単純な信仰のススメ

前回は、聖霊の賜物の今日の働きと、今すぐにでも来られる主への希望について、聖書の言葉をそのまま信じていくところに力があること、そしてそれは使徒の教えと初代教会の姿勢を受け継ぐものであることを話しました。

ところで一昨日、二冊の古本をネットで注文しました。

①「日本のキリスト教」古屋安雄著
日本のキリスト教
まずは本の紹介から。

キリスト教はなぜ日本に広まらないのか? 〈和魂洋才〉を追い、キリスト教抜きの近代化を進めてきた日本。その中で伝道し、事業を展開してきた教会各派と無教会、教育や社会事業などに例をとりながら日本のキリスト教の特質を検証し、将来を問う。
愚直一筋の耶蘇坊主菊地一徳Kazunari Kikuchiさんの感想・レビュー

古屋氏は次のような主張を持っていて、それが魅力的でした。「日本のキリスト教はインテリのキリスト教となっていて、大衆の方を向いていない、日本にキリスト教を広まるためには、インテリ的というエリート意識を捨てて大衆の方を向かなければならない・・」(古屋安雄「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教」)

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初代教父たちの声

神のご計画全体を眺めるにあたって、教師はその管理を任されていますが、その真理の体系をしばしば「教理(doctrine)」と呼び、聖書全体の理解把握の体系を「神学(theology)」と呼びます。この営みはとても大切なもので、私たちは真理の柱と土台の上に教会を建てているわけですから、しっかりと行わなければいけません。

しかし、私たち人間は、どうしても信仰というものを整理したがる傾向にあります。教理や神学であっても、聖書そのものによって常に精査されていかなければいけない対象であるのに、教理や神学の上に信仰を立てようとする傾向があります。そのほうが理解しやすいからです。けれども、神は常にご自分の言葉を受け入れ、信じるように、また悟るように命じられているのであり、知的体系として把握するように命じられているのではないのです。

今回の、聖霊の賜物の今日の有用について、「預言や異言、癒しなどの徴の賜物は、聖書の正典が完成するまでに、神が権威を与えるため使徒たちに賦与されたものであり、それ以後は終焉した。」とする終焉説を取る人々は、そう信じない人々のことを「従来の教会の立場ではない」として、歴史的キリスト教から逸脱していると断じます。

しかし、前の二つの記事で示しましたように、いわゆる20世紀初頭に始まったペンテコステ運動の起こる前から、保守福音派においても尊敬されている指導者たちが新生とは別の聖霊体験をしていたし、その賜物を用いていたのです。そして何よりも、十二使徒死後の教会指導者である初代教父たちははっきりと、聖霊の超自然的なものを含む賜物が、教会で用いられていることを教えているのです。 続きを読む 初代教父たちの声

主だけにある救い

無事に1月17日の夜にアメリカから帰国しました。宣教会議は、主からたくさんの豊かさを受け、その後のコスタメサ周辺での、信仰の友人との交わりはかけがえのない恵みを受けました。チャック・スミスが去年10月に召天し、2014年に入ったカルバリーチャペル・コスタメサは、新しいブライアン・ブローダソンによる牧会で大きな変化を経ています。私たちがいた日曜日から一週間、晩は週ごとの集会はキャンセル、会衆全体での祈り会を持ちました。祈りから始まる新しい体制、そして新しい年は期待が持てそうです。

そして、在米の日系の兄弟姉妹への、恒例の聖書セミナーを行いました。風邪がかなり流行っていて、私も引いてしまい、声が枯れていますが、主の憐れみで務めを果たすことができました。

2014年聖書セミナー「闇の中の光」
聖書箇所:イザヤ書1‐12章
13日 「国民の罪」
午前 イザヤ書1-2章
午後 イザヤ書3-5章

14日 「インマヌエルの希望」
午前 イザヤ書6-8章
午後 イザヤ書9-12章

上のリンク先をクリックすれば、音声メッセージを聞くことができます。主催し、家を開放してくださった姉妹が、強く語られたと仰っており、私の妻もものすごく語られたと言っています。教会の人々にも聞いてほしいと話していました。イザヤ書の主題は「主の救い」ですが、人ではなく、ただ主のみに拠り頼むことを強く語られたそうです。皆さんも、よろしかったらぜひお聞きください。

For Logos Bible Software Users – Pre-Order Japanese Bible!!

