、必ずしも地震や津波によって引き起こされたものではありません。

最後に、この記事を探したのは、被災している福島県民の方のブログです。当事者として放射能の危険性について決して甘く見ていないけれども、煽りの多い情報を整理して、冷静な見方を提供してくださっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare

恵比寿バイブルスタディ(7月27日)

皆さんへ

ご無沙汰しております、お元気ですか?

私たち夫婦は、先週金曜日の夜に海外から戻ってきました。昨年末まで5年以上いたところです。前に出会った人々、また新しい人々と親しい交わりをすることができ、とてもうれしかったです。とても涼しく過ごしました。日本に帰ってきた時も、台風の後で涼しかったです。

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせを致します。

日時:7月27日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇104篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

お気軽においでください。

8月は、10日と31日を予定しています。

主に感謝。

8月1-3日の救援旅行

長らく、ブログの書き込みをしていませんでした。実は7月11-22日まで海外にいました。神様からたくさんの恵みを受けました。

カルバリーチャペル所沢の牧師トラビスを中心にして、次回の救援旅行の準備を進めています。今回のテーマは「ハワイの祭り」です。

ハワイから二つのカルバリーチャペルのチームが来ます(CCホノルル、CCウィンワード)。そして、所沢、府中、西東京、LCF、また静岡の教会の人々が合同で、上のポスターのイベントを行います。1日の晩に松島入りをします。来週の月曜日に、日帰りで、トラビスとCC府中の牧師リッチと共に下見をしにいく予定です。このイベントのために、ぜひお祈りください。

そして、3日は、6月20-22日の旅行で掃除をした月浜海岸でバプテスマ(浸礼)式をします!私たちの初穂の一人である瀬谷さんが受けられます。また他に浸礼を受けたい人がいれば、もちろん受け付けます。被災地の復興の現地で、イエス・キリストへの信仰の告白を公にするという、斬新な試みです。このためにもぜひお祈りください!

礼拝の後に、瀬谷さんから、「バプテスマ式については、見たこともないしまったく初めてです。」と尋ねられたので、先ほどメールで下のYoutubeビデオのリンクを送りました。私たちがよく目にした、カルバリーチャペル・コスタメサのバプテスマ式です。海岸で讃美を歌い、牧師が短くバプテスマについて説明し、それから水の中に入って、祈り、信仰告白をし、水に浸かります。

I didn’t come to take sides; I came to take over.

上の題名の日本語訳は、「わたしはどちら側に付くために来たのではない。乗っ取るために来たのだ。」です。

この言葉は、「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏によるものです。ユダヤ人共同体の中でもイエスを信じる人が多く起こされ、またパレスチナ人の中でもたくさんイエス様を信じている人が起こされています。神がユダヤ人側に付くか、パレスチナ側に付くかではなく、どちら側に対してもその心を支配するために来られた、ということです。(その発言のビデオがこちらにあります。)

皆さんの中で、こういう経験はないでしょうか?自分にとって親しい人が、これまた自分にとって親しい人のことを批判している・・・。友人であれば、だれかから批判や非難を受けた時、その人を擁護するために立ち上がります。けれども、どちらも親しい人である時にはどうすればよいか迷います。

そして、それぞれの意見には一理あります。けれども、その判断はすべての事実に基づいておらず、一部だけを取り上げて話していることも分かります。意見そのものには同意できても、それが事実に基づかない判断から派生しているのも知っています。

その時に思い出すのが、上のユーセフ氏の言葉です。解決は、意見の擦り合わせや仲介も役立ちますが、それ以上に「主がどちら側も働きかけ、その心を乗っ取られる」ことによるものだと感じます。

ピリピ人への手紙にあるパウロの言葉の多くが、私には深く響いてきます。

1)パウロは感謝し、喜んでいた。

パウロがこの手紙を書いた時は、ローマの獄中にいました。けれども、この手紙には「喜び」が満ちています。彼は「獄中にいる」という否定的な要素を、親衛隊を始めとする周囲の人々が信仰を持つことになったという神の働きとして見ています。

しかも、彼が投獄されたことにより、福音を語り始める兄弟たちが一挙に増えました。中には、「党派心をもって、キリストを宣べ伝えている」という、相手を蹴落とすことによって自分の働きを広げようという、陰険な動きもあったにも関わらず、彼は、「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。(1:18)」と言いました。

