実が結ばれない教え

クリスマス礼拝を今日、無事に終えました。とても簡素、けれどもしっかりとクリスマスの讃美歌を歌い、キリストの降誕の御言葉、それから聖餐にもあずかりました。内容は濃かったと思います。一人、初めての方も来られて、とても感動的でした。

少しだけ時間がゆっくりできたので、前から思っていたことでメモのようにして書き残したいことがありました。今、東十条バイブルスタディでテモテへの手紙第一を学んでいますが、そこにある箇所をまず紹介します。

私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。(1テモテ1:3-7)」

二か月近く前に行われた、「カルバリーチャペル牧者「静養会」」において、バド・ストーンブレーカーさんが、「「安息」ルカ10章」のメッセージにて、大きく触発された内容を話してくれました。(31:00辺りから。日本語の通訳もあるのでぜひご自身で聞いてみてください。)

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羊を気遣う牧者の思いを持ってほしい。特に気づく分野は以下の三つである。その一つ一つは大変有意義なことだが、牧会の心がけを持っていないと、バランスを崩してしまう。 続きを読む 実が結ばれない教え

悪という現実に付き合う神

この頃、思っていることの瞑想をお分かちします。

「瞑想」というほどのものではないのですが、「否定的なこと」についてです。聖書には、暴力であるとか、裁きであるとか、そうした否定的な事が初めから終わりまで書かれています。カインの殺人から始まり、最後、人々の争いをなくすために、イエス様ご自身が口からの剣で、その軍隊を滅ぼし、死体の山とせしめます。そして、それらが「主」が起こしたことだと、聖書には記述されています。

このままだと、まるでイスラム過激派のコーランの解釈と同じようになりかねないですね。けれども、主ご自身の教えは愛に満ちています。そして行ないも憐れみに満ちています。そこで多くのキリスト教会が、「神は愛である」という言葉で終わらせ、裁きや義、また戦争を神が引き起こしている部分については、避けている傾向があります。私も正直、そうでした。

けれども、主が引き起こしているように見える一つ一つを見ると、それは実は人が行なっていたり、アダムが罪を犯した後の地、つまり天災も罪の結果で呻いている自然界の表れであり、因果関係において神がしているというものではないのです。良き賜物は天から来ており、そうでないものは悪霊に属しますから。

では、どうやって主がこれらの否定的なことを引き起こしていることを、受けとめればよいのでしょうか?主は、「私たちが悪に取り囲まれているという現実に積極的に付き合ってくださる。」ということです。主がこれらの悪を許されて、それで私たちが取り組まなければいけない課題として放っておかれるのではなく、その悪のど真ん中に来てくださって、それで私たちの平安を与えるためにおられるのだ、ということです。 続きを読む 悪という現実に付き合う神

ディスペンセーション主義の落とし穴

今日、日本の教会の一部において、「ディスペンセーション」という言葉による神学議論が盛んになっています。一つは、ハーベストタイム・ミニストリーがアーノルド・フルクテンバウム博士の主宰するアリエル・ミニストリーズでの教えを紹介、導入しているためであり、またイスラエルやユダヤ人への関心が日本の教会で広まっているためであると考えられます。そしてもう一つは、アメリカにおいてディスペンセーション神学が教会で定着していたところ、それとは違った見方で聖書を見ていこうとする大きな流れがあるからです。

この議論についてはすでに、「ディスペンセーション主義について」という記事で詳しく述べておりますが、まだ読んでおられない方は読んでいただけたらと思います。この記事はその続きになるからです。

カルバリーチャペルで学んだ者として、そして今もその働きの一部に神の恵みに加えさせている者として、次の聖書教師・牧者の記事がとてもしっくり来ました。デービッド・グジック(David Guzik)という方ですが、カルバリーの牧者たちの中で、聖書講解と説教において深く尊敬している人の一人です。

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Pitfalls of Dispensationalism
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「平和度」と「幸福度」の開き

この前の日曜日、私たちの教会では詩篇の「都上りの歌」の全てを読み終えました(120‐134篇)。以前もここを教えたことがありますが、いつも恵まれるのは新しい発見があること。今回は、「エルサレム」「シオン」と「平和」との関係を知ったのです。

エルサレムの平和のために祈れ」(122:6)という有名な聖書箇所があります。この平和の状態の意味するところを推し量ると、前後関係を見るに「各地に散っていた部族がエルサレムに来て、主を礼拝するために結ばれているところにある幸福感」というのが一つ。もう一つは、「部族間の垣根が壊れているところにある、「繁栄(7,9節)」がもう一つです。(お聞きになりたい方はこちらへ→「教会礼拝の説教 ヨブ記・詩篇」4月19日、26日の分です。)

平和の結びつきと繁栄

私がイスラエル旅行を2010年に行った時に、テロ事件がかなり少なくなっていたころですが、自分でパレスチナ自治区へ旅行に行きました。一つはヘブロン、それからナブルス(シェケム)です。ナブルスに行く時、自治区の首都ラマラでバスの乗り換えがありましたが、ラマラが静かで、けれども結構、栄えていた町であることを思い出します。

