カスピアン王子の角笛

ナルニア王国物語の第二弾、「カスピアン王子の角笛」についての感想を述べます。

caspian

私は第二弾を、いかに神の壮大な預言、そのご計画を次に描いてくれるのかと期待していましたが、それは見事に裏切られました。この物語は、何百年後の廃墟となってしまったナルニア、絶滅したといわれるナルニアに四人の子供が入っていくところから始まります。詳しい解説はぜひ、富山鹿島教会のサイトをご覧ください。

実は、この期待の裏切りがこの第二話の中心主題なのです。つまり、すべて神が約束してくださったことが、あたかも過ぎ去ってしまい、その時代はもう終わってしまったかのような過酷な現実の中で、なおも信じ続けることができるか、という戦いを描いています。解説サイトの中には、こうあります。

ここに、「カスピアン王子のつのぶえ」の大切な主題が語られています。それは「信じ続ける心」です。アスランによる白い魔女の支配からの救い、ピーターたち四人の王による黄金時代は、もう何百年も昔のことであり、今はそれとは全く違う時代になっているのです。そもそもそんなことが本当にあったのかどうかさえも、疑わしく思えるのです。またたとえ昔はそうだったとしても、そのアスランが今もおられ、救い、恵みを与えてくれるとは思えない厳しい現実が目の前にあるのです。そのような目に見える現実の中で、伝えられてきたアスランの存在、その救いを固く信じて生きる、心変わりしない信仰、それがこの第二巻のテーマなのです。

いかがでしょうか、イエス様が復活され昇天されました。そして聖霊が臨まれ、教会は力強く前進しました。そして今すぐにでも主が戻ってこられるという期待を抱いていました。その時代から私たちはもう二千年近く経っています。いかがでしょうか?「キリストの復活の現実、聖霊の力、そして再臨の切迫性は新約聖書時代のものであり、私たちは次の時代に入ったのだ。」という考えは、世の中だけでなく、キリスト教の世界の中にもそれを見るのです。

いや、違う時代に入ったのではなく、問題は私たちが信仰を失ったことにあるのです。まだ新約聖書の時代、神の時代にいるのだという信仰を、私たちは吹き返す必要があり、戦いは、信じきることができるか、また信じ続けることができるか、にあるのです。

そして私が初めてこの映画を観たとき、ちょうどイザヤ書を学び、教えていました。そこには、圧倒的な超大国アッシリヤの脅威を目の前にし、エジプトに助けを呼ぶヒゼキヤ王の姿が描かれています。しかしそれがかえって足かせとなり、アッシリヤはついにエルサレムを包囲します。絶体絶命の時に、彼は主の前で衣を裂いて祈ります。主はその時に始めて、ユダを救われます。18万5千人のアッシリヤ軍は一夜にして滅びました。

これと同じように、ピーター、スーザン、そしてカスピアン王子らが、かつて氷の女王に勝てたのはアスランによるものであることを忘れ、そしてアスランに期待するのではなく、自分たちだけしかいないと考えます。自分たちの判断力、自分たちの戦略、自分たちの努力しかないと考えるのです。その中でルーシーだけが、ひたすらに、純粋にアスランを慕い求めるのです。

(いや、厳密に言うと、ルーシーさえもが信仰の不足を感じています。後でアスランに、「私を見たとき、なぜ独りでも来なかったのか。」と尋ねられるところがあります。一番下の妹ですから、自分には行動できないという諦めを作ってしまっていたようです。これも、私たちには大きな教訓、課題となる点です。)

ピーターとカスピアン王子は、相手のミラースの軍勢に勝てないと見ているときに、氷のあの魔女が現れました。そしてカスピアン王子のみならず、ピーターまでもがその誘惑に引き込まれそうになります。エドマンド(第二話の彼は、完全に悔い改めた、勇敢な戦士となっています)が背後からその氷壁を壊しましたが、その背後に見えたのは、アスランの壁画でした。ピーターは自分の判断で突き進んだ結果、魔女の声さえ聞き入ったしまった恥ずかしさと愚かさを痛感したことでしょう。

そして最後の最後になって、アスランが戦いに向かいます。これが、絶体絶命のヒゼキヤのために救いを差し伸べる主と折り重なりました。

日本の宣教を考える時、また日本での信仰生活、教会生活を考える時、誰もが厳しい現実と、聖書の約束との隔たりに気づいていると思います。これを克服するのは、ルーシーのような、一途になって信じる信仰です。まさしく幼い子供のようにキリストを純粋に慕い、聖書の約束はその通りになるのだと夢想のように信じきることです。

ナルニア国物語

これまで書籍をご紹介してきましたが、これまで心に残った映画もご紹介したいと思います。書籍と同じく、信仰的に役立つ方面からのものと、私の興味の範囲内のものがあります。