彼は、このように喜べる要素を知っていました。それは、「主にあって喜ぶ」ということ(4:4)。そして、「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われていること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(4:8)」と言いました。主がすべての事柄において、たとえそれが否定的な要素であっても、生きて働いておられることを知って、そこから見えてくる真実、誉れ、正しさ、清さ、愛、評判、徳などに目を留める、ということです。

そのことができると、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。(4:5)」となることができます。どちら側に付くという狭い心ではなく、すべての人に心を広くすることができるのです。

2)自分をちりあくただと思う

パウロは感謝し、喜んでいられるもう一つの理由として、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。(3:8)」と言っています。詩篇103篇14節にも、「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」とあります。

私たちがある人に対していらだたしく感じ、怒り、恨む時のきっかけは、「この人は私に対して、これこれ、こんなことをした。」という被害意識です。けれども、そもそも「私」は何者なのでしょうか?塵しか過ぎないと聖書は言っています。これらのことは、主の許しの中で、いや主ご自身が引き起こされた問題であり、「主が支配されているのだ」と分かれば、自己の世界の中で埋没せずに済むのです。自分のことはどうでも良いのです、大事なのは神の国とその義であります。

私たちは、他の人がしていることに対して、必要であれば、御霊の促しにより、戒めたり、責めたりする必要があります。けれども、それを行うときに実際は自分の判断が入り込んでいることが多く、自分自身が裁き主になっている時があります。その人は神の御手の中あり自分が直すのではない、ということを忘れてしまい、相手に介入しようとするのです。

思い出すのがヨブ記です。その物語は、神がサタンにヨブに触れるのを許された、という「神の領域」で起こったことに対して、ヨブの友人が自分の判断や意見を入れることによって介入し、またヨブ自身が友人の裁く言葉に反応することによって、神ご自身の義に立ち入るようなことをしてしまいました。

この時も主は、ヨブの側あるいは友人の側についたのではなく、嵐によって現れて完全に掌握されました。ヨブに神の自然界や動物界における力と知恵を見せつけることによって、彼が「ちりと灰」の中に伏し、悔い改めるように導かれました。そして友人らに対しては、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)」と言われました。まさにGod didn’t take sides; He took it over.だったのです!

3)敬意を払う

パウロは、ピリピにある教会で起こっている、二人の女性奉仕者の間にある意見の対立を意識してこの手紙を書きました(4:2-3)。それで、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(2:2)」と言っています。

そのように一致を持つことのできる方法は、議論や擦り合わせ以上に、むしろその背後にある「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という態度です。そして、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(2:3-4)」と言っています。つまり、相手を尊重する心、敬意を払う心が必要です。

そうすれば、自ずと今まで自分が見えていなかった、相手についての事情が見えるようになり、相手への同情心や寛容な思いが芽生えるのです。

恵比寿バイブルスタディ(7月6日)のお知らせ

皆さんへ

暑い日々が続いていますが、皆さんお元気ですか?

次回の恵比寿バイブルスタディのお知らせです。

日時:7月6日(水)19:00~
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:詩篇101篇以降
※ 食事は学びの前と後で持参ですることもできます。

私は7月11日から22日まで、昨年末まで行っていた所に短期宣教に行きます。妻はすでに行っています。お祈りください。そのため恵比寿の次々回の学びは7月27日の予定です、よろしくお願いします。

夢みたいな、カツオのクール宅急便

私たちは4月第二週に第二回の東北旅行をしたとき、気仙沼にも行きました。

第二回目 気仙沼救援旅行 4月14日

そして、次の新聞記事をご覧ください。

震災後 初ガツオ45トン水揚げ 気仙沼魚市場に活気

東京に住んでいる者には「ああ、良かったね!」という気持ちだけで、遠い気仙沼の出来事であったわけですが、今朝、ヤマト宅急便のクール便の配達の方が、にこにこしながら「かつおですよ!」と言って届けてくださったのです。