Hello. This is a great news for missionaries to Japanese people and pastors and teachers who teach and preach the Word.

Shinkaiyaku BibleAs many of you know, Logos Bible Software is one of the best tools for efficient Bible study preparation. Anyone who prepares the study in another language hoped for a day of Logos integration of the language into the system. Logos recently started gathering interest in the Japanese translation;

Shinkaiyaku Japanese Bible(新改訳聖書)

Shinkaiyaku is the most widely used Japanese Bible in evangelical churches of Japan.

However, as the above webpage indicates, they do not publish the download file unless the gathering interest increases to a certain point. Therefore, I pray many will pre-order (which is about $16 for now) so the interest may increase.

Thank you!

預言、異言、癒し、奇跡を信じますか?

先日の記事、「神学バランスにあるキリスト者の成熟」の続きです。題名を、興味の引くようにしてみました。いかがでしょうか、これらの超自然的な働きが今の教会でも起こると信じていますか?それとも、それは教会に混乱をもたらす、偽物が多い、聖書の権威を貶める、と思っていらっしゃるでしょうか?

私は、信仰をもって間もなく、ペンテコステ派の兄弟たちと交わり、聖霊のバプテスマや賜物を強く求めるようになりました。青年大会に参加して、その力強い聖霊の働きに触れることができ、今でも神に感謝しています。同時に、超自然的な働きを追い求めたために、危うく異端の団体に入り込みそうになり、その失敗、痛さから、もっとバランスのある教会像を求めるようになりました。

それでカルバリーチャペルが、まさにその中間の立場を取っていたので、私の信仰は落ち着き、今に至っています。神の御力を、自分の理解の中で閉じ込めて制限しては決していけない、と思っています。教会においても、癒しや異言、預言が用いられてしかるべきだと思っています。しかし同時に、賜物以上にキリストご自身の顕現、しかも十字架につけられたキリストがあがめられなければいけない、という確信に至りました。

現在にも御霊の超自然的働きが存在するという立場を、「継続説(continuationalism)」と言います。自分の体験ではなく、聖書を客観的に調べることによって出てくる結論として、やはり継続説が正しいという理解に至っています。詳しいことは、チャック・スミスの書いた著書とメッセージに譲りますが、大まかに言って次のように考えます。

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自分で聖書を調べる

私たち夫婦は、先週土曜夜に、二週間の海外出張を終え、日曜日は祝福された礼拝を持ちました。体は疲れていたのですが、月曜日に、私の友人でもあり、信仰の仲間である「モリエル・ミニストリー」の兄弟たちの主催する、そのセミナーに参加しました。今回は、創始者のジェイコブ・プラッシュさんが数年ぶりに来日、教えてくださいました。私個人にとっては、魂の安らぎの得られるセミナーです。聖書に対する取り組みがロゴス・ミニストリーのそれと似ており、自分の聖書の学びの助けになるからです。

聖書”から”神の声を聞くのではなく、神の言葉・聖書”に”聞く

私が聖書の学びの奉仕をしていて、時々、どうすればよいか大きな課題を感じる時があります。それは、聖書の教えを聞いて神の力を恵みを受ける方々に、今度はご本人が聖書を読み、調べ、そして発見する喜びをどのように得てもらえばよいか、ということです。

それには、思考における霊的鍛錬が必要です。それは、端的にいうならば、「自分の気持ちや思いを聖書の本文に持ち込むのではなく、聖書本文の前にひれ伏して、神の言葉そのもの、その本文が自分に語りかけるようにする。」という鍛錬です。これを難しい言葉で「帰納的論法」と言います。初めから結論ありきで読むのではなく、何度も繰り返し無心で観察し、そこから見出される共通点を発見する、という聖霊の導きであります。 続きを読む 自分で聖書を調べる

ディスペンセーション主義について

「ディスペンセーション主義とは何か?」という質問を、これまでしばしば受けてきました。それは、ハーベストタイムの中川健一さんがお招きされているアーノルド・フルクテンバウム博士の講演の中で多く出てきているからだと思います。実際は、比較的長い歴史をもった神学体系であり、ブレザレン系の人々、また独立系のバプテスト教会の人々が受け入れている教えです。後でも書きますが、私は中川健一さんによる、フルクテンバウム博士をお招きして、日本人信者に聖書研究による霊的復興を願い求めるそのお働きに、心からの敬意を持っております。