そして、私はパレスチナの人々の印象がぐっとあがりました。エジプトのような原理主義的なイスラムの空気はない、結構満員になったバスで、隣のおばさんが私の横で肌も触れてしまうぐらいで座っておられる、そして私に目を合わせる若者はとてもさわやかな、なんかポスターにでもしたいぐらいの笑顔で話しかけてくれる、タクシーのおじさんは英語の練習になるといって、僕にいろいろ自分の生活について話してくれる、おまけに帰りのバスでは、私に日本語で話しかけてくれた学生までいました。

その背後に、「検問所が緩かった」というのがあります。イスラエルはテロが少なければすぐにでも検問所を緩くしたり、取り外したりします。(参考記事:門戸をあける!?イスラエル)だから当然、物流や人的交流も増える。そうすればパレスチナも栄えるし、イスラエルもパレスチナ人のおかげで栄えます。

これぞ「平和と繁栄」です! 続きを読む 「平和度」と「幸福度」の開き

「反対」の前にすること(政治について)

「殺す」と「殺害」の違い

上の副題から唐突かもしれませんが、モーセの十戒「殺してはならない」からのお話しです。

Ten Commandments “Do Not Murder”

発言者はデニス・プレガーというアメリカの政治論客で、自身、敬虔なユダヤ教信者です。モーセの十戒の、第六「殺してはならない」のヘブル語は単なる「殺す(Kill)」ということではなく、「殺害(Murder)してはならない」ということ。Murderとは、「不法に、不道徳に人の命を奪うこと」という意味です。

そして、モーセ五書の中ではっきりと命じられていることは、「殺害者は殺されなければならない。」ということです。もちろん思想の自由があるから、動物愛護の観点から動物を殺してはいけないと考えてもいいし、平和主義(死刑もだめ、自衛行為もだめ、殺すことはすべてだめ)と考えるのも自由だけれども、その考えを話す時にモーセの十戒を引用するのは、完全な誤用であるとのことです。

私も同じように考えていました。ブログ「左から右に揺れる教会」で言及したように、平和主義は聖書から導き出せるものではありません。モーセ五書全体に、「命を取る者は、人によって命が取られる。」という命令が書かれており、すべての殺人を第六戒が禁じているのなら、律法の中で自己矛盾をきたしていることになります。

このことを持って、即座に死刑制度賛成であるとか、戦争賛成という話ではもちろんありません。それよりも、何を持って殺害なのか、つまり、不法で不道徳な殺人なのか、その根拠や「内容」をしっかり吟味して、適用する努力を怠ってはならないということだと思います。

参照ブログ:「「平和主義」で傷つき、悩むキリスト者たち
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「狭き門」という開かれた戸

(前々記事「左から右に揺れる教会」前記事「教会は政府ではない」の続き)

今回のサイトの問題は、左から右に揺れる中での「教会の政治化」という問題だけでなく、信仰的、神学的な問題が横たわっています。前々回の記事で、「イスラエルという木に、個々の異邦人がキリストによって選びの民に接ぎ木されて霊的祝福を受けているという聖書的見方ではなく、民族として日本が接ぎ木されているという見方」としているという問題点を取り上げました。さらに、「「贖いの賜物」という、風土、文化、伝統や宗教の中に神が日本を贖われる素地があるのだ」という見方は誤りであるという話もしました。これが、彼らの右翼思想をキリスト教的に支える基盤になっているので、じっくりと考察したいと思います。

日本において、イスラエルやユダヤへ親和的な姿勢を持つキリスト教の流れには、二つの逸脱した、異なる強い流れもあります。一つは「ユダヤ人陰謀論」です。ユダヤ関連に興味を持つとネット上で出くわすのは、陰謀論者による情報です。フリーメイソン、ロスチャイルド、イルミナティなどを、ユダヤ関連で語っています。中にはユダヤに親近感をもって取り組む人もいるですが、その元は「シオンの議定書」に代表される、ユダヤ人世界制覇の脅威から発していますので、反ユダヤになります。もう一つは「日ユ同祖論」(その1その2)です。今回取り上げた団体の人々は、こちらの流れにある人々です。日本人が失われたイスラエル十部族の末裔であるという説を信じている人々で、ユダヤ教、また東方から伝来した景教が日本の古代神道の中に反映されている、という見方であります。

日本人キリスト教徒がこの二つの説に飛びつく動機は「欧米への劣等感」です。ユダヤ人陰謀説については、日本がアメリカに従属しているとしてよく思っておらず、そのアメリカ支配を論拠づけるためにユダヤのアメリカ支配を説きます。日ユ同祖論についても、欧米のキリスト教への反発の表れであり、欧米を素通りしてそのままユダヤにつながることができ、それで欧米キリスト教に対抗できると思っているからです。これは左傾化したキリスト教にも同じように見える傾向です。私はブログ上でもずっと、「反発は依存の裏返しだ」と論じてきました。本当に自立しているのなら、自分の分をわきまえて助けを得るべき所は得る、そして彼らに感謝し、彼らを愛し、共に働くということを自然にできる。その時に、初めて対等になれることを話しました。 続きを読む 「狭き門」という開かれた戸