驚きました、なんと四匹も氷で冷やされている生カツオではないですか!さっそくお礼の電話をかけたところ、南町の商店街で一番初めに救援物資を渡して、タッグを組んでお祈りもした、商店街のおばあさんでした。おばあさんは、「気仙沼が復旧したら、お返しに送るからね。」と仰っていたのですが、我々皆が「いいですよ、そんなことしなくて。」とお答えしていました。まさか、文字通り約束を果たされるとは・・・(^_^;)

それで、近所の綾瀬東部教会の魯牧師に教会の聖徒たちで食べてくださいと電話したところ、3時に魚を捌くことのできる人が来るとのこと。私も間もなく訪問して、一緒に食べたいと思います。その時に写真を撮って、お礼の手紙を送りたいと思っています。

この小さな交流で、再びキリストの種を蒔くことができますように・・・。

NHKの偏向報道

今月24日で、アナログ放送がなくなることを良い機会に我が家ではテレビそのものを見ないことに決めました。理由は、NHK料金を支払いたくないからです。

NHKの放送内容に反対して料金を支払いたくないのではなく、単純にそんなに番組を見ていないのに高い料金を払いたくない、というのがあります。むしろ、NHKの淡々とした原子力発電に関わる情報や被災地情報は、二次資料としてとても役に立っています。また、一次資料や当事者へのインタビューに果敢に取り組み、NHKスペシャルなどで良質のドキュメントを制作しているのにも関心します。

進化論とパレスチナ

けれども、NHKであまりもの偏向ぶりに開いた口が塞がらない分野がありますが、一つは進化論です。これは完全に事実としてずっと流しているのには驚きです。そしてもう一つは、「パレスチナ問題」です。よくもまあ、こんなイデオロギー色に満ちた、報道ならず主張と宣伝の番組を作れたなあと思います。この分野も進化論と同じく、長いこと作り続けているようです。

クローズアップ現代
瀬戸際の中東和平 パレスチナ独立巡る攻防

一方的なパレスチナ国家独立宣言を国連に承認してもらうパレスチナ自治政府内の動きを報道していますが、ハマスとファタハが統一政府発足は具体的には全然解決策が得られていないこと、国際社会から一方的独立の支持が全然得られていないのに(ヨーロッパ連合など)、あたかも得られているかのような言い方、そしてイスラエルがこの動きを警戒しているのは、イスラエルの存続そのものが極めて軍事的に困難になることであるのに、まるで国内の宗教右派の圧力によって行っているという見せ方。

そして、ネタフヤフ政権になってから西岸の経済が順調になり、また彼が交渉の席に着くことも何度も何度も表明しているのに、歩み寄りが一切なかったという物言いなど、それをあたかも中立的、客観的に聞こえるように淡々と話しているので、「なんじゃこりゃー!」の連続でした。

「中東の民主化」⇒「一方的独立」ではない!

その中で私が悪意を感じたのは、「中東の民主化」と「一方的独立」をくっつけたことです。NHKは、周囲のアラブ諸国が自国政権に対する民衆の蜂起であるのに、パレスチナ自治区のみが民主的政府だと思っているのでしょうか?とんでもないことです、パレスチナ自治区内でも政府に対するデモが起こるのを強い監視の中で抑え込んでいました。対して、ムバラク支持のデモは許していたのです。

国外のパレスチナ難民も、シリアからはお金をたくさんもらってイスラエル国境のところでデモを行なったり、すべて「官製デモ」であります。民主主義の言う「デモの自由」というのは、あくまでも自国政府に対する自由を保証するということで、だからこそ非常に画期的なのであり、パレスチナ自治政府がそれを許した形跡を一切見ることはできません。

イスラエルでは、ハアレツ紙などまるでパレスチナ人ではないかと思われるほどのパレスチナ寄りの主張をしているのに、その表現の自由として完全に保障されているのに対して、パレスチナでは自分がイスラエル当局に協力したという嫌疑がかけられることを非常に恐れていて(一度かけられたら、パレスチナ社会全体から制裁を受けます)、公の場では常にイスラエル打倒を叫ばなければいけない状況であるのを知っているはずなのに、意図的に無視しています。

生活基盤さえない国家が必要か?

もう一つ、人というのは経済的動機が非常に強いです。飯が食えるかどうかが、抽象的独立よりも差し迫ったことであることは言うまでもありません。もしパレスチナが一方的な独立を宣言したらイスラエルから受けている民生面での協定はいったいどうなってしまうのでしょうか?イスラエルが徴収している付加価値税の送金もすべて停止するのです!国家どころか、財政や生活基盤さえ危うくなってしまうのです。

仲間のヨルダンは反対する!