初めは「ナルニア国物語」です。
第一章:ライオンと魔女
第二章:「カスピアン王子の角笛」

narnia1私が第一章を見たのが、2006年1月アメリカに行った時の映画館です。何気なく行ったのですが、涙があふれてどうしようもありませんでした。

映画にしろ、小説にしろ、芸術作品というのは、目に見えない神を描くことは非常に難しいです。だから、キリスト教関連の作品であっても、人間が中心に置かれがちです。けれども、この寓話的物語は見事に壮大な、キリストの贖いによる神の国の全体的ご計画を鮮やかに描いています。

C.S.ルイスが、キリスト教弁証家であることは知っていましたが、彼は本当に天才だと思いました。非常に細部に渡り聖書を反映させた物語を書いています。

この物語の解説でサイトの中で最もしっかりしているなと感じたのは、次です。

「富山鹿島町教会・エトセトラ」

牧師さんがお書きになっている文章ですが、聖書的にしっかりしているし、また伝道用にもなるでしょう。

この解説に付け加えるならば、私は「神の国の壮大な計画」というテーマが、特に第一部に流れていると思います。

ナルニアという国は冬でした。そこに「世」があります。そしてエドマンドは女王に会い、彼女の誘惑に負けるのですが、その女王は「悪魔」です。アダムが罪を犯すことによって、人に地の支配を任せておられた神のご計画が、その支配権が悪魔に譲られることによって、「世」が始まったという始まりです。そしてその中で悪魔の支配のままにされている人間がいる、ということです。

けれども、ナルニアの住人(動物的存在や、自然によって構成)らは預言を信じていました。アスラン(獅子の姿をしている)が来るということ。そしてそのアスランがアダムと子、つまり人間が来ることによって、ナルニアを回復させるという預言を受けていました。これは、神がキリスト(アスラン)にあって人に地を支配させるという、キリストの来臨、そしてその後の神の国を預言しているものです。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(ローマ人への手紙8:19-22)

ナルニア国の住人で、反逆罪によって女王(魔女)に氷漬けにされる人がたくさん出てきます。それは、キリストと御国のゆえに迫害・殉教をした人々です。

彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示録6:10-11)

そしてアスランの到来が間近になっているため、雪が解け春が近づいています。そのため魔女は焦っています。これは、キリストの到来のゆえに悪魔が最後のあがきをしている、最後の戦いを表しています。

悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。(黙示録12:12)

そしてアスランが、魔女からナルニアを奪還するにあたって、エドマンドを取り返すための、魔女とアスランの熾烈な駆け引きが、実は、ローマ書で論じられている、神の義に対する大きな挑戦であり、神の贖罪の根幹を成すものです。これは上のサイトの解説にも詳しく説明されていますが、「罪から来る報酬は死である」という原理はキリストとて変えることはできません。

だから取り引きは、「自分自身が支払う」というものだったのです。それでアスランは死にます。そして後に生き返ります。「罪のない者が死ぬ」という犠牲によって、「死と罪の法則」が塗り替えられます。「命の御霊の法則」が働き(ローマ8:2)、「死が勝利に飲み込まれる(1コリント15:54)」ことが始まったのです。

氷漬けにされていたナルニアの人々は、アスランの息で生き返ります。これは次の御言葉の成就です。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。(1コリント15:20-21)

そしてこれら生き返った人々が、アスランを筆頭とし最終戦争に参与します。

見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。(ユダ14)

戦争はナルニア側が苦戦を強いられますが、アスランの一つ吼えで魔女を始め、瞬く間に決着が付きます。

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(黙示19:15)

そしてナルニア国が回復します。四人の兄弟姉妹が王戴冠を受け、ナルニアの住民(動物・植物)が慶び踊ります。

全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。(イザヤ14:7)

クリスチャンの中で動物や植物を擬人化しているのに抵抗を感じる人がおられるかもしれませんが、いや、聖書は自然界、被造物の賛美をたくさん描いており、実に聖書的なのです。詩篇148篇を読んでみてください。

そしてアスランがなぜ獅子なのか?黙示録4章5節にイエスが「ユダ族から出たしし」とあるゆえです。ここからしてナルニア国物語は、「キリストの再臨による地上における神の国」回復の物語であり、特に黙示録に詳細に描かれている、そこに至るまでの最終的な戦いを描いていることが分かります。

この枠組みから、キリストの十字架と復活(アスランの死とよみがえり)が描かれており、「世における神の国の到来」という壮大なご計画があってこそのキリストの贖罪を描き出しています。

ここまで立体的に、神の視点からあの二千年前の出来事を表した映画には出会ったことがありません。

C.S.ルイスは、この物語を第二次世界大戦直後に書いていますから、余計に戦いの部分を鮮明に描きやすかったことでしょう。けれどもこれは本質的に聖書が描く世界観であり、私たちは今、戦いの中にいるという認識が非常に必要です。戦い抜いて、前進していくという信仰生活が今、私たちに日本人のクリスチャンには本当に求められていると感じています。

あっ、そして第二部についてですが、テーマは少し異なり、預言的よりも教訓的な話になっています。また記事を変えて、後々お話したいと思います。