1月12日にアメリカから日本に戻る飛行機の中で、The Debt(借り)という映画を観ました。
私は残虐さのみを前面に出す戦争映画はあまり好きではないのですが、心理戦や諜報活動の映画は好きで、特にイスラエルのモサド関係は書物も好きだし映画も好きです。上の映画は「モサドが、旧東ドイツ内でナチの犯罪人を拉致し、西側で連れてきて最終的に裁判にかける。」という、フィクションではありますが歴史と現実に即した良質な映画だ、と思っていました。
特に、女性の要員が作戦の中に組み込まれますが、それはその元ナチスの男は現在産婦人科医であり、彼から診療を受けるふりをするためです。彼女を診療している医者に向かい、毒の入った注射針を首に突き刺す場面は、圧巻でした。
けれども、がっかりしたのがモサド要員の仲間で恋に陥ることです。男性の要員二人とその女性とが三角関係になり、それが遠因となって、その国家をかけた作戦がおじゃんになります。これは、実にハリウッド的、アメリカ的な挿入であり、実際では絶対に起こらない愚かな行為です。この映画はイスラエルの映画のリメイクなのですが、オリジナルのイスラエル版では、その部分はさらっと流しているだけで強調していないそうです。(Wikipedia)
なんで、こんな映画の感想を書いているのかと言いますと、結婚や男女関係というものが、ハリウッドの中で、アメリカの中で、そして現代社会の中であまりにも軽々しく考えられている、という思いがずっとあるからです。映画の中でしばしば、会ったばかりの男女がすぐに肉体関係の中に入る姿に実にげんなりするのですが、アメリカに留学した経験の持つ私の友人によると、キャンパスではそれが当たり前だとのこと。まるでスポーツのように男女関係を変えていくのだそうです。
そして、さらに残念なことには、クリスチャンと言っている人々とそうではない人々の離婚率がそれほど変わらないという事実です。(参照記事)クリスチャンには、次の神からの命令があります。
「・・・『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。」(マタイ19:4‐7)
「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:30,31)
「『わたしは、離婚を憎む』とイスラエルの神、主は仰せられる。・・・」(マラキ2:16)
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。・・・」(ヘブル13:4)
「結婚」というものが、元々、定められた意図とは全く異なる形でこの世では受け止められていて、そしてクリスチャンまでが、その価値観に影響されたまま結婚しているとしか思えません。
結婚というのは、上の御言葉にあるように神聖なものです。キリストと教会を具現している男女関係です。そこにあるのは「一心同体」です。今日、「権利」や「独立」という価値観が極めて強い中で、結婚は自らの意思や権利を、さらに高尚な価値観のゆえに放棄し、キリストのゆえに、配偶者のゆえに自らを捧げていく行為です。これができるのは、キリストに全てを捧げた者だからこそできることであり、一生、親密で成熟した関係を保っていく夫婦こそ、キリスト者であることの証しの一つになっていなければならないのです。
ですから、キリスト者は結婚を考える前に、「どんなことよりもキリストを主として、この方に仕え、従う。」という前提がなければいけません。そしてこの献身が出来ているからこそ、自分を捨てて相手に身を捧げる決意を抱くことができるのです。つまり、結婚はキリストの似姿に近づいていくことの聖化以外の何物でもありません。
男性と女性にそれぞれの弱さがありますが、男性はもちろん「目の欲」であり、肉体関係を視覚的に見ること、実際に行なうことに強い衝動を抱きます。映画にしろ何にしろ、そのような場面の出るものを避けたいと、聖さを求めるクリスチャンなら思います。女性ならその弱さは「恋愛」でしょう。私はロマンスの映画がどうも好きになれません。あまりにも非現実的であり、「白雪姫」や「美女と野獣」と同じレベルを地で行なっているようにしか見えません。男性の肉欲よりは刹那的ではないかもしれませんが、恋愛もあくまでも生理的現象の一つであり、感情の一つであり、数年経った後もそれが持続していることはあり得ないのです。
私の好きな映画に「明日の記憶」というのがあります。若年アルツハイマーにかかった中年男性を、妻が、彼が完全に彼女の記憶を失うところまで付き合っていく話になっています。私はやや年を取ったからなのでしょうか、このような最後まで続く成熟した夫婦愛、そして病身になっても献身する姿に真実の結婚愛を感じ取るのですが、これはあまりにも古臭い考えなのでしょうか??
夫婦愛をその肉体関係を含めて描いている書物が「雅歌」です。聖書の日本語訳を読んでもなかなか伝わりませんが、ここに牧師さんによる分かりやすい翻訳があります。ぜひ読んでみてください、実に官能的です。しかし、その雅歌にも夫婦の危機が描かれており、それを乗り越える姿とさらに夫婦関係が成熟する姿も描いています。(さらに詳しく学びたいか方は、ロゴスの学びに飛んでください。)こうした夫婦愛がまさに真実であり、たとえ性欲が多少減退していたとしても、むしろ幸福感はさらに増し加わるというのが実際であり、そうした面は映画では描かれることは極めて少なく(注:もちろんその場面を視覚的に出してはいけませんが)、初めの恋愛の話が大半を占めているところに、私は幻想があると見ています。
今、共和党の大統領立候補者の予備選が行なわれていますが、アメリカの私の友人である、ある兄弟が(彼は共和党支持者)、キングリッチ氏には決して投票しないことを明言していました。それは、もちろん彼の不倫経歴であります。他の候補者、ロムニー、ポール、サノトラムは、それぞれただ一人の女性に「合計117年の結婚があるのだ」と言っています!最後まで一人の女の人だけに捧げる、ということがどれだけ麗しく、すばらしく、光栄なことかと思います。
みなさん結婚を決して軽々しく考えないでください!それは、自らを主に捧げ、相手に捧げる神聖な行為です。そして「離婚をするな」というのは人を縛る言葉ではなく、その後にある悲しみと痛みを案じて主が語られていることであり、みなさんの益になることなのです。
最後に、恋愛、性、結婚について知りたい方は次のサイトをお勧めします。
「小さないのちを守る会」
特にその中にある「結婚、恋愛、性で悩んでいる」という欄、そして「ブログ」にある「聖書的恋愛論」の話題などが参考になります。