雛の高度120メートル急降下

先ほど見た、映像。怖かった。(゚Д゚;)

Barnacle gosling’s terrifying cliff tumble
カオジロガンの子の、恐怖の崖投下)

次の聖句を思い出したので、親鳥が途中で翼を広げて拾いに行ってくれると思ったのに!「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。 申命記32:11 」でも、生きてて良かった。鷲の子については、こちらのビデオを見つけました。雛というか大きくなっているけど、雁の子と比べるかなりビビッてますね。誰か、申命記32章11節の動画見付けたら教えてください。<(_ _)>

https://youtu.be/ppbvXRn6bOg

霊の戦闘隊形

私たちは、教会で新しい信者の学びをしています。それで、この前の日曜日は「霊の戦い」を学びました。代表的な御言葉は、エペソ6章10‐18節です。

Roman Soldier10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15足には平和の福音の備えをはきなさい。16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

パウロがこの言葉を書いたのは、ローマにて牢獄にいた時です。彼をつないでいたのはローマ兵であり、兵士の武具を見ながらこのことを書いていることでしょう。彼は鎖につながれていましたが、かえって看守のローマ兵のほうが、パウロの語る福音につながれていました。そしてピリピ書1章によると、ローマの親衛隊が次々とイエス様を信じていったのです。

新約聖書の手紙には「私たち」という主語が数多く出てきますが、上の言葉もその通りです。私たちはしばしば、信仰生活を個人のものだけで考えてしまいがちで、ややもすると個人修養のように考えます。それで試練や霊の攻撃を受ける時に、それは自分の霊的な力が弱いからだと思ってしまうのです。しかし、パウロが上の言葉を話した時、読んでいるエペソの人々はそのように考えませんでした。戦いにおいて、ローマ兵が個人プレーでやっている姿など一度も見ていなかったからです。ローマ兵は絶えず隊形を組んでおり、完全に一致した行動によって戦いに臨んでいました。霊の戦いも同じなのです。「私たち」とあるように戦闘において隊形を組んで前進します。次のビデオをご覧ください。

これは、テストゥドラテン語で「亀」という意味)という、ローマの歩兵戦術で有名な隊形です。 続きを読む 霊の戦闘隊形

律法主義の弊害

今朝、妻と共にデボーションをしていて、読んだ箇所の一部が次です。

しかし、王の娘エホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れた。こうして、ヨラムの王の娘、祭司エホヤダの妻、エホシェバは、・・彼女がアハズヤの妹であったので・・ヨアシュをアタルヤから隠した。アタルヤはこの子を殺さなかった。こうして、彼はこの人々とともに、神の宮に六年の間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。(2歴代誌22:11-12)」

アタルヤから守るために、ヨアシュを神の宮の中に隠しておきました。けれども、ヨアシュは王族であって神の宮の中にいてはならない人物であるということです。神殿は祭壇から聖所のほうは、基本的に祭司の奉仕の場であり、聖所の中は厳しく、祭司のみしか仕えることができません。

事実、ウジヤは聖所の中で香の壇で香を焚こうとして、らい病に冒されました。

ではヨアシュは、なぜ主に打たれることはなかったのか?幼いヨアシュに、祭司の務めをさせることはなかったということはありますが、おそらく他の祭司の家の幼子といっしょに敷地内で遊んだり、祭司の子として紛れていたのではないかと思われます。 続きを読む 律法主義の弊害

イスラエルを祝福するとは

以下の記事について話します。

イスラエルを祝福する者は祝福される?

教会の中にも、この文章を読んで疑問に感じた方もおられたので、おそらく同じように考えておられる人がいるであろうという公益も踏まえ、こちらで私の聖書理解とその立場を書き記したいと思います。

霊の救い以上のアブラハムへの祝福

「イスラエルの定義」について。これは、ご自身が引用されたアブラハムへの祝福によって定義されます。アブラハムへの祝福は、キリスト・イエスにあって、エペソ1章にあるように、またガラテヤ書にあるように、天にある霊的祝福に表されています。したがって、今はキリストによって、ユダヤ人のみならず、異邦人にもこの祝福は伸ばされています。難しい用語を使うのであれば、村上師の主張は「教会論」においては全くその通りです。(参照記事:「日本におけるメシアニック・ジュー運動」)

しかしここで抜け落ちているのは、アブラハムへの祝福はさらにもっと大きな約束が含まれているということです。霊的祝福に留まらず、明確に、土地の所有、国が大きくなること、子孫の繁栄であります。それがモーセに受け継がら、ダビデによって確固たるものとなり、バビロン捕囚の直前、エレミヤによって新しい契約の約束によって予告されていたものでした。

何百、いや千を越える膨大な約束が、このように旧約時代の聖徒らに啓示されていました。新約聖書に出てくる、このような非常に濃厚なユダヤ的背景において、これらの約束が前提にあって、そこで、信仰による義であるとか、罪の赦しであるとか、聖霊の約束であるとか、霊的祝福が語られていたのです。 続きを読む イスラエルを祝福するとは