そして、ヨルダンがパレスチナ国家独立に反対する意向であることをNHKは知っているのでしょうか?
http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4088927,00.html

ヨルダンには七割がパレスチナ人と言われており、隣にその人々を代表する独立国家ができることは自国の安定を大きく揺るがしかねない事情があるのです。かつてPLOがヨルダン国内にパレスチナ国家を作ろうとし、ハシミテ王国との間に内乱が起こった経験があるのです。

事はもっともっと複雑なのです。

オバマ大統領が、オサマ・ビン・ラディン殺害に浮かれて、1967年境界線までイスラエルに戻ることを要請したのと同じように、パレスチナ当局も何か浮かれているだけのような気がします。今回のNHK報道でなおさらそう思いました。

仲間の和解

昨日、紹介した「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏ですが、つい最近、似たような背景を持っているワリド・シューバト氏から非難を受けて、大きな痛みを受けています。

SON OF HAMASのブログ
(May 11,2011の”The Walid Shoebat Article”まで下がってから順にお読みください。)

ワリド・シューバト(Walid Shoebat)氏はかつてPLOテロリストでしたが、アメリカに移住後、信仰を持ちました。彼はイエス・キリストの救いに預かっただけでなく、ユダヤ人とイスラエルに対する愛も与えられ、パレスチナ人であるにも関わらず、イスラエルに対する強い支持と主張をしています。

私は彼の著書を読んだことがないのですが、ワリドさんからは欧米という安全圏にいる言っても、危害や迫害などの恐れも顧みず、はっきりと自分の信仰や主張を述べているところに、頼もしさを感じます。そして私はモサブさんからは、何と言っても、政治的主張よりもキリストの命令に従うこと、どんな人でも愛していくというキリスト者としての姿勢を学んでいます。

ワリド・シューベト氏が、モサブ・ハッサン・ユーセフ氏のアラブ・クリスチャンの衛星放送での発言に対して楯突いて、それから起こったやり取りが上のブログ記事に記されています。

実に悲しいことですが、同時に、キリスト者の間でしばしば起こることであり、聖書的な希望がある議論です。

パレスチナ人クリスチャンとは?

私は以前、パレスチナ人クリスチャンの証しをブラザー・アンドリュー著の”Light Force“を読んで知りました。パレスチナ人クリスチャンと言っても、アラブ系キリスト教の中にある歴史的・文化的にそうだと言っている人たちが大勢いるなかで、真にイエス・キリストを信じて、御霊の新生の体験をした福音的なクリスチャンたちがいる話です。ベツレヘムに、その人たちが始めた聖書学校があります。すばらしい証しですが、彼らの多くはパレスチナ人たちの政治的主張は捨てることはありません。イスラエルが先祖の土地に侵略し、今でも抑圧を続けているという立場です。

私はこの政治的主張に違和感を覚えます。ちょうど、日本の文脈に直してみると、原爆反対、イラク戦争反対など言っている左翼系の人がクリスチャンになったと言っても、その政治活動は依然と続けている、というイメージを持ちました。

けれども、福音的なパレスチナ人クリスチャンには希望があります。それは、「敵をも愛す」という強い動機です。彼らにはイスラエル人やユダヤ人に対する敵愾心がありません。政治的主張は変わっていないのですが、パレスチナ人が過激化して、過激派になったり、支持している暗澹とした状況の中で、その雰囲気が立ち込めているパレスチナ社会の中で、キリストの愛に突き動かされているのです。私は、イスラエル・パレスチナ紛争が解決するとしたら、政治的・外交的解決ではなく、真の霊的和解であると思っています。

私が2010年のイスラエル旅行にて、ベツレヘムを訪問した時のパレスチナ人のガイドさんが、先にふれた聖書学校を卒業した人で、彼からも同じスピリットを感じました。イスラエルへの敵愾心がないのです。最後に、「エルサレムの平和のために祈りましょう」と仰っていました。