このことを前提に、今、広がっているディスペンセーション主義の啓蒙に対する、ロゴス・ミニストリーの考え、またカルバリーチャペルの立場として私が理解していることをお書きしたいと思います。

ディスペンセーション主義の定義

まずは、ディスペンセーション主義とは何か?そのことを知らないといけません。これは、いろいろなサイトが紹介をしています。 続きを読む ディスペンセーション主義について

キリスト者の考える「平和」

前々記事前記事を踏まえて、聖書から純粋に「平和」とは何かを考えなければいけないと思いました。キリスト者の考える「平和」について、三つ側面があります。

神との平和
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 ローマ人への手紙5:1 」

キリスト者間の平和
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 エペソ人への手紙2:14 」

再臨による世界平和
「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。 イザヤ書2:4 」

これら三つの側面をいつも心に覚えて、今の日本と世界を見つめていく必要があるでしょう。

今年二月に行なわれた、「東アジア青年キリスト者大会」の東アジア青年キリスト者大会(第三回)の報告の時に、私がお話しした原稿を「聖書の学び 主題説教」のところにアップしました。よろしければ、ぜひお読みください。

平和の国」(イザヤ2章2-5節)

ホロコースト記念日と主の救い

今、大変忙しく、イザヤ書講解の準備をしています。英語でしなければいけない講義で、四苦八苦しながら行なっておりますが、息抜きに在イスラエル日本人のブログ記事を見たら、思わず涙が出て、私も黙祷してしまいました。

ホロコースト記念日のイスラエルの様子

ウィキペディアに説明がありますが、ワルシャワ・ゲットー蜂起を起点として、ユダヤ暦の1月(ニサン)27日に行うそうです。その一週間前は過越祭で、その一週間後は戦没者追悼日(中東戦争で亡くなった人々の追悼)で実は今日が記念日、その後で今年65周になる独立記念日ということ。

私が涙したのは、普段どおりに車を走らせている人々が、サイレンの時間に高速でも停車して犠牲者のことを追悼したことです。どんなに忙しくしていても必ず立ち止まる、これは安息(シャバット)の原則ですが、同じく安息の主を信じているキリスト者は、主のことを思うために、どれだけ忙しさの中で無条件に、無理にでも立ち止まることをしているかどうか、自分を振りかえつつ反省しています。

そして、イザヤ書の学びをしている最中だったので、涙しました。そこには残された者、横暴な敵国の抑圧の中で苦しみ悶える弱く、貧しき者のために、主が救いの手を指し伸ばし、義とされた民が安全で平和な町に住むことができるよう約束に満ちています(例:イザヤ25‐26章)。ブログ記事の主は原爆のことを取り上げておられますが、原爆だけでも私たち日本人にかなりの痛手と苦しみを負っているのに、ましてや約六百万人の同胞が殺され、そのために帰還した民が今度はアラブとの戦いで死んでいき、その狭間で独立を果たすという苦難と辛苦の歴史を辿っています。

しかしそれだけに、その救いが、ただただ主からのみ来ることを想うのです。ここまで虐げられると、人間的な解決法の可能性は除去されます。キリストにある神の義にある救いと平和のみが、唯一の希望なのです。「その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」(イザヤ25:9)

話は変わり、私は何人かの在イスラエル日本人のブログに立ち寄りますが、最近見つけたのは、とても面白い留学日記です。こちらにも、ペサハから続く記念日続きで連休になっている様子を楽しく紹介してくれています。「くまさんのイスラエル留学日記 ~ ふぁらふぇる ~

イエスが馬小屋に生まれなかった理由

メリークリスマス!この挨拶が出来るのは今日までになりました。「クリスマスを祝わないという人たちへ」に続いて、クリスマスのことについて話します。

讃美歌の中に馬槽(まぶね)という言葉が出てきます。イエス・キリストが生まれたのが馬小屋に生まれたと思われています。けれども、聖書では以下の箇所の「飼葉おけ」という言葉しかありません。

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

それで「家畜小屋」の意味を表す英語”stable”で主が生まれたという解釈が定着しました。けれどもこのstableという言葉、家畜小屋だけでなく、馬小屋も意味します。

どれが飼われていても細かいことは良いだろう、と言いたいのですが、実はそうではありません。聖書の中で「馬」が出てくるところを探してみてください。ほとんどすべてが「戦争」に関わることなのです。

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)

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