そして、モサブさんの出演したアラブ人クリスチャンの衛星放送ですが、そこも政治的にならぬよう細心の注意を払っていると同時に、イスラム教の教えに対しては大胆に反駁し、キリストの福音を伝えている伝道師も出演するなど、福音宣教に重点を置いています。

真に聖書的になる

それに対して、ワリドさんの優れているところは、そうしたパレスチナ人クリスチャンが克服することのできていない、民族性や政治性をも聖書的立場から克服していることです。

彼は自らを「パレスチナ人」と呼ぶことさえ嫌っています。「私はユダヤ地方出身のアラブ人だ」と言い直しています。私はこの発言を聞いてほっとします。非常に聖書的だからです。「パレスチナ」という言葉そのものが、近代アラブ民族主義に基づく政治的主張を含んでいるからです。(ちょうど韓国の人が北朝鮮を「北韓」と呼び、北朝鮮の人は「南朝鮮」と呼びますが、名称だけで政治性を帯びています。NHKは政治的中立を保つために「ハングル講座」と名付けいます。)

モサブさんは政治的になりたくないと言っていますが、私たちは政治や周辺社会から完全に抜け出せるものではありません。そして、聖書的に、神学的に純正になりたければ、やはり「神はユダヤ人にあの土地を与え、そこは「イスラエル」と呼ぶ。」という見地に立たないといけないのです。当のイスラエル人がたとえ悪いことをしていたとしても、神は一時的に彼らを退けこそすれ、彼らを見捨てることは決してなさいません。

そして、イスラエルの地も「地中海からヨルダン川まで」、さらに「ユーフラテスからエジプトの川まで」というのが、神が定められた境界線です。ガザ地区や西岸はすっぽりイスラエルの地として神は与えておられます。シナイ半島の一部と、レバノンとシリアの大半も含まれています。これを「大イスラエル主義」と呼ばれ政治右翼にされるのですが、そうではなく、事実聖書に書かれているのです。

問題は、それが実現される方法です。それが人の手によるものなのか、純粋に神がもたらされるものなのか?の違いが出てきます。人の手であっても、その背後に神がおられるという見方もあります。私は、「今のイスラエルは、主イエス・キリストが再臨される前の、エゼキエルが預言された前段階の状態」だと見ています。主が戻られるには、そこにイスラエルの国とエルサレムがなければいけません。主が戻られるには、そこに御霊の新生を受ける前のユダヤ人がいなければいけません。それにまさに現代イスラエルが当てはまるのです。

方法論の差異

私は、今回起こってしまっている悲しいことは、「方法論」の違いに拠るものだと思っています。私は、モサブ氏が極めてパレスチナ寄りに聞こえるような発言に深く同情しています。彼の初めの応答の記事によれば、「パレスチナ人がイスラエル当局に通報すれば、命そのものが危うくなる。」という切迫した状況の中で、「自分はそれを行ったけれども、一般の、しかも新しく信じたばかりのアラブ人クリスチャンの質問者に、そんなことを強いることはできない。」という思いから、「パレスチナ当局に通報すればいいです。」と案じていったこということが言っています。

パレスチナやアラブ圏で宣教をしているその言葉を、西洋という安全圏から「彼がパレスチナの闘争イデオロギーを捨てていない」というワリドさんの発言はあまりにも酷です。大胆になるのは、あくまでもその人の自由意志であり、信仰の量りによるのです。「安全」であるとか、そういったものの要素が多分に含まれているのです。信仰や表現の自由が制限されているところで行っている宣教をそのような形で断じてはいけません。

けれどもワリド氏のように、原則論を話す人も絶対に必要なのです。要はここで起こってしまったのは、「方法論の違い」なのです。

パウロとバルナバの確執

そこで私が思い出したのは、使徒の働き15章36節から始まる、パウロとバルナバの確執です。

幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。(使徒15:36-41)

同じ主の働き人で、しかも同じように異邦人に対する宣教において一致し、同労者であった者通しがこのような激しい反目になってまい、残念なことでした。ここで私は原因と、そこから生まれる善を考えてみたいと思います。

原因は、その直前の出来事です。15章にはエルサレムにおける会議があります。アンティオケの教会にユダヤ主義者が来ました。「モーセの律法にしたがって割礼を受けなければ、救われない。」と言った者たちが来たのです。それで激しい対立が起き、その問題をエルサレムの教会に持っていったのです。そこでは、パウロとバルナバは一緒です。「そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。(2節)」

その緊張が主の憐れみと聖霊の導きによって一気に解決しました。教会に一致があり、かつ主の恵みによる救いという真理が固辞されたからです。それは「福音真理の自由」という闘いでした。そしてその直後に反目が起こりました。その自由が反対もなく享受できる雰囲気になったところで、他の違いが見えてきたのです。マルコを一緒に連れて行くかどうかの方法論が見えてきたのです。

私たちは、「自由」のあるところには「肉の対立」という危険にいつも注意していなければいけません。自由が侵される懼れがあるところでは、対立という肉の働きは自ずと抑制されるのです。自由が与えられる時に、私たちは強い自制が必要になります。

民主主義圏では、表現の自由が許されていますが、それゆえに「言葉」が多くなります。神が働かれる領域に至るまで、言葉で解決しようとします。祈りによる御霊の一致と、神の主権的な働きを待たなければいけないのに、「言葉の表現」という自由が与えられているから、それを武器にして用いようとしてしまうのです。けれども、私たちは「愛」という鎖に縛られているのです。キリスト者の自由は、愛によって仕えるところに用いるのです。また、「言葉」よりも「行動」なのです。

対立から生まれる善

そして「対立から生まれる善」について話したいと思います。それは、パウロはヨーロッパ宣教をすることができ、バルナバは他のところで宣教することができ、福音を聞いた人々は倍増したことです。主がその反目をも用いられて、ご自分の働きを増やされました。

さらにすばらしいことに、パウロは後にマルコを受け入れています。彼は思いを変えたのです。このように「働きが増えた」という善と、さらに対立そのものも和解へと導くという神のすばらしい御業を聖書で読むことができます。

私は、ワリドさんとモサブさんの間でも、そのような御霊の働きが起こることを願ってやみません。そしてこれは私たち働き人の間でも現に起こっている問題であり、と同時に希望でもあります。同じように主を愛しています。同じような働きをしています。けれども、方法論が違います。その時に、私たちがどのように動けばよいのか、祈りと御言葉において奮闘しながら進んでいきたいものです。

(後記1)
英語の分かる方は次の記事をお読みください。互いに相手を偽者として非難してしまった口論ですが、両者の働きを評価し、かつ愛をもって勧めを行っている、ワリド氏の友人の記事です。「イスラム教のマーディ(メシヤ)が聖書の反キリストである」と主張している著者ジョエル・リチャードソンによるものです。

On the Shoebat-Yousef squabble

(後記2)
モサブ氏の友人、ジョエル・ローゼンバーグ氏も、特定の名前は言っていませんが、実にこの問題に当てはまる内容を話しています。ジョエル氏こそ、ヨエル3章2節にある神の御言葉「わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ」の警告を真剣に受け止め、現代の兆候を非常に案じている一人ですが、次の記事では多くの部分を、パレスチナ人クリスチャンの苦しみに敏感になり、愛を持って真理を語ることへの重要性を説いています。

A MESSAGE OF WARNING TO THE NATIONS: DO NOT DIVIDE THE LAND OF ISRAEL — Understanding the Book of Joel, Part 5

「ユダヤ人解読のキーワード」


二週間前、三冊のイスラエル・ユダヤ関係の本を図書館で借りていて、今日、返却日なので二冊は延長、一冊は返却
しようと考えています。それで大筋読み終わったのが、次の本です。

「ユダヤ人解読のキーワード」滝川義人著

<内容>
「解読」という言葉は、謎、不可解というイメージを連想させる。現在、人口千二百万人のユダヤ民族は、四千年の特異な歴史体験を有し偏見にさらされながらも、思想、芸術、科学等の分野で貢献してきた。日本人はその存在を知るようになって日まだ浅く、今なお身近ではないので、ユダヤ観には先入見や妄想の産物ともいえるものが多い。本書では、キーワードを通してユダヤ民族の抱える問題点を紹介していくが、それは妄想の構造を解読することでもある。

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これまで、いろいろなユダヤ・イスラエル関係の書籍をこのブログに紹介しましたが、一般の日本人ならこの本はとっつきやすいのではないかと思います。日本人が書いているので、日本人の視点からのものが多く、理解し易いです。